高祖山山頂に七五六年、太宰大弐吉備眞備が築いた怡土城跡。中腹に高祖神社(祭神は高木姫。又彦火火出身尊、玉依姫との説)。もとは高木神(タカムスビ神)
高祖山系と西方曽根丘陵に挟まれた盆地は川 原・瑞梅寺・雷山の三川が北流する米作地帯で、怡土国 の中心地。雷山・井原山・高祖山は平原盆地の神奈備。
ここに平原・三雲・井原遺跡がある。曽根丘陵麓の平 原遺跡から巨大内行花文鏡ほか多数の出土品。鏡の出土 数では日本一。三世紀前半の方形周溝墓は九州最古で王 墓と目されている。三雲遺跡群は弥生時代から五世紀前 半までの住居跡と墓域が一単位をなしたものが群在。樂 浪系漢式土器の密集地で怡土国の中心地と目され、井原 鑓溝遺跡は後漢鏡が多数出土し、王墓とされている。
平原の王墓の石棺内遺体は、三雲・平原盆地に太陽が 昇る日向峠に足を向けて崩られ、太刀は細身で短く女性 の持ち物であることから、この王は女王との説。
雷山中腹に雷神社(祭神火雷神・彦火火出身尊)。彦 火火出身は男の雷神。稲妻・雷を神格化したもので、稲 田に慈雨を恵む。女の雷神としては明日香・葛城に下照 姫・上照姫が祀られている。別当寺は千如寺。神籠石が あり、怡土城と相対する山城跡。
隆盛を極めた伊都国の滅亡は、その中心地に次々倭系 の前方後円墳が築造された時期であろうとの説。
日本書紀
また筑紫の伊都の県主(あがたぬし)の祖・イトテが天皇が行幸したのを聞いて、五百枝(いほえ)の賢木を抜き取って、船の艫舳(ともへ)に立てて、上の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、中の枝には白銅鏡を掛け、下の枝には十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、穴門の引島に迎えに来ました。
そうして、
「私めが、わざわざこれらの物を献上する訳は、天皇が八坂瓊が優美に曲がっているようにあまねく治めて下さいますよう、また白銅鏡のように山川海原を明確にご覧になれますように、そうして、この十握剣を掲げて天下を平定してくださいますようにという意味からです。」と言いました。天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。今、伊都と言うのは訛っているのです。
21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。
伊覩国(伊都国 イトコク)というのは、昔は伊蘇国(イソコク)でローマ字で表すと「ITO」→「ITHO」、「ソ」と「セ」は「背(ソ)むく」と「背(セ)」のように、怡土・志摩(イト・シマ)は伊勢・志摩(イセ・シマ)と実は同じである。糸島(怡土志摩)には天照大神には付きものの(天の)岩戸が天ケ岳の傍にある桜井神社(岩戸宮)の裏手にある。
吉志氏の本拠は摂津国鴨下郡吉志部村(吹田市岸部)で、そこに上記の吉志部神社がある。壬生氏が推古朝に置かれた壬生部に始まるとすれば、吉志氏はずっと早くから一族を成していた。
吉志は吉士・吉師・岸にも作り、高麗系の渡来氏族である。新羅の官位十七等の第十四位に吉士があることから新羅系とも解されるが、高麗をはじめ安倍氏とともに吉志一族が吉志舞を奉したと『北山抄』にある。
『記紀』は天之日矛を新羅の皇子、彼と同一人物とされる都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)命については大加羅国の王子としているが、『筑前国風土記逸文』に、伊都県主の五十迹手(イトテ)は「高麗の国の意呂山(オロヤマ=尉山(ウルサン))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗ったと記載されており、安倍氏族は高麗(高句麗)からの渡来か?