古墳

  • 香川県は、屋島に代表されるメサ型開析溶岩台地と飯野山(讃岐富士)に代表されるビュート型溶岩台地が多く見られます。また、古くから開けた地域で、古墳が多く、前方後円墳の数は80基を超え、愛媛・徳島の約15基、高知の2基と比べ、四国では特に多いことが注目されます。

国造本紀

  • 吉備中縣国造(きびのなかつあがたのくにのみやつこ)   瑞籬の帝[崇神天皇]の御世に神魂命(かみむすびのみこと)の十世の孫の明石彦を国造に定められた。
  • 吉備穴国造(きびのあなのくにのみやつこ)   纏向の日代の帝[景行天皇]の御世に和邇臣(わにのおみ)と同祖の彦訓服命(ひこくにふくのみこと)の孫の八千足尼(やちのすくね)を国造に定められた。
  • 吉備品治国造(きびのほむちのくにのみやつこ)   志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に多遅麻君(たじまのきみ)と同祖の若角城命(わかつのきのみこと)の三世の孫の大船足尼(おおふねのすくね)を国造に定められた。
  • 讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)   軽島豊明の帝[応神天皇]の御世に景行天皇の神櫛王(かむくしのおおきみ)の三世の孫の須賣保禮命(すめほれいのみこと)を国造に定められた。

国造と郡司

香川県

国名 延喜式 吾妻鏡他 郡名考・天保郷帳 郡区編成 現在 郡 市 
讃岐  大内(おほち)  大内  大内(おほち)  大内  大川郡  さぬき市  
寒川(さむかは)  寒川  寒川(さんがは)  寒川  
三木(みき)  三木  三木(みき)  三木  木田郡   
山田(やまた)  山田  山田(やまだ)  山田  
香川(かかは)  香川 香東 香西  香川(かがは)  香川  香川郡  高松市  
阿野(あや)  阿野 南條 北條  阿野(あや)  阿野  綾歌郡  坂出市  
鵜足(うたり)  鵜足宇足  鵜足(うたり)  鵜足  
那珂(なか)  那珂 仲  那珂(なか)  那珂  仲多度郡  丸亀市 善通寺市  
多度(たと)  多度 多渡  多度(たど)  多度  
三野(みの)  三野  三野(みの)  三野  三豊郡  観音寺市  
刈田(かりた)  豐田  豐田(とよた)  豐田

  小豆島 小豆 小豆郡

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  • 大化の改新後に讃岐国となり、11郡に区画された。
  • 11郡とは
  • 西から、刈田、三野、多度、那珂、宇陀、阿野、香川、山田、三木、寒川、大内 である。 http://www12.ocn.ne.jp/~gosiro/map_sanuki2.jpg
  • 以後は、讃岐守として国司が派遣され、それまで国造であった凡氏・綾氏・佐伯氏・秦氏・和気氏などが郡司に任命された。
  • 石清尾山の南麓は坂田郷といわれていました。その坂田出身の高僧「観賢(853~925)」は奏氏といわれています。観賢は,空海に弘法大師の称号を贈るよう運動を起こした人で,彼によって弘法大師信仰のいしずえが築かれたことは,忘れてはならない事柄でしょう。また,日本霊異記という古い書物には,石清尾山坂田の大富豪綾氏夫婦が,貧者に施しを与えた説話が残されています。
  • 延暦十年綾朝臣を賜る。大人堅石の頃、綾朝臣を賜ったとも見えるが、不詳。大人堅石より阿野郡大領を務める。高集は藤原純友に従い、後に信濃へ流された。三野氏 羽束氏
  • 後の時代に、
    凡氏は寒川・三木・高松・植田氏など
    綾氏は羽床・香西・新居・福家氏など
    佐伯氏は本目・新目・山脇・長尾氏などに派生した。
    • 昔四国における朝廷品部は忌部・秦部・韓鉄師部・錦部・壬生部であったとされている。秦氏は渡来系雄族といわれ中讃に住み、天武13年(684)八色の姓制度では、「朝臣」の姓を賜っている(日本書記)。一般的説では「漢人」であるとされ、阿野郡城山(現坂出市)には、朝鮮氏山城が有るといわれている。 中讃は秦氏、西讃は佐伯直(5世紀から)、東は凡直=讃岐(6世紀)の氏族が仕切っていた。その佐伯直田公を父に持つのが有名な空海である。
  • 谷川健一氏の『青銅の神の足跡』
    • 『新撰姓氏録逸文』によると、応神天皇のとき、後漢の阿智王が七姓の漢人をひきいて渡来したという。阿智王は阿知使主(あちのおみ)を賜り、その後裔が東漢氏と西漢氏になった。この七つの姓というのは、朱・李・多・皀郭・皀・段・高だが、ここに多氏と同じ「多」の姓があることに注目したい。この多姓は、檜前調使(ひのくまつきのおみ)の祖となったという。 また、皀郭姓は坂合部首(さかいべのおびと)の祖だが、坂合部練は多氏と同祖だと谷川氏は書いている。
    • 坂上田村麻呂は、この阿智王の子孫。王は自らを後漢の末裔だとしている。

1500年ごろの讃岐

  • 明応二年(1493)の『蔭涼軒日録』には、「讃岐は十三郡あり、うち六郡は香川氏が領し、七郡は安富氏が領有している。(中略)小豆島及び備中の国衙の一部も安富氏の管するところである」。
讃岐─┬─香川氏─┬─直  領──┬─豊田郡
   │     │(天霧山城) ├─三野郡
   │     │       └─多度郡
   │     └─奈良氏領──┬─那珂郡
   │      (聖通寺山城)└─鵜足郡
   │
   └─安富氏─┬─香西氏領──┬─綾南条郡
         │(勝賀山城) ├─綾北条郡
         │       ├─香川西郡
         │       └─香川東郡
         ├─植田氏領────山田郡
         │(戸田城)
         ├─直  領────三木郡
         │(雨滝山城)
         └─寒川氏領──┬─寒川郡
          (昼寝城)  ├─大内郡
                 └─小豆郡

京極時代の丸亀

  • 丸亀京極藩    支配地 丸亀市井 鵜足郡 津野郷        那珂郡 柞原郷、金倉郷、櫛無郷、真野郷、子松郷        多度郡 生野郷、良田郷、吉原郷、弘田郷、仲村郷        三野郡 勝間郷、高瀬郷、詫間郷(詫間・青洋・仁保・香田・家浦・大浜・生里浦・箱浦・栗島・志々島)、熊岡郷、高野郷、大野郷、本山郷        豊田郡 山本郷、紀伊郷、柞田郷、坂本郷、高屋郷、姫江郷  この内那珂郡の金毘羅宮領や五条、榎井、苗田の池御料及び人名領の塩飽諸島はのぞかれていた。

駅制

  • 讃岐は、南海道に属して、醍醐天皇の延喜の定めによると、刈田(引田)、松本、三谷、河内、甕井、柞田の6駅で各駅に4匹の駅馬がつながれていた。阿波二駅、伊豫六駅で京からの連絡は、京より紀伊を出て、淡路を一周して阿波の国府に入り、大坂越えして東讃に入り、引田、松本、大川郡松尾村田面)木田の三谷駅を通って府中中村の国府(今の坂出市府中町石井)に至り、額坂を通って飯山の南を通り、仲多度郡筆岡の甕井駅を過ぎ、鳥坂越えして、三豊郡柞田駅に出て、伊豫大岡駅(川之江)に連絡していた。河内駅は坂出市府中町にあったと思われる。

石高

  • 4代将軍家綱から高松藩主松平頼重の讃岐12万石が安堵。松平讃岐守あてに通達されたものである。
    •  郡別石高(都合12万石)--大内郡34箇村(1万石)、寒川郡25箇村(1万3千6百余石)、三木郡20箇村(1万1千6百余石)、山田郡30箇村(1万8千百余石)、香川郡47箇村(2万5百50余石)、阿野郡35箇村(1万7千6百余石)、鵜足郡26箇村(1万6千余石)、那珂郡17箇村(1万2千3百余石)

大内郡

  • 「大内」の名は、後に『続日本後紀』や『和名抄』・『全讃史』などの文献にも見え、大化改新(645)から「大内」の名が郡名として用いられ、明治32年(1899)大内郡と寒川郡を合わせて大川郡となるまで、実に2千年の長きにわたり愛称されてきた。
  • 景行天皇の王子神櫛王が讃岐国造として来住(約1700年前)してから中央文化は東讃の地にも及び、孝徳天皇の大化の改新(645)により讃岐国司-大内郡司の支配下に入り小行政区画の里を郷に改められ、三本松は大内四郷中の白鳥郷八ヶ邑の一つとなった。(「和名抄」・「全讃史」による)中略

大内の始まりと倭迹々日百襲姫命

  • 『和名抄』は「於布知(おふち)」と訓じます。
  • 艫掛神社:大内町丹生の海の社(ろかけ神社)
    • 近くに艫掛松という古い松の木脇にに芭蕉の句「この松の実生えせし世や神の秋」の石碑。
    • 「上古時代孝霊天皇(7代)の皇女,倭々日百襲姫命が大内町水主にお住まいを定められる時,ここの海岸にお船をつけられましたが,その時,船人がお船の艫を海岸の松の木にたてかけられたと伝えられておりこの辺りの地名は,現在も「ろかけ」といいます。艫掛神社の鎮座地は 水主神社の旧宮跡であったそうです 」
    • この神は,「海の守護神につ南海の旅行者は必ず拝謁する。よって俗名を首途神(かどでのかみ)という」(3代物語)
    • 船の艫や矢がたくさんこの神社に奉納されていたそうです。
  • 水主神社
    • 大水主神社和讃
    • 祭神は孝霊天皇の皇女「倭迹々日百襲姫命」で七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く御殿、水主に定め造営せられたとあります。  土地の人は、ここを「大内」と呼び昔日の大内郡の郡名大内町の町名はここに起源となると言われております。
    • 「倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる」
  • 田村神社 香川県高松市一宮町286 「倭迹迹日百襲姫は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた。」 彼女は田村神社の地にしばらく滞在しており、この場所で、吉備国を平定中の吉備津彦が訪れている。
  • 日本書紀は倭迹々日百襲姫命を、第七代孝霊と倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ)の子とする。古事記は同じく孝霊と富夜麻登玖邇阿禮比賣命(オオヤマトクニアレヒメ)の子とする。 先ず母親の出自である。 『古事記』は大倭久邇阿禮姫命を、師木津日子玉手見命(三代安寧)の子、師木津日子命その子、和知都美命の子とする。 だが『勘注系図』は六世孫建田勢命の子か、もしくは姪として、この大倭久邇阿禮姫命の名を記す。
    • 水主神社はここ香川県東香川市大内町と、京都府城陽市水主に、同名の神社がある。名前の一致は偶然では無い。深いつながりが予想される。 『勘注系図』は彦火明六世孫、建田勢命は、始め丹波の宰(みこともち)となり、次いで山背(山代)国の水主村に移り、さらに大和国に移ったとする。そしてこの建田勢は七代孝霊に仕えたとする。この山代の国水主村の場所が現在の城陽市水主でる。
  • 吉備の攻略
    • ヤマトトモモソヒメ の弟すなわち、第7代孝霊天皇の皇子に、比古伊佐勢理昆古命(大吉備津日子命)(古事記)または、彦五十狭斧彦命(吉備津彦命)(日本書紀)がいる。古事記では吉備上道臣の祖。大和王権は彦五十狭斧彦命(吉備津彦命)の時代、吉備地方を完全に支配下に組み入れた。

寒川郡:讃岐公凡直

  • 『和名抄』は「佐无加波(さむかは)」と訓じます
  • 寒川氏
    • 寒川氏は讃岐国造の始祖である神櫛王(景行天王皇子)の流をを汲むものである。  神櫛王の子孫は東讃で栄え、敏達天皇の代に国造であった星直(ほしのあたえ)は、国を押し統べるという意味で大押直(おおしあたえ)の姓(かばね)を賜い、のち凡直と改めたが、延暦10年(791)願い出て讃岐公の姓を許され、任明天皇の承和3年(836)にはその一族二十八家に讃岐朝臣の姓を賜った。寒川氏は讃岐氏の一族で、代々寒川郡司をしていたので、寒川をもって氏とした。
  • 讃岐永直 さぬきのながなお 783‐862 (延暦 2‐貞観 4)
古代の法律家。 讃岐国寒川郡出身。本姓は讃岐公,のち讃岐朝臣となる。大学明法試に及第して明法博士となり,
一時罪あって土佐国に流されたが,許されて帰京し,従五位下を授けられ,大判事を兼ねた。
文徳天皇に〈律令の宗師〉とたたえられた。
  • 寒川氏は讃岐公凡直千継の一族で、世々寒川郡の郡司を務め、その後裔が寒川氏を称したと伝えられている。大内・寒川の二郡および小豆島を併せ領し、昼寝・挙山・虎丸等の諸城を構えて東讃岐に威勢を振るった。
  • 志度の地(現大川郡志度町)は、上代、寒川郡内の造田郷の一部と鴨部郷の地で国司や郡司のもとで郷長が治めていましたが、天喜年間(1053~57年)皇室の御領地となり、承安3年(1173年)京都の景勝光院領(後白河天皇の皇后建春門院の御願寺)となり、正中元年(1324年)には、同じく京都の東寺に寄進されました。この間に白みその製法が伝えられたものとも言われています。
  • 和名抄(平安時代にできた一種の百科全書で郷名も書いてある)にある郷名の記載順序からで、寒川郡の郷は難破(いまの大川町の地)・石田・長尾・造田・鴨部・神前・多和と、東から西へ、次に北に下ってさらに東へと順序よく書かれている。
  • 中世の前山は昼寝城で代表される。昼寝城は東讃の名族寒川氏の居城であった
  • 86番 補陀落山志度寺 大川郡志度町 藤原不比等の開基ののち、たびたび修造された。現在の本堂、仁王門は高松藩主松平頼重が建立した。
    • 天武天皇の10年(西暦681年)には、藤原不比等公が妻の「海女の墓」を建立して、「死渡道場」と名付け、堂宇を拡張し、僧侶の学校、信者の修行の道場となった。 持統天皇の7年(西暦693年)に藤原北家の始祖房前公が、僧・行基とともに参詣して母親の追善をとむらい、父母の慈愛に感謝して千基の石塔群を造立した。 「続日本紀」によると、このときに、藤原家が海人<海士とも>族の海部直の娘と縁を結び海人一族に助けられて、海洋の支配権を獲得したことが知られている。補陀落山・志度寺は、一万坪の広大な寺域を有し潮騒が聞こえ、塩の香りが漂う海辺にまじかに接して、白装束の人々が金の音を打ち鳴らしながら、一年中往来していきます
    • 藤原不比等の子、房前大臣の母はここの海士だった。奪われた玉を竜宮から取り返したら、房前を大臣にすると言われ取り返し、命を落とした。
  • 寺に伝わる『讃岐國志度道場縁起』によれば、志度寺の創建は推古天皇の三三年(六二六年)である。その後、天武天皇の一〇年に、右大臣藤原不比等(淡海公)が堂宇を増築し、持統天皇の七六年には、後に太政大臣になった藤原房前が僧行基とともに改造したとされている。
  • 87番 補陀落山長尾寺 大川郡長尾町 聖徳太子の開創。天平11(739)年、僧行基が本尊を刻んで安置したという。静御前が得度したといわれる寺。
    • 天平十一年(七三九)僧行基巡化の時霊夢により揚柳で本尊を刻み安置したということであります。後、弘法大師が、東讃岐巡錫の砌、一字一石の供養塔を建立し、年頭七夜の護摩秘法を修し、国家安泰・五穀豊熟を祈られ祈礼を賽者に授けられました通常”長尾の観音さん”「力餅・静御前得度の寺」として親しまれ街の中にあり参詣の人が多い。
藤原の、時代築いた、策士の不比等、四国に志度寺、何故??
隣の寺は、平賀源内の菩提寺
  • 大谷川氏、長尾氏、真鍋氏、が讃岐橘姓

山田郡

  • 続日本書紀曰
    • 承和三年(837年)三月十九日 外従五位下大判事明法博士讃岐公永直右小史兼明法博士 同姓永成等合廿八姻改公 賜朝臣永直是讃岐国寒川郡人今興山田郡人 外従七位上同姓金雄等二烟改本居貫附右京 三條二坊永直等遠祖景行天皇第十七皇子神櫛命也  植田氏族 神内氏族 三谷氏族 十河遺族内神内 三内 十河三家譜各中絶而難分別 姑之俟後智者神櫛皇子是讃岐国造之始祖
  • 永暦元年(1160年)橘左大臣弁祐王公は讃岐国の山田郡司として下向一家を連れ赴任。

香川郡

  • 『和名抄』は「介加波(かかは)」と訓じます。「介加波」は「加々波」の誤字とする説が有力。
  • 庵治石の歴史は非常に古くて、京都男山の石清水八幡宮の「建武回録記」という古文書の中に次のような記載がある。
    • 1339年(暦応2年)この八幡宮の宝殿、弊殿、拝殿の再建にあたり、石種30種余、箇数5000箇余りの切石が使用されたが、これは前例にならって、検校職(お宮の事務を総管する役)をつとめる田中殿の所領地讃岐の国から送り込まれた…
    • 田中家文書によると、平安末期から南北朝、室町時代にかけて中讃岐草木の庄、牟礼の庄(現在の大字牟礼大町)一帯が石清水八幡宮の荘園であったとのこと

宇陀郡

  • 『和名抄』は、「宇多利(うたり)」と訓じ、『播磨国風土記』は「讃岐国宇達郡」と記します。郡名は、この郡の栗熊の酒部黒丸の屋敷に水がなくて困っていたところ、ある時鵜鳥が数十羽集まって地を掘ると清泉がわき出たので「鵜にて事足れり」といったことによるとする説などがある。
  • 鵜足郡司 奈良太郎左衛門元安は、足利将軍に尽くし関東より細川管領に従い入封し、以来細川管領の旗本四臣の一となる
    • 仏光山郷照寺 聖武天皇神亀二年に行基菩薩来錫し、一宇を建立し阿弥陀如来を本尊と定めた。大同二年、弘法大師巡錫のおり、堂舎を修建し本尊を法楽し給う。仁寿年中、聖宝理源大師当院に籠山修行し寛和年代恵心僧都霊告を受け釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建て給う。仁治四年高野山執行道範阿闍利(学匠)は大伝法院争乱の責任を受け当院に配流されしばらく謫居された
    • 1204~06 元久年間 僧貞慶,鵜足郡二村郷内の荒野を領主に寄進させ,興福寺五重塔領として立荘する(九条家本振鈴寺縁起紙背文書)

阿野郡

  • 『和名抄』は、「綾(あや)」と訓じます。郡名は、この郡の加茂の山に綾織塚があり、『延喜式』では讃岐から綾絹を納めており、綾絹の産地であったことによるとする説、「漢部(あやべ。織物に携わった帰化人)の居住地」によるとする説 などある
    • 林田町・・鎌倉時代に波以多(はいた)、波夜之院(はやしだ)などと呼ばれ  ていたものがなまって林田になったと古文書にある。綾北1万石の名を生んだ穀  倉地で、いまも条里制の跡が当時をしのばせている。昭和17年7月、坂出に統合。  崇徳上皇ゆかりの綾高遠の館(雲井御所)細川清氏と同族細川頼之合戦の地など  史跡に満ちている。
    • 加茂町・・弘仁年間(810~824)弘法大師の伯父・阿刀大足が、京から迎えた  加茂神社の社名をとった。大明神原から出土した銅鐸(たく)や綾川を隔てて国  司庁が設けられたことからも、早くから讃岐文化の中心地だったことが推測され  る。昭和26年4月に坂出と合併。
  • 五色台(ごしき台)
    •    白峰山塊は平安時代以後密教の道場的霊山として考えられ、多くの僧はこの   山頂を巡って修業した。このため山塊の各方位の峰に密教五仏になぞらえて、   黄を中心、青、赤、白、黒の五色を配して白峰、赤峰、青峰、黄峰、黒峰と呼   んだ。
  • 讃留王伝説
  • タケカヒコ王は、讃岐の綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首、宮首之別等の祖である
    • 讃岐に留まる王、武皷王を人々は讃留霊王と申し上げ尊敬してきたのが讃留王さんです。古書に武皷王は讃岐綾君の祖なり、阿野の曠野に葬る、今日讃留霊社は是の遺跡也。 武皷王の神霊は綾の曠野に跡を垂れ玉いて讃留王大明神と祝いし奉り綾公世々の神霊として祠り奉る所なり。
  • 4世紀から5世紀の話か??
  • 坂出市を流れる綾川の流域、古くは讃岐国阿野郡(あやぐん)と呼ばれていた。
  • 国阿野郡の大領「綾(あや)氏」の祖先伝説であり、神社や古墳はその祖先を祀ったものであり、白鳳寺院はその氏寺である。
  • 645年大化の改新 讃岐国府が府中に置かれ、条里制が敷かれる
  • 讃岐国府
    • 白峰寺から南西方向の山間の地は、讃岐国府の旧跡地と推定されています。府中町北部本村の綾川左岸、古代阿野郡甲智郷で、南海道河内駅がありました。綾川の右岸綾坂から東に向かいますと国分寺町国分の国分寺に連なっています。この一帯が古くから讃岐国の中心地であったことが分かります。JR四国鉄道線の讃岐府中駅西北方向の畑地に中に「讃岐国府跡」の石碑が建っています。
  • 白峰寺 崇徳上皇
    • 崇徳院の配流地である讃岐国に於ける縁りの地点は、現在坂出市内になる白峰宮(西庄町天皇)、白峰寺(青海町)、崇徳天皇陵(青海町)などです。 白峰宮は、城山北麓に鎮座していて、崇徳天皇社または、明の宮と呼ばれています。 長寛二年(1164)配流地で崩御後、八十場の野沢井冷水に浸された遺体は、京からの沙汰を待ったとのこと。白峰山で荼毘に付された後、野沢井辺りで毎夜神光があったので、明けの宮として小祠を建立したのが旧県社の始まりとこと。
    • 貞観二年(860)開創で、母が空海の姪に当たる智証大師円珍(天台宗の高僧)が安置したという。千手観音を本尊として、四国霊場八十八ヶ所第八十一番札所
  • 日向王は讃岐國綾大領を賜り、子多郡君は綾君を称した
  • 郡家の神野神社
    • 創祀年代は、社伝によると、継体天皇二年(508)。 伊予国神野郡の久留島某(和気氏の一族)という人が当地に移住し、その祖神である伊曾乃神社を勧請したとも。綾大領多郡君に神託があり社殿を再築。推古天皇五年(596)郡家の戸主酒部善里が八幡神を相殿に祀り、神野八幡宮と称するようになった。 菅原道真が国主として在任中に崇敬が篤く、神像を彫って奉納したらしい。祭神は天穗日命。一説には、伊賀古夜姫
  • 保安元年に讃岐の国司となった藤原家成が下向し、古代豪族である綾大領貞 宣の娘との間に生まれた章隆をもうけた。以後、藤原姓綾氏の一族が讃岐に広がった。 寒川、福家、飯田、羽床、新居などの諸氏。
  • 代表的な古墳として、ハカリゴーロ、爺ヶ松古墳、雌山古墳群などの積石つかの他、タイバイ山古墳、白砂古墳、田尾茶臼山古墳などの古墳が存在します。 これら前期の古墳から沙弥千人塚に代表される中期の古墳を経て、綾織塚、新宮古墳といった巨石古墳に代表される後期の古墳が出現します。 これらの後期古墳は群集して築かれており、坂出では加茂や西庄付近といった綾川両岸を中心に所在します。

舒明天が軍王が山を見て詠んだ歌 製塩の記録 

  • 伊予温湯宮は愛媛県松山市の道後温泉にあった離宮と思われ、「伊予風土記」の逸文にも景行天皇と皇后、仲哀天皇と神功皇后、聖徳太子、舒明天皇と皇后(皇極)、斉明・天智・天武天皇の合計五回の行幸があったことが記されている。ここから大和に帰られたのは翌年四月十六日のことであった。帰られた翌年、十三年十月に舒明天皇は崩御される。
  • 舒明天皇が讃岐國安益(あや)郡に行幸遊ばされた時に、軍王が山を見て詠んだ歌
    霞立《かすみたつ》 長春日乃《ながきはるびの》 晩家流《くれにける》 
    和豆肝之良受《わづきもしらず》 村肝乃《むらぎもの》 心乎痛《こころをいたみ》
    奴要子鳥《ぬえこどり》 卜歎居者《うらなげをれば》 殊手次《たまたすき》
    懸乃宜久《かけのよろしく》 遠神《とほつかみ》 吾大王乃《あがおほきみの》
    行幸能《いでましの》 山越風乃《やまこすかぜの》 獨座《ひとりをる》
    吾衣手爾《あがころもでに》 朝夕爾《あさよひに》 還此奴禮婆《かひらひぬれば》
    大夫登《ますらをと》 念有我母《おもへるあれも》 草枕《くさまくら》 
    客爾之有者《たびにしあれば》 思遣《おもひやる》 鶴寸乎白土《たづきをしらに》
    綱能浦之《つぬのうらの》 海處女等之《あまをとめらが》 焼鹽乃《やくしほの》
    念曽焼《おもひぞやくる》 吾下情《あがしたごころ》
反 歌 :山越の、風乎時自見、寐夜不落、家在妹乎、懸而小竹櫃   
山こしの、風を時じみ、ぬる夜落ちず、家なる妹を、かけてしぬびつ
  • 綱能浦とは、津之郷の浦である。讚岐國鵜足郡の津野《ツヌノ》郷の浦。今の宇多津の海邊
  • 綱の浦の海士の少女等が焼く鹽(塩)の焼けるやうに、自分の胸の思が焦れる。宇多津では古くから製塩があった。綱の浦の海人處女等が製鹽は、都人である作者の眼には、餘程物珍しく思われたようだ。
  • 不思議なのは、「遠神《とほつかみ》吾大王乃《あがおほきみの》 行幸能《いでましの》 山越風乃《やまこすかぜの》とは何か。大王のいらっしゃる山は、安益(あや)郡や宇多津から見える城山だったのかもしれない。あるいは、大越の地名のある五色台かもしれない。綾川の河口で見れば城山でしょうか。城山の大王???の謎です。城山長者の話との関連は??。
  • 「わづきも知らず」なく「わきも知らず」ならば、和気氏のこと??和気氏のことを忘れてしまった意???
  • 解釈:和豆[□で囲む]肝之良受文字の上で見ると「わづきも知らず」と訓まねばならぬ譯なれど、「わづきも知らず」と云ふ詞の例はない、然らば上の字「和」が手の誤にて「たつきも知らず」と訓むべきかと見れば、それでは前後の句と意味が接續しない、それで「豆」の一字は誤入したものと見るの外はない即ち「わきも知らず」と訓むのである、十二の卷に、「なか/\に死なば安けむ出づる日の入るわき知らず〔五字右○〕吾れし苦しも」などある例に依て、長き春日のくれにけるわきも知らずと解するのがよいやうである、「村肝」は心の枕詞である、「心を痛み」は家を思ふ情に堪がたく心が痛いとの意、「奴要子鳥」は鳥の名、これは「うら嘆く」へかゝる枕詞である、鳴くさまなどから起つた詞であらう、「卜歎居者」うらなげき居ればなり、「珠手次」は手すきを掛けると云ふ意から、次の句の「懸け」にかゝる枕詞、「懸乃宜久」は詞にかけて云ふのもよろしいと云ふことにて、下の句の朝よひにかへらひ〔四字右○〕ぬればといふかへらひの詞にかゝるのである、家に歸りたくてならないから、かへらひ即かへりといふ詞はかけて言ふにもよいとの意である、「遠神」は天皇は神にていますといふ心で、普通の人間には遠い神との事で云ふのである、「吾大王《わかおほきみ》乃行幸能」は解に及ぶまい、「山越風乃」これは山を越してくる風といふ意であるが、前の句を受け行幸のある山の其の山越の風と解すべきである、「獨座吾衣手爾」は詞の通りである、「朝夕爾還比奴禮婆《あさよひにかへらひぬれば》」は朝に夕に山越の風が吹きかへり吹きかへりすればである、かへらひはかへりの詞の伸たので即「らひ」の切「り」となる、かへらふと云へばかへるの意と同樣である、只此塲合かへらひなど云へば風も緩かなことを意味して居る、緩かな風が却てうら淋しく感ずるのであらう 只朝夕風が吹くといふ事をかへらひぬればと云ふのは面白い云ひ方である、「大夫登念有我母」解に及ばず、「草枕客之有者」草枕は旅の枕詞、「思遣鶴寸乎白土《おもひやるたつきをしらに》」思ひやるは切ない思ひを外へ遣放すの心で即思ひを無くするの意、今の世で互に思ひやるとか、思ひやりがあるとかいふ詞とは全く意味が違ふのである、二句の意は家を思ふ情の切なさを無くすすべを知らずにとの心である、「綱能浦之海處女等之燒鹽之」これは次の句の「思ひぞ燒くる」の燒くるといふ詞へかゝつた序の詞である、「吾下情」は下思ひなどと同意で腹の中でのみ思ひ居る心である。伊藤

那珂郡

  • 『和名抄』は、「奈加(なか)」と訓じます。郡名は、この郡に隣接する多度郡はこの郡から分離したもので、多度郡仲村に由来するとする説、「ナカ(中。国の中心。河川の間の地域など)」の意とする説があります。

多度郡の郡司:佐伯直

  • 大師は、父佐伯直田公(善通)と、母阿刀氏(玉依姫)の子
  • 讃岐の五大師
    •  貞観八年(866)最澄に伝教大師という大師号が贈られてから、明治になるまでに、十七人の大師が生まれている。そのうち、この寺から出た智証、「大師は弘法」の弘法、空海と同じ佐伯氏出身の道興、空海の俗弟子法光、修験の理源と五人が讃岐出身であり、世にこれを「讃岐の五大師」と呼ぶ
  • 道隆寺 仲多度郡多度津町北鴨1-3-30
    • 3代目住職は弘法大師の実弟法光大師、4代目住職は智証大師、5代目住職は理源大師と高僧が続き栄えました
    • 開基は和銅5年(712)、付近一帯は領主和気氏の荘園で桑畑であったと言われます
    • この地の荘園を所有していた和気道隆(和気道善の弟)が天平勝宝元年(749)桑畑で怪しい光を見付け矢を射ました。その時誤って乳母を射止めてしまい、その供養のために桑の木で薬師如来像を刻み、堂宇を建立して安置したのがはじまりです。
    • 二代住職朝祐(道隆の子)は弘法大師より授戒を受け、田園財宝のすべてをもって薬師堂をはじめとする七堂伽藍を建立し、寺号を開祖の名を取って道隆寺とした
    • 3代目住職は弘法大師の実弟法光大師、4代目住職は智証大師、5代目住職は理源大師と高僧が続き栄えました。
    • 72番 我拝師山曼荼羅寺 善通寺市吉原町 弘法大師の先祖佐伯家の氏寺として建立。大同2(807)年、唐から帰国した弘法大師が堂塔を整備、寺号も曼荼羅寺とした。
    • 由緒:当山は、弘法大師の御先祖たる景行天皇の御後裔にして讃岐国の領主であった佐伯家一族の氏寺として推古帝四年に建立さはじめ「世坂寺」と称したが、弘法大師入唐御留学を終させ給い、御帰朝の後、御請来の金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅を安置供養し奉り、本尊大日如来を勧請して、万民の災厄を除去せしめんがため、殊に御母玉依御前の仏果菩提を祈らんがため、唐土の青竜寺に摸して、大同二年に起工し三ヶ年の歳月を経て、造営全く成り、弘法大師自ら寺号を命名なし給い「曼荼羅寺」と改称せられたのであります。
    • 75番 五岳山善通寺 善通寺市善通寺市町 真言宗善通寺派の総本山で、弘法大師自ら建立した真言宗発祥の根本道場。弘法大師誕生の地は今は御影堂のあたり
    • 77番 道隆寺は和気道善の弟の和気道隆
    • 76番  鶏足山金倉寺 :弘法大師のおい、智証大師円珍の生地。唐から帰国した智証大師が堂塔を建立した。兵火にあい荒廃したが寛永(1624~44)の末、再興
    • 光仁天皇宝亀五年、和気道善長者の開基で、智証大師(弘法大師の甥)誕生の地であります。訶利帝母が日本で最初に出現せされたところで、本尊薬師如来は、大師の作であります。はじめは寺号を道善寺と号したが、文徳天皇の御宇。仁寿元年初めて勅願寺になり、醍醐天皇の延長六年、金倉の号の名をとり、金倉寺と改め、山号は鶏足山と号しました。全盛時代には境内南北二里東西一里に及び、神祠仏閣教十、僧坊百三十二院を数え、勤務の大衆千余人に及んだ。
  • 空海と和気氏
    • 大同4年(809)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位すると空海のまわりはにわかに動き出す。まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符をまって入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(のちの神護寺)に入った。この後、嵯峨天皇との交流も含め、京を中心に求心力を発揮していくことになるのである。
  • 830年 和気氏が高雄山寺(神護寺)を空海に贈る。
  • 満濃町 弘安寺跡
    • 白鳳時代に建立された古寺である。境内は、一町以上あったと思われ、大門、念仏寺、道場池などの地名や礎石、心礎(現在、柱穴に水を張り手洗石鉢となっている)などが当時を偲ばせる。境内より出土した白鳳瓦は重要な文化財である。その後、讃岐24官寺の一つとして繁栄したが天正年間に焼け、その後に和気氏が再建した
  • 善通寺市木徳城:和気道隆が城主
    • 『讃岐の城跡』に【城跡の一部に馬場と言う地名が残り、内堀と思われる用水路が南北に走り、また、宅より東100m東に和気家の菩提寺天台宗金林寺には一族の墓もある。地名辞典によると「金林寺は木徳郷の戸主和気善茂が厄病治癒を祈願して建立した批把薬師堂跡である。和気善茂は天台宗開祖智証大師の曽祖父に当たる」とある】と書かれている

三野郡:丸部氏

  • 丸部氏は九世紀半ば、三野郡の大領(郡司)だった一族。一時、都へ出仕し、「従四位」という高い位が与えられていた。

郡家:何郡???

  • 伝説によると、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の皇子で武貝児王が、讃岐綾君の始祖(その子孫は国造〈クニノミヤッコ〉となった)とされ、その9世の孫酒部善里が郡家の戸主となり、この 地に郡司庁がおかれたとされる。

刈田・三野郡

  • 『和名抄』は、「葛多(かつた)」と訓じ、『延喜式』神名帳は「苅(かつ)田」、民部省条は「刈(かり)田」とされます。郡名は、古くは刈田明神の神田であったことによるとする説。
  • 和名抄によれば古代の財田川以西は刈田郡、その後豊田郡と呼ばれていた。刈田とは大化の改新以前の既成耕作地を切木田(かりた)と言っていたがその後政令で二字に改字したということである。 現在の大野原町と豊浜町および観音寺市の一部は 和田郷:和田、箕浦、田野々、井関、萩原、蝦済 姫江郷:姫浜、花稲、在木、内野々、丸井、粟井、木の郷、中姫 という行政区分であった。中姫地区は姫江郷の中心であり、宗像三神の中津姫を祀っている事から中姫と呼ばれ、大野原(大野原八幡)地区は中姫の一部であった。
  • 第68番 神恵院(じんねいん)
    • 大宝三年(七○三)三月、西の方の空が鳴る動してあたりがうす暗くなったので、おどろいた僧日証が浜に出てみると、一そうの舟があり舟中で琴を弾く者がおりました。「われは八幡大明神なり、宇佐により来たる、この地の風光、去りがたしと覚ゆ」とのたまう。日証は大へんおどろいて、里人とともに神船と琴を山上に引き上げて、社殿をつくり泰安し琴弾八幡と号しました。
  • 讃岐国七宝山八幡琴弾宮縁起について(観音寺)
     大宝3年(703),宇佐八幡が琴弾の浜に渡来し琴弾八幡宮として祭られたこと
     を漢文体で記した毛筆の縁起書である。筆者は権中納言藤原実秋卿で,応永23年(1416)2月下旬之を録し,時の征夷大将軍源朝臣(足利義持)の自署と花押がある。
    • この縁起は奈良時代の宇佐八幡の鎮護国家,皇室守護の思想に関連するものであると共に,他面,神仏習合の思想を盛り込んでいる。
    • 観音寺市の文化財第一集(1966)

藤原純友の乱:讃岐の藤原三辰ら国司と対立

  • 939年(天慶2年)~941年におきた西海の反乱事件。
    • 天慶二年(九三九)十二月、昨年来より飢饉に見舞われ米価が高騰。餓死者が多発、京でも盗賊が横行した。こうした中、純友も海賊を従え海に出た。紀淑人との密約もあり改めて制止されたが聞き入れもしなかった。直ちに伊予国から朝廷に不穏な動きありと報告され、朝廷からは中国地方の諸国に純友召喚の命令書が下された。
    • 純友の不穏な動きとは、瀬戸内両岸の要所要所に純友配下の隠屋が配置されており、朝廷の動きを即座に伝達する組織網が既に出来上がっていたのだ。その上で純友配下の者が連夜京の都を放火して回っている。国家転覆の機会を伺っているのだ。十二月二十六日、この噂を耳にした備前介藤原子高、京に赴き朝廷にこのことを伝えようとした。--- 小高襲撃の報を受けた朝廷は天慶三年(九四〇)正月元日、将門追捕のために東海道・東山道追捕使、純友追捕に山陽道追捕使ともに十五名を任じた。山陽道追捕使には正五位下小野好古に任じた。
  • 承平海賊を平定した土着勲功者(備前の藤原文元、讃岐の藤原三辰ら)と国司との対立を背景とし、同じく勲功をあげたのち伊予に土着していた前伊予掾の藤原純友が、939年(天慶2)12月、備前介藤原子高に圧迫されていた文元の支援要請にこたえ、摂津須岐駅に子高を襲撃したことに始まる。
  • 天慶三年八月、山陽道を進撃する好古の政府軍は、備前・備中・備後の賊軍を圧倒し、藤原文元や三善文公は藤原三辰を頼って讃岐に逃れましたが、政府軍の追求が急で窮地に陥り、純友に助けを求めました。  ここで純友は、四百艘の兵船を率いて讃岐に攻め込み、政府軍の船を焼き払い、海賊群の先頭に立って合戦におよびましたから、「賊首純友」の名前は確定しまして、もはや後戻りは出来ないことになりました。
  • 純友は平将門の乱に浮き足立つ政府に海賊平定の恩賞を要求、従五位下に叙されたが、文元は備前で濫行を継続し、三辰は讃岐介藤原国風を追放した。将門が敗れると政府は攻勢に転じ、讃岐・伊予での攻防で純友勢を撃破。追いつめられた純友は大宰府を攻略して挽回を期したが、政府軍との決戦に敗れ、941年6月、伊予で伊予警固使橘遠保に討たれた。
  • 天慶五年(九四二)三月、論功行賞が行われ、征西軍長官の小野好古に太宰大弐・参議・従三位に、次官の六孫王経基には太宰少弐・右衛門権佐・正四位に叙された。

伊吹島

  • 平安時代石清水八幡の庄園
  • 現在の島に暮す人達の先祖は、合田氏は四国の伊予もしくは讃岐、三好氏は畿内 大川市太郎 京都宮方に寄り・・・伊吹島に移す(島の三好系図)
  • 伊吹島の家紋
    • 三好氏は本紋の「三階菱」に「釘抜き紋」、「鷹の羽違い」、「三つ柏」、「丸に 橘」、「扇紋」
    • 岩田姓は義茂の一統。[丸に橘」
    • 合田姓のほとんどは、「丸に片喰紋」
    • 松本性を名乗る一統は塩飽水軍の宮本佐渡守の流れ。「片喰紋」
    • 伊瀬姓は、遠い先祖は、伊勢平氏の流れ。三好一族が、島に定住した当初からあった氏神である元宮の神職。(伊瀬氏、福田氏は、大久保氏に従って来た 禰宜であったとの説もある)
    • 篠原姓は篠原藤右衛門一統「抱きみょうが」と吉与右衛門一統「立ちおもだか」 の二派。どちらも三好氏に繋がりがあります。
    • 久保姓は八幡神社の神職を務めた大久保家の別れで、家紋は、「上り藤」で す。
    • 真鍋姓は遠い先祖は、北条氏。「丸に三つ鱗」。
    • そのほかの姓(伊藤、豊浦、河野、角田、佐野、川端、福田、浜田、宇都、北山、尾池、富山、平井、宮武、今川、香川、高橋、池口、宮脇、溝口、下野等がある。(三好 秋光) 参考:http://www6.ocn.ne.jp/~kmiyoshi/page008.html

石清水八幡宮

  • 石清水八幡宮は男山八幡宮とも呼ばれるように、男山の丘陵上に鎮座する。貞観元年(859)奈良大安寺の僧行教が、宇佐八幡宮に参籠して「われ都に近記男山に移りて国家を鎮護せん」との神託を受け、朝廷より木工寮権允橘良基が宣旨を承けて六宇の宝殿を建立し、同二年、誉田別命・比口羊大神・神功皇后を奉安したのが石清水神宮の初めである。

添付ファイル: filesanuki-gunn.jpg 283件 [詳細]

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Last-modified: 2012-08-18 (土) 10:51:00 (2137d)