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**時期 作者:不明 [#s8a70eca]
-[[参考 伊勢物語の世界:http://www.lib.nara-wu.ac.jp/nwugdb/iseindex.html]]
-『竹取物語』の刊本は、十一種ほど知られている.『竹取物語』は作者未詳、九世紀末頃の成立か。『源氏物語』の「絵合」巻に、「物語の出で来はじめの親なる竹取の翁」とあり、物語の始発であると意識されていた。
-平安時代の人々が「在五が物語」とか「在五中将の日記」などと呼んだのは、当時は作者が在原業平その人であると考えられていたからである。

-女もすなる日記といふものを、男もしてみむとて、するなり。(紀貫之「土佐日記」)。紀貫之と業平。
--伊勢物語は在原業平の歌に、業平の華やかな話を添えた歌物語。
物語は、業平に関係する歌人、親族らの手によるものであろうといいます。
業平没後、二十数年後に編纂され古今和歌集の編者の一人、紀貫之も物語の完成に関与している可能性がある。その後九〇〇年の中頃には今日の「伊勢物語」に近いものが出来、その後平安時代を通じて書き継がれ古歌や業平以外の歌も取り込まれている。
--業平に対する、紀貫之の評言がある。『古今和歌集』序の「その心あまりてことば足らず」。
--業平は、『三代実録』では「放縦不拘」の記述があり、情熱的歌人と思われていた。

-『伊勢物語』の古い部分は延喜5年(905年)の『古今集』より古いが、新しい部分は天暦(947~957)年の頃よりも新しい。
--延喜5年という年は、勅撰集第1番目の『古今和歌集』の編纂が開始された(一説
に、出来た)年でもある。
--また、『延喜式』を藤原時平ほか11名の委員によって編纂を開始した年。『延喜式』(エンギシキ)とは、「養老律令」の施行細則を集大成した古代法典。
--宣長は、延喜式を重視。 『うひ山ぶみ』の中で、記紀、万葉、六国史に次いで見るべき書としている。延喜式の祝詞の巻と神名帳は早くから見ないといけないとしている。
-伊勢は百あまりの章段から成る。
--一時期に一人の人間が書いたものではない。
--実在した在原業平の歌物語もある。
--業平とは無関係な民間伝承やら創作などがある。
--主人公を昔、男ありとリフレイン。
--全体としてのストーリーは?。
- 全体像は、[[伊勢物語入門:http://www.kokugo.aichi-edu.ac.jp/taguchi/hon2.html]]が良くわかる。
** 当時の出来事 [#dc9c0f44]
-744 安積親王死亡(暗殺?)
--広嗣の乱後光明皇后(聖武夫人)のころ、阿部皇太子(女性阿部内親王)(南家武智麻呂次男仲麻呂が後見)と、安積親王(橘諸兄が後見。北家房前の三男八束と大伴家持等がグループとして結束)が、どちらを次の天皇にするか争いが生じた。南家精強。
-757 橘奈良麻呂の変
-793 坂上田村麻呂:陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任の征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。
-806年 智泉大徳が報恩院を建立。岩船寺は聖武天皇の天平元年に勅願寺となり、弘法大師、智泉大徳により堂塔伽藍を整備され、修行道場として盛えました。三重の塔は834~847(承和年間)仁明天皇が智泉大徳を偲んで、建立。
--「智泉大徳に子どもが授かるようにと祈願をお願いされたところ、皇子(後の、仁明天皇)が、ご誕生になられたとか。 お子を授かったことで、嵯峨天皇も皇后も大喜びされ、岩船寺を再興された」
--智泉大徳は789年(延暦8年)2月14日、父・滝宮龍燈院の讃岐滝宮の菅原氏と母・空海の姉(後の智縁尼)との間にお生まれになり、常にお大師さんの側にいて、真言宗を広めるために努力されました。(780~825)。
-807 平城天皇の異母弟伊予親王が皇位を狙っているとして親王および母藤原吉子(南家)は自殺。兄の大納言藤原雄友(南家)は伊豆に流され雄友とともに南家の乙叡(たかとし)は中納言を解任南家はここで更に勢力を失ってゆく。式家も薬子・仲成の成敗で後退し残った北家(房前の後裔)が権力を握っていく。
--大同2年(807)、藤原吉子の兄である藤原雄友が、伊豫親王に謀反の疑いがあると報告したことにより、平城天皇は親王と母である藤原吉子を大和国川原寺に幽閉。二人は食を断ち、幽閉から10日後、親王とその母は毒を飲み自害。
--滝宮:綾南町はさぬきうどん発祥の地。智泉大徳が、空海が中国から持ち帰ったうどんの技法でここに住んでいた両親(母=空海の姉)をもてなしたのが讃岐うどんの発生。

-809年 嵯峨天皇即位 
--嵯峨天皇は詩文に長けていたということと、空海・橘勢逸・嵯峨天皇は書道の三筆と称されています。
-810年 薬子の変。坂上田村麻呂は、平城上皇の脱出を阻止する働きをした。
-824-834(天長年間)西明寺 弘法大師の高弟智泉大徳が神護寺の別院として創建した
のに始まると伝える。(「西明寺」拝観案内)
-835 空海が死ぬ(63歳)
--空海が高野山上に庵を建てるとき、紀の国の有力者にあてた文。「昔の人から聞き及んでいるのに、私の先祖は太遣馬宿禰(たけまのすくね)はあなたの国の祖である大名草彦(おおなぐさのひこ)の末裔であるとのこと。」
-841 在原業平17歳が右近衛将監になる?
-842 承和の乱 嵯峨天皇が崩御した後、承和の乱が伴健岑(とものこわみね)によっておこされた。仁明天皇は伴健岑及び恒貞親王を廃流して、藤原良房の摂政政治が始まった。849年 菅原道真 誕生。承和の乱を起した伴健岑と道真の母は共に伴氏であった。「三階松」の紋が伴氏、菅原氏か?。
-842年橘逸勢死亡、(この乱のため東国へ向かう途中)。
--敏達天皇五世の孫・美努王の子、橘宿禰諸兄(たちばな・もろえ、684~757)から数えて三代目、つまり橘奈良麻呂の孫の一人が橘逸勢(たちばな・はやなり、?~842)。
-843年 伴善男 従五位下、讃岐権守、右少弁
-847 在原業平23歳が蔵人になる?~三十六歌仙伝より

-847 橘氏公死亡

-850 仁明天皇没、文徳天皇即位。
    惟仁親王(のちの清和天皇)わずか八ヶ月で皇太子になる
    このとき兄の惟喬親王は7歳。このころ小野小町が京を離れる
-854 源常死亡
-854 伴善男讃岐守を兼ねる。
-855 伴善男 従三位に昇る。右大臣藤原良房らと続日本後紀の編纂にたずさわる。
-857 藤原良房、ケライとしては初の太政大臣になる。
-858 紀夏井、讃岐国司となる
-858 清和帝9歳が即位(~876)
-858 藤原良房、実質的な摂政になる
-858 文徳天皇急死。清和天皇即位、この時9歳
-859 円珍が三井寺をつくる。石清水八幡宮がつくられる
-862 備前から京へ官米を運ぶ船がおそわれる
-862 在原業平38歳が従五位上に昇進する

-865 在原業平41歳が右馬頭になる(3/9)
-866 讃岐国戸籍帳に漢字と草仮名による文字が書かれる


-866 応天門の変。藤原良房、初の摂政になる
--犯人とされた伴善男、伊豆へ配流
--伴善男(811-868)855年、右大臣藤原良房らと『続日本後紀』の編纂に従事。859(貞観1)年、正三位・民部卿。翌年中納言に昇進し、さらに864(貞観6)年には大納言に至る。
--866大納言(だいなごん)・伴善男(とものよしお)が応天門(おうてんもん)に放火したとして失脚した事件。善男は放火は左大臣・源信(みなもとのまこと)の仕業と主張したが、藤原良房(ふじわらのよしふさ)がこれを擁護、逆に善男・中庸(なかつね)父子が犯人とされ、善男は伊豆へ、中庸は隠岐へ流刑、同時に紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)らも処罰された。この事件によって伴・紀氏は衰退、藤原北家の権力はより強化された
--伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に流され、連座した紀夏井らが処分された。
--紀夏井は、肥後守に在任中でありましたが、異母弟の紀豊城が大納言の従者で事件に関わっていた為、側杖を喰って土佐に流される。「高知の野市町には「父養寺(ぶようじ)」「母代寺(ぼだいじ)」という地名がある。土佐は遠流の国。菅原道真公の長男菅原高視さんや土御門上皇などが有名。それよりも前の貞観8年(866年)、応天門の変に異母弟が関係したことに連座して、紀夏井(きのなつい)さんという貴族が流されてきました。土佐へ流されて来た紀夏井さんは、ここ野市の丘に住み、医学の知識を活かして薬草を採って病人を治療したりして地域住民に慕われたそうです。また、土器を製造したりもしちょります。母が亡くなったあと、お寺を建てて供養し、また、父親の供養も誠実に行ったことでも有名で、そんなこんなで、この辺りの地名が「父養寺(ぶようじ)」「母代寺(ぼだいじ)」になったのだそうです」
--「夏井は善男の後を引き継いで讃岐の国守となり、善政を布きましたから、任期明けに百姓たちは夏井の留任を願って運動して、二年間の任期延長を得ています。」
--新羅海賊の跳梁跋扈と時期を同じくして、応天門の変の後に、瀬戸内海の海賊騒動が盛んになった。

-869 『続日本後紀』が完成~官修の史書で、833年から850年までの実録
-875 在原業平が藤原基経40歳を祝う歌をつくる

-876 清和天皇退位し、出家。陽成天皇即位
-877 菅原道真32歳が式部少輔・文章博士に任命される
-879 在原業平が『伊勢物語』を清書し、妻・伊勢に与える
-880 在原業平56歳が死ぬ(5/28)

-884 藤原基経、初めての役職・関白となる
-887 藤原基経が関白になる
-887 阿衡の紛議
-886 菅原道真、讃岐国守となる。運悪く、大旱魃。この惨状を見た菅原道真公は城山神社に七日七夜籠もって祈り、満願の日から恵みの雨が三昼夜に渡って降り続きました。村人の感謝の踊り=滝宮念仏踊り
-890 菅原道真が讃岐国司の任期を終え帰京し宇多帝の信任を得る
-891 伊勢が『伊勢物語』のうち自分に関する段をぬいて公表
-893 この頃『竹取物語』

-894 遣唐使派遣中止 
-899 菅原道真が左大臣に、藤原時平が右大臣に任命される(1/1)

** 何故 伊勢物語と呼ぶか? [#h5db7add]
-『伊勢物語』の名称は、伊勢物語第六十九段「狩の使」は斎王の恋物語があることから呼ばれるようになった。
- 昔の物語名
--『源氏物語』や『狭衣物語』では、当時「在五が物語」とか「在五中将の日記」と呼ぱれていた。
**惟嵩親王 [#ob71a34b]
-伊勢物語で有名な恬子内親王は文徳帝の皇女で、清和帝の御世に同母妹も賀茂の斎院とな っている。母が当時まだ藤原氏のライバルであった紀氏の娘で、業平はその兄の娘を妻に迎え ている。同母兄の惟嵩親王も業平と交流があり、因縁の深い皇女だったが、伊勢で業平と結ば れた???。

**在原業平の家系: [#x5be395a]
-阿保親王(792-842)は平城天皇(51代天皇)の第一皇子。
--母は更衣(宮女)とみられる葛井宿禰藤子。
--平安京遷都などを行った桓武天皇(50代)は阿保親王の祖父。
--平城天皇の弟には嵯峨天皇(52代)と腹違いの弟の淳和天皇(53代)。
--阿保親王21歳のとき、病気を理由に弟の嵯峨天皇に譲位して上皇となっっていた平城天皇が、「薬子の変」に関わったしたとして政治の表舞台から去る。
--平城上皇の第一皇子であった阿保親王もこの変に連座したとして大宰府に左遷されます。以後15年の長きに渡り九州で暮らす。
--阿保親王が35歳のとき、平城上皇が死亡。すでに淳和天皇に譲位して上皇として退いていた嵯峨上皇から、これを機に入京の勅がでる。
--阿保親王も自分の息子たちに皇位継承権を手放させ、これに応える。以降、息子たちは在平の姓を名乗ることになります。
--入京後、阿保親王は伊都内親王と結婚し、順調に出世。
--825年には在原業平が誕生します。
--842年、7月、嵯峨上皇の死を契機に権力闘争が起こり、阿保親王も伴健岑より「謀反」に誘われるが、嵯峨皇太后に密告し、反乱は事前に制圧されます(承和の乱)。
--この3ヶ月後、阿保親王は死亡。
-JR芦屋駅前の小道を北東へ約900m。「親王さんの森」として親しまれ、第51代平城天皇の第一皇子・阿保親王(在原業平の父)が祀られている円墳がある。

**道真の諌言:阿衡の任をめぐる意見書 [#g85f8219]
-888 10・中 道真(44)、関白藤原基経に諌言
-十月初め、ひそかに上京。直ちに双方の関係筋から情報を集め、ついに意を決して、基経に奉る意見書を仕上げ送り届けた。
-天皇は、基経の機嫌を取るため、
 「万機に関り白せ」(あらゆる政務に関与発言せよ:関白)との詔書を出した
 「阿衡の任を以て(基経)卿の任とすべし」との勅答をも下された。
 この詔書も勅答も、文章博士 橘広相の起草したものだが、基経の実権を強化する狙いか?。
--ところが、基経は、これに不満。理由は、阿衡の任は実務権限がないとみて、着任をせずに、放置。在京の文人官吏は、いずれも基経の権勢に阿って、阿衡に典職(実務権限)なく、起草者の橘広相に過失あり」とした。
--橘 対 藤原の争いに発展した模様。
-菅原道真公
--基経に奉る意見書
--序:信じて諌めざれば、これを諛といふ。
--1.詔勅を起草する文人は、「断章取義」を行う。目的の文意に沿っていれば良しとすべし。批判され処罰まで受けるようなことになれば、作文を業とする「家業」が成り立たなる。(基経の難癖への批判?)
--2.天皇に縁故の深い橘広相(道真の父の門下生でもある)の弁護。広相は自ら当代に誠忠のみならず、娘の義子を即位以前の天皇に妃として入れ、すでに二人の皇子(斉中・斉世)の外祖父。しかも、義子の入内に際して後宮で信望の篤い尚侍淑子(基経の実姉)が身元を引き受けている。このような広相を無理やり処罰すべきでない。
--3.基経への忠告。近年の藤原氏は段々衰退気味であり、辛うじて基経の徳が氏の盛名を支えているにすぎない。「才智謀慮・親故功労」の広相に対して、むしろ寛大な「施仁の命」を出すことが、基経のため。
--一介の地方官吏が時の最高実力者に対して、家業によって、激しい諌言を行った結果
 ・窮地に追い込まれていた橘広相(菅家廊下で学んだ門人)を救う。
 ・宇多天皇の信頼と期待を得た。讃岐守の任を終えて帰京した翌年(891年)早々、
 関白基経が薨去すると、かねて親政の理想を懐いておられた宇多天皇(二十五歳)が
 は、道真を蔵人頭(天皇の秘書長)として登用。

-神護寺の鐘:三絶の鐘。
--ひびが入ったため、もはやその音色に接することはできない。
--これは貞観十七年(875)の作で、銘の序詞は右少弁橘広相の作、銘文は菅原道真の父、参議是善、書は図書頭藤原敏行である。序、銘、書、の三つがいずれも当代一流の名家によるもので、三絶の鐘と呼ばれる。


-潮江天満宮:土佐国土佐郡潮江村(高知県高知市土居町)
--潮江天満宮は宮地家が代々祀職を勤めており、遠祖は日本武尊の第四王子建貝児王から八代目の宮地信勝が土佐国潮江村に転居して、菅原高視に仕えたのが潮江宮地家の始まりとされる。ちなみに菅原高視は菅原道真の嫡子。

**菅原道真と大伴旅人・家持 [#f653cf11]
-菅原氏は、道真の祖父清公(きよとも)のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。祖父と父はともに文章博士(もんじょうはかせ)を務めた学者の家系であり、当時は中流の公家であった。母方の伴氏は古代の大伴氏が淳和天皇の諱の使用を憚って改名したもので、家系には大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している。 


** 春日大社の近くの里:冒頭「初冠」の段 [#qc94219d]
-「昔、男、初冠して、平城の京、春日の里に領るよしして狩に往にけり」ではじまる伊勢物語
 むかし、をとこ、うひかうぶりして・・・
 奈良の都、春日の里に狩りに行きました。そこに魅力的な姉妹が住んでいて、
 こっそりのぞきみました。おもわず夢中になってしまったので、着ていた狩衣の裾を
 切って歌を書いて送りました。
 
 かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知られず
 みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに
** 確認できる登場人物 [#u3bed14d]
-悲運の惟喬親王(844~897)
--在原業平朝臣(825~880)が宮廷人として、最も崇敬し且つ懇意に仕えた親王。
--文徳天皇は紀名虎女静子との間に二皇子(惟喬親王、惟条親王)を生む。しかし文徳天皇は、惟喬親王を後継者に思いつつも、藤原良房に気を使ってその娘の藤原明子(染殿后)が生んだ惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子に立ててしまう。さらに親王は、清和天皇の即位(854年11月)に先立つ10ヶ月前に太宰権帥に遠ざけられてしまう。

-藤原高子(駆け落ち)。後に、藤原高子は清和天皇のもとへ入内し、陽成天皇を産む。この入内を進めたのは兄の国経・基経の兄弟、そして時の権力者である義父の藤原良房。
--良房は天皇の外祖父として人臣最初の摂政の座についた。良房には嗣子がいなかったため、兄の藤原長良の三男、藤原基経を養子とした。
--大伴一族の長、伴善男の事件。放火の冤罪?。伴善男は罪人として伊豆に流されて、伴(大伴)氏は没落。
-斎宮恬子内親王の母親は、文徳天皇に入内した紀名虎の娘である静子。その兄である紀有常。業平は有常の娘を娶っており、有常から見た業平は娘婿。業平は有常と同様に、恬子内親王の同母兄であり「伊勢物語」の登場人物のひとりである惟喬親王に仕える。
恬子内親王は斎宮時代に子供を身ごもってしまい、生まれた子供は、伊勢権守兼神祗伯である高階峯緒の養子となって高階師尚と名乗ったらしい。

-二条の后:高子       ・・・・3段、95段(5段、6段)
-東の五条大后宮:順子    ・・・・4段
-堀河の大臣:藤原基経
-太郎国経の大納言:藤原国経・・・・・6段
-紀有常           ・・・・16,28段
-西院の帝:淳和天皇     ・・・・39段
--その帝の皇女たかいこ:崇子内親王、源のいたる:源至、したがふ:源順
-かやの皇子:賀陽親王    ・・・・43段
-在五中将:在原業平     ・・・・63段
-水の尾の御時:清和天皇   ・・・・69段
--文徳天皇の娘・惟喬親王の妹:恬子内親王
-二条の后:高子       ・・・・76段
-これたかのみこ:惟喬親王  ・・・・82段、83段
--右の馬のかみ業平、紀有常

第八十三段 これたかのみこ【惟喬親王】、馬のかみなる翁【業平】

--春宮:清和天皇の御息所
-これたかのみこ:惟喬親王  ・・・・82段
--右の馬のかみ:業平、紀有常
-堀河のおほいまうちぎみ:藤原基経・・97段
--中将なりける翁:業平



**ひじき藻:第3段 [#ec5f2490]
-二条の后(高子)
 昔、男がいた。思いをかけていた女の所に、ひじき藻というものを贈ると言って
 
 思ひあらば葎(むぐら)のやどにねもしなん ひしきものには袖をしつつも

- 二条の后が、まだ帝にもお仕えなさらないで、普通の人でいらっしゃった時のことである。


**長岡宮跡:「荒れたる宿」の段 [#yf0c1af4]

**天の河原:第八十二段 [#f882950e]
-惟喬親王一行が酒宴の場所を探して、天の河というところに出ます。そのときにお供の者が詠んだ歌
 狩り暮らしたなばたつめに宿からむ 天の河原にわれは来にけり 馬の頭
**大原野神社:第七十六段「小塩の山」 [#tca8ce5b]
-藤原氏一族が祀る神社
 大原や小塩の山もけふこそは 神代のことも思ひ出づらめ  
-二条后高子がこの神社に、年老いた主人公とお参りをする段。歌は業平とも言われる。

**龍田川 [#x2beb800]
-昔、男が、親王様方が逍遙なさっていらしゃったところへ参って、 龍田川のほとりで、 
 ちはやぶる神代(かみよ)もきかず龍田川 韓紅(からくれない)に水くくるとは

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