天日鷲は 美努連の祖

  • 天日鷲神は、神代紀には二箇所見えて、天岩戸事件のとき祈祷のため粟国忌部の遠祖でその作った木綿を天香山の真榊に掛けたこと(第七宝鏡開始の段の一書第三)、高皇産霊尊が作木綿者としたこと(第九天孫降臨の段の一書第二)が記されます。
  • 『姓氏録』には、少彦名神の後裔氏族は見えませんが、高魂命(高皇産霊尊)の孫・天日鷲命(天日鷲翔矢命)の後裔は多く記載されて、弓削宿祢、天語連、多米連・宿祢、田辺宿祢。
  • 安房の忌部の子孫となる洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」(筑波大図書館所蔵、鈴木真年写本)
    • 天日鷲翔矢命の子の天羽雷雄命(一云武羽槌命)の子孫として委文宿祢・美努宿祢・大椋置始連・鳥取部連の祖と記載。ここであげられる四氏のうち、美努宿祢・鳥取部連 は『姓氏録』には美努連・鳥取連としてあげられ、ともに「角凝魂命の三(一説に四)世孫の天湯川田奈命(天湯河桁命)の後」として記されます。また、同書には、右京神別に神麻績連、鳥取連、三島宿祢、天語連が一連の記載をされており、記載内容は現存版が抄本のためあまり共通なものとはなっていませんが、これら諸氏が同族の系譜を伝えていたことが推されます。
  • 鳥取連を通じて、少名彦命と天日鷲命とが同じ系統にある神ということが分かってきます。

橘宿祢の姓を得て臣籍に降りた葛城王(美努王の子)

氏姓制度・氏姓対応表 
臣 皇別氏族(蘇我・葛城・平群・巨勢・吉備・春日・和邇・出雲など) 
連 神別氏族(大伴・物部・中臣・越智・忌部・尾張など) 
君 地方有力豪族(筑紫・毛野・犬上など)、後に「公」 
直 小豪族(地方首長には造・首) 
史 諸蕃氏族(帰化人の子孫)[他に村主・使主・吉士・薬師] 
  • 敏達天皇-難波皇子-大俣王-栗隈王-美努王-葛城王-奈良麻呂
    • 難波親王からの五世王が葛城、佐為、牟漏女王の世代。
  • 皇籍から臣籍に降りたのは葛城王。
  • 伝統ある旧族大伴家に連なる家持と新興の名家橘家の、諸兄の子 奈良麻呂。
  • 諸兄及び其男奈良麻呂と青年時代の家持とは、非常に深い関係があつたようだ。
  • 三千代と不比等の子は光明皇后。三千代と美努王との間の子、葛城王や佐為王。
  • 美努王家と藤原氏を結合させたのは三千代夫人の力に依るもので、其結果諸兄が參政ともなり得たとの説がある。美努王家と藤原氏の結合とは、葛城王と多比能また房前と牟漏女王との結婚を指している。
  • 忠を尽して君に仕え、人臣の節を致した建内宿祢が、八氏の祖となり万代の基を遺した。同じく忠誠を以って仕えた三千代はその功により、橘宿祢の姓を賜った
    • 県犬養橘宿祢三千代が死んで三年後の天平八年十一月十一日、葛城王らは橘宿祢の姓を乞い、許されて臣籍に降っている。
    • 令制では、五世王は王名を持ち従五位下の蔭位を授かるものの、皇親の籍には入らないことになっていた。
  • 県犬養宿禰三千代は、はじめ敏達天皇の曾孫にあたる美努王に嫁して葛城王を生むが、後に律令政治の立役者である藤原不比等の妻となる。なお、律令制下では、父姓相承の大原則よりして、継嗣を有しえない女性の始祖はありえず、正式には葛城王(諸兄)と佐為王が王族を辞し橘姓を賜った最初とされる(義江明子『日本古代の氏の構造』)。橘三千代は、法隆寺ともゆかりのある女性である。法隆寺には橘夫人念持仏といわれるものがある。これは玉虫厨子によく似た厨子で、阿弥陀三尊が祭られている。また西院伽藍の西北にある八角の西円堂は、橘三千代の御願により、行基がつくったものとされている。それ以外にも三千代の品物が住宅をはじめ多く奉納されているのである。梅原猛氏は法隆寺に橘三千代がかかわるところに、夫である藤原不比等の影があるとしている。すなわち、法隆寺建立が藤原氏に対する聖徳太子一族の怨霊の鎮魂のためであったとするからである。

橘の京

  • 欽明帝から敏達、用明、崇峻、推古へと続く天皇の時代は、『集解』に「橘の京に都す」とも述ベられている
  • 橘豊日専(用明天皇)と欽明天皇皇女(穴穂部問人皇女)の間に聖徳太子が生まれる。その聖徳太子の妃に推古帝の初孫であり、尾張皇子の子にあたる橘大郎女がいる

みかん

  • 「日本書記」には、田道間守がダイダイを輸入したという故事がある。田道間守の伝説は全国各地にある。飽託郡河内町では、肥後耶馬渓と称される渓谷の近く「上越」に原木を植えたと伝えられている。
  • 伊予国では新井氏・高市氏・矢野氏等は橘氏を名乗り、河野氏は藤原氏を名乗っている。その橘氏を名乗ったのは、当国国司であった橘長者清正より橘姓を揚わったというからともいわれる。
  • 伊予の新井氏や寒川・三木氏が橘氏を称し、伊予の河野氏や讃岐の託間・香西氏が藤原氏を称している。
  • 正成を出した楠木氏。『橘氏系図』

 日本書紀

「日本書紀」に「七箇所」も記されている「美濃王」、「三野王」、「美努王」、「彌努王」は同一人物か?。

 美努王    ┌ 葛城王(橘諸兄)
    │    │
    ├───├ 佐為王
    │    │
    │    └ 牟漏王
 橘三千代
    │(父親は縣犬養大伴)
    │
    ├───光明皇后
    │
 藤原不比等
敏達天皇─ 難波皇子─ 大俣王─ 栗隅王─── 美努王 ┌橘諸兄─ ┬奈良麻呂   
     │ │ └清野── ┬高貴  
     ├─── ┼橘佐為─ ┬古那可智 ├船子─ ─祟子内親王 
     │ └牟漏女王 └綿裳 ├安雄─ ┬有良春岑 
     │  ├─── ┬藤原永手 ├広雄  └安岑 
   県犬養東人─ 橘三千代 藤原房前 └藤原眞楯 └継麻呂  
     ├─── ─光明皇后 ─孝謙天皇   
   中臣鎌足── 藤原不比等

橘朝臣(たちばなのあそみ)。

  • 甘南備真人(かむなびのまひと)と同じき祖。敏達天皇の皇子難波皇子(なにはのみこ)の男、贈従二位栗隈王(くるくまのみこ)の男、治部卿従四位下美努王(みののみこ)。美努王は従四位下県犬養宿禰東人(あがたのいぬかひのすくねあづまひと)の女、贈正一位県犬養橘宿禰三千代大夫人(あがたのいぬかひたちばなのすくねみちよおほとじ)に娶(みあ)ひて、左大臣諸兄(もろえ)、中宮大夫佐為宿禰(さゐのすくね)、贈従二位牟漏女王(むろのおほきみ)を生めり。女王は贈太政大臣藤原房前(ふぢはらのふささき)に適(ゆ)きて、太政大臣永手(ながて)、大納言真楯(またて)らを生めり。 和銅元年十一月己卯に大嘗会あり。二十五日癸未の曲宴に橘宿禰の姓を大夫人に賜ふ。天平八年十二月甲子、参議従三位行左大弁葛城王(かつらぎのみこ)に詔して、橘宿禰諸兄と賜ふ。

  • 葛城の賀茂氏と山城の賀茂氏
高魂命----伊久魂命-天押立命--陶津耳命-玉依彦命+生玉但日子命
(高皇産霊尊) (生魂命) (神櫛玉命) (健角身命)    |(賀茂縣主祖)
                               +剣根
                                                       (葛城直祖)
  • 陶津耳命こと健角身命が山城葛野縣主の祖とされる八咫烏。その孫の代で縣主と葛城直祖の剣根に別れる。同じ賀茂族として同族だったことが解る。
  • 『山城国風土記』逸文に、山城の賀茂社は賀茂建角身命が葛木山の峯から山代国に移り、その子の玉依姫の生んだ賀茂別雷命を奉るとある。
  • 剣根を祖とする葛城族
    • 葛城直祖つまり葛城国造の剣根を祖とする葛城族は大族で、多分その地名によって名乗ったと想われるそれぞれの氏名をもっていた。葛城氏をはじめ当麻・蘇我・賀茂・波田・巨勢・平群など皆葛城一族である。剣根のいた葛城山の高尾張邑から葛城直の一族が、紀伊国からきた武内宿禰の一族に追われて濃尾地方へ移り、後の尾張氏となった。
  • 『出雲国造神賀詞』に「倭の大物主櫛 玉命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を雲梯(うなで)に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫命の近き守神と貢り置きて…」とあり、出雲系の諸神を、葛城・高市・飛鳥などの大和枢要地の神奈備に配祀した。特に葛木の鴨の神奈備の所在地については明確ではないが『古事記』には「迦毛大御神と謂ふぞ」とあり最高の敬語を用いている。大和の西北部、平群郡の神奈備(大字神南・神岳神社)に鎮祭(『延喜式』)、東北部の奈良に大神、狭井の神々を、狭岡・率川の両社(『延喜式』)に祭祀、大神信仰が大和全域に拡大した(『率川神社記』『大神分身類社抄』)。
  • 三輪氏は、『記紀』伝承によると、三輪君(みわのきみ)・大神(おおみわ)氏・大三輪氏といい、大国主命の和魂の大物主命の後裔とされ、大物主命と活玉依姫(いくたまよりひめ)との神婚によって生まれた太田田根子を祖としています。大和国城上郡大神(おおみわ)郷(現在の三輪)を本拠とした、大王家にとって大事な大物主神を祀る大神神社の祭祀をとりおこなってきた氏族として有名です。 この三輪氏が大和政権とかかわって、歴史のなかに登場してくるようすを、『日本書紀』から主なものをとりあげて見ると。 まず仲哀天皇9年天皇崩御のとき、中臣・物部・大伴の三氏とともに、大三輪大友主君が大夫(まえつきみ)に命じられ、百僚をひきいて宮中を守ったとあります。 三輪君甕穂は孝徳天皇へ白雉(はくち)を献上する際に、白雉を乗せた輿を担ぐ役をつとめるなど、大王家の側近としての性格が強い氏族と考えられます。 やがて壬申の乱においては、三輪君高市麻呂が大海人皇子方の有力な武将として乱を勝利に導き、天武・持統に三輪氏の地位を高め、684年には朝臣(あそみ)姓を賜っています。

河内の鴨:大和川の出口は河内

  • 鴨氏の拠点の葛城は河内と紀の国とに隣接しており、海への要衝の地
  • 物部の土地、河内にも鴨は進出。  河内国石川郡 鴨習太神社(河南町神山)  河内国高安郡 鴨神社(八尾市大竹)『古事記』で大田田根子が居た所の近所  河内国澁川郡 鴨高田神社(東大阪市高井田)  摂津国嶋下郡 三嶋鴨神社(高槻市三島江)

太田田根子:河内の美努の村にいた。三輪・鴨の祖。

  • 崇神王権が大和を支配してから三輪山の神を無視した状態が続きました。この時代に、しばしば災害が起こることがありました。大神は「倭国の域(さかひ)の内に所居る神、大物主神」と名乗って、「国がうまく治まらないのは吾が意である。もし、吾が児、太田田根子を以て、吾を祭れば、たちどころに平安となり、海外の国も帰伏するだろう」との託宣をされました。
  • 太田田根子は『古事記』では河内の美努の村にいました。八尾市西高安町の鴨神社の西。『日本書紀』では茅渟県の陶邑にいました。堺市上之の陶荒田神社付近。いずれにしろ、河内にいた太田田根子を探し出し、大物主大神を祭る神主としました。

三野県主:御野県主神社

  • 三野県主一族の祖神を祀る。  饒速日命降臨神話では讃岐三野物部と見えるが、河内の三野県も古い。雄略天皇崩御後、吉備の上道国造の謀反事件に、この地の三野県主小楯が加担したが、謀反は失敗に終わり、この時県主を免ぜられ、郡名も改称されたとの推測が「大いなる邪馬台国:鳥越憲三郎氏:講談社」に記されている。
  • この一族は天武天皇13年美努連に任ぜら、復権している。

応神紀の三野県

  • 応神紀秋九月六日から十日
    •   「秋九月六日、天皇は淡路島に狩りをされた。この島は難波の西にあり、  巌や騎士が入りまじり、陵や谷が続いている。芳草が盛んに茂り、水は勢  いよく流れている。大鹿・鳧・雁など沢山いる。それで天皇は度々遊びに  おいでになった。天皇は淡路から回って、吉備においでになり、小豆島に  遊ばれた。十日、また葉田の葦守宮に移りお住になった。そのとき御友別  が来て、その兄弟子孫を料理番として奉仕させた。天皇は御友別が畏まり  仕えまつる様子をご覧になり、お喜びの気持ちをいだかれた。それで吉備  国を割いて、その子たちに治めさせられた。川島県を分けて長子の稲速別  に。これが下道臣の先祖である。次に上道県を中子の仲彦に。これが上道  臣・香屋臣の先祖である。次に三野県を弟彦に。これが三野臣の先祖であ  る。また葉区芸県を、御友別の弟鴨別に。これが笠臣の先祖である。苑県  を兄の浦凝別に。これが苑臣の先祖である。織部を兄媛に賜った。それで  その子孫はいま吉備国にいる。これがそのもとである。」
  • 「県(あがた)」は、朝廷の直轄地。5 世紀中期から6 世紀に設置。吉備に置かれた県の例は、磐梨県・川島県・苑県・三野県など。

讃岐の対馬神社

  • 海辺の風光明媚な小島の神社
  • 沿革 津島の宮は陸地を離れること1町鼠島という小さい島に樹木生い茂り瀬戸の内海に浮んだ風光絶佳の島は浮世絵二代安藤廣重に描かれて有名である。夏の祭りには海路により参拝する船舶数10せきに及ぶ。大正2年に津島の宮臨時駅が設けられてから参詣者は急増。昭和10年頃棟梁島田芳太郎の手によって本殿が再建され神社としての風格が頓に加わった。昭和15年頃当時の村長倉田弥治郎発起人となり長い橋を架けてから海路の参拝客は次第に少なくなった。昭和28年拝殿,社務所,休憩所が設立され昭和30年神輿新調と共に社殿完成,同年讃岐百景の一として観光地としても頓に有名になった。
  • 所在地  三野町大字大見字久保谷宮の尾
    祭 神  素戔鳴命
    祭 日  旧暦6日24日,25日
    氏 子  久保谷部落一円は勿論,町内,郡内,県下,県外にわたり約十
           万の氏子がいるという。特に高松中心,伊予東部,岡山児島方面に多く,
              昔は牛馬の守護神として有名であったが,現在は子供の神として尊崇される。

葛城

  • 山麓には『延喜式・神名帳』が定める最高の社格を持つ神社が五社ある。これと同格の神社は、「大和」全域でたった七社、うち大神(おおみわ)神社など四社が三輪山麓にあり、その他の地にあとの三社がある。
    • 葛城の五社とは、鴨都味波八重事代主命神社(主神・ツミハヤエ事代主命)、葛城坐一言主神社(事代主命)、高天彦神社(タカミムスビ神)、高鴨阿治須岐託彦根命神社(アジスキタカヒコネ命)、葛城坐火雷神社(火雷大神)である。 
    • このうち葛城氏にとって、主神はアジスキタカヒコネ命神と事代主命神である。この二神は当然のことながら、初めから葛城氏によって祀られてきた神々だ。しかし記紀では、「根の国」系の首領神・大国主神の子神となっている。はるばる出雲からやって来た「国つ神」の扱いである
  • 葛城氏には、2派ある。神別と皇別である。  剣根命を始祖とする神別の流れがあり、  「葛城国造」として葛城地方に力を持っていた。
  • 葛城襲津彦の系統は皇別と言われている
 孝元天皇━彦太忍信命━屋主忍男武雄心命┳武内宿禰━━┓
                    ┗甘美内宿禰 ┃
                           ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃
 ┣波多八代宿禰
 ┣巨勢雄柄(小柄)宿禰
 ┣蘇我石川(石河)宿禰
 ┣平群木菟(都久)宿禰
 ┣紀角宿禰
 ┣久米能摩伊刀比売
 ┣怒能伊呂比売
 ┣葛城長江曾津毘古(襲津彦)┳葦田宿禰┳玉田宿禰━円━━韓媛
 ┃             ┃    ┣蟻臣━━━夷媛
 ┃             ┃    ┗黒媛
 ┃             ┗磐之媛
 ┗若子宿禰

葛城=嶋 説

  • 嶋の地の所在は明らかであろう。  嶋の大臣 馬子が「元臣の本居」と言ってその領有を望んだ葛城の地である。  いくつか収斂するものがある。  顕宗は諱を弘計(をけ)といい、嶋稚子ともいった。その父は市辺押磐、母は葛城蟻臣の女?媛である。顕宗が嶋の名をもつのは、その母の地に由来するかも知れない。  葛城が嶋すなわち斯摩なら、隅田八幡社画像鏡の斯麻念長なる人物もまた、葛城の一族であろう。そして神功紀に「その何姓の人かを知らず」という斯摩宿禰は必ず葛城宿禰に違いない。  神功紀にあり、実は時に太子であった景行に随行して戦い、その後更なる利権を求めて半島に渡った人物は、要するに葛城の豪族、あるいは豪族とならんとした氏族の突出した最初の一人であったと思う。 葛城の姓はおおくの氏族の姓と同じく、後世の付会なのであろう。  それがいつごろなのかは分からない。もと斯摩で、その後葛城と称し、或はこれを並行して呼称してきたのなら、その由来も明らかに思える。すなわち加羅城の意味であり、その始めも半島に交渉をもった斯摩宿禰に由来するのであろう。加羅はもと弁韓また弁羅といい、弁はカルと訓む。カルラであろう。カルラギのギは新羅をシラギと訓むのに等しい。  葛城の一族は知られている限り葛城襲津彦を始祖とする。それ以前には前後の関連なく、気長足姫の母という葛城高額媛と、古事記の開化記にいう葛城垂水宿禰、そしてもうひとり、武内宿禰の弟とする甘美内宿禰の母、葛城高千那毘売がある。書紀の襲津彦は古事記には葛城長江襲津彦とある。その女磐之媛は仁徳の后であり、履中・反正・允恭を生んだ。  古代その地は斯摩(嶋)と呼ばれてきた。神武が大和に入った時から、その本拠とした畝傍周辺から見て、東に磯城、西に斯摩の勢力があったのである。 出典:http://www9.plala.or.jp/juraku/soki1_4.html

栗隈黒嬢娘【天智38帝采女】 栗隈王【壬申の乱時の大宰帥】

  •  巨椋池の南に居住していたとみられる古代豪族・栗隈氏は秦氏と同じく土木工事の技術をもって大和政権に仕えた。『日本書紀』仁徳天皇十二年十月の条に「大溝を山背の栗隈懸に掘りて田に潤く」とある。栗隈氏は、「井戸を掘る」犬養氏とここで繋がる。また近鉄寺田駅の西に「水主(みずし)神社」がある。「水主」は「みぬし」とも読む。水主氏は栗隈大溝を管理した者と伝えられる。後、水主の神は雨ごいの神ともなっている。栗隈王の名は「美努王」によって伝えられる。また栗隈黒媛娘は采女として天智天皇との間に「水主皇女(もひとりのひめみこ)」をもうけている(天智七年二月)。橘諸兄は孫に当たる。 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  
  • 宇治市南部を含めた城陽市東部丘陵地における古代寺院のオンパレードである。
  • それら廃寺はかつての栗隈県(くりくまのあがた)の地に位置しており、栗隈氏による建立とみなされている。栗隈県といえば、仁徳期・推古紀にみえる「栗隈大溝(おほうなて)」がまず思い起こされるであろう。仁徳期はまさに巨大古墳の時代で、城陽市~宇治市南部にかけての久津川古墳群はよく知られている。その最大のものが車塚古墳であるが、先の平川廃寺のすぐ西に位置している。仁徳期の「大溝」は、大谷川改修(大谷川は地形からいえば、西へ流れるはずなのが、北へ流れている)であろうといわれる(平川廃寺発掘の際、大谷川の旧筋とみられる川筋の跡が発見されている)。その開発の成功により得た勢力・財力の賜物が車塚古墳であり、それは栗隈県主の墓であったと思われる。この栗隈県主の後裔が、奈良期以前以後において天皇家との婚姻関係もある有力豪族の栗隈氏とみられてきたが、車塚古墳(二重濠竪穴式)を中心とする久津川古墳群から栗隈県寺院群への移り変わりには100年以上の断絶があって、その間に継体天皇勢力下とみられる宇治二子塚古墳(二重濠横穴式)の登場がある。どうやらこの地にも政権交代があり、栗隈県主は没落したのではないかともいわれる。
  • 栗隈県は、古代郷の那紀(宇治市伊勢田付近)・栗隈(宇治市大久保付近)・久世(城陽市北部)の範囲とみなされるが、では、その久世郡栗隈郷の栗隈の地名の由来はとなると、困惑する。栗隈氏は渡来系氏族であろうともいわれ、クリは高句麗から、クマは高麗(こま)からきているという説もある。だが、『新撰姓氏録』山城国諸蕃に黄文氏(氏族の一部は久世郡に居住)があり渡来人とわかるが、栗隈氏はみえない。

美努王【栗隈王(壬申の乱時の大宰帥)の子】  

  •  「美努」の「みぬ」は「水沼」に通ずると思われる。筑紫の水沼氏は宗像神(海神)に仕えた故に、「みぬま」の名を称したという。「みぬ」が「みぬま」の省略形であることは、折口信夫が『水の女』で記している。美努王と県犬養橋三千代の結婚も、三千代と不比等の結婚も、「水の神事」を媒介になされたものではないか。三千代がこの二人の夫との間にもうけた橘諸兄と光明子が政治の中心の人となってゆく背景には、彼女が〃乳人〃であったということが童要である。或いは彼女は御子、「とりあげの神女」であったのではないか。

 天武の時代

672(天武1)年、壬申の乱の際、父栗隈王・兄武家王と共に大宰府にいた。近江朝廷の使者は軍兵を徴発するため大宰府に至るが、栗隈王はこれを拒絶。この時兄とともに父の傍らに剣を持って控え、父の身を守った。681(天武10)年、川島皇子らと共に「帝紀及び上古の諸事」の記録・校定に従う。685(天武14)年、京・畿内の兵器を校閲する使者。694(持統8)年、大宰帥に任ぜられ筑紫に下向。こののち、妻三千代を藤原不比等に奪われる。701(大宝1)年、造大幣司の長官。この時正五位下。翌年左京大夫。705(慶雲2)年、摂津大夫。この時従四位下。708(和銅1)年3月、治部卿。同年5月、卒去。作者不明の挽歌が万葉に見える

2人いたか

壬申の乱で大海人皇子側についた美濃王は別人か?

  • 天武紀2年(763年)には、美濃王と紀臣訶多麻呂を造高市大寺司に任命 した記事が見えるが、これは百済大寺が移建されて高市大寺になったことを意 味する。
  • 日本書紀 天武天皇4年(白鳳4年679年)4月10日、小紫美濃王(みののおおきみ)・小錦下佐伯連広足(さえきのむらじひろたり)が勅を奉じて、、風神を竜田の立野(たつの)に祭らせた。小錦中間人連大蓋(はしひとのむらじおおふた)・大山中曽禰連韓犬(そねのむらじからいぬ)を遣わして、大忌神(おおいみのかみ)を広瀬の河原に祭らせた。
  • 大忌神とは「若宇加乃売命」であるらしいが、倉稲魂命とも考えられる。広瀬神はまた「屋船豊受姫神」とも呼ばれ、家屋を鎮め、船の運航、河川交通の守り神でもあった。
  • 奈良県生駒郡三郷町 龍田大社(たつたたいしゃ):延喜式の名神大社
    • 奈良県下の川という川が集まってくる広陵町にある「広瀬神社(広瀬大社)」と共に、古来崇敬のあつかったところ。明治4年以来官幣大社。
    • 「遣小柴美濃王、小錦下佐伯連広足、祠風神、竜田立野」とあり、「竜田」とは、“龍田二神”のことであり、いわゆる奈良の龍田神宮に祭られている「龍田比古神・龍田姫神」のことであり、さらにこの龍田神社に合祀されている風神は「志那都比古・志那都姫」の2神である。
  • 『続日本紀』 天平宝字元年(757)十二月九日の条
    • 「従五位上尾張宿禰大隅が壬申の年の功田卅町、淡海朝廷の諒陰の際、  義をもちて興し蹕を驚せしめ、潜に関東に出たまふ。時に大隅参り迎へて  導き奉り、私の第を掃ひ清めて、遂に行宮と作し、軍資を供へ助けき。そ  の功実に重し。大に准ふれば及ばず、中に比ぶれば余り有り。令に依るに  上功なり。三世に伝ふべし。」
  • 尾張宿禰大隅が美濃王か??。小紫美濃王との関係は??
  • 天武天皇が束間(=筑摩)(つかま)の湯(現在の美ヶ原温泉)に行幸せんと、三野(美濃)王に信濃の国の地形図を献上させた旨が日本書記に記されています。
  • 文武天皇の時代になると、大官大寺の造営記事が「続日本紀」に頻出する。藤原京の時代に斎会がよく営まれた官営の4大寺の筆頭が大官大寺であった。ちなみにあとに薬師寺、元興寺(飛鳥寺)、弘福寺(川原寺)と続く。
    • 百済大寺→高市大寺→大官大寺→大安寺と系譜がたどれ、舒明以後の歴代の天皇によって発願建立されてきた国家第一の寺であった ことが分かる。
    • 593年 推古元年。四天王寺着工  594年 五重塔心柱伐採。仏教興隆の詔  601年 斑鳩宮造営  617年 聖徳太子、熊凝寺を建てる  639年 舒明天皇、百済大寺を建てる  667年 金堂天井板伐採  670年 法隆寺全焼  673年 百済大寺再建、高市大寺とする。五重塔雲形肘木伐採  677年 高市大寺を大官大寺とする  678年 白鳳大地震  684年 法起寺建造開始  692年 藤原京造営の詔  697年 文武(高市)即位。薬師寺開眼  699年 中門一階柱上部大斗伐採  706年 法起寺塔完成  707年 文武(高市)死亡  708年 七大寺年表 観世音寺と法隆寺を造るの詔  711年 大官大寺と藤原京焼ける。中門仁王像、五重塔塑像完成  716年 大官大寺を移す  718年 西円堂建立  729年 長屋親王の死 大安寺に改名
  • 『日本書紀』はその創建について、舒明11(639)年7月の条に「詔して曰はく、今年、大宮及び大寺を造作ならしむとのたまふ。則ち百済川の側を以て宮処とす。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る。便に書直県を以て大匠とす」と述べ、舒明11年12月の条に「百済川の側に、九重の塔を建つ」と記す。
    •  壬申の乱の後、舒明と皇極の子、天武天皇は都を飛鳥にもどし、即位の年(673)に百済大寺を移して、高市大寺を営んだ。 天武6(677)年にはこの高市大寺は大官大寺と改称され、さらにまた文武朝以後には大安寺とよばれるようになり、平城京に移設されて現在にいたっている。 大変複雑な変遷をたどり、さまざまな伝承の衣をまとったこの名刹の実態は、長いあいだ謎につつまれてきた。
    • 百済大寺の建てられた場所は、古くは北葛城郡広陵町百済にある百済寺であるといわれてきたが、百済大寺が造られた土地が十市郡内とされることから、奥山久米寺あるいは香久山西麓の木之本廃寺が、これに当たるという説もあった。その後身とされる高市大寺についても、どこにその比定地を求めるか議論が続いている。
    •  最近では、1997年kらはじまった奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部の発掘調査の結果、桜井市所在の吉備池廃寺が百済大寺の有力な候補地に擬せられるようになってきた。
  • 大海人という名だが、これは乳母の姓であり、大海人宿禰アラカマという人物が大海人皇子の「壬生」であった。ミブ(乳部)とは貴人の出産と教育に従事する者のことで、皇子の名は乳母の姓を名づけるのが慣例だった。
  • 伊勢の記録によると、壬申の乱後天武二年(672年)、大来皇女が伊勢神宮の大海人皇子支援の手柄として斎王として仕える。これはこの後一代に一人の斎王が使えるようになる先駆けとなる。また二十年に一度の式年遷宮が定まったのが天武天皇十四年(685年)。最近では1993年に第六十一回式年遷宮が行われている。
  • 大友皇子
    • 大海人の娘十市皇女を妻としたが,政略結婚と考えられる。 弘文天皇とよばれたのは明治3年になって天皇号をおくられたことによる。
  • 尾張大海(オハリノオホシアマ)媛
  • 紀は第2の妃を尾張大海(オハリノオホシアマ)媛とし、八坂入彦(ヤサカイリヒコ)命、渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ)命、十市瓊入姫(トヲチニノイリヒメ)命を生み、記は尾張連の祖、意富阿麻(オホアマ)比売とし、大入杵(オホイリキ)命、八坂入日子(ヤサカノイリヒコ)命、沼名木之入日売(ヌナキノイリヒメ)命、210F14十市之入日売(トヲチノイリヒメ)命を生んだとします。
  • 尾張の大海は、意富阿麻とも、凡海とも書くか??。元伊勢との関係をみるべきか。丹波の海部の系譜ならば、大海スクネのスクネと呼ばれても不思議でない。
  • 「沼名木入日子」・・・「尾張連」の祖「意富阿麻比売」の子供。父は「祟神」
  • 諱の「大海人」は、凡海(おおしあま)氏の養育を受けたことに拠る命名と思われる。凡海氏は海部(あまべ)を統率した伴造氏族で、『新撰姓氏録』には右京・摂津国居住の凡海連が見えるが、ほかにも周防・長門・尾張など各地に居住したことが史料から窺える。
    • 参考:天武天皇と舞鶴を結ぶ須岐田の謎 天武天皇即位の時には千歳村の主基田(すきでん)の米が使われました。 大海人皇子は、天智天皇の御子大友皇子と戦った壬生の乱で、尾張の海部の加勢を得て勝ち、即位した人ですから、丹後海部の斎田、千歳が重要な意味を持っていた
  • 尾張国風土記残編に記された海部郡
民用冨饒材竹多種出柴胡橘抽川芎当帰厚朴等鮮魚繁多而膳部知所也
  • 御贄を司った海部氏が宰領したことが知られる。
  • 尾張は、安曇系
    • 凡海は安曇系か。渥美は安曇から転じたか?
  • 凡海

栗隈王の二人の子,三野王・武家王

 大友皇子は群臣に語って,「どのようにすべきか」といわれた。一人の臣が進み出て,「早く対処しないと手遅れになります。速やかに騎馬隊を集めて,急追すべきでしょう」といった。皇子はそれに従われなかった。韋那公磐鍬・書直薬・忍坂直大麻侶を東国に遣わした。穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を倭の京(飛鳥)に遣わした。また佐伯連男を筑紫に遣わした。樟使主磐手を吉備国に遣わして,軍兵をことごとく徴発させた。男と磐手とに語って,「筑後大宰栗隈王と吉備国守当摩公広嶋の二人は,元から大皇弟についていた。どうするかと背くかも知れない。もし従わないような顔色を見せたらすぐ殺せ」といわれた。磐手は吉備国に行き,官符(命令書)を渡す日,言葉巧みに広嶋を欺いて,刀をはずさせておいた。磐手はそこで刀を抜いて殺した。男は筑紫に行った。栗隈王は官符を受けて対えて,「筑紫の国はもともと外敵への備えであり,城を高くし堀を深くし,海に向かって守備しているのは,内賊のためにではありません。今,命に従って軍を起こせば,国の備えが空になります。思いがけない変事でもあれば,一挙に国が傾きます。その後で臣を百度殺されても何の益もありません。天皇のご稜威にそむく気はありませんが,兵を動かすことができないのは,以上のようなわけです」といった。時に栗隈王の二人の子,三野王・武家王は,太刀を佩きそばに立っていてはなれなかった。男はここで剣をとることは,かえって殺されると恐れた。それで任務を果たし得ないで空しく帰った。東国への急使磐鍬らが不破に入ろうとするとき,磐鍬は山中に伏兵があるかも知れないと疑って,おくれてはいった。ときに伏兵が山から現れ,薬らの背後を絶った。磐鍬はこれを見,薬らが捕らえられることを知り,引返し,逃げてかろうじてつかまるのを免れた。

美濃国神大根王の娘、兄媛と弟媛

  • 景行天皇は美濃国の国造の祖先、神大根王の娘、兄媛と弟媛の二人の乙女が、容姿端麗であるとお聞き定めになって、御子息の大碓命を遣わして召し上げさせた。 そうして遣わされた大碓命は、(天皇のもとへ)召し上げないで、つまり自分のほうがその二人の乙女と結婚して、更には別の女性を求めて、偽ってその乙女(兄媛弟媛)であると言って(天皇に)献上した。
  • 大碓命が兄媛を娶ってなした子は、押黒兄日子王〔この王は美濃国のウネクス別の祖先である〕。また弟媛を娶ってなした子は、押黒ノ弟日子王〔この王は武芸ツ君の祖先である〕。この大碓命の時代に、田部を設け、また東の安房の海峡を海路として定め、膳夫として大伴部を定め、また大和国の屯倉を定めた。また、坂手の池を造り、その堤に竹を植えた。

 地名

  • 香川県
    • 讃岐 三野郡
  • 河内若江郡三野県
    • 三野県主 神皇産霊尊の後裔、天川田奈命(湯川桁、天湯川田)の後 (御野県主神社)
    • 三野連 天武朝に連姓を賜う
  • 難波
    • 西成の三野郷 三野造 百済族
    • 難波の三野郡
  • 美濃
    • 本巣郡を本拠 三野国造 日子坐王の御子神 大根王(八瓜入日子王)の後、物部氏と同族、丹波系氏族
  • 尾張 中島郡
    • 三野別 垂仁帝の御裔、(見努神社)
  • 阿波
    • 三好郡三野郷
  • 吉備 御野郡御野郷
    • 三野県
    • 三野国造
    • 三野臣

信濃国

『日本書紀』 によると、大和時代の天武天皇の13年、14年(686年)の記事の中に、天皇が三野王(みぬのおう)を団長として、信濃国に都すべききとろがあるかを調査させた記事があり、三野王は信濃に下って、まもなく信濃国の図を奉ったと書いてありますが、翌14年の記事には、天皇が軽部(かるべ)の朝臣足瀬(あそんたるせ)・高田首新家(たかだのおびとにいのみ)・荒田尾連麻呂(あらたおのむらじまろ)らを信濃にくだし、束間の湯に入湯するための行官をつくらせた記事があります。ところが天皇は翌年世を去られ、束間の湯行幸のことはありませんでした。

地震で遷都か

天武7年12月(679)の筑紫大地震(水縄断層の活動)後、余震の記録が七回続いたあとに、紀11年3月(682)条、命小紫三野王及宮内官大夫等、遣于新城、令見其地形、仍将都矣 の記事が現れる。 天武に大和飛鳥への遷都を決意させたのは、天智を近江の大津に追いやった唐、新羅の脅威と言うよりは、相次ぐ地震への恐怖だったのではないか。13年10月(684)には追打ちをかけるように東海、南海、西海同時巨大地震(M8.4)が発生している。 近畿大和への遷都、あるいは移住は、倭国の為政者だけではなく、倭国王朝民たちの総意であったかもしれない。 

  • 上の記事参考:http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/nigitadu2.html
  • 天武天皇はその晩年にこの信濃国に倍都を造ろうとして使者を派遣、地図を作らせています。信濃倍都のために派遣されたのは三野王といい、敏達の孫あるいはひ孫といわれる栗隅王の子でした。栗隅王は壬申の乱の時の筑紫太宰で、近江の大友皇子側から来た軍兵徴発の使者が、徴発を拒否した栗隅王を斬ろうとしたところ、 三野王兄弟が父を護衛したというエピソードがあり、はじめから天武側だったことが明らかです。

  • 「正倉院文書」中の正税帳によると、当時の税は、稲、塩、酒、粟などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は変っている。鷹狩のための養鷹人と猟犬。白玉、青玉、縹玉などの玉類など。鷹狩などの貴族趣味は大和にはなく、筑後にはあったことになる。筑後はそれまでの文化の伝統を受け継いでいた。正倉院文書は当時の文化の中心地が筑後にあったと証言している。 参考:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou32/furuta32.html

「意富多多泥古」は

  • 「河内之美努村」に住んでいた。この「美努村」は「三野」と無縁ではない。
  • 『古代豪族系図集覧』によれば、剣根命の系譜は以下の通り。
 高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-剣根命-夜麻都俾命-久多美命(葛城直祖) 
  •  また陶津耳命の女に活玉依比売がいて、大物主命との間に鴨朝臣の祖である太田田根子をもうけるとある。
     +-玉依彦命---剣根命 
 陶津耳命-活玉依比売 
        |---太田田根子 
      大物主神 
  • 市磯長尾市の大倭氏系譜
    海神綿積--豊玉
              玉依
              穂高見
              振魂----武位起----珍彦----志麻津見--武速持--
                      大鐸比売  八玉彦                 
                   
               

       ---邇支倍--飯手宿禰--御物宿禰--市磯長尾市

             民磯媛  御戈    

三島溝咋耳命(みしまみぞくいみみのみこと)

  • 摂津(大阪)溝咋神社の祭神で、神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の外祖父。河内陶都耳命(大物主の妻、活玉依姫の父。大神氏の祖、大田田根子の先祖)や、賀茂御祖神の賀茂建角身命神(阿治志貴高日子根神)と同神とする系図もある。
  • 陶都耳命(すえつみみのみこと)は、「旧事記」には大陶祇(おおすえつみ)とあり、陶器作の首長だったと分かる。また、崇神朝の人で、賀茂氏の同族といわれる三輪氏の祖、意富多多泥古命(大田田根子命・おおたたねこのみこと)は、三輪の大物主の子孫であるが、記では河内の美努(みの)村、紀では茅渟県の「陶邑」の出身とされている。とすると、やはり賀茂氏と三輪氏と越智氏は、同族ないし親戚の関係と言って間違いないだろう。「美努」と「茅渟」が、海人族の貴種流離譚で、共通の先祖と仰がれた「麻績王」のキーワードとも重なる

飯豊青皇女

  • 葛城市忍海。すぐ横に城市歴史博物館がある。飯豊青皇女がこの地に宮殿を置いたのは、母方が葛城地方を本拠とした大豪族の葛城氏だったためらしい。飯豊天皇陵の所在地は同市北花内。全長90㍍の前方後円墳。築造は6世紀前半。
  • 谷川氏が多氏と関係が深い人物の一人としてあげているのが、飯富青皇女(いいとよあおのひめみこ)。飯富王、青梅皇女、忍海郎女王、忍海郎女など、さまざまな呼び方がある。青皇女は履中天皇の娘で、母は葦田宿衝 (損城襲津彦の子)の娘の黒媛と言われるが、別伝では市辺押羽皇子の娘で、母は蟻臣(葦田宿衝)の女藻(はえ)媛とも伝えられている。『日本書紀』によれば、清寧天皇が没したあと皇位継承者が定まらず、久しく空位が続いたために、飯豊青皇女が忍海角刺宮でみずから臨時に政(まつりごと)をしたとあり、一時は天皇に準ずる地位にあった可能性を伝えている。 記紀では天皇という言葉を使っていないが、『扶桑略記』では「飯豊天皇」としている。
  • 多氏の一族で飯富とか飫富と書かせてオウと読む例が多くあり、飯豊もオウと読むことができることから、谷川氏は飯豊青皇女を多氏と同族であることを暗示するとしている。
  • 『日本書紀』には身狭村主青(むさのすぐりあお)という人物が登場する。 雄略天皇14年のときに、身狭村主青を呉国につかわして、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫(きぬぬい)の兄媛、弟媛をつれてこさせ、呉人を檜隈野に置いたという記事がある。これが阿智王の記事と似ていることから、谷川氏は、身狭村主青は阿智王と同一人物と見て差し支えないとする。
  • 新撰姓氏録には、牟佐村主(むさのすぐり)、牟佐呉公(むさのくれぎみ)と云う渡来系の氏族が記されている。その本貫地は大和の高市郡である。彼らは中国の呉の国の王族の子孫と称しているが、坂上系図の中にも出てくるので、半島出身の東漢氏(やまとのあやうじ)の一族かとも思われる。高市郡には牟佐坐(むさにいます)神社と云う式内社もある。雄略紀には、天皇が身狭村主青(むさのすぐりあお)と云う人物を寵愛したと云う記事があり、欽明紀には高市郡に身狭屯倉(むさのもやけ)を置いたともある。この「ムサ」(牟佐、身狭)が転訛した可能性があると考えるのである。
  • 雄略紀の5年に、辛丑年に蓋鹵王が弟の毘支君を倭に遣わすとあります。百済の蓋鹵王は455年に即位していますので、雄略元年の丁酉年は457年にあたります。
457年(雄略元年)
461年(雄略5年) 百済ののちの武寧王が筑紫で誕生 
462年(雄略6年) 呉国遣使貢献 
464年(雄略8年) 呉国に身狭村主青らを遣使 
464年(雄略8年) 高麗と新羅の怨みが始まる 
466年(雄略10年) 呉国から身狭村主青らが筑紫に到る 
468年(雄略12年) 呉国に身狭村主青らを遣使 
470年(雄略14年) 呉国から身狭村主青らが呉国の使いと共に帰る 
476年(雄略20年) 高麗王が百済を滅ぼす 
477年(雄略21年) 百済を助けるため久麻那利を文周王に賜る 
479年(雄略23年) 百済の文斤王が亡くなり東城王が継ぐ。 
             昆支王の第二子の末多王に兵器と兵士を与えて百済に送り届けた
             筑紫の安致臣・馬飼臣らが船軍を率いて高麗を討った 
479年(雄略23年) 8月7日 雄略没

御野県主神社

  • 八尾市上之島町南 交通     近鉄大阪線山本北東15分 八尾市上之島町南
  • 祭神 主神  角凝魂命、天湯川田奈命
  • 注釈  三野県主一族の祖神を祀る。  饒速日命降臨神話では讃岐三野物部と見えるが、河内の三野県も古い。雄略天皇崩御後、吉備の上道国造の謀反事件に、この地の三野県主小楯が加担したが、謀反は失敗に終わり、この時県主を免ぜられ、郡名も改称されたとの推測が「大いなる邪馬台国:鳥越憲三郎氏:講談社」に記されている。  この一族は天武天皇13年美努連に任ぜら、復権している。  延喜式内社である。
  • たたずまい  玉串川の堤防跡が神社の森としての名残をとどめている。その東側に御野県池がある。

太宰師の栗隈王 美努王 その子 葛城王=橘諸兄(もろえ)  

  • 橘家は藤原家2代目の藤原不比等と密接な関連があります。

まず、敏達天皇と春日薬君娘の間の第一皇子・難波皇子の孫で、太宰師を務 めた美努王と犬飼三千代が結婚して、葛城王が生まれまています。この三千 代夫人は軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めていましたが、その三千代夫 人に藤原不比等がプロポーズ。三千代は夫を捨て、不比等の元に走ります。 これが697年頃のことです。そしてまもなく軽皇子が祖母・持統天皇の強力な 後ろ盾により皇位につきました。ここから藤原1200年の栄華が始まります。

しかしこの文武天皇は707年わずか25歳でこの世を去ります。皇位は文武の母 の元明天皇に受け継がれました。そして、翌年、三千代夫人に橘宿禰の姓が 与えられました。

時が流れて724年。皇位は文武の遺児・聖武天皇に引き継がれました。天皇の 母は、三千代夫人の力で文武天皇の妃となった、不比等の娘・宮子。藤原の 時代の復活です。しかし733年に三千代死去。ここで736年11月17日三千代と 美努王の間の子供葛城王が臣籍に降下。橘諸兄(もろえ)と称しました。ここ から橘家が始まったのです。

  • 県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)という女性がいた。彼女ははじめ、美怒王に嫁し、葛城王(橘諸兄)、作為王らを生み、その後藤原不比等と結婚し、宮子の妹の光明子や多比能らを生んだと言われる。彼女は天武朝から聖武朝にかけて六代の女官として後宮に勢力をふるい、宮子を文武妃とし、光明子を聖武皇后とし、多比能を橘諸兄の夫人として、藤原、橘両氏の繁栄の基を築いた。

橘姓

  • 律令制下では、父姓相承の大原則よりして、継嗣を有しえない女性の始祖はありえず、正式には葛城王(諸兄)と佐為王が王族を辞し橘姓を賜った最初とされる(義江明子『日本古代の氏の構造』)。
  • 橘三千代は、法隆寺ともゆかりのある女性である。法隆寺には橘夫人念持仏といわれるものがある。これは玉虫厨子によく似た厨子で、阿弥陀三尊が祭られている。また西院伽藍の西北にある八角の西円堂は、橘三千代の御願により、行基がつくったものとされている。それ以外にも三千代の品物が住宅をはじめ多く奉納されているのである。梅原猛氏は法隆寺に橘三千代がかかわるところに、夫である藤原不比等の影があるとしている。すなわち、法隆寺建立が藤原氏に対する聖徳太子一族の怨霊の鎮魂のためであったとするからである。
  • 橘姓は敏達天皇の子、難波皇子より出た盛族で、その系図に見るに難波皇子の子、栗隅王は天智天皇落飾後、壬申の乱の時の太宰師となって筑紫に渡り当時の寇の警備にあたり知勇の将といわれている。  その栗隅王の子、美努王は、懸犬養橘宿禰の娘三千代を嫁とし葛城王を出生し、天明天皇和銅元年に三千代は天皇の招待をうけ供奉した時、天明天皇が喜ばれ、その時、酒杯に橘を浮かべ頌賜された。  天平八年に葛城王、聖武天皇に奉請し、母姓を橘宿禰を賜り諸兄を称す。  天平勝宝二年正月、孝謙天皇より橘朝臣を賜る。大臣贈従二位栗隈王の孫、従四位下美努王の子にして、左大臣正一位となり、藤原氏と権勢を争う。
  • 橘三千代はじめ栗隅王の子、三野王の妻として葛城王を生む。のちの橘諸兄である。
    • その後、不比等の後妻となり安宿姫を生む。のちの光明子で聖武の妃となる。
    • 文武の妃・宮子、聖武の妃・光明子、いずれも不比等の娘である

橘の名の始まり?厩戸皇子との関係

  • 橘は地名?橘寺
    • 聖徳太子様のお生まれになった所で、当時ここには、橘の宮という欽明天皇の別宮があり、その第四皇子の橘豊日命(用明天皇)と穴穂部間人皇女を父母とされて、西暦572年この地にお生まれになり、幼名を厩戸皇子、豊聡耳皇子などと申し上げた。
    • 「欽明紀」には橘と名のつく皇子が三人もいる。また橘豊日専(用明天皇)と欽明天皇皇女(穴穂部問人皇女)の間に聖徳太子が生まれる。その聖徳太子の妃に推古帝の初孫であり、尾張皇子の子にあたる橘大郎女がいる。聖徳太子の死後、左大臣阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)の女に橘娘があるが、その孫にあたるのが舎人親王であった。欽明帝から敏達、用明、崇峻、推古へと続く天皇の時代は、『集解』に「橘の京に都す」とも述ベられているが、この時代の人名に橘が多くみられるのが注目される
  • 用明天皇(橘豊日皇子) 厩戸皇子のお父さん。欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛の子供。異母兄・敏達天皇の崩後、天皇となるが、翌年には崩御してしまう。
  • 位奈部橘王 推古天皇の孫。 聖徳太子の薨後、天寿国繍帳を作成する

栗隈城

長尾元高の四男、田村上野親光の拠点でその後六男上野介が継いだと言われている。県道川東m琴平バイパスの大向の勝福寺真前より東に2百m行くと大高見峰の西裾で頂上部が台土状になった山がある。栗隈城跡はこの湯船山にある。この周辺を湯船地区と言う。栗隈城は岡田城とともに西長尾城の出城で長宗我部元親の攻撃で西長尾城とともに落城した。 星濡城・田村城・城ノ岡城・大流城を束ねる中心にある。

  • 古代の鵜足郡栗隈郷、中世の荘園だった栗熊郷・栗熊庄の郷名を引き継いできました。建長5年(1253)の近衛家文章に堀河天皇中宮篤子内親王領三か所のうちの一つとして「栗熊庄」があります。13世紀から15世紀にかけて一帯の荘園の主は藤原忠通妻源信子、近衛基通、西林寺、昭慶門院、京都大恩寺など、次々と代わりました。
  • 宇閇(うのへ)神社 ヤマトタケルノ尊の御子、武殻王(讃留霊王)の末裔である黒麿は、当地に住み酒を造っていました。彼の家には井泉が無く悲しく思っていました。 ある朝のこと、邸内にある栗の大樹によく集まっていた、鵜の群が足で土を掘った所から水が沸き出ました。星影が水面に映ると玉のように見えるこの水で酒を造った所、大変おいしかったそうです。 そこで允恭天皇に奉るとたいそうお喜びになり、酒部の姓を黒麿に賜りました。 郡名の鵜足はこれから起こり、郷の名は、栗隈又は隈玉と言うようになりました。

道後温泉

  • 景行天皇(大帯日子天皇)同妃(大后八坂入姫命)
  • 第十四代仲哀天皇(帯中日子天皇)同妃・神功皇后(大后息長帯姫命)が湯幸行されている。〔釈日本紀〕
  • 聖徳太子が葛城臣・高麗僧恵慈らを伴って、推古天皇四丙辰(五九六)入湯
    • 推古天皇四丙辰(五九六年)十月に、聖徳太子が葛城臣・高麗僧恵慈らを伴って伊予の湯に浴し、湯ノ岡(伊佐爾波岡)に碑を建てられた。五九四年に上町台地に移設した四天王寺からの出航であろう。 五九五年に高麗僧慧慈は帰化して、聖徳太子の師となり、同年百済僧慧聡も来日する
  • 第十二代舒明十一己亥十二月己巳朔壬午に「伊予温湯宮」に到着され、同十二夏四月丁卯朔壬に厩坂宮に帰られた。即ち、六三九年十二月十四日に到着、数カ月滞在され、厩坂宮に翌六四〇年四月十六日に戻られた。舒明十一年の秋には、新羅の送使に従って唐から学問僧恵隠・恵雲が来日し、十一月には新羅の客人を朝廷で接待しており、「伊予温湯宮」での長逗留は、見送りを兼ねた慰労か。
  • 斉明天皇が百済救援の為、中大兄皇子・大海人皇子らとともに、正月に難波を出帆し、七年辛酉(六六一年)正月十四日に熟田津石湯に寄る。三月娜大津に至り、五月朝倉宮に本営を設ける。(書紀)
  • 七月天皇は筑紫で没。阿曇比羅夫らが将軍として発遣する。六六三年には兵二万七千人を以て新羅討伐が開始するが、八月白村江で唐の水軍と戦い大敗する。九月、百済の遺民とともに帰国する。
  • 「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」 万葉集に拠れば、斉明天皇は、舒明天皇の伊予湯宮の御幸(六二九、六三七年)を偲び、昔日の猶存する物をご覧になり、哀傷の為御歌を製られたとの一説:額田王の歌

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Last-modified: 2012-08-18 (土) 11:59:00 (2308d)