屋嶋城

  • 『日本書紀』によれば天智天皇6年(667)11月に「倭国高安城・讃吉国山 田郡屋嶋城・対馬国金田城を築く」とあり
  • 何故 この3つか?
  • 丸亀市と坂出市にまたがる山で標高462.3mにある古代の朝鮮式山城跡、標高400m前後に第一車道(くるまみち)、100~150mほど下がって第二車道が巡る。
    • 谷あいで石塁、他の斜面で土塁となる頂部鉢巻型の塁壁は、内側に約5m幅の歩道を確保しており、車道と呼ぶ。第一車道の北端部に堅固な城門跡、西へ回ると窪地をせき止めた石塁に水口(みずくち)跡がある。頂部に望楼跡を示す礎石群が残る。東へ回ると明神原のあたりや西麓の川津町からの登山道付近にマナイタ石、ホロソ石が散在する。 それらは、組み合わせて門柱座となると考えられ、両地点にも城門の存在が推測される。
  • 明神原東麗にある式内社(御祭:神神櫛別命)はかつては明神原山上にあったとされている、また東北麗には醍醐古墳群、西麗には黒い巨岩のある黒岩天満宮がある。府中町には古墳時代以降も讃岐の国府が置かれ、隣の国分寺町には国分寺が建立された。讃岐24社中3社(城山神社、鴨神社、神谷神社)の式内社がこの辺りに集中していている等、弥生後期以降千年近くこの流域が讃岐平野の中心として栄え、明神原の磐座も重要な祭祀場としての位置付けを持っていたことが伺える。
  • この城山城を作ったと言われる「城山長者」は大和武尊の子武殻王(たけがいこおう)讃岐綾君の祖と言われる讃留霊王であり吉備政権と深いつながりがあるとしている。 綾織物とカイコ、南海の悪魚退治伝説から何が予想されるか
  • 参考  http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/kagawa/kiyama.html
  •     http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/019/

高安城 :烽火台でもあった

  • 高安山は『大日本地名辞書』(吉田東伍、明治33年)には「高安城址 高安の鉢伏山に在り、五老峰とも称す。天智天皇初て此に築き烽火を置き、難波津大和京の警備と為す、和銅五年、高安烽を高見(生駒山)に移し本城廃したり」と記され、『河内名所図会』(秋里籬島、1801年) 巻五 高安郡の所には、○高安故城 法蔵寺の上方にあり。伝云、天智天皇八年二月、高安城を修す。持統天皇元年冬十月、高安城に幸す。文武天皇二年八月、高安城を修す。又、大宝元年八月、高安城を廃して、其材具を大和、河内の民に賜ふと、云々。五老峯といふ。永禄年中、松永久秀の塁あり。○鬼額 五老峯の中にあり。土人、鬼が舌といふ。其上方を四百殿といふ字の地あり。相伝ふ、松永の軍勢四百人、ここに籠りし所となり。○高安山 一郡の東にあり、平城都の御時、烽燧を挙し址あり。と記されるように、高安山は「五老峰」と呼ばれていたことも分かります。

仁尾

  • 仁尾は当初は賀茂社神人を統括する京都・賀茂社の支配下にあったとみられるが、経済・軍事双方の要衝に位置するため、しだいに讃岐国守護・細川氏の支配が及ぶようになる。そして応永二十二年(1415)頃、は賀茂社神人が細川氏の支配下に置かれ、応永末年には守護御料所がおかれて浦代官・香西氏が派遣されるなど、細川氏の讃岐国西部地域における拠点を担うようになる。

橘諸兄と大伴家持

讃岐の氏族

戦国も収まり、天正十五年(1588年)八月豊臣の武将 生駒雅楽頭 讃岐国の領主として入封。四国各諸国に豊臣に領地没収され、さまよう浪人そして家族、流れ歩いて他国に行く者又来る者真に憐れみを極めたり。それらの人々の中より由緒ある家氏士族一部召抱えられ、零落すと言えども連綿として其の裔を残す。曰く往事の老人の言として、 三世仕を求めざれば、姓氏を絶し凡夫となる。  家産のある者は田野に交って身を隠し、蓄積なき者は主を求めて諸国を放浪す。名門名流皆深山幽谷に入りて隠士となる。          

 讃州 大内 寒川の二郡は寒川左馬允次郎世々この食邑なれ共、三代実録曰 貞観六年八月十七日辛来右京の人 散位正五位上讃岐朝臣高作大史 正六位上讃岐朝臣時人等賜姓 和気朝臣彼等其先 出自景行天皇皇子神櫛王命也。 天正十三年豊臣秀吉四国征伐後、国司に追い立てられ浪人となり、その家族散逸す。寒川郡奥山郷大窪寺の下額村の主 額孫右衛門と言う者、香川郡仲間村に来たりて田畑を耕し居住せしかば、寒川左馬允次郎そこを頼りて居住。寛永十九年八十四歳薨ずる也。  寒川三木郡司 安富民部少輔元綱は、細川管領の旗本の武将として世々鴨城に居住。初代讃州に下りし時は、安富筑前守盛方は関東下総の住人鎌倉権五郎の裔 細川頼之管領の部下で、三木郡を賜う。後(天正十一年)鴨部の雨瀧の城に入るも、長宗我部軍に攻められ小豆島に引き取る。豊臣方に組みし淡路由良城に安宅木甚太良を改めた時、由良城にて戦死。その裔長じて豊臣家臣黒田勘解由孝高に仕え、知行三百石を可賜え由。その裔今に存す。

 讃州綾北南香河郡司 香西備後守元資は、勝賀山城に居城(香西 植田 寒川)。遠祖は日本武尊綾公の裔として由来高し、王代の間は綾大領として、六位 五位の間なり。天正十三年豊臣秀吉四国征伐の折、遂に家名絶し所領没収浪々の身となる。豊臣秀吉公凡夫より出で、我に姓氏なき故に旧家名流古家を亡ぼし所領を奪い、我が身による部下に与えてその志を得たりとす。是によりて、逸材も奇才も尊い王家も廃亡する家多し。香西伊賀守の家門も応仁年間(1467年)細川管領勝元の旗本四臣の内一番精鋭たりし。四臣とは、香川肥前守元明 奈良太郎左衛門元安 安富民部少輔元綱 香西備後守元資の四武将を言うなり。四国 近畿 備前 備後 九州征伐時にも細川を援けた名だたる武将であったが、国守より飯料として田を賜り一族奥中山に入り居住。その一門 植松彦太夫 香西佳清兵衛も世定まる時は、天領でありし小田郡前田村に帰り裔を保てりと。  讃州の国 鵜足郡司 奈良太郎左衛門元安は、足利将軍に尽くし関東より細川管領に従い入封し、以来細川管領の旗本四臣の一となり武勇勝れたる家系なり。  天正十一年(1584年)長曽我部元親、阿波の勝端城を攻む。勝端城は三好存保(十河)は、織田信長に破られた上方の将兵。四国で長曽我部勢に破られたる将兵は合わせて三千五百名にて、勝端城を守り中富川に押し出して迎え打ったが之を打ち破る。この陣に讃州 奈良太郎兵衛門元安 二百五十人を三手に分けて物集 進士を左右にし闘ったが戦死。子 太郎左衛門 他従は讃岐に引具して鵜足郡津之郷辺に居住し、生涯を送り裔を残す。

 讃州国那珂郡は、往古より藤原家 橘家 伴家の公家の采地なり。郡中十郷なり。 保安年中(1120~1131年)中御門 藤中納言家成郷 讃岐守として当地に下向。当国の綾大領 貞宣の娘を娶り資高生む。この資高が羽床氏の始めにて、その末葉として 平田 玉井 竹内 成宗豊田 柞田 紫野 宮川 森田 松本 茶水 武本 谷本 有岡 福家 大地 飯田 木村等の枝葉をうみ広繁し裔栄ゆ。

 橘家については尊卑分脈並諸家和譜拙記に依れば、吾が国皇胤系図の如く始祖 橘諸兄は和銅元年(708年)一月二十五日 人皇三十一代 敏達天皇の皇子 難波皇子命五世葛城王命(として)お生まれになり、紫宸殿にて文武百官集い、帝にお悦びの宴を催されし際、帝の盃に何処からか薫しき橘の花ぞ浮かばれる。帝叡感浅からず、勅(ミコトノリ)曰く、  奇なるよな 是以為汝姓賜橘称根朝臣今日改名諸兄と。 長じて参議侍従長者左大臣 正一位となりて、聖武 孝謙の両帝にお仕えして執政し来たり。 其の子奈良麻呂も参議太政大臣正一位に補せられ位人臣を極められ、以来文武の要職につかれ、後裔中 参議兵部大輔右近衛大将の武公出でしより、諸国の争乱鎮撫追討の為国司郡司の衛につきたまう。延嘉 承平 天慶の頃より讃州国司として橘讃岐守従四位下後盛公、続いて左近衛少輔讃岐守従四位下清信公。下って永暦元年(1160年)今から839年前、橘左近衛少輔祐主公は讃州の天領である山田郡木太郷 向城に下向、世々居住され畳溝堅固文武の道にはげまれ仁政を施し平和な王国に床しき日常なりしが、寿永元暦の源平の戦いに帝を護衛し奉り一ノ谷の合戦に参加。戦場に臨むに当たり、身は公家の身が武門の下につき見苦しき屍を戦野にさらしては家門の恥なり。とて、妻方の姓氏 真部を名乗りて戦場に出て、源平の各合戦 応仁の乱そして戦国の乱世に一貫して仁義の節に尽忠。功を立て、西国一の武将とうたはれにけり。その内各合戦には、必ず華々しき働きをして名をあげたり。  曰く 真部五郎助光 真部五郎祐孝 真部五郎祐満 真部五郎祐則 真部弥介祐重 真部助兵衛守政 真部弥介守資 真部太之介祐利 真部左兵衛祐忠 真部右兵衛祐義 等々何れも武勇の士 知仁の士。戦記には載らず。

 橘家訓に曰く

 君主の道を失って己が利を恣にする時は、天命に逆らいて久しからずして亡ぶ。  道に因って身を亡ぼす者は、佳名を後世に伝ふ。  利に因って身を亡ぼす者は、汚名を後世に残すなり。  人生50年と言えども、明日の亡ぶるを知らず。  名は、永久にして天地と共に存す。  よろしと子孫は、これを思うべし。  と

 橘家は讃州にて采(配)地 那珂と任地 天領なる山田郡に移住し、その枝葉を繁る者は大響 楠木 内海 三條 甲斐 篠原 新居 松井 大河原 柏原 萩原 丹下 百々 小寺等の各門葉を分かつと言え共、天正 中期 末期 より録を離れ諸国に散逸す。  その中にありて子孫真部弥介は往事の功績に対して250石を賜り、寒川郡奥山邑の讃岐 阿波国の国境にある大窪越関所の伺察使(代官)と被命。その後職は讃州の特産の白米塩三盆白紋等の持出監視取締物件流失防止と不審者取締りをなし、世々奥山に移住し近隣を併せての里正(庄屋)として名をとどむ。

丸亀市

西平山         通町から北へと入り新堀へ至る一町九間三尺、東に折れて北平山へ至る二町三十        五間余、新開東西一町五十三間南北一町三十五間の町である。

        湛浦は東西八十間、南北四十間で入り口は十五間である。満潮時の深さは一丈六        尺。         天保三年に工事を初めて同四年に竣工し、八月一日に初めての船入りをおこなった。        水夫は百十九戸である。棒役は十七本半。

     (戸口) 戸数三百九十三戸 人口千二百六十三人(男六百八、女六百五十五)

     (畜産) 馬二

     (舟船) 八段帆一 七段帆二 六段帆八 五段帆一 以上十二

     (神祠)        蛭子祠  新堀にある。

       五社祠  同地にある。

       稲荷祠  高倉越後の宅地にある。

       稲荷祠  宮武常陸の宅地にある。

       荒神祠 稲荷祠 共に圓光寺にある。

鵜足郡

      鵜足郡には八郷三十七村あり、古高は一万六〇三九石七斗八升七合。       打出高八八七〇石二斗余、新開高は三八二〇石余である。

津野郷

      万葉集に綱浦(ツヌノウラ)を詠んでいる部位がある。      周防国に都濃郡があり、又郷名にもあちらこちらである。

      延喜式に綱丁(ツヌノヨボロ)と言う言葉が書かれている。綱浦の丁の事      かと思ったがそうでは無く、水夫(カコ)の類を指すそうだ。そうすれば綱丁      が居る所を呼んだ名前であろう。       地味 四割真土、二割砂地、四割砂又は砂利混じりの砂。

土居村

土居村       東西五町、南北八町八間の町である。       東は土器、南は高津、北は三浦等の諸村に隣接して、西側は府城に接      している。       村高は二百四十石六斗六升七合である。

    (田畝)       二十七町一反一畝十九歩(内畑十一町三反五畝、一町二反四畝二十       六歩は屋敷地。)

    (租税)       米百四十石七斗三升五合、大麦十石二斗六升、小麦五石一斗三升、       大豆二石五斗四升五合。

    (戸口) 戸数三百五十八戸、        人口千七人(男五百三十五、女四百七十二)

    (畜産) 牛十二、馬三

    (神祠)       高木祠  高木にあり、祭神は鷲住王である。            昔、土器川に白布に包まれた物が流れてきて村人が採り上げ           たところ、たちまちの内に祟りがあった。そこで神子を呼んで聞い           たところ、木船神だと言うのですぐにこの祠へと合わせて祭った。            痃気を患う者が来て祈れば霊験あらたかなりと言う。祭紀は六           月十三日。            社僧は誕生院で、祠官は宮武日向である。

      荒神社  九品院にある。

      恵比須祠 浜田にある。

      清水明神祠 清水にある。            昔、経津主神、武甕槌神を今の三街の所に祭り、田心姫命、           湍津姫命、市杵嶋姫命の三神を清水明神と祭っていたが大水           が出てその祠が漂い流れてしまったので、経津主と武甕槌の           二神は高津村へと移して妙見宮として祭った。            清水社は影も形も無くなって居たが、文政二年の春に高木           久大夫の夢にお告げが有ったので今の祠を建てたと伝わってい           る。            祭紀は九月十三日で、祠官は秋山上総介である。

      恵比須祠、龍王祠、弁天祠 共に上真嶋にある。

      妙見祠  瓦町にあり、祭紀は九月十五日。社僧は誕生院で、祠官は            高倉越後である。

那珂郡

             那珂郡には十一郷五十一村あり、古高は一万二三七一石四升六合。
                            (内四六四九石六斗四升は丸亀に属する)
             打出高四四一八石九斗五升余、新開高は一八四〇石余である。

柞原郷

            昔、柞木が多かったのでこの名が付いた。

     地味 山北、田村、塩屋等は八割真土、二割砂混じり。          今津は九割黒土、一割砂混じり。          津森は五割真土で三割黒土、二割砂混じり。          地方、新田等は三割真土で二割黒土五割砂あるいは石混じり。        郡内に撈田(リコ)は少ない。

 山北村         この地は当時柞原村内であったが、城山の北側に八幡宮が有ったので        寛永十九年に山北と名を改めた。         東西七町、南北八町の広さである。丸亀から一町の距離にあり、東は        土居、西は田村、南は柞原、北は中府と地方等の諸村に接している。         村高は三百八十八石五斗四舛八合である。

    (田畝)三八,七八〇八、内七,三五二六畑、二,三七〇二屋敷地

    (租税)米二一八,九二五、大麦三,九九九、小麦一,九九五、大豆三,九四五

    (戸口)戸数一五〇戸 人口四六〇人(男二百五十三、女二百七)

    (畜産)牛五十三、馬五

    (神祠)      八幡宮

            祭神は誉田天皇、玉依姫命、息長足姫命である。祭紀は八月五日。

        応保年間に新院が当地へと御幸された時、亀山の北で山城圀雄徳山八         幡宮を遙拝されたので、ここに祠を建てて氏神と崇め奉り北山八幡宮         と称した。

            その後慶長七年に亀山に城を築く時に神異があったので柞原村の皇子

        の社地へと移したので山北と言う名を呼ばなくなった。          神田高は十六石、供田七畝で、社地は四段余有る。         社僧は福寿院、祠官は秋山上総介である。

     皇子祠

            祭神は仁徳天皇で祭紀は九月二十日。柞原村の氏人がこれを祀る。

     天満宮  村人達の氏神で、祭紀は九月二十五日。

     明神祠  春日祠 荒神祠 以上五祠共に八幡宮の境内にある。

     武内祠、稲生祠、猿田彦祠、杵築祠、粟島祠、和霊祠、垂正祠、光長祠、      祈祷祠  以上九祠は共に祠官の宅地内にある。

     瑜伽祠  福寿院にある。

     荒神祠二 上り、下等の二ヶ所にある。

    (仏寺)      福寿院  八幡山圓上寺と言う。真言宗明王院の末寺である。          本尊は不動明王、阿弥陀如来である。開基は不明。          永仁五年以来八幡社の社僧となったと伝わっている。

     観音堂二 上り、下等の二ヶ所にある。

    (橋梁) 梁一

    (小地名) 上り、六間家、中筋、王子、西道、東道。

 田村

        東西七町、南北十二町十間の広さである。

       丸亀から十五町離れ、東は山北、南は三条、西は上金倉、北は津森と        中府等の諸村に連接している。         村高は七百六十石六斗四升四合。

    (田畝) 七八,九七一八、(内四,三三二九畑 二,六九二一屋敷)

    (租税) 米三七七,五一六、大麦四,〇六九六、小麦二〇三四七、           大豆六,七三八一

    (戸口) 百三十戸 人口六百(男三百十六、女二百八十四)

    (神祠)      天満宮           菅原道真公が当国内を巡った時に、この地へと来られ、自筆の神影を          祭ったと伝わっている。祭紀九月十八日。社地は東西二十五間で、南北          は三十間余である。           祠官は秋山上総介である。

     山神祠 山乃神にある。

     荒神祠 荒神免にある。

     幸神祠 幸神にある。

     番神祠 三十神の木像を安置している。祭紀は八月十日。           昔、秋山土佐守が当国内で番神の祠を六ヶ所に建てた内の一つで           ある。            昔、この地に開基日仙の法華寺があった。明暦三年に訳があって           高瀬村へと移された。            遺跡は田圃の中に残っている。           塔之本、鐘塚、鼓楼塚、舞壷などと言う名が残っている。

    (仏寺)      常福寺  龍泉山と称する。一向宗興正寺の末寺である。           亀山源監という人物がおり、行基の作った弥陀の像を得て尊信し、           十代目の勇監に至って薙髪し了願と名を代えた。            寛永十五年本山に属して木像寺号を許された。了願から十代目が           現在である。

     観音堂  霞之本にある。

     地蔵堂  堂沙古にあり、境内五畝。

    (陂池)      田村池  周囲十五町。漑田は百二町五段一畝十九歩

     太井池  周囲五町二十八間。漑田は十一町六段二畝五歩

    (源泉) 七助泉溝

    (橋梁) 梁二

    (塚墓) 塚六 殿塚、姫塚、供塚、下女塚 共に下所にある。

          白髭塚 十宅にある。

          妙見塚 堂田にあるが由来は不明である。

    (小地名) 本村、上分、下分、下所、池之内、高須賀 以上六

 中府村          那珂郡の府があったところなので村名となった。         東西四町二十五間、南北八町の村である。          巽方向は山北、南は田村、西は津森等の諸村に隣接し、         東は府城、北は市井に接している。          村高は二百四十石一斗六升一合である。

    (田畝) 二一,三九〇八、(内一,三一一三畑 九五一三屋敷)

    (租税) 米一四五,六四九五、大麦一,六四三、小麦八二二、          大豆二,六四一五

    (戸口) 百二十一戸 人口三百八十七人 (男百九十七、女百九十)

    (畜産) 牛十七、馬六

    (神祠)      会下天満宮  祭紀九月十八日、神田一石二斗、社地一段余、社僧              福寿院、祠官岡崎大隅である。

     荒神祠三  会下、三軒家、茶木の3ヶ所にある。

    (仏寺)      観音堂  茶木にある。

     毘沙門堂  清門にある。  

    (陂池)       蓮池  周囲七町四十七間で、潅漑田は二十八町七畝二十四歩           である。

    (橋梁) 梁一

    (川溝) 溝一派 山北から北へと流れ地方村へと入る。

    (小地名) 大北、清門、三軒屋 以上三

 津森村         東西五町、南北七町の広さである。丸亀からの距離は五町で、東は        中府、南は田村、西は今津、北は塩屋等の諸村に接している。         村高は四百九十三石六斗七升九合である。

    (田畝) 五一,九一二九、内五,七四一七畑 一,九四一二歩屋敷

    (租税) 米二六一,三七九、大麦三,一五四、小麦一,六三、          大豆三,三四二二

    (戸口) 百十戸 人口四百十二人(男二百二十二、女百九十)

    (畜産) 牛二十四 馬五

    (神祠)      天満宮  祭神は天穂日命で、祭紀は九月二十三日。今津や新田等もこ           れを祭る。            村内に八日市と言う所があり、天徳三年にそこに殿宇を建てて           祀っていたが、天文十三年の大風によって壊されたので、山地正           実、宝田中忠、位実信等が岡崎祇親と相談して浪越山へと移し           祀った。            その後慶長七年になり訳があって少彦名社の地へと移した。現           在の地がこれである。            社地二段余、社僧は福寿院で、祠官は岡崎大隅である。

     少彦名社            祭紀は六月一日である。           昔、この祠は社地の東南面に有ったが天神宮を移した際に今の           地へと移された。            周辺には今も古馬場と言う地名は残っている。

     荒神祠 稲荷祠  共に天神宮の社頭にある。

     道祖神祠  宮ノ前にある。

     春日祠  古馬場にある。

    (仏寺)      光善寺  恵明山と称し、一向宗興正寺の末寺である。           奈良右内光善と言う人物が蓮秀上人の門下に入り草庵を本村の           田中に建てて住み、以後三代目の善宗に至り今の地へと移り一           寺を建てた。            寛文五年に寺号を許されたと伝わっている。

     地蔵堂  慶長にある。

    (川溝) 溝二派 二派共に田村から北へ流れて塩屋村へと入る。

    (小地名) 田中、拾町、三軒家、慶長 以上四

 今津村          東西四町十八間、南北十一町七間の広さである。丸亀からの距離は         八町で、東は津森、南は町新田、西は下金倉、北は塩屋等の諸村に         接している。          村高は四百四十二石六斗四升三合五勺である。

    (田畝) 四八,五九〇二、(内四,四四畑 一,七〇五屋敷)

    (租税) 米二二一,九〇五、大麦三,四〇〇四、小麦一,七〇〇二、          大豆三,九六四二

    (戸口) 九十三戸 人口四百十五人(男二百十四、女二百一)

    (畜産) 牛四十三 馬七

    (神祠)      春日明神祠  天満にあり、社僧は福寿院で、祠官は秋山上総介である。

     荒神祠三  天満、千本松、西今津の三ヶ所にある。

     恵比須祠  天満にあり、祠官は岡崎大隅である。

     道祖神祠 宇豆久呂祠  共に西今津にある。

    (仏寺)      庵一  薬師を安置して、横井氏の持庵である。

    (官舎) 煙硝蔵

    (山林) 林三段余

    (橋梁) 橋二、梁五

    (川溝) 溝二派  一派は下金倉から東北へと流れ、一派は町新田から               北へ流れて共に塩屋村へと入る。

    (小地名) 西今津、天満、広永 以上三

 地方村         東西二町十五間、南北一町四十間の広さである。        東は土居、南は山北、西は中府、北は農人町塩屋等に接している。         村高は二百十九石六斗五升である。

    (田畝) 二三,九八二六、(内一一,四四二四畑) 

    (租税) 米一二三,九九四七、大麦一二,六二四、小麦六三一二、          大豆二,一三四六

    (戸口) 十二戸 人口四十五人(男二十五、女二十)

    (畜産) 牛四

    (仏寺)      光明庵            真言宗仁和寺の末寺である。法然上人が掘った井戸がある。          庵地八畝

    (陂池) 新池

    (橋梁) 把一

    (堰閘) 閘一

    (川溝) 溝二派 一派は中府から北へ流れ、一派は外隍から西へ流れ               て北へ折れて共に塩屋村へと入る。

    (塚墓) 塚一 八人塚と称する。

    (小地名) 内間、高丸、岸之上、砂地 以上四

 町新田

         岸本十郎重綱の末裔で又右衛門と言う人物が塩飽島から移って         来て承応年中にこの地を拓いたが、未だに町の名前を得ることなく         町新田とも丸亀新興とも呼ばれている。          東西三町二十六間、南北六町五十間の広さである。丸亀からの         距離は二十町で、東は津森、南は原田、西は金倉、北は今津等の         諸村に接している。          村高は二百九石七斗七升六合である。

    (田畝) 二一,九一一〇、(内四,五五一七畑) 

    (租税) 米一〇八,五五五、大麦二,六二一二、小麦一,三一〇六

    (戸口) 二十七戸 人口百十五人(男六十一、女四十四)

    (畜産) 牛九 馬一

    (神祠)      天満宮 地神祠  橋本にある。

    (橋梁) 橋一 梁一

    (川溝) 溝二派 一派派上金倉から、一派は原田から共に北へ流れて                今津村へと入る。

    (小地名) 橋本、長池

 塩屋村           塩屋と称するのは、元和元年三月七日に播磨国赤穂の田中孫六、          芥五郎大夫、中山治右衛門、為久甚太夫、永安助右衛門、尾崎藤          大夫、その他二十二人が伴って当地へと移り住んで塩田を開墾して          その業を始めたのでこの名前が付いた。           東西七町五十六間、南北六町の広さである。          東は丸亀に繋がり、南は今津、西は下金倉に接して、北は塩飽島に          面した海に向かっている。           更に東西三町四十四間、南北三町の新塩屋と呼ばれる地が東に          延びている。           村高は九十五石九斗八升五合である。          当初は塩田だったので諸役総てを免除されたと言われている。

    (田畝) 一〇,九二二五、内二,二四二〇畑で、これは承応年中から          万治二年までの間に開墾されたと言う。

    (租税) 米四一,五三四

    (塩田)         七町五段余 穴数七百五十。運上塩二百六十石二斗五升六合。                 請銀四百二十目七分。

        三町七段余 これは新塩田で穴数三百七十三。                 運上銀一貫二百九十目。

         以上の塩田の内、現在は開墾されて畑となっている所は十町二段余         である。

    (戸口) 三百十三戸 人口千三百二十五人(男六百六十五、女六百六十)

    (畜産) 牛七十五 馬三

    (神祠)      天満宮  祭紀は九月二十五日。社地東西十九間、南北三十二間、社僧           は福寿院で、祠官は秋山上総介である。

     塩竃祠  新塩屋にある。

     保食御前祠  村南にあり、祠官は宮武常陸である。

    (仏寺)      本願寺御坊  本願寺輪番所で、本尊は恵信作の阿弥陀仏である。              境内四十五間四方である。享保十九年三月に創立され、毎年              三月二十八日に尊像会式があってその役寺として教覚寺と呼              ばれる寺が境内にある。

     遍照庵               真言宗仁和寺の末寺である。本尊は阿弥陀仏で、享保二年              八月に戒碗が創設した。               境内は東西四十間、南北は二十四間の広さである。

     地蔵堂  新塩屋にある。

    (官舎) 番所一 浜手にある。

    (橋梁) 梁一

    (堰閘) 閘一

    (川溝) 溝二派 一派は今津から北へ流れ、東に折れて丸亀川口へと入り、                一派は下金倉から北へ流れて海へと入る。

    (小地名) 新塩屋、手々之浦 以上二 金倉郷

      この地の名称の由来に関しては定かでは無い。      地味 上金倉は八割真土、一割砂混じり、一割撈田(リコ)       下金倉は五割真土、三割砂利混じり、残りは撈田である。

 上金倉村       東西九町五間、南北一三町三十二間の町で、丸亀からの距離は      二十五町である。       東は新田、田村の二村に、南は原田、金蔵寺の二村に、西は葛原、      加茂の二村に、北は下金倉の諸村に隣接している。       村高は七五六石六斗一舛一合五勺である。

     (田畝)八四,九〇一二、内三,九六二八畑、三,二二〇二七屋敷地

     (租税)        米三一五,四〇七五、大麦五,六八九、小麦二,八四四五、        大豆五,六八九一

     (戸口) 戸数二百二戸、           人口八百二十七人(男四百四十一、女三百八十六)

     (畜産) 牛九十二、馬九

     (神祠)       八十主大明神  祭神は大巳貴命で、祭紀は九月十日である。                昔は池の下にあったものを寛文四年九月に今の地へ                と移した。                 祠官は宮武日向である。

      古宮祠  池の下にあり、八十主社の跡地である。

      荒神祠  川西にある。

      糺杜祠  町畑にあり、多田氏の祖先を祀ると伝わっている。

     (仏寺)       東坊   無量山と称する。           一向宗西本願寺の末寺である。            昔は真言宗であったが賢永という人が蓮如上人に帰依して           今の宗教に改めた。            賢永から代々続いて現在では十五代目と言う。

      圓龍寺  金顕山と称する。            一向宗本願寺末寺である。金倉顕忠の弟で総左衛門顯久と            いう人物がいた。兄顕忠が戦死したので以後薙髪して一寺を            建て金顕山智浄院と称して天台宗であったが蓮如上人に帰            依して、上人の肉筆を本尊として一向宗に改めた。             寛永十二年に初めて木像を安置して圓龍寺と称した。            開祖から現在で十八代目と言われる。

      念宗寺  光林山と称する。            一向宗興正寺の末寺である。直井光祐という者が承元元年に            法然の門下に入り道場を開いて光林坊と称した。             数代後の教了に至り、本願寺に帰依した。            寛永十四年六月に木仏像と寺号を許された。             以後現在で十五代目と言われる。

      光明寺  瑞恵山と称する。一向宗本願寺の末寺である。

      西教寺  金剛山堅固院と称する。一向宗興正寺の末寺である。            永正八年に玄勝という人物が開祖となり、金倉顕忠が建てた。             本尊の阿弥陀仏は金倉氏の念持仏と言われている。

      観音堂  八十主社境内にある。

      地蔵堂  中の池にある。

     (官舎) 別館一、川西にあり、散卒を一人置いて守らせた。

     (山林) 林七町三段三畝、内三町二段八畝二十歩は居住林である。

     (陂池)       千代池  周囲十五町で、漑田は百町四段六畝五歩である。       銭亀池  周囲八町で、漑田は十八町余である。       平池、辺池、新池、小池。 以上六池。

     (橋梁) 橋七、梁五、把十

     (堰閘) 堰一

     (源泉) 下泉、助敏泉、新泉、音泉、宮下泉、古泉、六左衛門泉の            以上六泉。

     (川溝)       川一派 野田川の末流で、金蔵寺村から北へと流れ下金倉へと入る。

      溝九派 三派は金蔵寺村から北へと流れ、一派は下金倉へとはいる。           一派は下泉から、一派は音泉から、一派は中津堰から共に北へ           と流れて下金倉へと入る。            一派は宮下泉から北へと流れて大川へと入る。            一派は平池から北へと流れて陣屋新田に入る。            一派は田村から北へと流れて今津村へと入る。

     (塚墓) 塚二              一つは平尾塚と名付けられている。            永禄四年七月七日に吉川、小早川の両将が二万余騎を率いて            中津堀江あたりから上陸し、香川信景の天霧城へと押し寄せた。             その時香川氏の家臣で平尾河内守が郎党三百余人を率いて            信景の先陣として進み、安芸勢と戦い討ち死にした。

            一つは姫塚と呼ばれ、昔某殿の娘が悪病を患い国を出てここ            へと隠れ住みその身を終えたので葬った所と伝わっている。             乞丐が十二戸有って塚を守っている。            墓地は一段余で宅地となっている。

          墓二 金倉顕忠の墓 圓龍寺と西教寺の二ヶ所にある。是非は              不明である。               顕忠の事は詳しく古城の巻に載せる事とする。

     (小地名) 川西、辺地、町畑、上新田、中の池、原、荒、池の下、下新田、             銭亀 以上十

 下金倉村         この村は那珂郡の津であることから別名中津とも呼ばれる。        東西十町十間、南北十町五十間の広さである。丸亀から二十二町の        距離にあり、東は今津、南は絵金倉、西は鴨村等の諸村に隣接し、北        に海を望む。         村高は六百三十五石二合。

     (田畝) 七六,六五〇六、内一九,一二畑、二,三三屋敷

     (租税)         米二五九,三八四五、大麦三,七七五、小麦一,八八、大豆四,五五

     (戸口) 戸数百十九戸            人口四百八十六人(男二百四十七、女二百三十九)

     (畜産) 牛五十七、馬一

     (神祠)       八幡宮             慶長四年遠山甚大夫が阿州の櫛田村から当地へと移り住み、           この祠を建てたと伝えられている。祭紀は八月十五日で社僧は           福寿院神子一人である。

      高良祠  川西にある。

      荒神祠  川の東西にある。

      道祖神祠  川東にある。

      恵比須祠  真嶋にある

     (仏寺)       徳行寺            無量山と称し、一向宗西本願寺の末寺である。昔は堀江村に          あったものを承応年間に当地へと移したと言われている。

      薬師堂  八幡宮境内にあり、正徳二年に創立された。

      地蔵堂  川西に有って、享和二年八月の創立である。

     (官舎)        別館一 海浜に有って、貞享五年九月に作ら、散卒三人を置いた。

     (山林) 林四,六四、

     (橋梁) 橋一 中津橋と言う。

     (源泉) 九重田泉、晩田泉

     (川溝)         川一派  上金倉から北へと流れて海へと入る。

        溝五派  五派共に上金倉から北へと流れて田へと漑され残りは              海へと流れる。

     (島嶼) 下真嶋 陸からは二十町離れて、嶋の周囲は四町余である。

     (塚墓) 鬼塚と呼ばれ、中津将監為忠の墓と言われている。古城の巻          に詳しく載せる。

     (小地名) 川西、川東、下之村、中之村、新張 以上五 櫛無郷

      後深心院関白記に櫛無保とかかれている。景行天皇の子神櫛命が      当地へと来て崩御されたのでこの名がついたと伝わっている。       地味は七割真土で二割は黒土、後は小石混じりの撈田である。

 上櫛無村        東西十町、南北八町の町で、丸亀からの距離は二里十町である。       東は公文、南は苗田、西は大麻、北は下櫛無の諸村に隣接している。        村高は五百九十七石六斗五舛九合五勺である。

      (田畝) 五九,〇九二二 内〇,九九八一畑、二,二〇二八屋敷地

      (租税) 米二七七,六〇六、大麦〇,五七五、小麦〇,二八七、            大豆四,九二〇九

      (戸口) 戸数百二十八戸、            人口四百六十一人(男二百三十一、女二百三十)

      (畜産) 牛五十九、馬八

      (神祠)        大蔵大明神  祭神は姫蹈鞴五十鈴姫命であるが鎮座した年は                不明である。                 景行天皇二十三年に神櫛皇子を崇め奉ったと社伝に                書かれている。祭紀は九月十五日である。                 社地は一段五畝。社僧は善光寺で、祠官は秋山                伊豆である。

       八幡宮 若宮祠  共に大蔵の社境内にある。

       荒神祠三  西小路、薬師堂、上村にある。

       権現祠  昔、烏丸殿が当地へと来て居住したので祠を建てたと伝              わっている。

       虚津彦祠  以上二祠共に上村にある。

       城髭祠  森里にある。

       幸神祠  小路、西小路の二ヶ所にある。

       権五郎祠 山神祠 里神祠  三祠共に小路にある。

      (仏寺)        大念寺  如意山と称する。一向宗興正寺の末寺である。

       薬師堂              昔、宝蔵寺と言うのが有ったが土佐の乱の時に焼失した。            立像の薬師があり、半身は炭となっている。

       地蔵堂  共に村の南辺にある。

      (山林) 居林二段五畝

      (橋梁) 梁五

      (堰閘) 堰一

      (源泉) 宗三泉、聾泉、不時泉、夫婦泉、御盥泉、大泉、小泉、            興北泉、木井泉、勘蔵泉、大貝泉、圓座泉。

      (川溝) 川一派 野田川、苗田川から村の西側を北へと流れ下櫛無                 へと入る。

           溝三派 一派は苗田から村の南側を東へと流れて公文村へ                 とはいる。                 一派は苗田北へと流れて下櫛無へと入る。                 一派は苗田から西北へと流れて野田川へと入る。

      (塚墓) 墓二 片岡伊賀守の墓とその馬の墓               伊賀氏系図に書かれている事であるが、鎮守府将軍秀              郷の末裔に八郎経春という人物がおり、伊勢國片岡に居              住していたので片岡氏と称した。               経春の弟七郎高村は伊賀國に移って氏を伊賀と改め、              高村から五代目大炊頭村信になって備前国邑久郡豊原莊              へと住まいした。

              その子孫伊賀掃歩助高光は、貞治元年細川頼之に              従って阿野郡高屋城を攻め、細川清氏を討ち取った。               以後海崎豊前守元村の娘を娶り当国へと留まった。              元村の子供長尾大隅守元高と共に西長尾の城を築いて              千八百貫の地を領した。高光の子供光信は幼少から大隅              守に養われ、父の所領を継ぎ、その長男は通重左近太郎              と称し、次男は光盛喜総兵衛と称した。               光盛の子供は高通伊賀彦右衛門尉と称したが後に              左衛門と改めた。

              天正七年四月二十七日に長曽我部元親が長尾を攻め              寄せようとしたので、長尾大隅守は麓の河を越えて対岸              に陣を張り、芭蕉という所に兵を伏せて待ち伏せた。               翌日二十八日早朝に土佐国の軍が来着して備えを立              てようとする所へ長尾方はにわかに立ち上がり戦った。              続いて芭蕉の兵も攻め立てたので土佐兵は陣を乱して              逃げ去った。

              高通の子供片岡九郎兵衛高好は敵の大将大山孫九              郎と渡り合って互いに槍で戦い、ついに大山を馬から突              き落とし槍で押し臥せ家臣に首を挙げさせた。

              二刻程の戦で土佐方の多くが討たれ残兵は櫛無村へ              と引き退いた。               高好は大隅守、羽床、瀧宮などへ此の戦果を告げ、              二十九日の夜になって軍を率いて高篠村へと陣を移した。

              その後土佐軍は櫛無山に陣を構えるべく追い追いに              駆け加わっていると聞いたので、その夜、その陣に火を              かけ、周章狼狽するところを討ち取ろうと謀り、伊賀左衛              門佐を大将に五十騎の馬の轡に布を巻き、川を伝って押              し寄せた。               そこで闇に紛れて敵兵が本陣へと赴く所に出くわし、              双方が騒ぎ出した所へ土佐方が陣から討って出たので、              しばらくは戦ったが打ち負けて乱れ散って引き退いた。

              夜明け頃左衛門佐が流れ矢にあたって息も絶え絶え              で、沼田に馬を乗り入れていた所へ、その子九郎兵衛              が父の行方を探し出し状態を見て為すべき事の無いの              を知り、御首をあげて帰ろうと言ったところ、武士の首を              敵に渡すのは生前の本懐である、汝は急いで立ち去れ              と言ったので、泣く泣くその言葉に従った。               しかし、ついにその地で息を引き取り、その馬も同じ              所で死んだので、この墓が今も沼田の中にある。               その碑の表に片岡伊賀墓と書かれ、左右には天正              年中この地で討死、宝暦九年巳卯四月、片岡善蔵栄              重建之とも書かれている。               馬の墓はこの墓から北へ十歩程離れた所にある。

              伊賀氏の系図には二通りあり、一つには高通を片岡              伊賀守と書いてあるが、今回は別の系図を採用した。

      (小地名) 宮ノ前、上村、木之井、森里、榛木、小路、西小路、              川向 以上八

 下櫛無村         東西十町、南北十一町の広さである。丸亀から二里八町の        距離にあり、東は公文、南は上櫛無、西は大麻と生野の二村、        北は興北の諸村に隣接している。         村高は五百九十二石四斗である。

      (田畝) 五七,一六一八、内六,五四二二畑、二,〇〇〇一屋敷

      (租税) 米三〇二,二三六、大麦三,二七五、小麦一,六三、            大豆五,二九二

      (戸口) 戸数百二十戸             人口四百五十人(男二百二十六、女二百二十四)

      (畜産) 牛五十、馬七

      (神祠)        櫛無神社  皇宮大明神と称する。祭神は神櫛皇子で、式内               二十四社の内の一つである。               祭紀は九月十五日である。 

              朝野群載に                「神祇官謹奏、天皇我御體御卜乎卜部等、天地爾                 卜供奏留状奏親諸王諸臣百官人等四方國乃賓                 客之政風吹雨○令、是事聞職天、折援置問給○                 供奏○、御卜火数百六十火之中、直卜百十六、                 天卜七火、地相卜六火、相卜十二火、神相卜八                 火、人相卜六火、相卜十二火、神相卜八火、人                 相卜二火、地相卜七火、以是卜求、坐伊勢國大                 神宮御領云々、坐讃岐國大麻神、櫛無神、田尾                 水主神、田村神云々、社司等依遇槭神事崇給、                 遺使、科中祓、可令祓清奏仕云々、永禄四年六                 月十日宮主正六位上卜部行直、少祐卜部宿禰                 兼宗、」               と書かれている。

              景行天皇二十三年に神櫛は勅命を受けて、大魚を              討ち果たす為に土佐國から当國へと移り来た時、御船              を櫛無山の麓に泊まらせた。               事平らげた後、当国の国造に任ぜられ、城山に城を              築いて留まり、仲哀天皇八年九月十五日に御歳百二              十歳にて崩御なされた。               遺命を奉ってこの山へと葬り社を建てて祀ったと伝わ              っている。

              社地は南北三十二間、東西十間、社林は八段余で、              社僧は善光寺、祠官は秋山伊豆である。

       総社大明神  祭神は神櫛皇子の従士で、四十二姓を合わせて                祀ってある。                 境内は方十間余、社林は二段である。

       荒神祠  社地は五畝である。

       九頭神祠  社地は五畝余である。

       幸神祠  以上三祠は宮内にある

       山神祠 二宮祠 大森祠 奈賀禮神祠  以上共に北浦にある。

       春日祠  白玖氏が建てた所である。社林二段。

       龍川祠  春日の末社である。社地は五畝。

       天満宮  社地は五畝。

       幸神祠 八幡宮 若宮祠  以上共に北山にある。

       船磐祠  社地七畝、神櫛皇子の御船が泊まった所である。この祠             は御子が祭ったと伝わっている。

       幸神祠 荒神祠  以上安養寺にある。

       龍神祠  皇宮社林にある。

       権現祠  丸山にある。社林は五畝。

       吉田御判祠  須毛々にある。

       産階祠  上川原にある。

      (仏寺)        善光寺  如意山と称する。             本朝高僧傳に新善光寺と書かれているのがこれである。真言            宗誕生院の末寺である。             本尊は多聞天で、境内は南北四十間、東西十五間、寺林は            二段である。

       阿弥陀堂  安養寺にあり、本尊は行基の作であると伝わっている。

       毘沙門堂  丸山にある。

       地蔵堂  北山にある。

      (山林) 元吉田山 玄正寺山 総社山 丸山            林 八,一一〇、居林 これ以外に御林が二ヶ所あるが畝数は            不明である。

      (陂池) 総社池

      (橋梁) 橋三 梁三

      (堰閘) 堰二

      (源泉) 土佐泉、佐井古座泉、夫婦泉、飛合泉、柿泉、御盥泉、            虚無僧泉、泉田泉、富路井泉、須毛々泉、中内泉

      (川溝)           川一派  野田川 上櫛無から北へと流れて興北村へと入る。

          溝三派  一派は上櫛無から、一派は泉田から、共に北へと流れて                興北村へと入る。                 一派は飛合泉から西へと流れて泉田川と合流する。

      (塚墓) 塚穴一  総社山にあり、穴中は方一間余ほどある。

            墓一  王墓と呼ばれ、北浦にある。

      (小地名) 北山、合田口、安養寺、北川、宮内、北浦、須毛々、丸山、              砂原、阿礼、若山、上川原、下川原、川向、富路之井               以上十五

□  

巻 二十二

子松郷

      子松は子を小とも書き、和名鈔に書かれている諸国にも多く見られる。      しかし、この名は古い時代からでも神にも人にももちいられていない。ただ      一つ光孝天皇を小松帝と申し奉るけれども、之は御陵による御名なので      これに由来している事はありえない。

      この郷の中に松尾村と言うのが有るので、当時松尾神社の神戸であり、      対面の山城に対して小松尾と呼ばれたのを以後、尾を省いたものであろう。

      豊田郡に小松尾という地名が有るがこれも同じ由来の名と聞いている。      神名式にも山城国葛野松尾神社二座、並名神大、月次、相当、新当と書か      れている。

      地味、山村であるから総て砂混じりである。

 佐文村       舊説では佐文は麻績の事であるとされている。麻を紡ぐのを業とする者      が多かった故についた名であると伝わっている。

      東西十五町、南北二十五町の町で、丸亀からの距離は三里十五町であ      る。       東は宮田、巽は追上、南は上之村、西は上麻と神田の二村、北は松尾      の諸村に隣接している。       村高は二百七十四石七斗一舛五合である。

    (田畝) 三〇,八九七 内四,七二三畑、一,六八二五屋敷地

    (租税) 米一五九,四七二、大麦三,一一一五、小麦一,五五六、          大豆二,八三

    (戸口) 戸数百戸、 人口三百五十人(男百八十四、女百六十六)

    (畜産) 牛四十五、馬一

    (神祠)      加茂大明神  祭神は加茂御祖神と加茂別雷神で、祭紀は九月二十日で              ある。               社地は二段五畝。祠官は王尾靱負である。

     三所大明神  祭神は伊井諾尊、級長津彦命、級長津姫命で、社地は一              段余である。

     道祖神祠  中筋にある。

     荒神祠  岡にある。

     龍王祠  前山にある。 

    (仏寺)      法照寺  鶴林山と称する。一向宗圓徳寺の末寺である。           宝暦年間に生間村から当地へと移されたと伝わっている。

     阿弥陀堂  中筋にある。

     薬師堂  岡にある。

    (山林)      前山  村の三面が山である。総てこれを前山と呼んだ。その中に西谷、          龍王谷、本谷、蛇谷、一町、砂子、竹尾、小河の名がある。       林  二〇,三居林、他に御林があるが畝数は不明である。

    (陂池) 新池、山神池、泉田池、井倉池、中谷池、以上五

    (橋梁) 梁一

    (川溝) 溝一派 前山の谷水坤から東へと流れ宮田村へと入る。

    (小地名) 小河、岡、中筋、北岡、北山、牛屋口、下地、長尾坂             以上八

真野郷

        昔から神野神社が当地にあり、更に満濃池の西方の山を神野寺山        と呼ぶ。         この山には神野寺と言うのが有ったが慶長年中に焼亡したと伝わっ        ている。

        そこで当地の名称は神野と言っていた神の字音を志仁野と唱え改        めていたのを同韻なので真と改めなおした。

        類聚国史に           「大同四年九月乙巳改伊豫國神野郡、為新居郡以觸上諱」         と書かれているから、当時ここもこの頃に改めたのであろう。

        現在この郷は九村有るが、七ヶ村と呼ばれている。        これは昔、東西七村ずつ計十四村有ったのを、寛永年中に五村を        東讃へ属させ、残る九村が西讃に残ったのだが、なお昔のままの        呼称で呼び慣わしているものである。

        地味 買田、生間、追上、山脇、帆山、等の諸村は五,六割りが             真土で、            大口、新目等は五,六割りが黒土、            宮田は真土と黒土が半々であり、            総てそれ以外は砂又は小石混じりである。

 買田村         日吉行幸記に当村の事が次の様に書かれている。        「讃岐國買田、文保炎上之後、造いまだ終されば、哀に思召され         絶て久しく成ける龍華會の料、讃岐國買田をかへし附られ、還         御の後、行なはれける、普き御恵のいつくしみなかなか申もお         ろかなり」

        東西六町、南北八町の町で、丸亀からの距離は三里十八町で        ある。         東は岸上、南は宮田と生間の二村、西は佐文と松尾の二村、        北は五条の諸村に隣接している。         村高は三百二石五斗九合である。

      (田畝) 三二,六二一五 内四,七六畑、一,六七屋敷地

      (租税)          米一五五,三七五、大麦二,二八九三、小麦一,一四四七、         大豆二,七九五

      (戸口) 戸数五十八戸、            人口二百六十三人(男百五十四、女百九)

      (畜産) 牛三十二、馬二

      (神祠)        葛城大明神  祭神は一言主命で神像は七体と神鏡も七面ある。                鏡壷に永享元年八月朔日と書かれている。祭紀は                九月十日である。                 社林は四段。祠官は朝倉日向である。

       國盛祠  葛城社頭にあり、飯尾太六兵衛國盛の霊を祀っている。

       天満宮祠  馬場にある。

       清木祠  長にある。

       住吉祠  隅田にある。

       山神祠  南畑にある。

       皇子祠  西岡にあり、祭神は神櫛無命である。

       厳島祠  北坊にある。

       妙見祠  妙見谷にある。

       立石祠  東谷にある。 

      (仏寺)        慧光寺  香積山日晴院と称する。真言宗仁和寺の末寺である。              本尊は薬師で、開山は行基。              弘仁十二年に空海が堂宇を再建したと伝わっている。               本尊は行基の作であったが火災にあって、焼け残っ              た像を使って定朝が現在のを作った。               この他、尾脊の廃跡から得た神野寺の本尊であった              正観音、智證の作で不動などの諸像を安置している。

       地蔵堂  向山にある。

      (山林)        西山 東山、         林 二十一町二段五畝、内十七町五段八畝 居林。

      (陂池)        夏目池、法師谷池、寺池、雁股池、比留池、岡池、奥谷池、        同上池、東谷池、出井奥池、阿勢比谷池、同上池、皿池、        寺奥池 以上十四

      (橋梁) 橋四 把三

      (堰閘) 堰三 閘一

      (川溝) 川一派 宮田村から東北へと流れ五條村へと入る。

      (小地名) 坪之内、小倉、保宇、南畑、寺、西岡、郷見峠、東岡、              高座、大苗代、以上十二

 宮田村         東西十町三十間、南北十二町三十間の村で、丸亀からの距        離は三里二十町である。         東は生間、南は追上、西は佐文、北は買田の諸村に隣接して        いる。         村高は百七十石六斗六升四合五勺である。

      (田畝) 二五,〇一六、 内一,四一畑、〇,八四屋敷地

      (租税)          米九〇,二五九、大麦一,八七三三、小麦〇,九三六七、         大豆一,六四一三

      (戸口) 戸数四十八戸、            人口二百三十一人(男百十七、女百十四)

      (畜産) 牛三十七、馬九

      (神祠)        國王大明神  祭神は大巳貴命で、祭紀は九月十日である。                社林は一町。祠官は朝倉日向である。

       荒神祠五  北谷、神の前、西の下、下屋敷、法然堂の五ヶ所に                ある。

       木折祠  木折にある。

      (仏寺)        法然堂              承元元年に源空に罪があってこの地へ流され、この草庵            に住まいしたと伝わり、自分で刻んだ肖像が有る。            流遇の項を参照。

       地蔵堂  向山にある。

      (山林)        桜谷山 河内山 中生間山 北山 堂ガ谷山 以上五        林  九町二段七畝、居林。

      (陂池)        久米池、皿池、戸越池 以上三

      (橋梁) 橋二 把二

      (堰閘) 堰十

      (川溝) 川二派  一派は佐文から東へと流れ、 一派は追上から                  北へと流れて共に買田へと入る。

      (塚墓) 墓一 山崎にあり、王墓と呼ばれている。

      (小地名)  河内、細田、杖尻、小畔、長通、深田、北、藤黒、               下屋敷、畔田、中川、坪内、平畑、拂川、中條                以上十六

 追上村          東西十四町、南北二十八町の村で、丸亀からの距離は四里         である。          東は大口、南は山脇、西は上の村、北は宮田の諸村に隣接         している。          村高は九十九石三斗一升三合五勺である。

      (田畝) 一六,三十五、 内五,三五畑、〇,六六屋敷地

      (租税)  米三六,七〇三、大麦三,四一五、小麦一,七〇八、             大豆〇,六四四

      (戸口) 戸数三十四戸、            人口百四十六人(男七十、女七十六)

      (畜産) 牛十九、馬三

      (神祠)        三所大明神  祭神は三女神で、祭紀は九月十二日である。                社林は一段余で、祠官は朝倉日向である。

       龍王祠  鷲尾にある。

       山神祠  尾崎にある。

       天皇祠  下口にあり、祭神は神崇徳帝で、社林が一段ある。

       荒神祠  番匠屋敷にある。

      (仏寺)        地蔵堂  番匠屋敷にあり、境内は五畝ある。

       毘沙門堂  上之空にある。境内は一段。

      (山林)        買掛山 瓜生谷山 西尾山 合殿山         林  十五町二十三歩、居林。

      (陂池)        椴木池、合殿池、露谷池、生正池、天王池 以上五

      (堰閘) 堰十

      (川溝) 川一派 大口から西へと流れ上の村へとはいる。            溝一派 上の村から南へと流れて又上の村へと入る。

      (小地名)  下口、買掛、三段地、五段地、尾崎、中薮、上の空、               中地、堂面、長畑、正地、比加原 以上十二

 山脇村          東西一里三十二町、南北二里四町の村で、丸亀からの         距離は五里である。          東は新目と本目の二村、西は上の村と追上、南は大山         の峰の長さ一里程で、阿波国と境を接している。          村高は百八十六石五斗六升五勺である。

      (田畝) 二一,〇三一〇、 内二,四八畑、一,四屋敷地

      (租税)           米一〇八,六四二、大麦二,四八七三、小麦一,二四三七、          大豆一,九七五二

      (戸口)  戸数五十四戸、             人口二百二十四人(男百十、女百十四)

      (畜産) 牛二十二、馬一

      (神祠)        十二社権現 祭神は熊野十二神で、祭紀は九月八日である。                社林は三段。祠官は朝倉日向である。

       貴船祠  森正にある。

       龍王祠  瀧下にある。

       荒神祠二  森下と小善法の二ヶ所にある。

       西井祠 東井祠  共に西岡にある。

       聖神祠  上寺にある。

      (仏寺)        観音堂  的場にある。

       阿弥陀堂  丸山にある。

       地蔵堂二  黒川と松畑の二ヶ所にある。

      (山林)        大山 日浦山         林 六町二段五歩、居林。御林は日浦山にあるが畝数は詳しく          は判らないが、東西四十町、南北三十町ある。

      (陂池) 薇池鵙、谷池

      (橋梁) 橋一

      (堰閘) 堰四

      (川溝)  川三派 一派は新目から西へと流れ、一派は黒部山                  から北へと流れ、                   一派は本目から西へ流れて共に上の村へと                  入り、一派にまとまる。                   これは深川の上流である。

      (源泉)  轟瀧 黒部山にあり、真流十五間である。

      (塚墓)  墓一  香川神と呼ばれている。

      (小地名)  黒川、百々、上寺、西方、渡瀬、久保、長手、竹詰、               大浦、西岡 以上十

 新目村            東西十五町、南北十八町の村で、丸亀からの距離は           四里である。            東は本目、西は上の村、南は山脇、北は大口の諸村に           隣接している。            村高は二百三十一石九升四合である。

      (田畝) 三三,一一二九、 内五,四五畑、一,八屋敷地

      (租税)           米一〇九,四三三、大麦二,三二七二、小麦一,一六三七、          大豆一,八六四二

      (戸口) 戸数七十戸、            人口三百十一人(男百六十三、女百四十八)

      (畜産) 牛五十、馬三

      (神祠)        鷲尾大明神  祭神は天日鷲命で、祭紀は九月九日である。                社林は一町三段五畝で、祠官は朝倉日向である。

       荒神祠四  鷲尾社頭、平芝、阿弥陀堂、向の四ヶ所にある。

       天神祠  正田にある。

       仁比田祠  飯田の端にあり、社林は一段五畝ある。

      (仏寺)        圓宗寺  幽谷山と称し、一向宗興昌承寺の末寺である。              開基は西信で、現在十代目と言う。

       阿弥陀堂  荘園に有る。

       観音堂  向にある

       地蔵堂  道添にある。

      (山林)        北山 南山 林 三町六畝、居林。             御林は前山に有るが畝数の詳細は判らないが、東西             三十町、南北二十町である。

      (陂池)        盆後池、赤坂池、立石谷池、山口池、簣池、桑谷池 以上六

      (橋梁) 橋三

      (堰閘) 堰四

      (川溝) 川一派 本目から西へと流れ山脇村へと入る。            溝一派 前山から北へ流れて大川へと入る。

      (小地名) 平芝、宮地、国重、中内、高木、田中、木原、百々、              経塚 以上九

 大口村          東西十六町、南北八町四十間の村で、丸亀からの距離は         四里である。          東は後山、西は追上、南は新目、北は生間の諸村に隣接         している。          村高は百六十七石一斗四升二合である。

      (田畝) 二一,一二一三、 内二,八〇畑、〇,九屋敷地

      (租税)          米七九,四三八、大麦一,二八一三、小麦〇,六四〇七、         大豆一,四一九九

      (戸口) 戸数四十四戸、            人口二百十人(男百六、女百四)

      (畜産)  牛二十七、馬一

      (神祠)        三川大明神  祭神は木華開屋(このはなさくや)姫命で、祭                紀は九月六日である。                 社林は三段で、祠官は朝倉日向である。

       若宮祠  宮沙にある。

       天神祠  堂の本にある。

       荒神祠八  三川明神社頭、起宮、堂前、大岐、大西、西岡、                森前、等の七ヶ所にある。

       龍王祠  行成口にある。

      (仏寺)        毘沙門堂  西岡に有る。

      (山林)        行成山 南山 北山         林 七町五段一畝、内七町四段五畝 居林。

      (陂池)        下處池、土岐谷池、土岐土池、寿陪里池、烏帽子池 以上五

      (橋梁)  橋一 梁一

      (堰閘)  堰十

      (川溝)  川一派 後山から西へと流れ追上村へと入る。             溝一派 後山から南へ流れて大川へと入る。

      (小地名) 行成、松砂、陣出、西の前、西岡、土岐、中岡、坊、              中家、清兼、定國、鎌墓、大坪 以上十三

 後山村         東西七町、南北十二町の村で、丸亀からの距離は四里で        ある。         東は帆山、西は大口村、南は本目、北は生間と追上の諸        村に隣接している。         村高は六十石五斗二升五合である。

      (田畝) 九,一一二三、 内〇,三六畑、〇,三五屋敷地

      (租税) 米二四,五四五、大麦一,五五五、小麦〇,七七六、            大豆〇,四三

      (戸口) 戸数十九戸、            人口八十六人(男四十八、女三十八)

      (畜産)  牛十一、馬一

      (神祠)        三種大明神  祭神は三女神で、祭紀は九月五日である。                 社林は一段で、祠官は朝倉日向である。

       貴船祠  家の前にある。

       西宮祠  丸山にある。

       鉾宮祠  皇子の上にある。

      (仏寺)        薬師堂  屋敷の上にある。

       観音堂  堂の上にある

      (山林)        樋向山 北山  林 八町九段一畝、居林。

      (陂池)        道谷池、西谷池、同下池、椿池、宮谷池、下所池 以上六

      (橋梁) 梁二

      (川溝) 溝一派 北山から南へ流れて大川へと入る。

      (小地名) 西谷、暇股、宮谷、岡、樋向、下處、加良美               以上七

 帆上村         東西十町、南北六町の村で、丸亀からの距離は四里であ         る。         東は福良見、南は小池、西は後山、北は岸上の諸村に隣        接している。         村高は百七十石一斗九升五合である。

      (田畝) 二三,八一四、 内三,八八六畑、〇,七二屋敷地

      (租税)         米七三,三〇七五、大麦一,九七二、小麦〇,九八六、         大豆,二八六九

      (戸口) 戸数三十八戸、            人口二百二十一人(男百十五、女百六)

      (畜産)  牛三十二、馬三

      (神祠)        高室大明神  祭神は木華開屋(このはなさくや)姫命で、                祭紀は八月二十四日である。                 社林は一町で、祠官は朝倉日向である。

       荒神祠  上之山にある。

      (仏寺)        薬師堂  御館山にある。

       観音堂  丸山にある

      (山林)        丸山 天王山 北山  林 九町三段七畝、居林。

      (陂池)        天王池、新田池、志折池、舌垂池、松沙上池、同下池、碇池、        岩谷池 以上八

      (川溝) 溝一派 小池村から東北へ流れて福良見村へと入る。

      (源泉) 原泉、井之尻泉

      (塚墓) 塚一 姫塚と呼び、塚上に一樹があって里人は父の木                と呼んでいたが三十年前に枯れてしまった。

      (小地名) 衣輪、原、竹下、横田、小西、下處、天皇、沙上、              小原、下原 以上十

 生間村          東西七町、南北二十町の村で、丸亀からの距離は三里十         八町である。          東は岸上、南は後山、西は宮田、北は買田の諸村に隣接         している。          村高は七十四石七斗一升三合五勺である。

      (田畝) 一,四一一四、 内三,四九畑、〇,四屋敷地

      (租税)          米三八,一六九、大麦〇,八三八七、小麦〇,四一九三、          大豆〇,六八八四

      (戸口) 戸数二十三戸、            人口百十六人(男六十、女五十六)

      (畜産)  牛十四、馬二

      (神祠)        三宝荒神  祭紀は九月四日である。祠官は朝倉日向である。

       山神祠  大郡にある。

       皇子祠  祭神は櫛無皇子で、皇子山にある。

      (山林)        佛原山 丸山 大郡山 皇子山 田尾山 沙山          林 十二町五段九畝、居林。

      (陂池)  馬瀬池 

      (堰閘)  堰二

      (川溝)  溝一派 山から北へ流れて買田林へと入る。

      (小地名)        皇子、長手、田尾、大郡、堂沙、林下、北沙、本土居、中生間、        新名地、佛原 以上十一


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Last-modified: 2012-08-18 (土) 10:59:00 (2622d)