新撰姓氏録

  • 九世紀初に編纂された「新撰姓氏録」には、五畿内に住んでいた一一七九の氏族の名が記されているが、そのうち皇別・神別八〇五氏(うち未定雑姓四八氏)、諸蕃三七四氏(うち未定雑姓四八氏)が記されている。諸蕃が渡来系氏族で、うち先祖を中国とするもの一六三氏、百済一〇四氏、高麗(高句麗)四一氏、新羅九氏、任那九氏である。

讃岐国造

垂仁天皇 ━━ 景行天皇 ┳━ 大碓命
             ┃
             ┣━ 日本武尊 ┳━ 具倉王 ━━ 武国王 ━━
             ┃       ┃
             ┃       ┣━ 武卵王 ━━ 爾彌麻命──奈鬼爾麻命──竈王多富利大別命──日向王──【綾】多祁君
                 ┃       ┃
             ┃       ┗━ 仲哀天皇━━ 応神天皇 ━ 仁徳天皇 ━
             ┃
             ┣━ 成務天皇 ━━━ 和謌奴気王
             ┃
             ┣━ 五百城入彦命 ━━━━━━━━━━ 品陀真若王
             ┃
             ┣━ 稲背入彦命 ━━ 御諸別命 ━━━ 阿良都
             ┃                  [針間国造祖]
             ┣━ 神櫛命 ━━━━ 千摩大別命 ━━ 須売保礼命
             ┃                  [讃岐国造祖]

人麻呂と軍王

  • 讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)せる時、軍王(いくさのおほきみ)の山を見てよみたまへる歌
    • 0005 霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける 別(わ)きも知らず    むらきもの 心を痛み 鵺子鳥(ぬえことり) うら嘆(な)げ居(を)れば    玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大王の    行幸(いでまし)の 山越しの風の 独り居(を)る 吾(あ)が衣手(ころもて)に    朝宵に 還らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へる我(あれ)も    草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに    綱の浦の 海人処女(あ ま を と め)らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 吾(あ)が下情(したごころ)
  • 反し歌
    • 0006 山越しの風を時じみ寝(ぬ)る夜おちず家なる妹を懸けて偲(しぬ)ひつ      右、日本書紀ヲ検(カムガ)フルニ、讃岐国ニ幸スコト無シ。亦      軍王ハ詳(ツマビ)ラカナラズ。但シ山上憶良大夫ガ類聚歌林ニ      曰ク、紀ニ曰ク、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、      伊豫ノ温湯ノ宮ニ幸セリト云ヘリ。一書ニ云ク、是ノ時      宮ノ前ニ二ノ樹木在リ。此ノ二ノ樹ニ斑鳩(イカルガ)比米(シメ)二ノ鳥、      大ニ集マレリ。時ニ 勅 (ミコトノリ)シテ多ク稲穂ヲ掛ケテ之ヲ養      ヒタマフ。乃チ作メル歌ト云ヘリ。若疑(ケダシ)此便ヨリ幸セルカ。
  • しゃみ島 http://www.sakaide.or.jp/rekishi/2.htm
  • この「軍王」が誰なのか不明とされていますが、『日本書紀』には「軍君」と書いて「こにきし」と呼ばれる人物がいます。百済の王族「昆支王」です。また百済では「王」を「こにきし」といいます。このことから万葉集の「軍王」とは百済の王族をさす「こにきし」ではないかという説を唱える人もいます。
  • 加唐島と武寧王  『日本書紀』には、倭の五王の最後の武王、つまり雄略天皇の段に、鎮西町とかかわりがあるのではないかと考えられる記事がある。すなわち、雄略天皇五年の条の、百済の武寧王の出生にまつわる説話である。  五世紀の半ば、百済は高句麗の圧迫を防ぐため、日本と同盟を結び、日本に人質を送っていた。ところが雄略天皇二年、人質であった池津媛は不義を犯したことをとがめられて処刑された。このことによって日本との関係にひびが入るのを恐れた百済の蓋鹵王(こうろおう)(加須利君かすりのきみ)は、その弟軍君(こにきし)(昆支こにき)を日本におくることにした。そのとき、王は軍君の要望にこたえて側室の一人を与えたが、彼女はすでに懐妊し、産み月も近かった。王は、途中で男の子が生まれたなら、ただちにその子を送り返すようにといった。軍君が筑紫の各羅島(かからのしま)に到着したとき、側室は男児を産み落とした。島で生まれたので男児は「島君せまきし」と名づけられ、百済に送り返された。この男児は成人ののち王位を継ぎ、武寧王となった。それ故に百済の人は、各羅島を主島(にりむせま)とよんでいる、というものである。
  • 讃岐狹岑《サミネ》島(ニテ)視石中(ノ)死人  柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
    (たまもよし) さぬきの國は 國からか 見れどもあかぬ 神《カム・カミ》からか 
    ここだたふとき あめつち 日月と共に たりゆかむ 神のみおもと 來《アフギクル》
    中のみなとゆ 船うけて わがこぎくれば ときつ風 雲居にふくに おきみれば 
    しき浪たち へ見れば しら浪さわぐ 
    
    玉藻吉讃岐國者國柄加雖見不飽神柄加幾許貴寸天地日月與共滿將行神乃御面跡次來中乃
    水門從船浮而吾榜來者時風雲居爾吹爾奥見者跡位浪立邊見者白浪散動 
(いさなとり) 海をかしこみ ゆく船の 梶ひきをりて をちこちの 島はおほけど
 (なぐはし) 狹岑の島の ありそ面〔左△〕《ミ》に いほりてみれば 
鯨魚取海乎恐行船乃梶引折而彼此之島者雖多名細之狹岑之島乃荒礒面爾廬作而見者 

雄略天皇と韓情勢

昆支(雄略5年):(原文) 百済新撰に云はく、辛丑年に蓋鹵王、弟昆支君を遣して、大倭に向(=詣)でて、天王に侍らしむ。以って兄王の好を脩むるなりといへり。蓋鹵王の辛丑年は461年。弟の昆支君はコニキシ。宋書462年に倭王興が遣使とあり、安東大将軍・倭国王の爵を受けている。

455年    蓋鹵王即位(三国史記)
461年(辛丑) 昆支君(蓋鹵王の弟)大倭に赴く
475年(乙卯) 百済滅亡、蓋鹵王死す
475年    熊津に百済王室再興(文洲王)
477年    未多王(昆支君の子)、百済王(東城王)となる
489年(己巳) 雄略没(記)
  • 屋島城
    • 日本書紀の天智6(667)年の記述にある。近江遷都などに続く問題のくだりは一行。「是(こ)の月(11月)、倭國(やまとのくに)の高安城(たかやすのき)、讃吉國(さぬきのくに)の山田郡(やまだのこおり)の屋嶋城、對馬國(つしまのくに)の金田城(かなたのき)を築く」(日本古典文学体系「日本書紀」)とある。  当時、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅(しらぎ)の連合軍に敗れた日本は、唐軍の事実上の九州駐留もあり、大陸からの侵攻の影におびえていた。日本書紀、続日本紀(しょくにほんしょき)に登場する城は13。屋島城はその一つ。

けいこう天皇の皇子

  • 「城山長者と金山長者の宝くらべ」     昔、城山長者というお金持ちが住んでいました。城山長者には、絵のように美しい娘がありましたが、どうしたことか足がたちませんでした。そこで長者は、城山のてっぺんからふもとまで車道をつくって、朝晩二回散歩することにしていました。娘は、それをいつもよろこんでいました。  城山のふもとの金山には、金山長者と言う金持ちが住んでいました。 金山の沖の海のそこには、金の山があったからこのあたりでとれる鯛(タイ)は、金色にかがやいていました。そして、とても高く売れました。だから金山長者は、遠い国からめずらしい宝石や織物を買い集めることができました。     ある日のこと金山長者は、「宝比べをしよう」と城山長者に申し入れました。「これは、こまったぞ」城山長者は、娘の足の治療に、お金を使ってしまっていたからです。  そして、いよいよその宝物比べの日になりました。城山長者の家にはおおぜいの見物人が集まっていました。金山長者は、宝物を何十とうの馬に積んで庭まで運んできました。見物人は、その宝物におどろきの声をあげました。城山長者は、車乗せた娘と二人だけで現れました。見物人は驚きました。城山長者は言いました。「これがわたしの一番の宝物です」娘の心の中には、城山の松や草花の美しさが、しみとおっておりました。見物人は、その娘の美しさに思わず、「おお・・・」とさけびました。
  • 城山長者のものがたり
    • むかしむかし、このあたりで一番高く見晴らしのよい城山の頂上に、立派な家を建てて住んでいた人がいました。  その人は、瀬戸の海を荒らしていた悪魚を退治して、この地を治めた武殻王の子孫で、益川(やがわ)という人でした。  この人は、大変な大金持ちで、人々から城山長者と呼ばれていました。  大金持ちの長者は、どんなことでも自分の思いのままにかなえられました。 「八十場の水が飲みたい」と言っては、けわしい山道を、ふもとの八十場まで水をくみに行かせたり、 「生きている鯛が食べたい」と言っては、夜の夜中でも真っ暗な坂道を浜辺まで行かせ、ピチピチとはねている大きな鯛を買って来させたりしました。  また暑い夏には、「行水をする。今すぐ水を用意しろ。」と言っては、深い谷底から冷たい水を運ばせました。  大勢の男たちは、頭に水桶をのせて汗をいっぱい流しながら、何回も何回も運びました。 しかし、この長者にもどうにもならないことがありました。 それは一人娘の乙姫様のことです。  姫は、生まれた時から足が悪く、立つ事もできなかったのです。  長者はたくさんのお金を使って、都から立派な医者を迎えたり、長崎に、良く効く薬があると聞けばすぐに買いに行かせたりして、八方手を尽くしましたが、治す事が出来ませんでした。  姫は成長するにしたがって、長者も目を見張るほど美しくなっていきました。  髪はカラスの濡れ場色、眉はさんやの三日月眉毛、切れ長の目にまつ毛も長く、鼻高からず低からず、口はかわいいおちょぼ口、色が白くてもち肌で、それはまるで絵から抜け出たようなお姫様でした。  村の人たちの間では、この美しいお姫様を一目でも見たいものだと噂されるようになりました。  長者は、「姫も家の中ばかりでは心も晴れまい せめてこの山のまわりの素晴らしい景色を見せてやりたい」 「何かよい方法はないものか....」 「そうだ 姫を車に乗せて散歩をさせよう。」  その日から、大勢の人夫を集めて、木を切り石垣を築き、土をならして車の通る道と、姫を乗せる立派な車を作り始めました。  長者も工事場をまわって、「ここは景色が見えにくい。もっと木を切り倒せ。」「この坂は急すぎる。もっと土を埋めてなだらかに。」  こうして、大金をつぎ込んで、城山を二重に取り巻く長く立派な車道(くるまみち)が出来上がりました。  長者は大変喜んで、さっそく姫を車に乗せ、自分もそばに付き添って散歩に出かけました。  西に出ると川津の里にけむりが立ち、その向こうにひときわ美しい讃岐富士のすがたが見えました。  鵜足(うだ)那珂(なか)の広い平野をうるおして、緩やかに流れる土器の川、遠くに白波の打ち寄せる浜は浦島の里であろうか。  見晴らしのよい所では車を止めて、辺りの景色を眺めながら、長者と姫は楽しそうに話をしました。  南に登れば、阿讃の山々が大きく小さく連なり重なり合って、美しい姫を迎えているように見えました。  山合の所々に白く光って見えるため池も、それぞれにおもしろい形を見せてくれました。
       明神原にお参りをすませて東に出ると、五色台が目の前にせまり、村人の住む小さな家があちらこちらに見えました。
       綾川の流れは、水音をたて山合をくねりながら、阿野(あや)の里を流れやがて松山の海にそそいでいました。  北に出ると、むかし祖先が勇敢に悪魚と戦った瀬戸の海が開け、遙かにかすんで見える備前の山々を背景に、塩飽の島々は白砂と青松の美しい島影をうつし、船は青い海にいくすじも白い船のあとを残していました。  そしてそれは、季節の移り変わり、時の流れとともに色を変えおもむきを変えて、何度見ても飽きない素晴らしい眺めでした。  毎日お姫様が車道(くるまみち)を散歩しているという噂を聞いた村人たちは、城山へ登って行きました。 「おはようさん。こんなに、はよからどこ行っきょんな。」 「ちょっと城山へ。」 「いとはん見にか?わしも昨日行って来たわ。」 「ありゃ まんで天女のようじゃ。あんなけっこな娘見たことないわ。ついでに車道(くるまみち)もまわって見てこいや。」 「ええ道じゃ言よったのー。ほんだら行って来るわ。」  城山長者の車道(くるまみち)は、美しい乙姫様を一目見ようと、毎日毎日大勢の人が集まってきたという事です。

出典 「川津のむかし話」昭和58年川津町子供会作成

  • 式内社 櫛梨神社
  • http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/kagawa/kusinashi.html 延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とあり讃岐に二十四社ある式内社の一社である 社伝によれば 「景行天皇の二十三年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り 御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という 船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、付近の稍西、 此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり 悪魚征討後、城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる 仲哀天皇の八年九月十五日、御年百二十歳にて薨じ給う 国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という 社殿は壮麗、境内は三十六町の社領 御旅所は仲南町塩入八町谷七曲(直線距離およそ15km)に在り」

神櫛王

  • 神櫛皇子について景行記には次の様に書かれている。
    景行天皇の「妃五十河媛(いかわひめ)、生神櫛皇子、稲背入彦皇子、其兄神櫛皇子、是讃岐国造之祖也、相伝フ」
  • 五十香足彦命(神櫛王は木国の酒部阿比古、宇多酒部の祖=古事記)
  •         (神櫛皇子は讃岐国造の始祖=日本書紀)
 讃岐公―――――大足彦忍代別天皇皇子、五十香足彦命の後―――右京皇別下               
酒部公―――――同皇子三世孫、足彦大兄王の後――――――――右京皇別下              
酒部公―――――讃岐公同祖、神櫛別命の後――――――――――和泉国皇別
  • 丹後「丹哥府志」:五十河村 延利村の東、古名五十日、今五十河に作る。五十河足彦尊:垂仁天皇の御宇に丹波道主命の五女召されて后妃となる、五十日足彦尊ハ其第四妃?瓊入媛の子なり道主命の孫にあたる。五十日村より貢を奉る。
  • 丹後 小野小町:中郡三重村谷の内五十河村の邊小野と云ふ村あり、俗にいふ此邊は往昔小野一族の所領にて小町老年に及びて此地に來りて卒す、則辭世なりとて
  • 讃留霊記には讃留霊公の裔に酒部 甲黒麿という人物がおり、酒を造って允恭天皇へと奉ったと書かれている。
  • 姓氏録には、酒部公と讃岐公は同祖で神櫛別命の後裔であると記述がある。
  • 五十河彦命について、
    • 舊事記には「五十河彦命、讃岐直五十河別祖」と書かれている。
    • 姓氏録右京皇別には「讃岐公、大足彦忽代別天皇皇子、五十香足彦命之後也」と書かれている。
  • 櫛見皇命について
    • 舊事記には「櫛見皇命、讃岐国造祖」と書かれている。
  • 神大根王は三野(美濃)・本巣の国造でまた、常陸国久慈郡の長幡部連の祖、とされ地方色が濃く、また、神櫛王も日本書紀では、讃岐国造の始祖とされています。
  • 地域の本棚によれば
    古来、酒の事を久志とも言い、神櫛の櫛は酒による御名でもあろう。
    更に神は例のごとく尊称であるので、ただ、櫛王と言われたのであろう。
    讃留霊王と言うのも、霊王は久志乃美古と言うべきだろう。
    しかしながら讃留に関しての意味は未だに考えが及ぶ所では無いが、強いて言えば、
    留は奴より轉る事なので、讃岐の岐を略して、そう呼びならわしたものであろうか。
  • 履中天皇は「鮒魚磯別」の娘2人(太姫郎姫と高鶴郎姫)を後宮としたが、(書紀) その兄「鷲住王」は「讃岐国造、阿波国之脚咋別」らの始祖とされる。(これも書紀) ここで名前に「鮒」を含む「吉備品遅部雄鮒」と「鮒魚磯別」は無関係ではない。 「吉備品遅部雄鮒」も「鮒魚磯別」も「神櫛」の係累と考えれば、全体の辻褄が合う。

天の川と酒部:酒造りの女神

  • 丸亀に流れ込む「土器川」の上流に「天川神社」がある。神社の創建は731年(天平2年)
  • 琴南町の天川神社には、酒部黒麿と星になった女神が祭られている。
この天川の里に住む綾黒麿の屋敷に、一つの星が降ってきた。
その星は、たちまち美しい姫君となり、成長した姫は酒造りがとても上手で、その酒はくめども尽きず、
極上の味であった。病人を癒し、長生きをさせるという不思議な力をも持っていた。
このうわさは都に伝わり、天皇に献じたところ大いに褒められ、「酒部」の姓を賜り、
黒麿は讃岐酒造りの始祖となった。
黒麿に酒造の秘伝を授けた姫は、清流土器川のふちに身を沈め、星神となって再び天に帰ったという。
  • これは「かぐや姫:竹取物語の原型」ではなかろうか。
  • 讃岐の酒のルーツである。
    • 豊中町の宇賀神社は、延喜年間(901年~923年)から、神酒の醸造法が口伝授によって継承されてきたとされ、今でも全国的に珍しい醸造が許された神社として知られている。
  • 酒部公は神の酒をつくり代々世襲であったらしい。

丹後の五十河

  • 三重長者五十日真黒人(大宮町五十河)の話
  • 五十河に五十河谷という深い谷があり、約二㎞余り奥の谷間に石垣の跡の残る十坪程ずつ三段になった所があり、古来三重長者五十日真黒人の屋敷跡という。この付近には殿様薮という竹薮があり、又二皇子が牛飼いしたという「王子がなる」という台地もある。これらからこの地は真黒人が二皇子のために築いた隠れ家であったのであろう。
  • その他に五十河から内山に至る道の途中から味土野に通ずる道の傍の山頂に近い台地にも「長者屋敷」と呼ぶ所がある。この屋敷の大石の下に小判が埋められているという伝えがあり、昭和の初村人達が一m程発掘したが、小判はなく朽鉄のような茶褐色のもの多量と小砥石一個が出たという。
  • このように数ケ所を三重長者の邸跡と伝えているが最も確実性の多いのは須恵器を出土した蔵住である。この有名な三重長者五十日真黒人の保護した億計(おけ)雄計(をけ)二王子の逃避事件について日本書記(顕宗紀)に次の如く書いている。
    • 雄略天皇は即位前、父允恭天皇を殺害した仇眉輪(まよわ)の王を殺し、次いで、履中天皇の皇子市辺(いちのへ)の押磐(おしは)の皇子を近江の蚊屋野に狩に誘い偽って射殺した。かくして雄略帝は帝位に即(つ)いたが、押磐の皇子の二子億計(おけ)(古事記は意富祇(おほけ)おほは長の意)雄計(おけ)(古事記は袁祇(をけ)をは幼の意)二王子は雄略帝の迫害を恐れて丹波の余社(よさ)の郡に難を避けた。清寧天皇の逝去に伴い弟の雄計王まず即位して顕宗天皇となり、ついで兄の億計王即位して仁賢天皇となった。(顕宗紀)
    • 二王子を隠し養った功績により五十日真黒人は三重長老となったと伝える。
  • 参考:三重長者

神櫛王の墓

  • 讃岐の名山飯野山と象頭山を直線で結んだほぼ直線上 金倉川東岸に標高158mの如意山(与北山)があり その南麓に讃岐開闢の祖といわれる神櫛王を祭神とする櫛梨神社がある
  • 上櫛無村東西十町、南北八町の町で、丸亀からの距離は二里十町である。      東は公文、南は苗田、西は大麻、北は下櫛無の諸村に隣接している。村高は五百九十七石六斗五舛九合五勺である。(神祠) 大蔵大明神  祭神は姫蹈鞴五十鈴姫命であるが鎮座した年は不明である。景行天皇二十三年に神櫛皇子を崇め奉ったと社伝に書かれている。祭紀は九月十五日である。社地は一段五畝。社僧は善光寺で、祠官は秋山 伊豆である。
  • 下櫛無村 東西十町、南北十一町の広さである。丸亀から二里八町の 距離にあり、東は公文、南は上櫛無、西は大麻と生野の二村、北は興北の諸村に隣接している。村高は五百九十二石四斗である。
    • (神祠)櫛無神社  皇宮大明神と称する。祭神は神櫛皇子で、式内 二十四社の内の一つである。祭紀は九月十五日である
      •  朝野群載に
                      「神祇官謹奏、天皇我御體御卜乎卜部等、天地爾
                       卜供奏留状奏親諸王諸臣百官人等四方國乃賓
                       客之政風吹雨○令、是事聞職天、折援置問給○
                       供奏○、御卜火数百六十火之中、直卜百十六、
                       天卜七火、地相卜六火、相卜十二火、神相卜八
                       火、人相卜六火、相卜十二火、神相卜八火、人
                       相卜二火、地相卜七火、以是卜求、坐伊勢國大
                       神宮御領云々、坐讃岐國大麻神、櫛無神、田尾
                       水主神、田村神云々、社司等依遇槭神事崇給、
                       遺使、科中祓、可令祓清奏仕云々、永禄四年六
                       月十日宮主正六位上卜部行直、少祐卜部宿禰
                       兼宗、」
  • 中津
    • 下金倉村  この村は那珂郡の津であることから別名中津とも呼ばれる。東西十町十間、南北十町五十間の広さである。丸亀から二十二町の距離にあり、東は今津、南は絵金倉、西は鴨村等の諸村に隣接し、北に海を望む。村高は六百三十五石二合。
    • 川西、川東、下之村、中之村、新張 以上五櫛無郷。後深心院関白記に櫛無保とかかれている。景行天皇の子神櫛命が当地へと来て崩御されたのでこの名がついたと伝わっている。
    • (仏寺)徳行寺無量山と称し、一向宗西本願寺の末寺である。昔は堀江村にあったものを承応年間に当地へと移したと言われている。
  • 塩屋
    • 塩屋村。塩屋と称するのは、元和元年三月七日に播磨国赤穂の田中孫六、芥五郎大夫、中山治右衛門、為久甚太夫、永安助右衛門、尾崎藤大夫、その他二十二人が伴って当地へと移り住んで塩田を開墾してその業を始めたのでこの名前が付いた。東西七町五十六間、南北六町の広さである。東は丸亀に繋がり、南は今津、西は下金倉に接して、北は塩飽島に面した海に向かっている。
    • (神祠) 天満宮  祭紀は九月二十五日。社地東西十九間、南北三十二間、社僧は福寿院で、祠官は秋山上総介である。  塩竃祠  新塩屋にある。 保食御前祠  村南にあり、祠官は宮武常陸である。
  • 上金倉村 東西九町五間、南北一三町三十二間の町で、丸亀からの距離は二十五町である。東は新田、田村の二村に、南は原田、金蔵寺の二村に、西は葛原、加茂の二村に、北は下金倉の諸村に隣接している。村高は七五六石六斗一舛一合五勺である。
    •  (神祠) 八十主大明神  祭神は大巳貴命で、祭紀は九月十日である。 池の下にあったものを寛文四年九月に今の地へ と移した。 祠官は宮武日向である。古宮祠池の下にあり、八十主社の跡地である。 荒神祠  川西にある。 糺杜祠  町畑にあり、多田氏の祖先を祀ると伝わっている。(仏寺) 東坊   無量山と称する。 一向宗西本願寺の末寺である。昔は真言宗であったが賢永という人が蓮如上人に帰依して今の宗教に改めた。
  • 土居村 東西五町、南北八町八間の町である。東は土器、南は高津、北は三浦等の諸村に隣接して、西側は府城に接している。村高は二百四十石六斗六升七合である。 (神祠) 高木祠  高木にあり、祭神は鷲住王である。昔、土器川に白布に包まれた物が流れてきて村人が採り上げたところ、たちまちの内に祟りがあった。そこで神子を呼んで聞いたところ、木船神だと言うのですぐにこの祠へと合わせて祭った。痃気を患う者が来て祈れば霊験あらたかなりと言う。祭紀は六月十三日。社僧は誕生院で、祠官は宮武日向である。
  • 多度郡 弘田村
    • 東西八町、南北二十一町の広さである。丸亀から二里十町の距離にあり、東は中村、南は善通寺、西は吉原、北は三井と山階寺等の諸村に隣接する。村高は千二百五十三石三斗五升四合である。
    • 雲気神社  祭神は天御中主尊で、祭紀は九月二十一日である。三代実録に「貞観元年三月二十二日戌寅、摂津國正六位上、雪気神従五位下、同二年五月二十日巳巳、讃岐國従五位下雲気神列於官社、」と書かれている。古大社なので、毎年二度の祭があって、牛馬が市をなす様の盛況である。天正年間の天霧城落城時に兵火にかかり殿宇は総て焼失したので雲気と言う地名だけが残っていた。宝暦四年になって先公が再興し、山北神主の秋山大蔵少輔を祠官として、散卒一人をその祠に置いて祀らせた。現在、村内に扶藤と言う所が有り、この祠官であった扶藤左衛門の居跡であったと伝わっている。また、鬼塚と言う所も有り、之は神門の跡とも伝わっている。社地は東西八間三尺、南北三十五間の広さである。
    • 春日大明神  祭紀は九月二十五日。社地は五段三畝あり、社僧は甲山寺。祠官は宮武嘉登里で神子は一人。
  • 神櫛王の墓は如意山山頂にあったが 応仁の世、宇多津聖通寺山に居を構える 奈良備前守元吉の出城として櫛梨城が築かれた際 山頂部を平坦に整地した為破壊されたのだという 城跡は全ての痕跡を消し去り沈黙し 真実は歴史の闇の中へと消えている

讃岐 播磨

日本書紀、古事記、姓氏録、旧事紀を鑑みれば、 以下のような系譜が得られる。このことは述べた。

    五十河媛-+-神櫛王 ……【讃岐国造】          |          +-稲背入彦 ……【播磨別】              ∥              ∥--御諸別--伊許自別 …【針間別佐伯直】 【いわゆる安曇族】    ∥ 阿邪美能伊理毘賣-+-阿邪美津比賣(稚浅津媛)          |          +-伊許婆夜和気(池速別) ……【沙本穴太部之別】

  • 日本書紀は【讃岐国造、阿波国之脚咋別】の始祖とする。 このことは「神櫛王」を【讃岐国造】とする記に矛盾しない。 即ち「淡道」から「讃岐、阿波、針間」へ移動したわけだ。
  • 、『富田家文書』という古文書によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれている。それによれば、鷲住王はその家来たちとともに大里海岸に住みつき、はじめは漁業などに従事していた。やがて鷲住王の後裔は、海部川下流の平野を開拓して農業を行うようになり、平安時代から鎌倉時代にかけて、北の日輪庄と南の宍咋庄という二つの荘園にはさまれた地域の開発領主として武士化していった。

十河氏:神櫛王、讃岐公、そして和気朝臣の後裔

十河氏は景行天皇の流れを汲み天皇の皇子神櫛王が南海道を治めるために、讃岐に派遣された。王は山田郡に居住し、子孫は延暦年中に讃岐公の姓を賜った。貞観六年(864)八月、讃岐朝臣高作・同持雄・持人などが姓和気朝臣を賜ったと「三代実録」にみえ、高作・持人の父が永直である。  讃岐公永直という人物は、奈良朝時代の明法博士として名高い。娘は光孝天皇の女官だったが皇子を生んだ。永直は令義解十巻を十二人で天長三年(826)から十年かけて編纂した。そして子らが和気朝臣の姓を賜った。  これらの後裔が鎌倉時代に植田氏となって讃岐地方史に現われてくるのである。植田氏は山田郡を根拠として、十河・神内・三谷などの諸氏に分かれ、東讃岐を勢力圏としていった。そして、十河氏は讃岐朝臣景邦の子景次がはじめて十河を称するようになったのが始まりいわれている。  幕府が崩壊、南北朝時代になると細川氏が守護として四国を領有し、讃岐はその治下になった。細川頼之の時には、讃岐国内の諸氏は悉くこれに隷属した。主なものは、香西・新居・福家等の一族、それに羽床・詫間氏等讃岐藤氏の輩、讃岐橘氏とよばれた長尾・寒川・三木氏、神櫛と伝える十河・神内・三谷等の植田一党、その他秋山・近藤・大平氏等であった。

  • 赤松景福の家譜  赤松景福(村尾玄吉)の先祖を南北朝の頃から紹介している。そして長曽我部軍の四国制覇である。このあたりは、「南海治乱記」にも詳しい。東植田の戸田山城、そして西植田城と二つの城があった。多分景福は西植田城の系列であろう。当時は植田姓であった。古いことはこの本では取り上げられていないが、凡(おうし)または讃岐の凡姓で、続日本紀には凡から讃岐の君に改姓を願い出て認められた記事がある。  そして長宗我部元親、十河存保とともに九州征伐に参戦し、島津軍に大敗している。その後植田姓から村王そして村尾に変えた。王は凡と同じだと思う。

くうかい(弘法大師)

(774-835) 平安初期の僧。日本の真言宗の開祖。諡号(しごう)、弘法大師。讃岐の人。804年最澄(さいちよう)らとともに入唐し、長安の青竜寺恵果(けいか)に学ぶ。806年帰朝して高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)を開く。嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を賜り、その翌年には大僧都に任ぜられた。日本最初の庶民学校である綜芸種智院(しゆげいしゆちいん)を設立。書にすぐれ三筆の一人にあげられ、「風信帖」などの名品がある。また、詩文にも秀でた。後世、広く庶民信仰の対象として尊ばれた。著「三教指帰(さんごうしいき)」「十住心論」「弁顕密二教論」「性霊(しようりよう)集」「文鏡秘府論」「篆隷(てんれい)万象名義」ほか。

  • 空海四十六才。 嵯峨天皇の勅により中務省に入る。天皇の秘書室長。このことは空海の中央での地位を確固たるものにした。空海から袂別された最澄は比叡山に戒壇を設ける(国家仏教の新しい担い手として国が認める)ために署名に走っていた。  この年の前後、空海は有名な三部作『即身成仏義』・『声字実相義』・『吽字義』を世に問うている。

 四十八才。讃岐の満濃池の修築工事。  四十九才。平城天皇に授戒潅頂を授ける。東大寺に真言院を建立。最澄入寂。  五十才。東寺を拝領。真言僧五十人を置く。東寺は空海の社会的活動の本拠地となる。  五十一才。神泉苑での請雨の祈祷。西寺の守敏と争う。少僧都。  五十二才。東宮(のちの仁明天皇)の講師。  五十三才。桓武天皇御忌の願文をしたためる。  五十四才。淳和天皇が大極殿に百僧を集め雨乞いの祈願を行った際、『大般若経』を転読して請雨の経法を行った。内裏でも請雨法を修した。藤原冬嗣の一周忌に願文を書く。大僧都。この前後から、要人要事の願文を空海に求めることが急に増える。  五十五才。摂津国大輪田船瀬所別当。綜芸種智院(日本最初の私立学校)を開設。  五十六才。高雄山寺を和気氏から空海に付嘱される。  五十七才。『秘密曼荼羅十住心論(十住心論)』とその略本『秘蔵宝鑰』を撰述。

空海は、東寺の拝領とともに東寺を「教王護国寺」と改称。鎮護国家の密教道場とした。しかし、それをもって空海が朝廷の政治にかかわり、護国密教を目的としたというには早い。嵯峨天皇との親交にしても書や外来の新しい唐の文化(詩文など)を通じての交わりであり。請雨の祈祷や願文の考案と浄書にしても、それは政治的な野心に基づくものではなかった。空海にとって、国家とは司馬遼太郎風に言えば「瑣々たる」ものだった。

  • 満濃池 (香川県)も古い溜池として有名です。満濃池は、大宝年間(701~703)に讃岐の国守道守朝臣が金倉川沿いの谷地の湧き水をせき止めて造ったといわれており、地元満濃町のホームページなど各種の資料にこの趣旨の記述が見られます。満濃町では、2001年は満濃池の築堤から数えて1300年となる

藤原純友

伊予の掾(*1)であった藤原純友は任期が終わっても都に帰らず瀬戸内海の海賊となっていました。  939(天慶2)純友は讃岐の国府を襲撃し九州の太宰府を攻め、一帯を荒らしまわりました(純友の乱)。941年になって源経基や小野好古がこれを平定しましたがこの二つを承平・天慶の乱といい朝廷に大きな衝撃を与えました

香西元資、香川元明、安富盛長、奈良元安:細川四天王

  • 家紋
    香西は三階松(藤原氏北家流/讃岐綾氏流)。岩に笹が付く
    香川は巴九曜(桓武平氏良茂流)
    安富は丸の内石畳(紀長谷雄後裔)
    奈良は 剣唐花

細川氏と奈良氏

  • 細川頼之の時には、讃岐国内の諸氏は悉くこれに隷属した。主なものは、香西・新居・福家等の一族、それに羽床・詫間氏等讃岐藤氏の輩、讃岐橘氏とよばれた長尾・寒川・三木氏、神櫛と伝える十河・神内・三谷等の植田一党、その他秋山・近藤・大平氏等であった。
  • 藤原家成が讃岐国の知行国主となった時、讃岐国阿野(あや)郡の土豪綾貞宣(あやのさだのぶ)の娘が家成の子章隆を生み、讃岐藤原氏が成立したと記載されている。
  • 家紋
    十河氏 公饗に檜扇(讃岐朝臣後裔)
    羽床氏 三階松(藤原姓綾氏嫡流)
    寒川氏 七本松に三の字(讃岐公凡直後裔)
  • 建武の新政がなったのち、尊氏は細川定禅を讃岐に、細川和氏を阿波に遣わした。建武二年(1335)、尊氏が鎌倉で後醍醐天皇に謀叛を起こしたとき、定禅は香西・託間・三木・寒川氏らを率いて尊氏に呼応して京都制圧に活躍した。
  • 太郎左衛門元安は細川勝元に仕えた。「細川京兆家の四天王」のひとり。細川氏は鵜足郡・那珂郡の二郡に勢力をもつ讃岐藤氏、橘氏らの所領を没収し、元安に与えた。これは、讃岐を重視する細川京兆家が油断のならない在地武士を排除し、信頼できる元安を讃岐に配したものである。
  • 鵜足郡・那珂郡は、讃岐藤氏、橘氏らの所領があった。
  • 元安は城を宇多津に築いて居住し、細川氏に従って応仁の乱に身を処した。その後の乱世のなかで大半の所領を無くし、津郷の二村、川津等の数村を残すのみの身上となった。
    • 太郎兵衛元政は長曽我部勢に進出に対して、栗熊村に砦を築いて後藤左衛門佐に守らせた。 宇多津にも攻め寄せてきた長曽我部に対するため、元政は十河存保に支援を求めたが、存保にその余力はなく、ついに元政は城を捨てて香西伊賀守に合力しようとした。家臣を率いて東に進んだ元政は阿波に入り十河存保の麾下に属した。その後、上方にあった太郎左衛門は宇多津に戻って津郷村に住し、世に出ることなく生涯を終えたといわれている。

寒川氏 讃岐公凡直の一族  橘系か?

  • 寒川氏は讃岐公凡直千継の一族で、世々寒川郡の郡司を務め、その後裔が寒川氏を称したと伝えられている。大内・寒川の二郡および小豆島を併せ領し、昼寝・挙山・虎丸等の諸城を構えて東讃岐に威勢を振るった。大内氏に属していたが、のちに細川氏に属し大内郡内で一万石を領した。
    1469年 山田・寒川の二郡の民事で三谷景久と争う
    1526年十二月、十河氏が三好氏から援兵三千余人を受けて、元政を攻めてきたが大勝。
    1540年 正月、安富氏が寒川郡七郷に攻め入り、四月に双方合戦におよび、寒川氏は敗れて敗兵をまとめ、本城を焼き昼寝城に入り、以後、安富氏との攻防は三年におよんだ。
    1572年 安富筑前守が阿波の篠原入道の女を室とし、篠原氏と図って、寒川氏を攻め滅ぼそうとした。そして、三好長治に謀って、寒川氏に大内郡を引き渡すように使いを送った。これに対し寒川氏は、否といえば、攻め滅ぼされることは必定として、止むを得ず、大内郡四郷および挙山・虎丸の二城を付けて屋形へ差し出し、その身は昼寝に退いた。
    1575年 昼寝城落城。元隣の弟光永が守っていたが、阿波の海部氏に攻められて落城。
    元隣は、三好存保のもとへ行き勝端城に居たが、1582年八月三好存保の軍に加わり、阿波中冨川において土佐軍と戦い、ついに同所で討死したという。
    元隣の子七郎は、天正十四年(1586)十二月、豊臣秀吉の命を受け、九州島津征伐軍に従軍、豊後戸次川で奮戦。
    長宗我部氏の侵攻の後、没落
  • 医王山大窪寺遍照光院(八十八番)
    • 行基菩薩の開基。空海が再興して密教振興の道場とした。本尊の薬師如来座像は高さ 三尺で、空海作。阿弥陀堂は、もと如法堂であった。寒川郡の豪族・藤原元正【寒川郡 司の家系で天文期あたりの当主に寒川元政がいる。ただし藤原姓ではなく讃岐公姓】が 建てたものだ。鎮守権現と弁財天の堂がある

讃岐 橘氏

  • 香川県の家紋は、我が国で10大家紋といわれる片喰、藤、鷹の羽、柏、桐、蔦、木瓜、橘等がほぼ平均的に使用されている。この様な分布状態は極めて珍しいことである。
  • 橘姓の眞鍋氏は、備中國小田郡眞鍋島より起こる。平家物語に「備中國の住人眞名邊四郎」とあり、源平盛衰記に「讃岐國住人眞鍋五郎助光」とある。
  • 近江国真鍋から備後(ママ)国真鍋島に移住した鎌倉期以来の豪族で、伊予・讃岐・阿波にも広まる。(「姓氏苗字事典」丸山浩一著)
  • 讃岐の戦国大名香西氏の家臣に真鍋氏の名が見える。向城(高松市)に拠っていた。
  • 讃岐国三野郡に起った海崎も橘姓を称し、讃岐各地に広がって長尾、栗熊、岡田、炭所、田村、常兼〔常包〕等を出した、あるいは箱崎祠官秦宿祢田村氏の支流か。参考
  • 塩飽大工 橘家
    • 本島生の浜の橘貫五郎:橘家は代々「番匠屋」と呼ばれ、備中に於いては備中国分寺五重塔、高山寺山門、林松寺、正満寺の造営、讃岐に於いては善通寺五重塔、水主神社本殿、脇宮、八剣神社、山北八幡、西大寺、湊川神社など親子で建立している。 橘家は「番匠屋」の屋号がついているが「ばんじょう(番匠)は大和、飛騨などから京都へ上って勤番した大工、こだくみ」のことであり「ばんじょうや(番匠屋)は大工」である。つまり生の浜で「番匠屋」の屋号を持っていたことは橘家が塩飽の棟梁として一般から認められていたことになる。
    • 橘家は忠臣に因って与えられた姓??
  • 橘姓の武家はいない。橘姓の武家はまず系譜仮冒の検討を十分に加えるべきである。

安富氏

  • 紀姓を称し、讃岐守護で室町幕府管領をつとめる細川氏の直臣。
  • 民部太夫照之が祖と伝える。照之は武勇にすぐれていたことから、暦応二年(1339)足利尊氏から播磨国三日月郷を賜った。そして、『西讃府志』によれば、細川頼之に従って応永年間(1368~74)に讃岐に入部し、三木・寒川・大内三郡の十八ケ村を領して、平木城主になったのだという。平木城は三木高長の城であったが、後継者のなかった三木氏に代わって安富氏が城主になったとのこと。
    • 『紀姓堀田氏系図』をみると、紀長谷雄の後裔之高(行高)の子之家が安富氏を継いだとあり、之高の孫盛家に安富左衛門督とある。他方、紀姓浦上氏の一本系図にも浦上行高の子之泰の流れが堀田氏となっており、安富氏が紀氏の分かれで浦上氏、堀田氏と近い一族だったことが想像される。
    • 讃岐守護代は頼之の代より二分割二人制となり、東方を安富氏、西方を香川氏がそれぞれ任じられた。明応二年(1493)の『蔭涼軒日録』には、「讃岐は十三郡あり、うち六郡は香川氏が領し、七郡は安富氏が領有している。(中略)小豆島及び備中の国衙の一部も安富氏の管するところである」と出ている。参考
    • 安富氏が守護代をつとめる東讃は、香西・寒川・植田氏らが割拠していずれも大分限者であった。なかでも香西氏は安富氏をしのぐ力を有していた。

香西氏

  • 香西元長は、細川政元の養子、澄之・高国・澄元のうち澄之に属していた。鎌倉時代より村上氏らの瀬戸内水軍を支配
    • 1507年元長らは政元を謀殺し、澄元派を京から一掃して、将軍足利義澄に細川家後嗣として澄之を認めさせた。(三好之長が澄元派)その直後、澄元を支援した細川高国・尚春によって、澄之・元長らは京で討たれ敗走する。細川家の家督は澄元が継ぐことになった
    • 阿波の三好氏が、東讃の十河氏や植田一族と図り、香西氏を中心とする讃岐国人衆と対立させ、讃岐へ侵攻。
    • 香西・寒川氏らの讃岐の勢力は劣勢となり、細川の支援を得た三好氏や東讃の勢力が強くなった。
    • 細川政元の死とそれに続く細川家の内紛は、細川澄元・高国の不和から始まる。
  • 政元に将軍の座を追われた足利義稙の復権は、中国の雄大内義興に擁せられて上洛。軍は、中国筋、瀬戸内の諸氏を引き入れた。讃岐では、植田一族をのぞく、香川や香西らの諸将がこれに応じた。香西氏は、鎌倉時代より村上氏らの瀬戸内水軍を支配下においていたといい、これら水軍を擁して上洛軍に加わった。
    • 高国は義稙の上洛軍を迎え、義稙を将軍職に復位し、自らは管領となることによって細川澄元・三好之長らの勢力を押さえた。
  • 1531年、高国は晴元(澄元の子)に敗れて敗死し、晴元が管領となった。阿波の三好元長は力を増し、そして、三好氏と深く結びついた十河氏が讃岐を平定し、香西氏もその支配を受けるようになった。
  • 下香西元綱の家督をうけた元定は大内義興に属し、備讃瀬戸を中心に雄飛する塩飽水軍を把握。
    • 香西氏は、元亀元年(1570)の摂津野田・福島の戦いには十河氏に従い、織田信長と対立した。しかし、天正三年(1575)には、十河氏をはじめ讃岐の諸将は信長に屈する。
  • その後、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まり、決戦。香川伸景の仲介で和議。しかし、天正十三年に秀吉による四国征伐で佳清が下野、香西氏の長い歴史に幕をとじた。

 香川氏

  •  善通寺 鎌倉寺:香川氏の先祖鎌倉権五郎景政を氏神として、鎌倉町に祀った。
  • 1392年 細川頼元に随った「郎党二十三騎」の一人、香河五郎頼景。1400年以降は京兆家分国讃岐の半国(西方)守護代を歴任。
    • 香川氏で讃岐半国守護代を務めたと考えられる人物については、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などが守護(細川京兆家当主)もしくは京兆家奉行人と考えられる人物から遵行を命じられている。
  • 『全讃史』によれば、讃岐の香川氏は鎌倉権五郎景政の末孫香川兵部少輔景房が、細川頼之に従って讃岐に下り、貞治元年(1362)、白峰合戦に活躍して多度津に封を受けた。そして、多度津に城を築いて讃岐に土着したことに始まるという。
  • 『善通寺市史』は、相国寺供養記・鹿苑目録・道隆寺文書などから推して、その系図を「五郎頼景─五郎次郎和景─五郎次郎満景─(五郎次郎)─中務丞元景─兵部大輔之景(信景)─五郎次郎親政」としている。
  • 八幡太郎義家の臣 鎌倉権五郎景政の子孫。
  • 南北朝時代に、細川頼之に従って、白峰合戦に功績のあった香川氏は、西讃三郡を賜り、多度津の雨霧山に牙城を築き、本台山(桃陵公園)に居宅を構えて1585年天正13年 秀吉の四国征伐まで、この地方を支配した。
  • 雨霧城 三代物語には次の様に書かれている。弥谷山にあり、絶頂は常に雲霧に覆われ、峻険で、香川氏が冦への守りとしてここに築城した。この山は二郡にまたがっており、居城は多度津とした。
    • 追記 多度津の城に香川氏が居住した事は書物には書かれていないが、雨霧山の峻険であることは三代物語に書かれているとおりで、いま、その頂上には石垣などが残っており、井戸も一カ所あるがその深さは判らない。常に居住した所とは思えないので、多度津に本多山と言うところがあり、ここを香川氏の城跡としている。私もこの書に書かれているとおり、香川氏の居城は本多山であろうと考えている。
  • 出典:http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2055-48.html
  • 戸峯山城
    • 戸峯山は三野町大見の北部にあり標高222.8メートルの小さい山だが,その形が富士山に似ているところから大見富士とも呼ばれている。雨霧城4代の城主,香川信景の臣に藤田四郎入道宗遍という者がいた。宗遍は近江の人で,香川氏につかえ,天正2年(1574)に天霧城の牙城として戸峯山の頂上に城を築いた。城は天霧城の咽喉をやくし,天嶮を利用した要城であって,その廓は明らかに現存している。居館は山の西麓にあり,出身地近江の山王大社の分神を迎えて山王社を建立し,天正5年山王権現として祀られ,現在は大見村の氏神と定められている。
  • 観音寺城(高丸城)
    • この城は戦国時代西讃に強大な勢力をほこった天霧城主香川信景の弟景全が天文年間に築城した居館で観音寺殿といわれていた。城趾約74アール約1メートル高いほぼ正方形の地形で,周囲に内堀をめぐらしていた跡が明治時代までは一部が端の池,城の池として残っていた。今も城趾の北と東側は一段低い田地となっており,その他城跡を物語る地名等も多く,上市の一心寺にある樓門は城の太鼓門を移したものと伝え又殿町には城神がまつられ,琴弾宮境内十王堂には上坂丹波守の小祠がある。

羽床氏

  • 羽床氏は讃岐藤家の血をひき、南北朝時代には南朝方として活躍し、のち讃岐守護細川氏に従った。細川四天王の一人香西氏も讃岐藤家の支流であり、羽床氏と香西氏とは同族の関係。そして、羽床伊豆守の娘は香西佳清に嫁いでいた。しかし、のちに佳清から離縁されたことから、両家は対立するようになり、互いに刃を向けあううちに、長宗我部氏の讃岐侵攻にあい、ともに長宗我部氏に降った。
    • 羽床氏が羽床を名乗ったのは、仁平年間(1151~53)のころといわれ、周防守資高がはじめて下羽床に居を構え、地名をとって羽床とした。資高から数代のちの政成は楠木正成の千早城攻めに一番乗りの功をあげたが、その子政長は、南北朝時代に一族みな北朝に属したのにただ一人南朝方に味方した。

秋山氏

  • 秋山氏はもと甲斐国八代郡川合郷常葉の住,甲斐源氏の一族で,弘安年中(1278~88)  幕府の命によって西讃10か所の郷邑を領することとなった。命をうけた秋山光季は,  子息孫四郎泰長・孫二郎泰忠をともなって来住し,高瀬郷に居を構え,鎌倉時代以か  ら戦国時代にかけて存地武士として活躍した。その家伝文書が,現在,高瀬町下勝の  矢野章家に所有されており,総数120点ににおよぶ。  その中には,室町幕府奉行人奉書・管領代奉書や守護代香川氏関係の文書,あるい  は細川澄元の数少ない史料などが含まれており,室町・戦国期政治史研究上貴重な史料となっている。
  • 田村城
    • 田地の中に在り、昨今では秋山屋舖と呼んでいる。秋山氏が代々居住し、秋山土佐守がここに居住した。秋山氏系図に寄れば、秋山太郎左衛門光朝の次男で左兵衛尉光季が、弘安元年甲斐国青嶋から当国へ来て、高瀬、葛原、柞原、飯田、坂本、前田、鴨部などの諸郷を領した。光季の次男弥三郎朝忠に続く子孫で二郎泰忠が一寺を那珂郡田村に建てたと聞く。

 山地氏

  • 詫間城  城山と呼ばれ、詫間弾正の居城であったといわれている。古城記には甲斐国の山地右京進が細川氏に従って当国に来て当城に居住し、多度、三野、豊田の三郡の旗頭となった。その子九郎左衛門の代に至って三木郡池戸城に移ったと書かれている。又、愚問録には三野大炊頭の城跡であるとも書かれている。
  • 追記 
  • 西源院本太平記で尊澄親王のことを書いた条に、詫間三郎に預けていると書かれている。又、治乱記には、三木、寒川の二氏を橘家と言い、詫間、香西の二氏を藤家と呼んだ。建武元年、尊澄親王に従って京都へと入ったとあり。また、多度、三野、豊田の三郡は詫間氏が領した土地で有ったが、後嗣が絶えたので、細川氏はこれらを香川氏へ与えたなどと書かれているので、詫間氏が居住した事は明らかであり、山地氏が居ったと言うのはおそらくこの後の事で、香川氏に属して元詫間氏の城を守っていたのであろう。また、兎上山にも詫間弾正の城跡が有るなどを考えると弾正の時代に、細川氏にこの地を奪われ兎上山へと移ったので、その後を山地右京進に守らせていたが、その子九郎左衛門の時に何らかの理由で池戸城へと移されたのであろう。 詫間氏の事は書物にはでてこないので考察するには難しい事である。 三野氏がこの地に居たと言うのは古代の書物にも書かれているので、大炊頭と言う人と関連が有るかどうかは判らないが、何らかの縁があるのであろう。
  • 三木通武、英賀遷. 住. 三木氏は伊予国河野氏の一族で、当初浮穴氏を称したが、後讃岐 三木郡を領し三木. を姓とした

佐伯部

佐伯部       日本書紀景行御巻に次の様に書かれている。         五十一年、所献神宮蝦夷等、晝夜喧譁、出入無禮、         時倭姫命曰、是蝦夷等、木可近就於神宮、則池上於朝廷、         仍令安置御諸山陵、朱経幾時、悉伐神山樹、叫呼隣里、         而脅人民、天皇聞之、詔群卿曰、其置神山傍之蝦夷、         之本有獣心、難住中国、故随其情願、令班邦幾之外、         是今播磨讃岐伊勢安芸阿波凡五国佐伯部之祖也

 高木城 高木隼人:鷲住王の後裔

楠見城(高木城) 綾歌郡飯山町川原字山崎、楠見、東坂元河内 高木隼人 高木隼人の遺構。楠見池は弘治年間(1555~58)築造されたと言われ、のち矢延伝六が三谷池と楠見池を一つにして現在の楠見池とした。その池の西方に標高80m程の城山に高木隼人が築城し、城山の西方約2km西坂元の国持地区に居館を構えた。西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。坂元村史に「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とある。 ≪参考文献≫の『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』は『公園化の整備なされる以前は土塁らしきものがあったと言う。城主の高木隼人は細川勝元の家臣で、天正年間長宗我部元親の西讃侵入をこの城で防戦した』と書いている所から城跡は現在の飯山総合運動公園だと思われる。

  • 空海こと佐伯真魚は讃岐国の豪族である佐伯直田公の3男として生まれる。巴紋は佐伯家の家紋

 海部と刀

  • 鎌倉時代末期から室町時代にかけて、朝鮮半島や中国沿岸地帯において和冦が恐れられていた。和冦とは、武士や商人たちによる民間貿易の行き過ぎたかたちであり、和冦のすべてが略奪者というものではなかった。水軍の側面も有する海部氏も特産品である海部刀をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によっておおいに勢力を伸張したものと思われる。記録によれば、享徳年間(1452~54)から天文年間(1532~54)の約百年間にかけて、百十四万振の海部刀が輸出されたことが知られる。  まことに膨大な量の海部刀が、海部氏によって朝鮮・中国に輸出されたのである。海部氏が海外交易に従事していたことは、海部氏と関係の深かった大山権現に朝鮮鐘が伝わっており、海部氏が和冦として活躍していたことを裏付けている。

海部氏の祖先は鷲住王:阿波海部

  • これが讃岐国造(みやつこ)、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)の二族の先祖である。
  • 『富田家文書』という古文書によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれている。それによれば、鷲住王はその家来たちとともに大里海岸に住みつき、はじめは漁業などに従事していた。やがて鷲住王の後裔は、海部川下流の平野を開拓して農業を行うようになり、平安時代から鎌倉時代にかけて、北の日輪庄と南の宍咋庄という二つの荘園にはさまれた地域の開発領主として武士化していった。  鷲住王とは、履仲紀に「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」と見える伝説上の人物である。鷲住王のことはともかくとして、阿波南部の荒野を開拓した海部氏の先祖を中心として、海部武士団が成立したことは疑いのないことと思われる。 鎌倉時代末期から室町時代にかけて、朝鮮半島や中国沿岸地帯において和冦が恐れられていた。和冦とは、武士や商人たちによる民間貿易の行き過ぎたかたちであり、和冦のすべてが略奪者というものではなかった。水軍の側面も有する海部氏も特産品である海部刀をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によっておおいに勢力を伸張したものと思われる。記録によれば、享徳年間(1452~54)から天文年間(1532~54)の約百年間にかけて、百十四万振の海部刀が輸出されたことが知られる。  まことに膨大な量の海部刀が、海部氏によって朝鮮・中国に輸出されたのである。海部氏が海外交易に従事していたことは、海部氏と関係の深かった大山権現に朝鮮鐘が伝わっており、海部氏が和冦として活躍していたことを裏付けている。  応仁元年(1467)、京都を中心に応仁の乱が起ると、足利幕府の威信は地におち、全国的に下剋上が蔓延する戦国時代となった。各地に新興勢力が割拠し、かれらによって荘園は押領され、領地の一円支配を行う戦国領主が登場してきた。それは海南地方も例外ではなく、鷲住王の子孫を称する各氏が城を築き、それぞれの地域の支配者となり、互いに勢力を競い合った。
  • 鷲住王は讃岐における相撲の元祖、神様、擁護者である。
    • 綾歌郡坂元村大字西坂元字山之越の坂元神社は鷲住王を祭神とし、祈れば剛力を得るとされている。彼は日本書紀に登場する人物だから7世紀までの人と思われる。江戸時代に藩主が力士を召抱えることが流行した。高松藩では3代目松平頼豊が晩年に相撲を好み、仙台から谷川梶之助、越前から靱山品右衛門、江戸から佐々連石など諸国からも多くの力士を集めた。また、8代、頼儀も相撲が好きであった。丸亀藩6代、京極高朗の相撲好きは格別で、江戸においても常に5~6名の幕内力士を抱えていた。関西の諺に「讃岐で相撲の話はするな」という位であった。江戸相撲本場所開催に高朗公の承諾がいる程の勢力があった。京極高朗は明治7年77歳で没した。

讃岐国の積石塚 石清尾山古墳群 と讃岐国造

石清尾山古墳群は高松市西端、海抜232mの石清尾山・紫雲山・浄願寺山の山並に所在し、現在40基以上が残存する。 3世紀末の帆立貝式前方後円墳から初まり、7世紀初の横穴式石室まで営まれる。 4世紀半ばから6世紀が最盛期で、有力な古墳には刳抜式石棺が使われ、それに併行して積石塚が造られる。 墳形は前方後円墳9を主体に双方中円墳2、方墳1、円墳30以上と多様、また弥生時代の集落跡が出土する。 同遺跡の特徴は集落立地場所の高位置にあり、高所は隔絶した聖地観念に基づくものと考えられている。 古墳時代が終わった頃、南麓の古の坂田郷(和名抄)に壮麗な建物(坂田廃寺跡)が建立され、綾・漢氏を祖とする秦氏の居住地とされる。 高所聖地の特徴は善通寺~琴平にかけての大麻山・眉山・我拝師山古墳群や、鳴門の大麻山古墳群にも見られる。 同地には古語拾遺に記す忌部祖神太玉命・手置帆負命(讃岐忌部祖神)やその裔を祭神とする神社が所在する。 また石清尾山が所在する香川郡は新撰姓氏録によれば「讃岐公同祖神櫛別命後」とあり、国造本紀及び景行・履中紀等に「櫛別命は鷲住王、是讃岐国造之始祖也」。 全讃史に「景行天皇男子倭建命御子讃留霊王(武卵王)と申奉。是綾氏祖也。霊王国史云う神櫛王に当る」とあり、太玉命~忌部・讃岐⇔讃留霊王~綾・秦氏への伝承の習合が浮かび上がってくる

 真鍋氏

「日本武尊」の弟で景行天皇の第17皇子神櫛皇子(かみくしのみこ)は讃岐国の始祖となり、「壬申の乱」で活躍した和珥部臣君手は近江国の丸部臣氏の始祖となり、その丸部臣氏は讃岐国三豊郡の大領として活躍している。そして敏達天皇と春日臣(丸部臣氏)との間に生まれた難波皇子→栗隈王→美努王→葛城王(橘諸兄)の末裔橘五郎(真部五郎)が讃岐を舞台に活躍し、真鍋一族が広がる。

 戦国の西の荘 :香川民部少輔

  • 民部少輔は香川肥前守景明の従弟で京師に出て細川政元に仕えた政元が殺害された後、香西備中守元継が養子澄之を立てようとして嵐山の城に立て籠もり三好元長と戦った。 元継軍が敗れて戦死した時に元継の領地、丹波国篠山、綾郡西ノ荘の城が共に闕所となったので管領細川澄元は民部少輔が澄之へと味方をしなかったのを賞して西荘城を与えた。よって、始めてこの城へと移り北條郡を領した。その三代孫が父祖の名を継いで民部少輔と称した。天正六年(一五七八)に羽床伊豆守が綾郡の主になろうと謀り、民部少輔へと使いを出し、その事を述べた所、民部少輔は「羽床殿が香西氏を恨みに思うのは判るが、今は天下が麻の如くなっているのに私怨でとやかく争うと、外から来て侵す事がたやすくなり、ひとたまりもなくなるだろう。今は国内を固く守る時期で備えをする事の方が大事である。」と答えた。それを聞いた伊豆守は、それが理だと思わずに怒って、大林、今瀧、山田、福家、新居、長尾等に千三百人を率いさせ西荘城へと押し寄せさせた。民部少輔は「私が述べた事を羽床氏は何故に判ってくれないのだ。我が身としても、今は此の郡内の維持だけでも大変なのに、内輪で兵を疲れさせては外からの敵を防ぐすべが無くなるではないか」と、子女を青梅の浦へと逃がし、我が身は従者数十人を連れて備後国へと渡り、小早川隆景に援兵を乞うた。伊豆守は西荘城を穫り、守将を置いて帰った。小早川氏は浦兵部大夫、井上伯耆守の二人に五千余人を付けて、兵舟三百余艘で三原から出発し、鵜足津松ヶ浦へ着いて、その足で西荘城へと押し寄せた。 城には守兵として百余人しかいず、敵の多兵を見て守りを捨てて引き退いたので、たちまちの内に城を取り返し、民部少輔へと渡し、軍は羽床へ向かった。伊豆守は長尾大隅守、瀧宮弥十郎、新居内膳などに五百余の兵を率いさせ綾川の辺で防がせた。ちょうど雨が降り続き、川には水が溢れ、安芸勢は渡る事が出来ない。やむなく二百余の兵を西荘城の守りとして置き、残りの兵は安芸へと引き取った。天正八年に長曽我部元親が六千余の兵を率いて攻め寄せた。民部少輔は降った。元親は城を巡検し、土佐兵五百余人を付けて西長尾城と共に守りにつかせた。そこへ三好存保が信長の命だとして香西、安富、寒川、植田、池田、三谷等の諸士及び阿淡の兵士一万人を率いて北條郡へと入り西荘城を取り囲んだ。香西方の兵将で久利三郎吉茂が二千余人を率いて先陣となり七月十三日夜、月明かりの中を東方の攻め口から真部弥介祐重が溝や壁を乗り越えて城中へと入り、大音声を挙げて名乗り敵を招いたが城兵は怯えて一人として近づかなかった。 しばらくして揖取彦兵衛尉友貞と名乗りを上げて槍を抱えて進み出て来たので祐重は、この者と渡り合い、ついに友貞を押し伏せて首を欠き切って帰った。翌日は城兵も門を出て相戦った。土佐兵は山坂になれているから小馬に乗って駆け回った。十河の兵は皆、大長なる馬に乗っているので土佐兵は追い立てられ列を乱して走り退いた。そこで民部少輔の家臣で宮武源三兵衛が良馬に乗って近従十騎を従え、轡を並べて群れ集まる敵軍の中へとさぁっと駆けだした。当たる敵を打ち据え、一散に駆け敗り一騎も損せずに引き取ったので敵も味方も褒め称えた。ところで当の西長尾城からの援兵は敵が多兵であると聞いて寄せては来なかった土佐兵将が「これでは勝利を得られまい、今は降参して再挙を計るべきだ」と言ったので民部少輔もこれに従った。城を明け渡した後、土佐兵は西長尾城へと引き退き、民部少輔は家人従類を従えて青梅浦へと引き取った。従兵二十人と慈愛の鷹を手にして城を立ち去る後ろ姿を見て皆、涙を流した。松ヶ浦から舟に乗って塩飽島へと渡ったが、以後どうなったかは不明である。中国にて死んだとも、また、義昭将軍が吉川元春に民部少輔降参の事を書き頼み、再び毛利の力により国元へと帰り仙石氏に従って利光川で戦死したとも言う。生駒氏の時代になって、宮武源三兵衛が城地を受け取り田畑を開いて現在に至るまで、その裔族はここに住んでいる。

         追記 さて、民部少輔の事を治乱記には肥前守の次男と書き、南海通記には従弟としている。どちらが正しいのかは判らない。三代孫の民部少輔とここに記したのは通記に三代相伝うと書かれているからである。治乱記と通記は同人の作であるにも関わらず、互いに違いがあるので、この文は二書を交えて書いている。 永禄元年(一五五八)に三好豊前守が天霧城を取り囲んだ時、民部少輔も三好方で出陣している。香川氏が宗家であるならば、これを攻めるのはどういう事だろう。 また、羽床氏が西荘城を攻めた時にしても、香川氏に助けを求めるべきで、それをせずに小早川氏に頼むなど疑う事は多い。大平記や芸州記などに磨臼山の城主と書かれているが治乱記や通記に書かれている西荘が明白な所から、生野村にある磨臼山とは異なる。又、四国太平記に民部少輔は信景の事であると書いているのも間違いである。

西庄城(山内城)

  • 坂出市西庄町川向 香川民部少輔行景(景敏)
  • 戦国時代の香川氏の居城であったが、一時山内氏が守備し山内城の名もある。(城跡推定地の東、北側周辺には水田地名が見受けられる。その地に遺構らしきものは見当たらないが東南120mほどのこんもり木立の茂った五アール区画があり、そこに香川民部少輔の墓碑が祀ている。 ≪参考文献≫の『讃岐の城跡』は『西庄城(山内城)』と表記していますが≪参考文献≫の『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』は『天皇城(山内城)』と表記していて以前調べた文献は「山内城(天皇城)=山内城、天皇城は同一の城を時の城主によって呼んだものと思われる」私説を書いていました。≪参考文献≫の『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』は又西庄城と同一の可能性も書いていますが詳細不祥です。

生駒氏

幕藩大名となった生駒氏は、もと土田氏といい、土田甚助親重(元亀元年〔1570〕没)が、祖母の実家でその兄弟にあたる尾張国丹羽郡小折(愛知県江南市)の生駒加賀守豊政の養子となったことから、生駒へと苗字を変えたものであり、この辺から系図は明確になってくる。親重の姉妹には織田信秀の妻となって信長・信行(勘十郎信勝)兄弟を生んだ土田御前がおり、親重の子には土田弥平次(信長の室で嫡男信忠の母となった生駒吉乃の最初の夫。その系譜については後ろで再考する)や生駒雅楽頭親正がいたとされる。なお、生駒豊政は大和生駒に発したという藤姓の土豪であるが、その孫娘が吉乃であって、土田御前とは又従姉妹に当たる。

  生駒親正は讃岐高松六万石の大名で秀吉三中老の一人といわれる大名家の始祖であり、その子讃岐守一正は関ヶ原の戦功で高松十七万石の領有を許された。生駒氏は家臣争論で寛永十七年にいったん除封され、その後に出羽矢島に再興されている。 親重以前の土田氏の系譜はやや不明確であるが、その父・政久、祖父秀久というところまでは、ほぼ間違いなかろう。土田秀久は、美濃国可児郡土田に住んで明智家に仕えたといわれる。土田の城は、可児川が木曽川に合流する地点からやや上流左岸にあって、中世の城郭に見られる土居が現在も残り、土田山の自然地形を利用した要塞として文明年間(1469~1486)に築かれたと伝える。その築城者を土田秀久とも伝えられるが、築城年代の所伝が正しければ、秀久の先代となろう。 秀久の父については、秀遠とも近江守秀定とも伝え、このとき土田を称したというから、この者のときに初めて土田に居住し築城し土田を名乗ったとするのが妥当と思われる。

村上水軍 小早川隆景

古くから瀬戸内にあって勢力を保ってきた村上水軍は、天文20年(1551)の厳島の合戦以降、毛利氏と行動を共にし、山陽の水軍を統括していた小早川隆景の指揮下にあって織田氏の海戦などに活躍した。笠岡城は村上氏にとって本州側の重要な拠点であったが、毛利氏にとっても山陽道を押さえる備中の入り口として重要視し

 塩飽 宮本氏

宮本氏は肥後国菊池家譜代の將でしたが、菊池氏が大友氏に滅ぼされたときに一族の者が塩飽本島に移住して旧族の宮本佐渡守の跡を継いだといわれます

平賀源内

源内は享保14年(1729)志度浦 (志度町) に生まれ、名を国倫(ルビ く   にとも)といい鳩渓 (ルビ きゅうけい)と号  した。また天竺浪人・松籟子・(ルビ しょうらいこ)風来山人・森羅萬象翁・  根無叟 (ルビ ねなしそう)などと変った号を  もっていた。源内というのはその通称である。  19歳のとき藩の薬坊となり松平家の薬草園で働く。  宝暦2年 (1752) 長崎へ1回目の遊学をする。  〝 5年 (1755) 量程器・磁針器をつくる。  〝 6年 (1756) 江戸に行き田村藍水(ルビ らんすい)の門に入る。「有馬          紀行」成る。  〝 9年 (1759) 湯島で物産会を開く。  〝 12年 (1762) 「紀州産物志」成る。  〝 13年 (1763) 「物類品隲」(ルビ ぶつるいひんしつ) 刊行。平線儀を製           す。「根無志具佐」(ルビ ねなしぐさ) 「風流志道軒伝」           刊行。  明和元年 (1764) 石綿発見・火浣布 (ルビ かかんぶ)を織る。「火浣布説」発          表。  〝  (1765) かんすい石発見。  〝 3年 (1766) 金山 (ルビかなやま)事業に着手。  〝 5年 (1768) タルモメイトルを模造。  〝 6年 (1769) 「物産書目」成る。  〝 7年 (1770) 「神霊矢口渡」「源氏大草紙」初演。  〝 8年 (1771) 毛織物の試織に成功。  安永3年 (1774) 「放屁論」刊行。  〝 4年 (1775) 炭焼をはじめる。  〝 5年 (1776) 菅原櫛を売り出す。エレキテルの復元に成功。  〝 8年 (1779) 12月8日獄中にて病死。

香川県での名字:多い順

順位 名字 1 大西 2 田中 3 山下 4 高橋 5 山本 6 森 7 多田 8 中村 9 木村 10 三好 11 岡田 12 松本 13 佐藤 14 吉田 15 久保 16 香川 17 藤田 18 真鍋 19 山田 20 石川 21 井上 22 渡辺 23 池田 24 安藤 25 高木 26 林 27 藤本 28 近藤 29 宮武 30 佐々木 31 矢野 32 合田 33 宮本 34 橋本 35 秋山 36 山地 37 長尾 38 三谷 39 細川 40 藤井 41 石井 42 山口 43 川田 44 岡 45 白川 46 谷本 47 鈴木 48 小野 49 松岡 50 西山 51 三木 52 竹内 53 三宅 54 篠原 55 白井 56 小林 57 前田 58 中川 59 横山 60 太田 61 宮崎 62 小西 63 松原 64 中西 65 藤原 66 藤沢 67 増田 68 中山 69 斉藤 70 植田 71 尾崎 72 山崎 73 松下 74 藤川 75 川西 76 中野 77 塩田 78 片山 79 岡本 80 村上 81 谷口 82 加藤 83 溝渕 84 平井 85 横田 86 黒川 87 河野 88 鎌田 89 田村 90 香西 91 福家 92 古川 9.3 西岡 94 十河 95 平田 96 筒井 97 三野 98 松浦 99 伊藤 100 森本 101 岡崎 102 大山 103 中井 104 六車 105 川崎 106 福田 107 青木 108 横井 109 清水 110 谷 111 佐野 112 大林 113 小川 114 河田 115 馬場 116 広瀬 117 大谷 118 木下 119 小山 120 西川 121 原 122 原田 123 植松 124 平尾 125 前川 126 和田 127 上原 128 西村 129 土居 130 石原 131 後藤 132 大森 133 宮脇 134 大平 135 笠井 136 佐伯 137 辻 138 浜田 139 福井 140 武田 141 岩崎 142 岩田 143 坂本 144 松村 145 池内 146 蓮井 147 松尾 148 石田 149 富田 150 植村 151 長谷川 152 松田 153 片岡 154 大野 155 高尾 156 大川 157 阿部 158 黒田 159 森田 160 亀井 161 山内 162 関 163 藤村 164 松井 165 野崎 166 藤岡 167 亀山 168 丸山 169 高畑 170 安部 171 高島 172 豊田 173 高田 174 田尾 175 森川 176 村井 177 丸岡 178 田井 179 赤松 180 泉 181 古市 182 今井 183 中條 184 和泉 185 細谷 186 川上 187 高嶋 188 曽根 189 向井 190 寒川 191 谷川 192 吉川 193 川原 194 入江 195 豊島 196 内海 197 大塚 198 川口 199 島田 200 野口


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Last-modified: 2012-08-18 (土) 10:55:00 (2130d)