卑弥呼の塚

  • 魏志倭人伝』に「卑弥呼以死大作冢径百余歩徇葬者奴婢百余人更立男王国中不服更相誅殺当時殺千余人」と記される。書き下し文にすれば、「卑弥呼、以て死す。大いに冢を作ること、径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立つ。国中、服さず、更に相い誅殺す、当時千余人を殺す」というのが、一般的な訓みであろうか。これが、厳密な意味でわが国最古の墳墓に関する史料記事。
  • 「その死には、棺があるも槨なく、土を封じて冢を作る。始め死するや喪を停めること十余日、時に当たりて肉を食わず、喪主哭泣し、他の人は歌舞飲酒に就く。すでに葬むれば、家を挙げて水中に詣りて澡浴す、以て練沐(水垢離)の如し」
  • 高さも形も不明。
  • 木棺か。縦穴式か?。
  • 大きさも難しい。2説ある。
    • 魏朝の時代の尺度(一里=三百歩で、一歩が約1.45M)に基づき、約一五〇Mとみる、
    • 倭人伝に通じる「短里」で表現されたものとみて、三〇Mほどとみる(なお、「短里」についても、朝鮮半島・倭地に限定の短里とみる説と魏晋朝一般の短里とみる説がある)、
    • 三世紀後葉の帯方郡太守張撫夷の墓は、方台形の土墳で基底部の一辺が約三〇M、高さが約五・四Mとされる
    • 中国の燕の下都「虚粮冢」の墳丘墓にも一辺五〇Mを超える巨大なものが四基あり、なかでも一辺五五M、高さ一五Mほどものが最大規模
  • 殉死・殉葬の風習
    • 垂仁紀二十八年条に殉死停止命令
    • 野見宿祢の埴輪製作の記事(この時以降、生きながらの殉葬に代えて埴輪が立てられることになった)
    • 雄略天皇に殉死した隼人の例(清寧紀元年十月条)
    • 孝徳紀大化二年(六四六)殉死停止命令
    • 『播磨国風土記』にも、雄略朝に尾治連上祖の長日子の死に際し、寵愛していた婢と馬とを殉じさせ、墓の側に両者の墓を築いて殉葬したと記される
    • 大化のときの薄葬の詔は、人馬の殉葬という旧俗が禁じられた。
  • 北九州で多量に発見される甕棺墓や石室墓は、「棺あって槨なし」とも言える。

古稲荷古墳 :宇佐市大字 法鏡寺(ほうきょうじ)字上原の 駅館(やっかん)川 右岸

  • 古墳の形が四角形( 方墳(ほうふん) )
    • 前方後円墳 は知られていたが、方墳の発見は初めて
  • 古稲荷古墳は1辺約20m、高さ約2mの方形墳で、墳丘の北側には幅4mほどの 周濠(しゅうごう) があり、丘陵との境を区画している。
  • 墳丘の表面に小形で扁平な割石を用いた 葺石(ふきいし)が認められる。
  • 墳丘中心部、墳頂から2m下った位置に地山を掘り込んで箱形の 石棺(せっかん) を裾えている。
    • 石棺は 内法(うちのり)長1.8m、幅0.5mで、各7枚の長方形の板石を立てて側壁を造る。 遺骸(いがい)の頭部にあたる方の石棺小口には1枚の板石を使っているが、足の方の側は木板を使用したとみられる。蓋石は3枚の厚手の板石で構成する。
  • 副葬品は全く発見されていない。
    • 周濠の中から、 壷(つぼ) や 高杯(たかつき) などの土器片を数点。
    • これらの土器片の示す特徴は、弥生時代の終末期ごろの土器と共通するようであり、古墳の時期判定の 拠(よ)り所の一つとなっている。
    • 葺石に河原石を使用せず扁平な割石を使っていることなど古墳として未発達な内容を示す古稲荷古墳は、他地方の発生期古墳の一部と共通する要素をもっている。こうした要素に加えて、周濠内で検出した土器から得られる時期判定の所見をあわせ、古稲荷古墳はこの地方における古墳の 萌芽(ほうが)を示す発生期の古墳だと考えられるに至った。
  • 駅館川中流域の台地上には、弥生時代後期の 銅鉾(どうほこ)埋納遺跡 や 鏡片 を伴う同時期の 住居遺跡 などが集中

ホケノ山古墳

  • 浦間茶臼山古墳は、箸墓古墳の設計図で作られた2分の1の古墳と言われている。 網浜茶臼山古墳は、同じく箸墓古墳の設計図の3分の1の古墳と言われている。
  • つまり、箸墓古墳の成立年代が、直接浦間茶臼山古墳の成立年代に影響する
  • 「ホケノ山古墳は3世紀中ごろと発表したが、今回の測定結果から築造も3世紀前半と見ていいだろう」  (木棺材の炭素14年代測定値の発表を受けての発言)
    • 纒向遺跡の東南部に位置し、東から西へ向かってのびる段丘の残丘上に立地する前方後円墳である。
  • 平成12年4月、大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会は、ホケノ山古墳の築造年代が、それまで推定されていた3世紀半ばから3世紀第2四半期(225~250)ごろに遡ると発表した。第4次発掘調査で出土したコウヤマキ製のくりぬき式木棺(長さ5m、幅1m)の破片を、放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果である。
  • 大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している。(桜井の文化財 桜井市教育委員会、石野)
  • 前方後円墳、全長約80m・後円部径約55m、後円部3段築成、周濠幅約10.5~17.5m、葺石を施す。
    •  前方部裾葺石の一部を取り除き、瀬戸内系の壷・東海系の壷を副葬した木棺を埋葬、主体部石積木槨(長さ約7m、幅約2.7m)・刳抜式木棺(コウヤマキ製5m)、槨内より鋼鏃60本以上・鉄鏃60本以上・素環頭大刀1口・鉄製刀剣類10口前後・加飾壷・画紋帯同向式神獣鏡、破砕鏡、鉄製農工具出土。 (古墳時代前期初頭)
  • 吉備で発生した特殊器台、円筒埴輪が飾られた前方後円墳が大和で作られることになった

 吉備や四国に古い古墳

  •  大和主導説の再検討を提唱された北條芳隆氏の研究(『古墳時代像を見直す』共著、青木書店、2000)
    • 徳島県の萩原1号墓ですが、弥生終末期、箸墓古墳より古い時期。
  •  高松市にある「鶴尾神社4号墳」
    • この古墳も箸墓より古い年代。「讃岐型前方後円墳の完成形」と表現しています。
  • 甘粕氏の話
  • 秋葉山3号墳が箸墓古墳に代表される定型化した前方後円墳が出現する直前の纏向型前方後円墳である可能性が高い。
  • 箸墓出現前夜には前方部が短小な纏向型タイプと、東部瀬戸内に分布する細長い前方部を持つ讃岐鶴尾神社型のタイプがある。 また前方後方形の墳丘墓が濃尾平野と近江に発生、東日本に拡散。 讃岐鶴尾神社型の墳形は箸墓に継承。纏向型と前方後方形はそれぞれ帆立貝形古墳と前方後円墳として全国展開。 纏向型、鶴尾型の年代はどちらを先行とするかは断定しない。
  • 纏向型前方後円墳は、大和を起点にし、前方後方古墳の回廊を飛び越し南関東に伝播。 次の段階で箸墓モデルの前方後円墳が全国に拡散。秋葉山3号墳や神門古墳群はその先駆
  • どちらが古いか決定していない??

マバカ古墳:天理市成願寺町

  • 3世紀中ごろにつくられた可能性があると考えられているのは、天理市成願寺町にある前方後円墳のマバカ古墳です。  今回、県道天理環状線が通る予定の墳丘西側を調査したところ、前方部分の端であることを示す7つの基礎石が直線的に出土しました。  また、墳丘のすそには下池山古墳の石室にも使われた安山岩の板石があったほか、握りこぶし大のバラスが敷き詰められていました。  一般的に古墳の周囲には溝がめぐらされますが、この古墳では主軸の延長に水を受ける四角い落ち込みがあり、ここから古い土師器も数多く見つかっています。  このような珍しい落ち込みや土師器の年代から、マバカ古墳は大和古墳群ではこれまで知られていなかった草創期のものであることが分かり、研究所では桜井市の纏向古墳群以外でも3世紀の古墳を考える貴重な資料が得られたと話しています。

富田茶臼山古墳

  • 四国で最大の前方後円墳
  • 墳丘形状は、三段築成の前方後円墳である。
    墳丘規模は全長139m、後円部径91m、前方部長48mで後円部に比べ前方部が短い。 
    墳丘の高さは後円部項部で標高66.3m、前方部はこれより約3m低い。 
    前方部の幅は77mで後円部径よりも小さい。 
    作り出しや張り出し等の施設は認められない。 
    葺石は墳丘一段目にはなかったと考えられる。 
    周濠は、前方部側が狭くなる盾形で、類例の乏しい形状である。 
    周庭帯は周濠南外側に広がっている幅15mの平坦地がこれに相当すると考えられるが、これ以外に明瞭な痕跡は認められない。 
    出土遺物は円筒埴輪が多く、朝顔形、形象埴輪は少ない。土師器、須恵器は少量出土している。 
    築造年代は、埴輪の特徴から5世紀前半と考えられる。 
    主体部の規模、築造や副葬品については、発掘調査を行っていないため不明である。 
    3基の陪塚が付随している。 
  • 埋葬施設は、竪穴式石室であろうと推測する

高松市茶臼山古墳

  • 高松平野の東部、茶臼山の山頂部を利用して築かれた全長66㍍の前方後円墳である。昭和44年(1969)の発掘調査により、後円部中央に2つの石室が発見された。大きな方の石室からは、鍬形石と呼ばれる腕輪の一種が2個、鏡が一面等の豊富な副葬品が発見された。鍬形石は県内唯一の事例で、四国でも他に徳島市の巽(たつみ)山古墳の例があるのみである。大和の勢力者から分配を受けたものといわれ、茶臼山古墳の主が近畿地方と密接な関係にあった証拠とされている。石室も近畿地方にみられる構造をしていることが知られている。西の方の石清尾山古墳群との関係で語られることも多く、被葬者が大和勢力によって高松平野に打ち込まれた楔(くさび)のような政治的な役目を持っていたといわれる。しかし、石室が東西に築かれる等、地元色もうかがわれる。
  • 参考:ttp://www.manabi.city.takamatsu.kagawa.jp/INF/06/02/13/main00000068.html

桜井茶臼山古墳 :奈良県桜井市外山(とび)

  • 古墳時代前期前半(4世紀初頭)の前方後円墳です。周辺は古代に磐余とよばれた地域
  • 南にある鳥見山から北へのびた尾根線を切り離し、成形して基底部とし、その上に東西の谷を掘削して得た土砂を盛り上げて築いたもの
  • 柄鏡形前方後円墳
  • 典型的な丘尾切断型の前方後円墳。全長207m、後円部径110m・高さ21.2m、前方部幅61m・高さ11m
  • 葺石をめぐらす。埴輪はないが、墳頂に方形にとり囲む壷の列がある。後円部3段・前方部2段の段丘を持つ。
  • 竪穴式石室は、全長6・75m・幅1・13m・高さ1.6m
    • 安山岩系の偏平な石材を小口積にし、上部では花崗岩を混えて築成し、13枚の天井岩を用いて閉塞していた。
  • 橿原考古学研究所の発掘調査で、内部から鏡・玉・剣等の副葬品と共に、王者の権威である玉杖が出土している。
  • 石室内には巨木を刳り抜いた木棺の一部が残存
  • 後円部頂上で、石室を覆う封土を方形に、底部穿孔のある壷形土器が置かれてあった。
    • 土器の形式的編年は纒向Ⅳ式(布留式) に相当するものと考えられ、これらの土器の供献的な性格をもつものかも知れない。しかし、纒向遺跡の調査による古式土師器の編年研究の成果と茶臼山古墳のこの壷形土器との対比は古墳の編年研究あるいは時期推定に有力な根拠となるてあろう。(桜井市史より)
  • 竪穴式石室 竪穴式石室は、1949年に発掘調査がおこなわれました。後円部上面から約0.8m下に埋め込まれた石室は、南北6.75m・東西1.13m・高さ約1.6mを測る大形のものでした。12枚の天井石と垂直な側壁、そして板石が敷き詰められた床面によって形作られた石室には、大きな木棺が納められていました。残念ながら盗掘を受けていたために、副葬品は多くが失われ、また埋葬時に置かれた位置から移動していました。遺存した遺物には、鹿角をかたどった玉杖や玉葉、そして銅鏃・鉄鏃・鉄剣・鉄刀の武器類や石製腕飾類、さらに内行花紋鏡・方格規矩鏡・三角縁神獣鏡・画紋帯神獣鏡・斜縁二神二獣鏡等の約20面分の銅鏡片があります。それらは研究所附属博物館で公開しています。
  • 茶臼山古墳の鏡
  •  鏡はいずれも小さな破片になっていたが、その出土位置から,棺外の北小口部か棺内に置かれていた可能性がつよい。  それらは、三角縁神獣鏡7ないし8面と、画文帯神獣鏡は、同向式神獣鏡・環状乳神獣鏡・求心式神獣鏡を含む3ないし4面、ぼう製の内行花文鏡3面、そして方格規矩四神鏡・獣帯鏡・斜縁神獣鏡・単き鏡が各1面ある。なかでも内行花文鏡は、復元径が35~38cmになる大型鏡があり、下池山古墳の鏡(37.6cm)に匹敵する。
  • 茶臼山古墳の石製品
  •  石製品は、用途によって石材が使い分けられている。まず碧玉製品のうち、威儀具としての儀杖・指揮棒を象った玉杖は4本分あり、碧玉管を鉄芯で連結させたもの三種と、鉄芯の痕跡のないものがある。このような作り分けは、メスリ山古墳の玉杖にも見られ、製作時の基本理念は受け継がれたようだ。  このほかに、中国の玉製葬具の眼玉に通じるとされる玉葉、垂飾品としての用途が考えられる五輪塔形石製品、軟質の緑色凝灰岩では、腕輪形石製品と弓矢関連の武器形石製品などがある
  • 茶臼山古墳の鉄製品
  •  出土した鉄製品には、鉄杖と刀剣・鉄鏃・工具がある。  鉄杖は、鉄棒の先端がとんの形に似ていることから、そのように名づけられた。断面方形の中空の鉄棒は、最大長60cmになる。  鉄剣は、関部が明確で、柄と鞘の木質がよくのこり、朱がきれいに付着している。他に刀と短刀がある。

柳井茶臼山古墳:山口 柳井市

  • 4世紀末から5世紀初めに造られた、全長90mの前方後円墳
  • 出土品の中で、単頭双胴怪獣鏡(大鏡)は直径44.8センチあり古墳から出土した鏡では日本で最大のものです。この古墳からは、日本一大きい鏡(単頭双胴怪獣鏡)が発掘された
  • 現在 古墳全体を葺石で覆い、142基の埴輪のレプリカ(複製品)を設置して復元

太田茶臼山古墳

  • 一重の周濠をめぐらしたかなり大きな前方後円墳
  • その規模は墳丘全長226m、前方部幅147m、前方部長117m、前方部高19.8m、後円部径138m、後円部高19.2mで、幅約28~33mの濠
  • 造営された時期は、昭和61年(1986年)に周濠から出土した埴輪の特徴などから見て、5世紀前半から中頃にかけての古墳時代中期であろうと考えられている。
  • 天皇稜:石柱には『継体天皇三島藍野陵』とされている。
    • 太田茶臼山古墳を継体天皇陵とするには大きな疑問があるとされている。1986年に行われた濠の外堤の調査時に発掘された埴輪などの出土品から、この古墳は5世紀前半から中頃にかけて造られたと考えられているが、継体天皇は日本書紀によれば西暦531年(6世紀)に没しているとされているので、両者の間には100年近くのズレがあることになる。
  • 高槻市にある「今城塚古墳」が真の継体天皇陵であるとするのが定説になっている

赤堀茶臼山古墳

  • 帆立貝式の古墳で、墳丘長62.1m、前方部が長さ18mと短く低いのが特徴です。後円部には2基の木炭槨があって、神獣鏡(しんじゅうきょう)や内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、短甲をはじめとする副葬品が出土
  • 8棟の家形埴輪は、母屋や倉庫、囲いなどを「コ」の字に並べていたようす
  • 1号槨:神獣鏡、石製刀子(21)、石製勾玉(1)、臼玉(25)、鎧(短甲)、鉄鏃、斧頭(4)、鉾身・石突、刀剣身
    2号槨: 内行花文鏡、刀身 

茶臼山古墳 下都賀郡壬生町大字羽生田

  • 全長約80mの前方後円墳です。墳丘は二段に築かれ、後円部の直径約45m、前方部の幅約51m、高さ約5mで、葺石があります。墳丘の一段目は低く、幅約10mの平らな部分となっています。周溝は幅約20mで、その外側には幅約5mの土手のような高まりがめぐっています。  後円部の墳頂付近では、三列に回る大形の円筒埴輪が確認され、他にも家形埴輪や須恵器が出土しています。これらの遺物から、この茶臼山古墳は、谷をはさんで南東約300mにある富士山古墳より後につくられ、6世紀後半の古墳と考えられます

浦間茶臼山古墳:岡山市浦間

  • 岡山県下に茶臼山の名をもつ前方後円墳は七基が知られる
  • 最古段階の古墳(三世紀後半)で、特殊器台が変化した文様のある埴輪・特殊器台形埴輪が使用されている
  • 墳丘全長138mの大形前方後円墳で、前期古墳のなかで最大の規模をもつ奈良県箸墓古墳と同じ設計で、二分の一の大きさに築かれたとみられる。古墳時代前期初めに築かれた吉備の古墳のなかで最も大きいだけでなく、その時期の古墳としては全国第四位、大和・山城(近畿)以外では最大の古墳

中山茶臼山古墳:岡山市

  • 岡山市吉備津にある古墳時代前期(西暦3世紀後半~4世紀)の前方後円墳である。現在、大吉備津彦命墓として宮内庁の管理下にあり、立ち入りができない。墳長約120 m、後円部径約80m、後円部高約12m、前方部長40mである。

網浜茶臼山古墳

  • 古くから墓地となっているため墳丘がかなり削られてはいるが、大形古墳の威容をとどめている。
  • 全長92mを測り、箸墓古墳の三分の一規模で築造されたと考えられる。
  • 岡山市街地からも仰ぎ見ることもできるが、南側の瀬戸内海(現在の児島湾)に視界が開けており、内海航路からの遠望を意識して築かれた古墳とみられる。

綴喜郡八幡町茶臼山古墳

  • 茶臼山古墳ハ淀川ノ南岸ニ聳ヘテ京都ノ西口ヲ扼セル男山鳩ケ峯ノ南方山續キニアリ、其ノ位置ハ鳩ケ峯ニ接シ山勢ノ著シク狹メラレタル處ヲ掘開シテ八幡町ヨリ楠葉村ニ通ズル道路ノ存スル部分ノ南側最高部ニ當リ、陸地測量部二萬分之一地形圖ニ依ルニ標高八二・八米突ヲ示ス。地頗ル高燥ニテ東西ノ兩面眼ヲ遮ルモノナク、南マタ遠ク甘南備山ニ對シ山城攝河ノ平野ヲ俯瞰スベキ形勝ノ地ヲ占ム。
  •  塚ハ同地點ノ最高部ノ小平臺ヲ利用シテ營マレタル圓墳ナリ。封土ハ發掘ノ際半バ破壞セラレタレバ、其ノ正確ナル大サヲ知ルヲ得ザルモ殘存部ニヨリテ推測ヲ加フルニ、基底部ニ於ケル徑十間ヲ超へ、高サ二間半内外ナリシガ如シ。  而シテ封土ハ全部黄赭色ノ土壤ヨリ成リ、葺石ヲ認メズ、其ノ破壞セラレタル中腹ノ部分ニハ埴輪圓筒ノ破片無數ニ散在シ、頂部ノ遺存部ニモ亦コレヲ見ル。確ナル理沒ノ状態ハ調査スル能ハザリシモ當時圓筒ノ圍繞ノ二重ニテハアラザルカヲ思ヘリ。
  • 次ニ發見ノ品目ヲ擧ゲムカ。  一、石棺東側ヨリノ發見品     石 劍  完全ノモノ 二個・破片 四片 二個分 碧玉製管玉 (残缺共)  二個     刀 身  ホゞ形ノ全キモノ 二口・斷片 十數口分 鐡 鏃   數個  二、棺ノ西側ノ土砂中ヨリ發見 金薄片   一片  三、石室上部ノ封土中ヨリ 和銅開珍  一個

いろいろある茶臼山

快天山古墳

  • この古墳は西暦4世紀中頃(古墳時代前期後半)に築かれた前方後円墳で、全長100m前後の巨大なものです。古墳時代全体を通しても香川県大川町にある富田茶臼山古墳(墳長135m 5世紀前半)に次いで四国第二位の規模です。4世紀代の古墳としては四国最大の前方後円墳となります。
  • 快天山古墳は、古墳時代の墳墓の最も特徴的な形式である前方後円墳で、長さ98.8m、高さ10.55mです。その築造された時代は、古墳時代の前期で、だいたい4世紀の中頃になります。古墳の造られている場所は、平地部から40mほど高さのある丘陵の尾根の先端部分で、標高は約70mです。
  • 一つはその規模で、四国の古墳の中では、さぬき市の富田茶臼山古墳に次ぐ、2番目の大きさであり、快天山古墳と同じ古墳時代前期の古墳のなかでは、四国で最も大きい古墳です。この地域に巨大な古墳を築造できる強大な勢力の存在を示しているものと思われます。もう一つは、埋葬施設に採用された割竹形石棺です。これは、近年の研究の結果、刳抜式の石棺としては、日本で一番古いものとされています。快天山古墳が造られた後、この石棺は、県内の古墳や岡山県や大阪府の古墳などに採用されていきます。快天山古墳の石棺は、国分寺町の鷲ノ山の石で造られています。この鷲ノ山の石で造られた石棺が大阪府の古墳で見つかっているのです。これは、当時の政権の中心である畿内地方の古墳に、地方の古墳が影響を与えたものと考えられます。古墳時代を象徴する前方後円墳は、一般的には、畿内地方で成立して、畿内地方との政治的関係で地方へ広がっていったとされていますので、快天山古墳は畿内との政治関係において重要な役割を象徴する古墳といえるでしょう。
  • http://www.city.marugame.kagawa.jp/sightseeing/history/1_10.html

岩清尾山古墳


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Last-modified: 2012-08-18 (土) 11:36:00 (2078d)