もがり舟、巣山古墳、太陽の船

2006年2月の新聞「大王の遺体運ぶ、「古代の霊柩舟」出土・・奈良・巣山古墳」

  

奈良県広陵町の国特別史跡・巣山古墳(4世紀後半)から、 表面に文様が刻まれ、朱が塗られた前例のない形状の大型木製品が出土した、と同教育委員会が22日発表した。
木製品は舟の形に復元できることから、埋葬前に遺体を仮安置する“もがり”の場から陸路で古墳まで遺体を運んだ“霊柩舟”の一部と専門家は見ている。
出土した木製品の内、舟の側板のかたちをした木の部材は、長さ370センチ、幅45センチ、厚さ5センチ。
一部が欠けているが、復元すると長さは8,2メートルに達する 。魔よけを意味する三重の円と、帯状の文様が刻まれていた。 棺のふた形をしたクスノキ製の部材(長さ2,1メートル)は復元長が約4メートルになる。
これらを組み合わせると、先端が反り上がったゴンドラ形の舟に棺を乗せたような肩上がりになり、中国の史書「隋書倭国伝」(7世紀)にある 「貴人は三年、外に“もがり”し、葬に及べば屍を舟上に置き、陸地にてこれを引く」という記述と合致する。
巣山古墳は全長約220メートルの前方後円墳で、被葬者は大王(天皇)級の有力者とされる。

  

直弧文(鍵手文)と同心円の組み合わせは、井寺古墳が有名ですが、井寺に限ったことでなく、その他にも石人山、浦山、長砂連、日輪寺、鴨籠、さらには、大和の巣山古墳出土の喪船、とかなり普遍的なセットになっている。

三角縁神獣鏡の外区には鋸歯文が取り巻いている。井寺古墳などで、棺の石障の構図に、鏡を表わすと考えられる文様と隣り合わせで、数多くの直弧文が刻まれています。

エジプトの太陽の船、フク王の古代船
太陽の神ラーの元、復活する王を運ぶ儀式の船に似ていたため「太陽の船」と呼ばれている。しかし、実際は水で使用されたと見られる跡があった。現在の研究では、クフ王が死んだ際、メンフィスからギーザまで王の防腐処置を施した死体を運ぶために使用されたか、クフ王自身が巡礼地を訪問するのに「巡礼の旅船」として使用されたのではないかとされている。また、クフ王が来世で使用するために埋められたのではないかという説もある。

上が福岡の珍敷塚(めずらしづか)古墳の壁画で、下がエジプトのセン・ネジェム古墳の壁画である。太陽が夜のあいだ船ではこばれる図をあらわしたものだと思われるが、構図がそっくりである。

太陽が夜に船で運ばれて復活すると信じ、死者も同様に、復活を信じ、願って もがり舟を作った。

 

もがり

殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願う行為 。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。

「隋書」に記録された倭国の殯

『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」

死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。
貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。

とある。

これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にしたことが窺える。 なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。 長い殯の期間は大規模な墳墓の整備に必要だったとも考えられる。

殯の衰退

殯の儀式は大化の改新以降に出された薄葬令によって、葬儀の簡素化や墳墓の小型化が進められた結果、仏教とともに日本に伝わったと言われる火葬の普及もあり、急速に衰退する。

殯宮

殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼に、また「ひんきゅう」という名で皇后・皇太后・太皇太后の斂葬の儀までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用されることになっている。 崩御後13日目に遺体を収めた棺は御所から宮殿内の殯宮に移御され、崩御後45日目を目処に行われる大喪の礼や斂葬の儀までの間、殯宮拝礼の儀を始めとする諸儀式が行われる。

通夜は殯の名残

通夜は殯の風習の名残で、殯の期間が1日だけ、あるいは数日だけに短縮されたものとする説もある。 沖縄でかつては広く行われ、現代でも一部の離島に残る風葬と洗骨の風習は、殯の一種の形態と考えられる。

舟形木棺
弥生時代や古墳時代にみられる刳抜(くりぬき)式の木棺。丸太を縦に2つ割りにして中を刳り抜いて棺身と棺蓋をつくり、それを合わせて長大な円筒形の棺として舟のようにかたちを整えたもの。
直径1メートルもの巨木を刳り抜き、なかに遺体を納める空洞部分をつくっている。 長さが5メートル以上におよぶものもある。
刳抜式木棺としては、「舟形」のほか「割竹形木棺」があり、「舟形」は、棺の下半身の棺身底部を船の舳先のように削り出すところから命名されたものであるが、検出例は「割竹形」に比較して少ない。 いずれも、材となる原木はマツ目のなかでもスギ科に近い常緑樹、コウヤマキが多いといわれる。

「巣山古墳」

巣山古墳(すやまこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町大字三吉元斉音寺に所在する前期から中期への過渡期(4世紀末から5世紀初め)の前方後円墳であり、馬見古墳群の中央群に属する。