仁徳天皇の河内開拓

  • 仁徳天皇の時代:
    369年百済の肖古王と同盟し、七支刀を贈られた倭王がいる
    391年倭軍の半島介入
    407年高句麗軍との最後の戦い
    412広開土王が死ぬ
    413年倭王 讃が現れる(珍 済 興 武 と続く)
    478年倭王 武
  • 478年武王の手紙:海北の95国?????
    武の祖父、父の時代から、
    東は毛人の55国を平らげ、西は衆夷の66国を服し
    渡りて 海北の95国を平らげ
    土を廊め畿をはるかにした
     
  • 難波に都をつくった:高津の宮
  • 河内の海を治めた
    • 河内の中央部の淡水湖から上町台地を横断して流す排水路を開削:堀江=天満川
    • 淀川の南に沿って堤を築いた
    • 大溝を掘って鈴鹿、豊浦の原野を灌漑し2万haあまりの田を開墾 などなど

履中天皇と淡路

  • 淡路島で狩猟

反正天皇

  • 淡路宮で生まれる
    • 仁徳の子であり、淡路と難波に領地を持っていた。
  • 都は河内の丹比:柴かき宮

雄略天皇

  • 播磨と伊勢に侵略
  • 新羅征伐
    • 紀の臣の一族と吉備臣の一族が、協力
  • 吉備上道臣田狭の妻を奪う
    • 田狭は、新羅に後援を求めて内通。
    • 田狭は任那にいた。
  • 紀と吉備が任那に進出していた
  • 雄略は臨終のとき大伴連と東漢直を呼んで、子の清寧天皇を盛り立てるよう願う
    • 星川王子反乱。吉備吉備上道臣かけつけるも間に合わず引き返す。
      吉備上道臣は、現代の岡山県吉備地方に住んでいた豪族である。
      吉備稚媛(きびのわかひめ)にしても、吉備から来た媛であることを窺わせるし、
      山部も岡山県であろうとされる。
      吉備は古来より大和朝廷と深いつながりを窺わせる記述が多い。
  • 『日本書紀』の異説。
    • 田狭の妻は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子・玉田宿禰(たまだのすくね)の娘、毛媛(けひめ)である。雄略天皇は毛媛の美しいことを聞き知り、田狭を殺して毛媛を奪った。(稚媛のことか。)

播磨の時代:清寧天皇に引き取られた吉備育ちの王子

  • 飯豊青皇女が一時政権を担当。
    飯豊天皇は履中天皇の皇女とも皇孫ともいわれ、母も黒媛ともはえ媛ともいわれている。
    清寧天皇崩御ののち、弘計王(顕宗)と億計王(仁賢)とが皇位を譲り合って空位となったため、
    一時女王として(葛城の)忍海角刺宮で 政治を行ったと伝えられている
  • 顕宋天皇
  • 宮は小郊(おの)と池野にあった:播磨の地名か
  • また仁賢天皇の宮も川村と縮見高野にあったとある:播磨の地名

吉備の伝説

讃留王伝説

  • 「時は景行天皇の御代、南海に大魚が居た。常には土佐の南の海に居るものの、時に、阿波、讃岐、伊予の海上に出没して、波を起こし舟を覆し、舟を呑み人を食うこと数知れず、人々は大変に難儀をした。    このことを朝廷に奏上するすると、朝廷では播磨武人(はりまのたけお)に討伐を命じたが、彼はこの役目を皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)に譲った。皇子は吉備の穴海に至り、ここで兵船を整え、火攻めの具を用意し、大魚の動静を探りながら待ち受けていた。この間、吉備武彦の娘穴戸武媛(あなとたけるひめ)を妃に入れ、やがて、媛は武殻王(たけかいこのきみ)(記は建貝児王、紀は武卵王)を生む。    景行天皇の二十四年八月、待っていた大魚は鳴門より瀬戸内海に入り、翌二十五年三月には遂に讃岐の海上にやって来た。皇子は壮士八十人と共に大船に乗り、猛火を中に潜めた小舟に大魚を誘う。この小舟を呑み込んだ大魚は腹の中が焼けて死に、福江浦に漂着するが、八十人の兵たちはその毒気に触れて生気を失ってしまう。そこに、一人の童子が来て清水を献じ、こによって兵たちは蘇生する。    かくて皇子は都へ帰るが、帰るに当たり、穴戸武媛が生んだ武殻王を讃岐に留めて、讃岐を守らせた。このため、武殻王は讃留王と呼ばれ、讃岐綾君(さぬきあやきみ)の祖となった。王は百二十五才にして薨じた。」(栗田寛:新撰姓氏録考証による)
  • 吉備穴戸武媛(きびあなとたけるひめ)(記は大吉備建比売)である。彼女は吉備武彦の娘(記は吉備臣建日子の妹)で、ヤマトタケル(日本武尊)の第二妃(記は第四妃)である。

吉備の人物


トップ   差分 バックアップ リロード   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2012-08-18 (土) 11:48:00 (2159d)