歴史 †
1120年 藤中納言家成郷 讃岐守として下向 †讃州国那珂郡は、往古より藤原家 橘家 伴家の公家の采地なり。郡中十郷なり。保安年中(1120~1131年)中御門 藤中納言家成郷 讃岐守として当地に下向。当国の綾大領 貞宣の娘を娶り資高生む。この資高が羽床氏の始めにて、その末葉として 平田 玉井 竹内 成宗豊田 柞田 紫野 宮川 森田 松本 茶水 武本 谷本 有岡 福家 大地 飯田 木村等の枝葉をうみ広繁し裔栄ゆ。 1160年橘左近衛少輔祐主公山田郡木太郷 向城に下向 †永暦元年(1160年)今から839年前、橘左近衛少輔祐主公は讃州の天領である山田郡木太郷 向城に下向、世々居住され畳溝堅固文武の道にはげまれ仁政を施し平和な王国に床しき日常なりしが、寿永元暦の源平の戦いに帝を護衛し奉り一ノ谷の合戦に参加。戦場に臨むに当たり、身は公家の身が武門の下につき見苦しき屍を戦野にさらしては家門の恥なり。とて、妻方の姓氏 真部を名乗りて戦場に出て、源平の各合戦 応仁の乱そして戦国の乱世に一貫して仁義の節に尽忠。功を立て、西国一の武将とうたはれにけり。その内各合戦には、必ず華々しき働きをして名をあげたり。 曰く 真部五郎助光 真部五郎祐孝 真部五郎祐満 真部五郎祐則 真部弥介祐重 真部助兵衛守政 真部弥介守資 真部太之介祐利 真部左兵衛祐忠 真部右兵衛祐義 等々何れも武勇の士知仁の士。戦記には載らず。
橘家は讃州にて采(配)地 那珂と任地 天領なる山田郡に移住し、その枝葉を繁る者は大響 楠木内海 三條 甲斐 篠原 新居 松井 大河原 柏原 萩原 丹下 百々 小寺等の各門葉を分かつと言え共、天正 中期 末期 より録を離れ諸国に散逸す。 その中にありて子孫真部弥介は往事の功績に対して250石を賜り、寒川郡奥山邑の讃岐 阿波国の国境にある大窪越関所の伺察使(代官)と被命。その後職は讃州の特産の白米塩三盆白紋等の持出監視取締物件流失防止と不審者取締りをなし、世々奥山に移住し近隣を併せての里正(庄屋)として名をとどむ 1278年 秋山氏 †秋山氏はもと甲斐国八代郡川合郷常葉の住,甲斐源氏の一族で,弘安年中(1278~88) 幕府の命によって西讃10か所の郷邑を領することとなった。命をうけた秋山光季は, 子息孫四郎泰長・孫二郎泰忠をともなって来住し,高瀬郷に居を構え,鎌倉時代以か ら戦国時代にかけて存地武士として活躍した。その家伝文書が,現在,高瀬町下勝の 矢野章家に所有されており,総数120点ににおよぶ。 その中には,室町幕府奉行人奉書・管領代奉書や守護代香川氏関係の文書,あるい は細川澄元の数少ない史料などが含まれており,室町・戦国期政治史研究上貴重な史料となっている。 1338年 足利幕府成立 この頃に安富・香川・奈良氏らが讃岐に入部 †讃岐の安富氏は紀姓を称し、讃岐守護で室町幕府管領をつとめる細川氏の直臣であった。 讃岐守護細川氏は足利氏の一門で、建武の中興のとき足利尊氏に属して活躍、足利幕府の成立に功があった。建武の新政がなったのち、尊氏は細川定禅を讃岐に、細川和氏を阿波に遣わした。建武二年(1335)、尊氏が鎌倉で後醍醐天皇に謀叛を起こしたとき、定禅は香西・託間・三木・寒川氏らを率いて尊氏に呼応して京都制圧に活躍した。しかし、北畠顕家・楠木正成らの軍に敗れた尊氏は九州に落ち、多々良浜の合戦で菊池氏ら九州宮方に勝利して頽勢を挽回すると、京都をめざして西上した。定禅・和氏らはこれを迎え、楠木正成を摂津湊川で破った尊氏は京都を回復し、足利幕府を開いた。 幕府成立後、讃岐守護には定禅の兄細川顕氏が補任された。顕氏のあと繁氏が守護となり、そのあとを頼之が継承した。頼之のとき、一門の細川清氏が南朝に通じ、白峰合戦が起こった。頼之は香西・託間氏ら讃岐の武士を指揮して清氏を討伐、讃岐から南朝勢力を一掃した。以後、讃岐守護は頼之の子孫が世襲し、細川氏は直臣を登用して讃岐の支配を行った。かくして、安富・香川・奈良氏らが讃岐に入部したのである。そういう意味では、安富氏は讃岐生え抜きの武士ではなかった。 讃岐安富氏の祖は、下総国から出たという民部太夫照之が祖と伝える。照之は武勇にすぐれていたことから足利氏に抜擢され、暦応二年(1339)足利尊氏から播磨国三日月郷を賜った。そして、『西讃府志』によれば、細川頼之に従って応永年間(1368~74)に讃岐に入部し、三木・寒川・大内三郡の十八ケ村を領して、平木城主になったのだという。平木城は三木高長の城であったが、後継者のなかった三木氏に代わって安富氏が城主になったと伝えられる。 1362年細川 頼之土佐国・讃岐国の守護 †南北朝時代から室町時代の武将、政治家、幕府管領である。幼名は弥九郎。右馬助、右馬頭、武蔵守。官位は従四位下。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領に就任して幕政を指導し、足利義満を補佐し、半済令の施行や南朝との和睦などを行う。1379年の康暦の政変で失脚、その後は赦免されて幕政に復帰する。 1362年(正平17年/貞治元年)には土佐国・讃岐国の守護となり、佐々木道誉らとの政争で失脚し、南朝に与した一族の幕府執事細川清氏を讃岐国宇多津(香川県綾歌郡宇多津町)で滅ぼす。 この頃中国地方で大内弘世や山名時氏らが南朝から幕府方に帰服しており、時氏を説得工作に頼之も関わっているとされる。中国地方が安定すると頼之は中国管領を解任され、代わりに四国管領に任じられ、河野氏を追討して四国を統一する。幕府の管領となっていた斯波義将、父の斯波高経が道誉らの策謀で失脚(貞治の政変)すると頼之は幕府に召還され、道誉、赤松氏ら反斯波派の支持で1367年(正平22年/貞治6年)2代将軍足利義詮の死の直前に管領に就任する。 1379年(天授5年/康暦元年)、細川氏が紀伊における南朝征討に失敗すると、義満は山名氏清らに軍勢を与えて征討を行わせる。さらに頼之と斯波氏や土岐頼康に対して兵を与えると諸将は頼之罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極氏らが参加して将軍邸を包囲し、頼之の罷免を求めるクーデターである康暦の政変を起こす。義満から退去令を受けた頼之は一族を連れて領国の四国へ落ち、途中で出家を行う。後任の管領には義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策も覆される。 斯波派が望む頼之に対する討伐は義満が抑えるが、政変を知った河野氏が南朝から幕府に帰服し、頼之討伐の御書を受けて頼之と対抗する。頼之は管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化に務めており、これを利用して河野氏や細川清氏の遺児の正氏らを破り、1381年には河野氏と和睦して分国統治を勧める。弟の頼元が幕府に対して赦免運動を行い、1389年(元中6年/康応元年)の義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐国の宇多津で赦免される。1391年には斯波義将が管領を辞任し、頼之は義満から上洛命令を受けて入京する。後任の管領には頼之の弟の細川頼基が就任すると、頼之は政務を後見し、宿老として幕政に復帰した。1390年(元中7年/明徳元年)には備後国の守護となる。この年の明徳の乱で幕府方として山名氏清と戦う。1392年に風邪が重態となり、3月に死去、享年64。 頼之は1379年(天授5年/康暦元年)の康暦の政変で一旦没落するが復帰、弟の細川頼元が管領職になる。 戦国時代に入ると、勝元の子の細川政元が明応の政変で将軍足利義材を廃立し、幕政の実権を掌握した。この時期、畠山・斯波両氏の没落もあって細川管領家は全盛時代を迎える。だが政元自身は妻帯せず、細川澄之・細川澄元・細川高国の3人を養子に迎えたため、この3人が家督をめぐって争い、遂には政元が澄之を推す配下に暗殺されるなど混乱を極める。この混乱は1531年(享禄4年)に澄元の子・細川晴元が高国を打倒することで収まり、晴元はそれによって畿内に一大政権を築き上げ、細川氏を立て直した。しかし、1549年(天文18年)、家臣の三好長慶の裏切りにあって、晴元は近江に追放され、その政権は崩壊してしまう。なおこの細川宗家は、当主が代々右京大夫に任ぜられたことから京兆(右京大夫の唐名)家と称される。 南北朝時代に、細川頼之に従って、白峰合戦に功績のあった香川氏は、西讃三郡を賜り、多度津の雨霧山に牙城を築き、本台山(桃陵公園)に居宅を構えて1585年天正13年秀吉の四国征伐まで、この地方を支配した。
1362年奈良氏 讃岐藤家の所領であった鵜足、那珂二郡を賜った。 †武蔵国大里郡奈良を本拠地とする御家人の出自を持ち、官僚細川家の馬廻りをしていた奈良氏は貞治元年(1362)高屋合戦における武勲により讃岐藤家の所領であった鵜足、那珂二郡を賜った。その後奈良太郎左衛門元安は応仁の頃に聖通寺山に築城し、子、備前守元信。孫、太郎兵衛元政と3代に渡りこの聖通寺城によって領治した。天正十年七月土佐の長宗我部元親は先年下した羽床、香川氏を先鋒に奈良氏に攻撃目標を定めた。しかし、嘗て細川の四天王と言われた奈良氏も鵜足郡内津之郷、川津、二村などの数か村を保つに過ぎず勢力は衰えていた。太郎兵衛元政は聖通寺を棄て香西伊賀守に合流しようとしたがならず、阿波の三好存保の拠る勝端城を頼った。同年八月、元政は中富川合戦で二五〇余名とともに討たれ名門奈良氏も滅亡した。
室町時代の讃岐 †讃岐─┬─香川氏─┬─直 領──┬─豊田郡 │ │(天霧山城) ├─三野郡 │ │ └─多度郡 │ └─奈良氏領──┬─那珂郡 │ (聖通寺山城)└─鵜足郡 │ └─安富氏─┬─香西氏領──┬─綾南条郡 │(勝賀山城) ├─綾北条郡 │ ├─香川西郡 │ └─香川東郡 ├─植田氏領────山田郡 │(戸田城) ├─直 領────三木郡 │(雨滝山城) └─寒川氏領──┬─寒川郡 (昼寝城) ├─大内郡 └─小豆郡
1400年頃から 香川氏が京兆家分国讃岐の半国(西方)守護代を歴任 †京兆家細川氏被官の香川氏として最初に確認されるのは、明徳三年(1392)八月二八日の相国寺慶讃供養の際、頼元に随った「郎党二十三騎」の一人、香河五郎頼景であり、応永七(1400)年以降は京兆家分国讃岐の半国(西方)守護代を歴任しているのが確認されるとのことです。香川氏で讃岐半国守護代を務めたと考えられる人物については、香川帯刀左衛門尉、香川五郎次郎(複数の人物)、香川和景、香川孫兵衛元景などが守護(細川京兆家当主)もしくは京兆家奉行人と考えられる人物から遵行を命じられています(『香川県史』第二巻通史編中世、313,4頁)。『建内記』が文安四年(1447)の時点で、香川氏のことを安富氏や長塩氏とともに「管領内随分之輩」であると記しており、香川氏が室町期を通じて京兆家の有力内衆であったことは間違いないと考えられる、とのことです。
1467年 応仁の乱 奈良太郎左衛門 円亀山に築城 †
天文元年(1532) 奈良も 一向一揆 三好氏台頭 †八月の山科本願寺焼き討後も、畿内一向一揆と細川晴元の戦いは続いていた。 その後、「天下、一揆のままなり」と表現された一向衆を中心とする21万騎が、大和と京畿の交通の要衝を抑え、細川京兆家を打倒した事件がありました。 香西家、薬師寺家、木沢、茨木といった国人の上で守護代を任じられた、内衆(細川家うちわ衆)が没落し、事態の収集にのりだした細川家は、法華衆徒と結び、山科本願寺の退去を実施したが、将軍家要人三好長慶の天下となる。これで、京畿の幕府機構は、崩壊してしてしまった。 主な一向一揆 1474年、越前一向一揆 1480年、越中一向一揆 1488年、加賀一向一揆 1532年、畿内(奈良)一向一揆 1563年、三河一向一揆 1567年、長島一向一揆 1570年、石山合戦 1551年 村上水軍 小早川隆景 †古くから瀬戸内にあって勢力を保ってきた村上水軍は、天文20年(1551)の厳島の合戦以降、毛利氏と行動を共にし、山陽の水軍を統括していた小早川隆景の指揮下にあって織田氏の海戦などに活躍した。笠岡城は村上氏にとって本州側の重要な拠点であったが、毛利氏にとっても山陽道を押さえる備中の入り口として重要視。 1555年頃高木城築城 高木隼人:鷲住王の後裔 †楠見城(高木城) 綾歌郡飯山町川原字山崎、楠見、東坂元河内 高木隼人 高木隼人の遺構。楠見池は弘治年間(1555~58)築造されたと言われ、のち矢延伝六が三谷池と楠見池を一つにして現在の楠見池とした。その池の西方に標高80m程の城山に高木隼人が築城し、城山の西方約2km西坂元の国持地区に居館を構えた。西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。坂元村史に「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とある。 1558年 三好 天霧城を攻める †永禄元年(一五五八)に三好豊前守が天霧城を取り囲んだ時、民部少輔も三好方で出陣している。 香川氏 †善通寺 鎌倉寺:香川氏の先祖鎌倉権五郎景政を氏神として、鎌倉町に祀った。 八幡太郎義家の臣 鎌倉権五郎景政の子孫。 南北朝時代に、細川頼之に従って、白峰合戦に功績のあった香川氏は、西讃三郡を賜り、多度津の雨霧山に牙城を築き、本台山(桃陵公園)に居宅を構えて1585年天正13年秀吉の四国征伐まで、この地方を支配した。 雨霧城三代物語には次の様に書かれている。弥谷山にあり、絶頂は常に雲霧に覆われ、峻険で、香川氏が冦への守りとしてここに築城した。この山は二郡にまたがっており、居城は多度津とした。 追記多度津の城に香川氏が居住した事は書物には書かれていないが、雨霧山の峻険であることは三代物語に書かれているとおりで、いま、その頂上には石垣などが残っており、井戸も一カ所あるがその深さは判らない。常に居住した所とは思えないので、多度津に本多山と言うところがあり、ここを香川氏の城跡としている。私もこの書に書かれているとおり、香川氏の居城は本多山であろうと考えている。 出典:http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2055-48.html 戦国の西の荘 :香川民部少輔 †民部少輔は香川肥前守景明の従弟で京師に出て細川政元に仕えた政元が殺害された後、香西備中守元継が養子澄之を立てようとして嵐山の城に立て籠もり三好元長と戦った。元継軍が敗れて戦死した時に元継の領地、丹波国篠山、綾郡西ノ荘の城が共に闕所となったので管領細川澄元は民部少輔が澄之へと味方をしなかったのを賞して西荘城を与えた。よって、始めてこの城へと移り北條郡を領した。その三代孫が父祖の名を継いで民部少輔と称した。 天正八年に長曽我部元親が六千余の兵を率いて攻め寄せた。民部少輔は降った。元親は城を巡検し、土佐兵五百余人を付けて西長尾城と共に守りにつかせた。そこへ三好存保が信長の命だとして香西、安富、寒川、植田、池田、三谷等の諸士及び阿淡の兵士一万人を率いて北條郡へと入り西荘城を取り囲んだ。 民部少輔の家臣で宮武源三兵衛が良馬に乗って近従十騎を従え、轡を並べて群れ集まる敵軍の中へとさぁっと駆けだした。当たる敵を打ち据え、一散に駆け敗り一騎も損せずに引き取ったので敵も味方も褒め称えた。ところで当の西長尾城からの援兵は敵が多兵であると聞いて寄せては来なかった土佐兵将が「これでは勝利を得られまい、今は降参して再挙を計るべきだ」と言ったので民部少輔もこれに従った。城を明け渡した後、土佐兵は西長尾城へと引き退き、民部少輔は家人従類を従えて青梅浦へと引き取った。従兵二十人と慈愛の鷹を手にして城を立ち去る後ろ姿を見て皆、涙を流した。松ヶ浦から舟に乗って塩飽島へと渡ったが、以後どうなったかは不明である。中国にて死んだとも、また、義昭将軍が吉川元春に民部少輔降参の事を書き頼み、再び毛利の力により国元へと帰り仙石氏に従って利光川で戦死したとも言う。生駒氏の時代になって、宮武源三兵衛が城地を受け取り田畑を開いて現在に至るまで、その裔族はここに住んでいる。 天正二年(1574) †
天正七年 香川一族 家臣 長宗我部氏への臣従 †香川信景(????)~(1586) 【官位】:刑部大輔、中務少輔 【別称】:元景 雨霧城主で西讃岐屈指の豪族。先祖は相模国香川庄を領した鎌倉権五郎景政で細川氏と共に讃岐に入部した。細川氏に属すが臨機応変に安芸毛利氏や中央の織田氏とも手を結び信長から偏倚をうけ信景と改名。1579年頃から、長宗我部氏の讃岐侵攻が本格化。家老の香川山城守、河田七郎兵衛、河田弥太郎、三野菊右衛門の四人を二人ずつ土佐に送るというを条件を受け入れ降伏、元親次男の親和を養子に迎えた。香川氏の降伏後讃岐の豪族達は次々に長宗我部氏に降伏する。秀吉の四国征伐後土佐に逃れ、豊後戸次川合戦で討ち死にした
天正十二年(1584)元親は四国統一を果たす †しかし、翌年には豊臣秀吉の四国征伐を受けて敗れ、降伏、土佐一国を安堵されて豊臣大名に列した。香川信景・親和父子も天霧山を退去して土佐に退去した。ここに、讃岐の戦国大名として勇名を馳せた香川氏は讃岐から退去した。 1581年 向井城(向城、真鍋城) † †真鍋祐重 城主真鍋氏は源平一の谷合戦で豪の者とうたわれた真鍋五郎助光の子孫である。代々武技にたけ、戦国時代には祐主、祐重父子は香西氏に属し、兵3百人を率いる武将として活躍した。祐主は仏心も厚く城の片隅に首塚を築いて自らが討ち取った敵の将兵の冥福を祈ったと言う。この父以上に祐重は、天正九年~十年(1581~82)の長宗我部元親の香西侵攻に際して。次々と敵将を討ち取って勇名をはせた。その後、讃岐の領主生駒親正に従い、朝鮮に出兵(1592年文禄の役、1597年の慶長の役)して数々の戦功を上げている。小学校北東中筋マンションの東側に祐主の五輪塔が安座している。城跡は木太南小学校南門より200m北東、詰田川の末流のすぐ近く、田の中ほどに小高い丘に荒神社(掘り出し荒神)がありこの辺り一帯だと言われている。木太町向井(琴電長尾線はやしみち駅の東)南部が本村である。向井城は本村の神内城と白山権現社(木太南小学校の東)を挟んで向いにあったところからそう呼ばれている。
1584年 奈良太郎兵衛門元安 戦死 †土佐を統一した長曽我部元親が阿波・讃岐への進攻を開始し、元親は西長尾に城を築き、国吉甚右衛門を守将とした。太郎兵衛元政は長曽我部勢に進出に対して、栗熊村に砦を築いて後藤左衛門佐に守らせた。 天正十年(1582)、信長が本能寺の変で殺害されると、元親は一気に阿波・讃岐に兵を進めた。長曽我部軍は諸城を落とし、宇多津にも攻め寄せてきた。元政は十河存保に支援を求めたが、存保にその余力はなく、ついに元政は城を捨てて香西伊賀守に合力しようとした。家臣を率いて東に進んだ元政は小山に陣を布こうとしたが、にわかに大雨となり、野陣をあきらめ山下の観音堂に入って夜を明かした。その後、阿波に入り十河存保の麾下に属した。 天正十一年(1584年)長曽我部元親、阿波の勝端城を攻む。勝端城は三好存保(十河)は、織田信長に破られた上方の将兵。四国で長曽我部勢に破られたる将兵は合わせて三千五百名にて、勝端城を守り中富川に押し出して迎え打ったが之を打ち破る。この陣に讃州 奈良太郎兵衛門元安 二百五十人を三手に分けて物集 進士を左右にし闘ったが戦死。子 太郎左衛門 他従は讃岐に引具して鵜足郡津之郷辺に居住し、生涯を送り裔を残す。 天正十四年 讃岐香川氏の最期 島津軍と戦って壊滅的敗北 †天正十四年、豊臣秀吉は九州征伐の陣ぶれを行い、四国勢に豊後出兵を命じた。長宗我部元親、十河存保、香西・寒川・安富・三野・羽床、そして香川民部少輔らが出陣し、島津軍と戦って壊滅的敗北を喫した。長宗我部元親の嫡男信親をはじめ、十河存保、香川民部少輔、安富氏、羽床氏らはことごとく戦死をとげた。 もっとも将来を嘱望した信親を失った元親は往年の覇気を失い、二男の香川親和、三男の津野親忠をさしおいて末子の盛親を跡継ぎに決定した。これには、一族の吉良親実らが諌言を行ったが、元親はそれをいれなかったばかりか親実に自刃を命じた。 1597年 生駒 丸亀城築城 †
慶長2年(1597)讃岐17万石「生駒親正」親子は、四国の官領職「細川氏」の家臣の「奈良氏」の出城を大きく作り変え、後の城の基礎をつくった。 「生駒一正」の代に、一国一城令によりいったん破却された。 生駒家4代54年で、 生駒の時代が終わる。
丸亀城は最初の城主生駒親正から一正・正俊・高俊と4代54年間,山崎甲斐守から 俊家・治頼と3代17年間,京極高和から高豊・高或・高矩・高中・高朗・朗徹と 7代212年間 計282年間の大名の城となった。
1641年 山崎氏 築城の名手 †寛永18年(1641)「山崎家治」が西讃岐5万3千石で入封し、城郭の再建をした 「山崎氏」は3代17年で無嗣絶家となり、山崎の時代が終わる。
飯ノ山城 丸亀市飯野町東二山崎 高木右馬守 藤井太郎右衛門尉 飯野村史に「飯野山西麓にあり、高木右馬守城跡と云う。その後後藤井太郎右衛門の 居城と云う。段々田圃と修理、屋敷、井量やしき杯と地名残れり。 何れ此の辺両姓の末流今に多し。山の尾崎を城跡と云。 則曰天大明神と今此所に奉尊敬也」とある。 丸亀市飯野町東二の小山は飯野山から西に派生した舌状の丘である。 標高はせいぜい20m位であろうか、 現在丸亀市青少年野外センター駐車場に飯野神社が祀られている。この飯野神社が旧飯野村史で言う天大明神を祀る社であろうか。 今は開発されて飯ノ山城の遺構を知る事もできない。
織田信長と本願寺顕如が対立し摂州石山本願寺で合戦が始まった天正年間、毛利水軍の大将として活躍していた藤井太郎右衛門という武将がいた。 合戦後、忍城主成田氏長の家臣で弟の藤井玄藩を縁に行田に移り、修羅の争い人の世の無常を憂い親子で出家。真言宗の当寺に入るが他力易行に帰依深く浄土真宗に転派。太郎右衛門は旧跡巡拝を志し、末子の釈教恵玄広に寺務を譲り、これをもって文禄四年(1595年)開祖となる。 以来四百年以上にわたり藤井家は代々世襲し法灯を守り続けて現在に至っています。(埼玉県行田市城西3-7-12)の高速道路北側の二ヶ所ある』ととも書かれている。
その東側に山崎甲斐守が居城した城跡がある。 山崎城(山崎邑城) 丸亀市飯野町東二山崎(飯野町東分山崎・東二) 飯野村史に戦国時代の豪族で山崎甲斐守が山崎に築城したが、 土佐の長宗我部元親に滅ぼされたと書かれている。
1659年 京極高和 丸亀に入る †万治元年(1658)、播磨・龍野6万石より京極高和が丸亀5万石へ入封。不足の1万石は 播磨・網干に与えられた。3代・高或は3歳で家督を継ぐが、夭折のための断絶を恐れ高或の 庶兄・高通に1万石を分知し支藩・多度津藩を作る。 3代・高文までは藩庁を丸亀に置いたが 4代・高賢の時多度津へ移る。 以後7代212年を経て、維新に至った。
虎ノ門 琴平宮 † †万治3年(1660)丸亀藩主京極高和が讃岐から三田の藩邸に勧請し、延宝7年(1679)藩邸移転とともに現在地に移る。 |