#freeze
香川県丸亀市の飯野山でカッコウの鳴声を聞きました。

** 石器 [#s2251c13]
-サヌカイト
**庵治石 [#ned13094]
-最高級の石:世界中の石材の中でも類が無く希少価値が高い
--香川県の庵治町・牟礼町にまたがる八栗五剣山より産出される。
 細粒黒雲母花崗岩

--庵治石は細目(こまめ)と中目(ちゅうめ)に分類され、構成要素は石英・長石を主成分とし、少量の黒雲母と角閃石を含んでいて非常に硬い。近頃では、細目と中目の間の石として中細目(ちゅうこまめ)として販売されるものもある。
--吸水率が低く、割れない、色あせない。
 庵治石(庵治石細目・庵治石中目)0.14%。
 吸い込んだ水分は寒さで凍結し膨張する。水分を多く吸い込んでいる石はひび割れしてしまう。また、
--庵治石は一般的な石材表面の耐久年月よりも吸水率の低さ・硬度のため風化・変質にも強いのが特徴でもある。
--石表面に黒雲母が特に緻密に入り、まだらな地模様に濃淡が出る
--細目の中にも特級品、極上品といった更に美しく希少な「斑」をもつ部類の庵治石も存在する。

** 磐船 [#f47ce056]
-http://www.geocities.jp/sera_apis/saka9.htm
** 石宝殿 [#le09e005]
-播磨風土記「印南郡大国里の条」には、「聖徳の御世、弓削の大連の造れる石なり」と述べられており、八世紀の風土記の時代からこの石があったことが知られている。

 また昔、大己貴命(おおむなちのみこと)と少彦名余(すくなひこなのみこと)の神が、国土を鎮めるために、一夜で宝殿を造ろうとしたが、途中で敵と戦ったために夜が明け、そのままにしたという伝説がある。

 しかしこの巨大な石造遺跡は、どういう人が何を目的として造ろうとしたのかが、まったく不明である。

 風土記にいう弓削の大連が、この辺りに勢力のあった物部守屋であることから、物部氏に関係した遺品と考えるほか、火葬墓という見方もある。しかし、龍山(たつやま)には古墳群があり、比較的加工のしやすい石英粗面岩である龍山石が、家形石棺や長持形石棺に使用されており、しかも龍山をはじめ加古川流域に限らず、遠く畿内古墳にまで使用されていることから、古墳の石棺という考え方が強い。


**酒船石 [#i52d630b]

**讃岐の石 [#nb24fe98]
-小豆島
-本島
-石積古墳
-物部
**竹取の石作皇子 [#y128689c]

-石作氏と多治比氏の関係も世間周知の事であったろう。河内国丹比郡の中心部、現大阪府南河内郡美原町一帯を本拠とし、同地には五世紀前半と推定される全長百米以上の前方後円墳黒姫山古墳があり、六世紀末から八世紀中にかけての平尾遺跡には大規模な掘立柱建築があり、丹比神社・丹比廃寺を有した。そして一族からは歴代にわたって遣唐大使・押使・渤海使等の外交官を出している。かぐや姫の要求を叶えるためなら天竺へも渡海できる立場にある。
-石作氏は、播磨国賀茂郡の既多寺で書写事業のスポンサーであり、それまでは播磨平野に数多い石船と呼ばれる石棺を製作していた。この地に特徴的な長持形石棺の蓋石を転用してリサイクルした「石棺仏」や、近くの姫路城の石垣には石棺が利用されもしたことでも分かる。
-こうした石棺の最期を象徴するかのように作られたものが、賀古
川河口の高砂市にある「石の宝殿」である。
-葬送に関わる一族といえば古墳に生贄の代わりに立てる埴輪を造る土師氏
がいるが、その墳墓に遺体を埋葬するための石棺を作る一族、石作氏もい
る
-石作氏は少なくとも仏寺の石塔や石像の製作を手掛けていたであろう。
-息長帯日命すなわち神功皇后が九州で崩じた夫仲哀の遺体を奉じて、石作
連大来を率いて讃岐国の羽床へ陸墓用の石材を求め、葬る場所を石作連が
見つけだしたという話が同じ『播磨風土記』にある。

讃岐国の羽床とは香川県の綾南町・国分寺町・坂出市の境界が交わる位置
にある鷲の山とされ、この鷲の山石で作られた割竹形石棺は地元はむろん
のこと、畿内にも運ばれている。風土記の伝承を信じるなら、それらは石
棺作りの石作氏の活躍の跡に他ならない。

しかし、こうした石棺の需要がなくなったとき、石作氏は何をもって一族
の糧としたのか。ここに因縁浅からぬ石作皇子すなわち多治比氏を洗い直
す必要がある。
-多治比氏は伝統的な古くからの氏族ではない。天武朝に突然史上に現われ、
天武十三年の八色の姓制定に際して、公姓から臣下最高の姓である真人を
賜姓した十三氏の一つである。系譜を辿ると、北陸道から大和へ進出した
継体の孫にあたる上殖葉皇子の子孫、多治比古王の子が臣籍降下して多治
比公を賜姓した。多治比を名乗ったのは元からあった多治比宿禰氏が養い
親の役目をしたからである。

-「播磨の国の風土記にいはく」として『釈日本紀』に引かれた「逸文」が
ある。国造石坂比売に乗憑いて託宣したのは、伊和大神の御子神の爾保都
比売であった。時は息長帯日女、神功皇后の新羅平定に際してである。吾
を祭れば望みも叶うと、その神は宣した。爾保都比売とは記紀をはじめ古
文献から抹殺されて、この「逸文」にのみ載る丹生族が祭る「丹生津姫」
に他ならない。


**土師氏の始祖 [#uf9e605f]
-
**丹生 [#jd2239bc]
-3点セット :石棺、埴輪、丹生
-多治比公氏の祖にあたる上殖葉皇子の母系は連綿と続く春日和珥
臣氏の所生である。和珥氏は奈良県天理市櫟本町の和爾坐赤坂比古神社を
祭る丹生族に他ならない
-東大寺東大寺廬遮那大仏建立に際して、天平十七年(745)正月に優
婆塞行基法師が一躍大僧正に任命されたのに続いて、四月には造仏長官等
工人棟梁の叙任者の中に、丹比間人宿禰和珥麻呂の名がある。おそらく金
銅製廬遮那大仏の鍍金に関わる責任者であろう。
-丹砂は熱すると水銀となり、岩間から滴り落ちる自然水銀もある。文武二
年(698) の『続日本紀』には伊勢国から朱砂を献上させたと記され、また
元明天皇和銅六年(713) には伊勢国の調のみ水銀と定められるほどの水銀
産出国である。江戸時代の伊勢白粉はこの水銀を加工したものであった。
-丹砂や水銀の産出地は、主に信濃国から紀伊半島、そして四国・九州へと
延びる中央構造線上にある
-讃岐国香川県における丹生関係の根拠は西の讃岐にある
--一点は大川郡大内町石清水神社は旧社名を丹生神社といいます。

--仁尾町の「仁尾」はnioと呼ばれ、「丹生」の転じたものと思われます。満濃町は鷲の山に近く、鷲の山のある国分寺町と大野原町は、丸亀街道と讃岐街道という古い街道で繋がっています。

**小豆島 [#n0b5943e]
-香川県小豆郡
--10世紀以来中世にかけて石清水八幡宮の荘園であった肥土庄の肥を略したもの
--大阪城残石記念公園(江戸時代の大阪城築城の石を切り出した採石場の史跡には残石35個が並び、石と化石の棟、石工小屋などの再現、当時の道具類や資料を展示。)

**持統の藤原京と讃岐 [#tfbdaef0]
-三野町にある国史跡「宗吉瓦窯(むねよしがよう)」が日本初の瓦ぶきの宮殿に瓦を供給
--23基もの窯が傾斜地に整然と並ぶ。三野町吉津
--「宗吉瓦窯には日本一が三つある。一つは数。二十三基の窯跡は日本で最多。もう一つは窯の大きさ。十七号窯(十七番目に確認した窯跡)の十三メートルは瓦を焼いた窯として最長。三つ目は距離。藤原宮に使われた瓦の生産地としては最も遠く、二百キロ離れている」白川雄一さん
--宗吉に住む須恵器職人。火上山など三野町大見、下高瀬から、高瀬町上高瀬にかけての地域で、七世紀から八世紀の初めにかけて盛んだった。
--大和盆地以外の瓦生産は、宗吉のほかにも和泉(大阪府)の陶邑(すえむら)遺跡で焼かせるなど、窯業の下地がある所を選んでいる
-律令制度が整備され藤原京がわずか十六年間の短命で終わり、平城京に遷都するのと歩調を合わせるように宗吉瓦窯は急速に衰退。讃岐の窯業の中心は十瓶山(綾南町)周辺に移っていく
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-丸部氏は九世紀半ば、三野郡の大領(郡司)一族。

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