讃岐と相模の関係:有るのでは??

讃岐の忌部 :

  • 粟井神社[あわい]「天太玉命」 御祭神 天太玉命 、相殿  天照大神 月読命 保食神
  • 上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土地であります。従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き祀り、同胞的精神を呼び起こして一致団結をはかりました。忌部氏の精神生活の目標になったものは、西讃の南隅に鎮座まします粟井の御社でありました。この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りましたので、郡名を神田郡といったとも言われています。後の豊田郡がそれで如何に御神威の宏大であったかを察することが出来ます。 社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より三十一代目の武持の二男久名という人が本社を奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません。

出雲神族

  • 相模一ノ宮の寒川神社の祭神は、応神天皇、八幡大神、八幡大菩薩、沢女神、菊理媛、スサノオ・稲田媛、大己貴など諸説あるというが、吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』に諏訪神家の一族で守屋という青年からの情報として、「お前たちに伝え、不幸になってはいけいな。」といって、上古からの伝承を抱いたまま他界してしまった、語り部だったらしい祖母が、たった一つ教えてくれたこととして、天孫族の圧迫を受けた諏訪神家の一部は、相模国に逃れて定住し、寒川神社を建ててタテミナカタの命を祀ったという。それから、自分たちの裏信仰は弁天さんだという。
  • 相武国の国造の祖は出雲神族の伊勢津彦
  • 何故 弁天の信仰があったか 船の女神か??

三浦一族は桓武平氏か

  • 三浦一族は、鎌倉-三浦半島-房総半島の古東海道の制海権を握っていた。
  • 「桓武平氏良文流と称する鎌倉党の系図について、鎌倉権五郎景政までの所伝では、「良文-忠通-景成-景政」とするものが多い模様であるが、鎌倉党や三浦氏が平良文後裔とするのは実際には疑問が大きく、相模古族の末流とみられる。」との意見もある。たしかに制海権をにぎる海洋系の一族の歴史は古い。

讃岐の寒川郡:寒川比古命寒川比女命を祀る大蓑彦神社

  • 大蓑彦神社

 当社は延喜式神名帳に「讃岐二十四座の一」とす、里人蓑神明神と奉称す、神社の北方に寒川渕ありて名水なり、寒川郡名之によって起ると云う。

  • 神名帳考証に「寒川郡大蓑神社水霊郡名寒川郡因此神歟」と云う。 特選神名牒に「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なりとある。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」と記されたり。

水主神社

  • 「この神社は、讃岐の国でも一二を争う格式のある神社」との話があり、義経さまは、屋島の合戦の前、ご自身の鞍(くら)を奉納(ほうのう)し、ひたすら勝利を祈りました。
  • 伝承  社伝によると、倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる。
  • 京都府城陽市にも水主神社がある。
    • 日本書紀の仁徳天皇の時代・・・ 仁徳天皇12年冬10月、山城の栗隈県(くるくまのあがた)= 現在の、宇治市大久保周辺 に大溝を掘って、田に水を引いた。これによって、その地は、毎年豊かになった。とあるのデス。
    • http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/kyoto/temple/mizusi-shrine-06.htm
  • 近鉄寺田駅の西に「水主(みずし)神社」がある。「水主」は「みぬし」とも読む。水主氏は栗隈大溝を管理した者と伝えられる。後、水主の神は雨ごいの神ともなっている。栗隈王の名は「美努王」によって伝えられる。また栗隈黒媛娘は采女として天智天皇との間に「水主皇女(もひとりのひめみこ)」をもうけている(天智七年二月)。橘諸兄は孫に当たる。
    • 美努王と水主神社が関連があった。

田村神社

  • 讃岐一ノ宮で倭迹迹日百襲姫を祭っている神社。
  • 祭神 倭迹迹日百襲姫命、吉備津彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命この五柱の神を田村大神という。
    • 由緒  倭迹迹日百襲姫は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた。   1.境内の西側に花泉がある。倭迹迹日百襲姫命が手を洗ったところと伝える。   2.境内の東側に袂井(たもとい)がある。倭迹迹日百襲姫がこの地にこられたとき、里人の奉る鳥芋(ごや)を食し熱病にかかった。このとき侍女が袂を浸して水を奉ったと伝える。   3.神社の東三丁のところにある。休石は倭迹迹日百襲姫命が憩はれた石と伝えられる。

大水上神社

  • 大水上神社由緒略記
    • 香川県三豊郡高瀬町大字羽方
    • 御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
    • 延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。 三代実録によれば、貞観七年十月従五位上より正五位下に次いで同十七年五月正五位上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。 皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久九年二宮社領目録」によれば、二百町歩を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之を弁す。建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。
  • 三代実録には,
     貞観7年5月乙己 讃岐国大水上神授 正五位下
     貞観17年5月戊申 授讃岐国正五位下大水上神 正五位上

相模の産霊(むすび)宮水上神社

  • 嵐山宮と呼ばれる産霊(むすび)宮水上神社が鉄の柵で囲まれてある。その名から縁結びの 神として広く信仰された。祭神は天之御中主命、木花咲耶姫命である。  「かながわの景勝50選」に選ばれ、相模湖が眼下に広がる。京都の嵐山に似ているから「北相嵐山」と名付けられたというが、小仏山地と道志山地の間にあるから「間(あい)の山」とも呼ばれた。東の津久井城から第一番の「火の山」で城峰烽火台とも呼ばれた。  南麓鼠坂に関所があり甲州と結ぶ重要路であった

近江 伊砂砂神社

  • 伊砂砂神社<滋賀県草津市渋川鎮座>
  • 祭神 寒川比古命・寒川比売命(寒川大神・相模国の開発国神) 磐長媛命(イワナガヒメ命・コノハナサクヤヒメ命の姉神)
    • イワナガヒメ命をまつる神社としても珍しいが、この点も不明。
    • 富士山を象徴する浅間神社祭神「サクヤヒメ命」の姉神をまつり、なおかつ「相模国神」をまつる当社が近江国に鎮座している。
    • 社名の由来は祭神の「イワナガヒメ命」「サムカワヒコ命」「サムカワヒメ命」の頭文字「イササ」をとって明治2年に改められたという。
  • 解説 http://www.norichan.jp/jinja/kenkou/isasa.htm
    • 上のホームページの考察では
    • 四国は、香川県大川郡寒川町というところに、「大蓑彦神社」があります。特選神名牒に「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上 児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」とあるそうです。つまり、ここでは、寒川比古命・寒川比女命は、大水上神の子供で、兄妹ですね。牟祢神社の祭神であるとなっています。 この「大蓑彦神社」の祭神と、「寒川神社」の祭神が同一神であるのか、偶然同じ名前である別神であるのか、で話は違ってくるでしょう。
    • 大蓑彦神社の寒川比古命・寒川比女命は、はっきりと治水・水利の神様であると書かれていますから、相模川の治水の為に、この神様を誰かが勧請したのだとしたら、雄略天皇の時代に、讃岐の国から、相模の国まで神様を運んだ人物がいることになります。
    • 大水上神は、三重県「鴨神社」の祭神・石己呂和居命の御親神であり、香川県は高松市にも、「大水上神社」があります。そんなことを考えると、どうも、寒川比古命・寒川比女命の起源は、讃岐国にあるのではないかと思えます。
    • この神様を、太古にはるばる相模国まで運んだ人物なり、文化なりがあったのでしょう。
  • 佐々木高綱:宇治の先陣あらそいで有名
    • 承久の変と佐々木一族 『姓氏家系大辞典』には、「秀義の功により、又その子五人、何れも鎌倉府創業に功ありしにより、秀義長子定綱は近江、長門、石見、隠岐四ヶ国の守護、次男経高は淡路、阿波、土佐等の守護、四郎高綱は備前、安芸、周防、因幡、伯耆、日向、出雲等の守護、三郎盛綱は上野、讃岐、伊予、五郎義清は隠岐、伯耆、出雲等の守護を兼ね、一族十数国に亘り殊に近江以西、中国、四国に栄えたり」とある。このように威勢並みでなかった佐々木氏は承久の乱(承久三年・一二二一)に至ってその功業の大部分を失う羽目になった。総領広綱をはじめ子の惟綱、為綱、広綱の叔父経高と子の高重など一族の多くが院方に参加して敗死したのである。

近江と讃岐の佐々木

  • http://kawa-k.vis.ne.jp/chiikisi/asiato3.2.htm
  • 佐々木氏は鎌倉幕府の中でも有力な武士となり、後に諸国の守護ともなりました。(太郎定綱は近江・長門・石見・隠岐の守護、次郎経高は淡路・阿波・土佐などの守護、三郎盛綱は上野・讃岐・伊予の守護、四郎高綱は備前・安芸・周防・因幡・伯耆・日向・出雲などの守護、五郎義清は隠岐・伯耆・出雲などの守護)

相模・千葉の寒川神社

  • 相模の国 一宮
    • 寒川神社は寒川比古命(さむかわひこのみこと)寒川比女命(さむかわひめのみこと)ニ柱の神を祀り、寒川大明神と呼ばれています。寒川神社の創祀年代は不明ですが、雄略天皇(456~479)の御代に奉幣、また神亀4年(727)社殿建立と伝える記録があります。「延喜式」神名帳(927年編纂)によれば、相模国十三社のうち、唯一の名神大社とされています。
  • 由緒-  当神社の創始は古く日本総国風土記によれば今より約千五百年前、雄略天皇の御代朝廷より奉幣のことが記されており、当時、朝野遠近の崇敬篤く著名の大社であったことが知られる。 其後桓武天皇の延暦七年を始めとして歴代奉幣のことがあり、亦、仁明天皇承和十三年以来数次に亘り神階を奉授せられ、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国の名神大社と定められ幣帛を奉せられておりこの地方の庶民信仰の中心をなしていた。 後世、源頼朝、小田原北条氏累代、社殿造営社領の寄進等あり武田信玄の信仰も特に篤く徳川時代に至っては徳川氏社殿再建のこと亦社領の寄進等、古来武門武将の崇敬は鄭重きわめるものがあった。 明治四年三月官国幣社制度の制定せられるや国幣中社に列せられ国費を以って幣帛料御奉納あらせられたるも昭和二十年十二月神道指令により神社の国家管理を廃止され現在は神社本庁の別表神社として全国崇敬者より御神徳を敬仰されている。
  • 千葉 寒川神社(寒川町)
    • http://www5a.biglobe.ne.jp/~samugawa/
    •  祭神は寒川比古命・寒川比売命・天照大神で、もとは神明神社と 呼ばれたが、明治元年寒川神社と改めた。伴信友の『神名帳考証』 ではこの神社を『延喜式』所戴の寒川神社と推定した。寒川の総鎭 守で沖合を通る船舶は必ず下帆の礼を、乗馬の者は必ず下馬の礼を とったといわれ、天正19年(1591)11月徳川家康は社領10石を寄進 している。
    • 千葉の寒川港(港町)  江戸時代に千葉市内に関係ある港は検見川・登戸・寒川・曽我野・ 浜野であっで、とりわけ寒川港は佐倉藩の御用港として重視された。 延亨3年(1746)2 月の『寒川村指出帳』によると、御蔵屋敷があっ て4棟が建ち並び村には百姓船(五大力船)が40艘もあり、その内訳 は100俵積と90俵積であった。このほか押送船が20艘、名主船1艘が あり、寒川御蔵より米・大豆を江戸へ廻送したという。

伊勢津彦の末裔が茅武彦命?

  • 神武天皇東征の折に、天日別(アメノヒワケ)命が伊勢の地に勢力を張っていた伊勢津彦(イセツヒコ)に領地を譲るよう求めたところ、イセツヒコは波に乗って東に去り、信濃の国に移ったといいます。そこで神武天皇はこの地を、国神(土着神)であるイセツヒコの名にちなんで「伊勢」と名づけたとされます。
  • 『先代旧事本紀』に、十三代成務天皇が出雲笠夜命を嶋津(しまづ)国造に任じたと記されている。嶋津が伊勢・志摩をさすならば、出雲笠夜命と伊勢津彦の関係は?茅武彦命は、伊勢津彦の末裔(孫)といわれている。

相模の歴史:大神塚古墳 浜降り祭の縁起

  • 初代は成務天皇の五年九月、茅武彦命(かやたけひこのみこと)が国造に任命されたという。これはいわゆる官製の国造の初めであるが、これまでの国造(首長)の子孫がそのまま任命されたものである。
  • 茅武彦命については、西方より来て、相模国の当時の海岸であった香川・西久保あたり(いずれも現在の茅ヶ崎市の中西部)に上陸し、まず北方近くの芹沢に滞在し、次いで宮原に移り、三転して寒川に赴いて移住したとの説もある。
  •  国造本紀によれば、相武国の初代国造は茅武彦命で、成務天皇の時代という。彼は武刺国造の祖伊勢津彦の孫とされる
  • 寒川神社の祭神だが、惣国風土記には菊理媛(くくりひめ)となっている。ほかには素戔鳴尊・稲田姫とするものや大己貴命とするものなどがある。 明治7年、教部省が『皇太神宮儀式帳』に載る末社牟瀰(むみ)神社の祭神が寒川比古・寒川比女であるから寒川神社の祭神も同じであろうという説を出し、明治9年にこの説を採用したという。
  • 「寒川神とは如何なる神におわすのか、この神も大山祇神御親縁の神におわして、明見・駿河・足柄上などの天神宮や浅間神とは、関係が最も深き神におわせるものと拝せられる。 寒川神社は、大山祇命国狭槌尊、応神天皇木花咲耶姫命が祭神である。「大山祇命ハ即チ寒川彦命・寒川姫命ハ加茂沢姫命」という処の寒川彦の寒川姫の娘菊理姫なりとも推理される。
  • 甲斐宮下文書に見える寒川神社の御祭神説は、どうも後人の附加説も多く、つまり 国狭槌尊加茂沢姫命及び菊理姫は、吉田垂迦説者の加筆したものではあるまいか。
  • 大山祇命・木花咲耶姫命・寒川彦命・寒川姫命の四祭神が石井広夫著の古正伝にもでている処の実在の方であるとのことである。「大日本史神祇志」によれば、伊勢国度会郡の園相神社は、大水上子曽名比々古命を祀るという。大水上とは大山祇の別名のことであって「神名秘書」では、伊勢宇治の大水上社は、大山祇御祖神で、倭姫の命の御世に定まった祀なりという。群書類従にもこれはあるにはある。「神祇志」伊勢国度会郡の条に「牟弥(ムミノ)神社」として大水の上子寒川比古寒川比女命を祀る。伊勢国にては此他にも大水上子神多くまつられ各神祇の多くは倭姫命神宮、つまり伊勢の御官の奉斎のみぎりに内外両宮の河堤守護神として祭祀し給いたるにてよって、大山祀神御関係の祇の祖神社と申べき朝熊神社は特に水神として祀られている。伊勢では水上は、伊勢の御宮の五十鈴川の守護神とされている。
  • 神社東方3キロに芹沢(茅ヶ崎市)という地区があり、腰掛神社がある。境内には寒川大神が腰掛けた85?aほどの石がある(現地の案内板には、大庭の神が腰掛けたと記載されている)。伝説によれば、大神はいずれかからやって来て芹沢に暫く逗留し、間もなく北西3キロの宮原(藤沢市)に移った。そこには現在も寒川社という小社がある。大神はそこも去って現寒川神社の地(寒川町宮山)に移り長く居住したという。
  • 神社東南1キロのところに応神塚という古墳がある。名の由来は寒川祭神が中世以降八幡神とされたことによる。もとは前方後円墳であったが、前方部はすでになく後円部頂上には1?bほどの石碑が建っている。この墳墓の発掘は明治41年に東大坪井正五郎教授の指導のもとに行われ、和鏡2面、漢鏡1面、直刀破片などが出土したが石槨とか人骨とかは出ず、盗掘の跡もなかった。ところが近くの陪塚から石槨が見つかり、金銀環大小6個、勾玉1個、管玉2個、切子玉5個、小玉11個などが出土した。

近江と讃岐の関係

  • 「壬申の乱」で活躍した和珥部臣君手は近江国の丸部臣氏の始祖となり、その丸部臣氏は讃岐国三豊郡の大領として活躍している。
  • 敏達天皇と春日臣(丸部臣氏)との間に生まれた難波皇子→栗隈王→美努王→葛城王(橘諸兄)の末裔橘五郎(真部五郎)が讃岐の「まなべ」の祖。
  • 平家についた真鍋水軍                            
    • 瀬戸内海一帯の勢力を源氏よりいち早く目をつけたのが平清盛の父忠盛であった(日本の歴史より)。しかし古代に於いて三豊地方の勢力は吉備勢力を主力とする淀川グル-プに属していた(香川県史【続日本後記】より)。それで三豊地方の豪族との接触があったのではと思われる。備讃海峡は平家一門の支配下に置かれたからである(岡山県史より)。また真鍋島は古代より讃岐と深い関係にあり生活圏も属していたと云う。参考までに平氏はそもそも桓武天皇の流れを汲む皇子達のことで、源氏は嵯峨天皇の流れを汲む皇子達のことである(歴代天皇記より)。

平家の落人と尼切山(雨霧山)

香川氏讃岐に到る:讃岐と鎌倉の関係

  • 天霧城主の香川氏は、相模国香川庄を本貫地とし、鎌倉権五郎景政の子孫と伝える。南北朝期に細川氏とともに讃岐に至った。天正7年(1579)長宗我部氏に降り、同13年羽柴秀吉の四国攻めで降伏し、元親とともに土佐へ退いた。
  • 香川は平氏で、鎌倉の香川庄に在住した。現在茅ヶ崎、寒川神社の北に香川(駅名として残っている)ところが香川庄。南北朝期に細川氏に従って讃岐に至った香川と中国広島地方に至った香川に分かれる。
  • 香川直系の家紋は、巴九曜(桓武平氏良茂流)=鎌倉での源義経との関連も・・・・、墓は天霧城に近い、空海が修行される、四国88ヶ所の1つ、いやだに寺にもある。
  • 相模の香川氏(桓武平氏良文流と称する鎌倉党の鎌倉権六郎景秀の後裔)
    • 権六郎景秀(鎌倉権五郎景政の子、または孫(子の景継の子)景政の弟の3説)
  • 権六郎景秀の後は、その子相模介高政-家政と続き、家政は高座郡にあった大庭荘の香川村(現茅ヶ崎市北部の大字)に住んで、地名に因み香川権大夫と号します。
  • 義経に従った安芸香川氏の系譜
    • 家政の子・五郎経高は、『源平盛衰記』の香河五郎と見えるように、頼朝将軍に仕え九郎義経に従って源平争乱に活躍
    • 五郎経高の子・三郎経景は承久の役のとき功績があって安芸国佐伯郡八木村の地頭職を賜り、以降子孫は主に安芸で活動
    • その後は、「景光-安景-清景-行景」と続いて、南北朝期に入り、行景は吉野行宮に候し、その弟の盛景も征西将軍宮に候す。
    • 行景の弟の景春は足利直義に従い安芸の家を保持して、その六世孫が毛利元就に従い厳島合戦に参加した香川五郎左衛門尉光景となります。
    • 光景の長男少輔五郎広景は毛利本家に従って萩藩家臣となり、その弟兵部少輔春継は吉川氏に従いその家老となります。
    • 『陰徳太平記』の著者として名のある香川正矩は春継の孫。
    • 以上の安芸の香川一族の系図は、『萩藩閥閲録』などにも見えており、多少の差異はあるものの、あらましは間違いないらしい。
  • 讃岐の香川氏
    • 『全讃史』では香河兵部少輔景房が細川頼之に仕え、貞治元年白峰合戦で戦功を立て封を多度郡に受けたとし、以降は「景光-元明-景明-景美-元光-景則-元景(信景)=之景(実は長曽我部元親の子)」と記されます。この系は、鎌倉権五郎景政の末孫、魚住八郎の後とされます。
    • 『西讃府志』では、安芸の香川氏の分かれといい、細川氏に仕えた刑部大輔景則が多度津の地を賜り、以降は「景明-元景-之景(信景)=親政」と記されます。

讃岐の藤原氏

  • 讃岐の藤原氏
    • 全讃史に「長尾金丸城は、昔、伊予掾藤原純友この城にかくれる。藤原千常これを討つ。純友の墓 猶在り。又、大野城は大野村にあり、大野大炊居る。大炊助は中御門中納言藤原家成の四世の胤、大野大夫有高の末葉なり。元暦の時、屋島の役に勲有り、因りて食邑を大野に受け、故に大野を以って氏となす」と。

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Last-modified: 2012-08-18 (土) 10:49:00 (2190d)