ガリレオ

ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)

  • イタリアの物理学者、天文学者、哲学者でパドヴァ大学教授。
  • 天文学の父と称され、フランシス・ベーコンと共に科学的手法の開拓者としても知られる
1563年 長男ガリレオが生まれる。この後、ガリレオには弟4人、妹2人が出来た。
1581年 ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。
1589年 ピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。
1591年 父の死。以後、ガリレオが家族を扶養。妹2人は、幼くしてアルチェトリの聖マッテオ修道院に
1592年 ヴェネツィア共和国パドヴァ大学で教授の職を得、移住。1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。
1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。 
1599年 パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。2女1男をもうける。
1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。 
1609年 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。 
1610年 木星の衛星を発見
1610年 ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。 
1613年頃 2人の娘を修道院に入れる。 
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。 
1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。
1632年 『天文対話』をフィレンツェで刊行。 
1632年 ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。 
1633年 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される
1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記
1638年 オランダで『新科学対話』を発刊。
晩年 振り子時計を発明。
1642年 アルチェトリにて没

望遠鏡の発明を知り、制作

ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。これを用いて1609年月に望遠鏡を向けてみたガリレオは、月面にクレーターや山、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた。)があることを発見した。

1608 年、オランダのレンズ職人リッペルスハイは、凸レンズと凹レンズを使った
         世界最初の望遠鏡を開発しました(オランダ式望遠鏡)。
1609 年、イタリアの学者ガリレオ・ガリレイは、30 倍もの大きさに見えるガリレオ式望遠鏡を作り、
          天体を観測して木星の衛星や太陽の黒点、月面の凹凸、金星の満ち欠けなどを発見。
1611 年、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーは、2 枚の凸レンズを使って
          像は倒立しているものの視界が広いケプラー式望遠鏡を作りました。
1688 年、イギリスの科学者アイザック・ニュートンは、凹面鏡を使って像のボケを少なくした
           ニュートン式望遠鏡を作りました

地動説

  • ケプラー 1609年、「新天文学」を執筆し「ケプラーの法則」の第1と第2法則もこの論文におさめられている。
    • コペルニクスやティコ・ブラーエ、ガリレオ・ガリレイも脱却できなかった円運動に基づく天体論から、楕円運動を基本とする天体論を唱え、近世自然哲学を刷新した
    • 最初に発見された逆2乗の法則は、ヨハネス・ケプラーが発見した、光の減衰の法則である。
  • ケプラーは、光の強さは光源からの距離の2乗に反比例することを証明した。
    証明の概要
    光源から出た光は直進する(ユークリッドの光の直進の法則)。
    光源からの距離が一定である球を想定すると、光源から出た光は、
    光の直進の法則によりすべてこの球を通過する。 
    つまり、どんな大きさの球を想定しても、その球を通過する光の量は等しい。
    球の表面積は、半径の2乗に比例する。通過する光の量は同じなので、
    光の強さは光源からの距離の2乗に反比例する。
  • 万有引力の法則、クローンの法則に先立つ
  • ニコラウス・コペルニクス
    • 迫害を恐れた彼は、主著『天球の回転について』の出版を1543年に死期を迎えるまで許さなかった
    • 1510年頃 「コメンタリオルス」(Comentariolus、同人誌)太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。 1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、
      コペルニクスの著書「天球の回転について」は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。
      これは、地球が動いているというその著書の内容が、聖書に反するとされたためである。

ケプラーとニュートン:万有引力の法則

  • ケプラーは全方位に影響を与えるものはすべて逆2乗の法則が利用できると考えたが、太陽が惑星を動かす原動力は、全方位ではなく同心円状に広がると考えた。これは、観測の結果、惑星の軌道がほぼ同一平面状にあったためである。当時は彗星の軌道は計算されていなかった。
  • ロバート・フックとアイザック・ニュートンは、それぞれ独自にケプラーの考え方を拡張し、万有引力は全方位に影響を与え、その強さは距離の2乗に反比例すると考えた
  • 数学が発達した段階で、ニュートンはライプニッツとは別に微積分も開発し、運動の第2法則を導いた。
  • 最後に発見されたクローンの法則:光の減衰法則、万有引力と併せて、3つの逆2乗の法則
    近代物理学形成初期のこの3つの逆2乗の法則は、のちの物理学の発達に大きな影響を与えた

地動説の3つの根拠

  • 1.木星の衛星の発見
    • 1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。
      天動説の優位性は、太陽の周りを地球が公転するならば、
      月は軌道を保てずに飛んで行ってしまうであろうという批判にあり、
      当時の地動説が反証できなかった点にあった。 
      しかし、1610年にガリレオ・ガリレイは望遠鏡を用い、木星に衛星があることを発見した。
      この発見により、天動説は木星の月が飛んでいってしまわない理由の説明に窮した。
  • 2.金星の満ち欠け
    • ガリレオは、望遠鏡で、金星の観測では、金星が満ち欠けする上に、大きさを変えることも発見した。
      当時信じられていた天動説に従うならば、金星はある程度満ち欠けをすることはあっても、
      三日月のように細くはならず、また、地球からの距離は一定のため、
      大きさは決して変化しないはずであった.
  • 3.太陽黒点
    • 望遠鏡での観測で太陽黒点を観測した最初の西洋人がガリレオである。
      形や位置を変える黒点は、
      天は不変で、月より遠い場所では永遠に変化は訪れないとする天動説には不利な証拠になった.
      太陽を見たためか、ガリレオは晩年に失明した。(オイラーも片目を失明)

天動説の歴史

  • 紀元前4世紀
    • 古代ギリシアのエウドクソスは、地球を中心に重層する天球が包む宇宙を考えたとされる。いちばん外側の天球には恒星がちりばめられており(恒星球)、天の北極を軸に、およそ1日で東から西へ回転する(日周運動)。太陽を抱える天球は恒星球に対して逆方向に西から東へ、およそ1年で回転する(年周運動)。
  • 紀元前3世紀ごろ
    • アポロニウスは、惑星が単に円運動を描くのではなく、円の上に乗った小さな円の上を動くと考えた。この小さな円を周転円、周転円が乗っている大きな円を従円と呼ぶ。感覚的には、遊園地の乗り物のコーヒーカップがこれに近い。
  • 2世紀:プトレマイオスの体系
    • アレクサンドリアで活躍したプトレマイオスは周転円を取り入れつつ、離心円とエカント (equant) を導入、体系化した。恒星球の中心は地球だが、惑星の従円の中心はこれとは異なる(離心円)。周転円の中心は離心円上を定速では回らないが、エカント点からこれを見ると一定の角速度で動いている。
      各惑星の周転円が重なり合うことを避けるため、
      地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていった。
      その外側を恒星球が取り囲む。
      仮に(実際は異なるが)太陽系の惑星の運動が全て円運動であったのなら、
      プトレマイオスの体系でほぼ完璧に説明ができた。
      
      その後、惑星は太陽を焦点のひとつとした楕円運動をしており、この体系は無理が生じるので、
      以降の天動説の発展は、楕円運動を円運動で説明すりための努力となった。
    • プトレマイオスの天動説の図
  • ケプラーの楕円運動(地動説)が認められる
    ヨハネス・ケプラーは、惑星の運動が楕円運動である(ケプラーの法則)と説明した。 
    ケプラーの説は、天動説やそれ以前の地動説モデルよりも、遥かにシンプルに天体運行を説明できた。
    しかもケプラーの法則に基づくルドルフ星表の正確さが誰の目にも明らかになると、議論は収束に向かった。
楕円運動の発見のエピソードとして、 当時、惑星の運動は円であると信じられていたが、
それに従わない火星のデータをティコ・ブラーエが困ってケプラーに担当させたため、
との話がある。
  • 星表(star catalogue)は恒星目録ともいい、恒星の位置や等級、スペクトル型、視差といった値や特性を記載した天体カタログである。現代の天文学では、恒星はいずれかの星表の番号で表される。長年にわたって様々な目的のために多くの星表が編纂されてきた.

遠くの恒星の年周視差の観測:最終決着は1837年

  • 1837年にドイツのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルが恒星の年周視差を発見。
  • 地球が太陽の周りを回っているのなら、公転運動によってその位置を大きく変えるのだから、遠くの恒星の見える方向も一年周期で回転運動をする。その回転運動はあまりにも小さいので、この時代の観測技術で発見できた。
    • それまで天動説支持者は、恒星の年周視差が観測されないことを地動説よりも天動説が正しいとする有力な根拠としていた。
  • フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル(Friedrich Wilhelm Bessel, 1784年7月22日 - 1846年3月17日)はドイツの数学者、天文学者。恒星の年周視差を発見し、ベッセル関数を分類したことで知られる。
    • 1838年、ベッセルがはくちょう座61番星の視差が0.314秒角であることを発表。この視差から、恒星までの距離を初めて計算した。

教会がガリレオ裁判の誤りを認める:1992年

  • 1965年にローマ教皇パウロ6世がガリレオの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである。

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Last-modified: 2009-07-13 (月) 18:43:00 (3753d)