空海の精神史

  • 15歳頃
    • 平城京の大学に入る。明経科の博士筆頭(大学頭)は岡田牛養。(讃岐寒川の出身) だった牛養は空海に目をかける。五経、は叔父の阿刀大足に学ぶか。論語・孝経・礼記・春秋左氏伝そのほか9科目をマスター。儒教的な「経書」以外の道教的な「緯書」も学ぶ。(神仙や陰陽道など雑多な関心)
    • 藤原仲麻呂は陰陽寮を太史局と改称して、国家重大事を緯書によって調べたか?。
    • 華厳経や雑密(ぞうみつ)に関心が深まる。(東大寺の別当となった良弁(ろうべん)がこの雑密の修行者)。
    • 政治の舞台が平城京から長岡京に移り、さらに山城(山背)の平安京に移転しようとしていた。
    • 大伴家持が失脚した。大伴氏と佐伯氏は親しい家系。
    • 最澄という青年僧が、比叡の山中に一乗止観院という庵をつくる。
  • 大学を捨て、“山林出家”
    • ブッダのように出家者となることをを選んだのである。畿内四国の山野を跋渉し、虚空蔵求聞持法を駆使して森羅万象・経書緯書を修得。
  • 24歳頃
    • 最初の著作の『三教指帰』(さんごうしいき)にとりくむ。延暦16年、西暦797年
    • 五段構成になっている。亀毛(きもう)先生論、虚亡(きょむ)隠士論、仮名乞児(かめいこつじ)論、観無常賦、生死海賦の、三論二賦だ。これまで空海が収集検討した諸家諸見に対するすべての反駁を、「ただ憤懣の逸気をそそぐ」ために、書きまとめる。
    • 阿刀大足や岡田牛養にたいして、儒教批判としての亀毛先生論
    • 神仙に遊ぼうとするひとたちには道教批評としての虚亡隠士論
    • 大安寺や東大寺の僧に対しては、仏教思想仮説としての仮名乞児論
  • 天才は、儒教、道教、仏教の別が無い時代にこの違いを見抜き、否定した。
  • 肯定したのは
    • 出家者として、ブッダに連なりたいこと。
    • 「無常の賦」という漢詩を挿入し、「無常」ゆえになにするか
    •  総合的認識の追及
  • 31歳 延暦23年(804)に藤原葛野麻呂を大使とした遣唐使船に乗船
    • 実に7年の空白があるが、なにをしていたか不明。

虚空蔵求聞持法

空海に影響を与えた佐伯宿禰今毛人

  • http://www.eitikai.co.jp/siozi3.htm
  • 思春期の少年真魚は、鋭い感性で悩み抜いて、あるとき生き方を変えるんや。これには近所に住んどった遠縁(?)の長老、佐伯宿禰今毛人(サエキノスクネイマエミシ)の影響が大きかったげなで。同じ佐伯姓でも、連(ムラジ)や宿禰と空海さんの直では、身分が違ごうたし、直接の縁戚は無かったげな。それでも真魚少年は今毛人老人に近付いた。そんで大学で習う儒教ではない、今毛人老人が信じとる仏教への関心が強うなっていったらしい。ついに伯父さんや讃岐出身の大先輩、現在の香川県寒川(サンガワ)出身の岡田牛養(ウシカイ)大学博士の教えも振り切って、真魚は大学を飛び出して行方不明になってしもうたげな。
  • 怡土城専知官
    • 怡土城(いとじょう) 前原市大字高来寺、大門、高祖 前原市と福岡市の境に位置する高祖山(たかすやま:標高 416m)の西側斜面一帯に築かれた大規模な古代山城で、「続日本紀」(しょくにほんぎ)によると、遣唐使として755年に唐に渡り、唐で19年の修行をしてきた吉備真備(きびのまきび)が、天平勝宝8年(756)6月から神護景雲2年2月(768年)まで12年間かけて築いた中国式山城
    • 大宰府防衛を主な目的として築かれ、築城当初の責任者吉備真備は、当時大宰大弐(だざいのだいに:大宰府の副長官)であった。築城当初は吉備真備が責任者だったが、途中天平勝字7年(763)真備は京へ帰還命令が出たの で、佐伯宿禰今毛人(さえきすくねいまえみし)が怡土城専知官となり、3年後に完成した。建築には、当時他の作業に着かせる事が禁止されていた防人まで動員された

石上朝臣宅嗣

薨伝にない宅嗣像:http://www.neonet.to/kojiki/ronko/na03yakatugu-boku.htm

  • まず宅嗣が生まれたのは、長屋王の変(729)があった年である。 長屋王は、祖父・石上朝臣麻呂の後継者。 そんな人物が、藤原氏一派によって謀殺された年に、宅嗣は生を受けている。

天平11年(739)父・乙麻呂は、藤原宇合未亡人・久米連若売との不義を問われ、土佐に配流された。 時に宅嗣10才。 彼の処遇は、まったく分からない。 翌年、九州で藤原広嗣の乱(740)が勃発する。 広嗣は、宇合の第一子。 その母は、石上朝臣麻呂の娘である。 つまり広嗣と宅嗣は、ともに麻呂の孫であり、いとこだった。 故左大臣のいとこ同士。 その名に同じ「嗣」を持つ跡継ぎである。 11才の宅嗣は、広嗣の憤死をどう受け止めたのだろうか?

広嗣の弟に、藤原良継という人物がいた。 兄の罪に連座して伊豆に流されたが、2年後に許される。 薨伝によると、天平宝字6年(762)頃、“佐伯宿禰今毛人・石上朝臣宅嗣・大伴宿禰家持らと太師の恵美押勝を暗殺しようとした”という。 この計画は、事前に発覚。 良継は、“一人罪を被り、姓と位を剥奪された”とされる。 しかし恵美押勝の乱(764)に際し、“良勝は即日詔を承り、兵数百を率いて仲満を追撃し、これを討った”と記されている。

空海に至る系図

  • 佐伯直  http://www.e-obs.com/heo/heodata/n300.htm
    • 佐伯部は『 日本書紀 』景行天皇51年条に、日本武尊が東国遠征の際に捕えた 蝦夷(えみし)(東部 北部の原住民)を伊勢神宮に献上したが、昼夜なく騒がしいので播磨 讃岐 伊予 安芸 阿波に移して住まわせたとみえる。これをそのまま事実とは認めがたいが、伊予を除く4か国については他の史料より 佐伯部 やその管轄者である 佐伯直 の存在を推測できるので全くの虚構とは考えにくい。おそらく大化以前の5~6世紀ごろ大和政権の征討により「部民」(豪族の隷属民)となった蝦夷であることは誤りないであろう。佐伯部の「佐伯( 佐倍岐(さえき))」とは、朝廷の命を「 塞(さえぎ)る」という意味である。各地域において佐伯部を管轄していたのが佐伯直である。直の姓を持つ佐伯氏は、『新撰姓氏録』右京皇別下によれば景行天皇皇子稲背入彦命の 後裔(こうしょう)とある。佐伯直は播磨 安芸 阿波 讃岐 豊前などの瀬戸内海沿岸に見え、佐伯部を統轄していたと考えられる。もともとはその地域の国造であり、佐伯部を統轄するため佐伯直という姓を帯びるようになった。これら地方の佐伯直は佐伯部を率いて交替で中央に上り、宮廷の警備にあたった。そして中央にあっては佐伯連がこれを統率した。平安時代の高僧、弘法大師こと空海は讃岐の佐伯直の出身である
  • 姓氏家系辞書/太田亮によれば、上記伴氏系図で略されている空海につながる9代は、 「歌連」(佐伯氏姓を賜る)--平曾古連(安芸厳島に住)--平彦連 --伊能直(讃岐多度郡縣令)--大人直--枳都直--男足(初めて佐伯直を号す) --田公(少領)--道長(大領)--空海(774-835)
    阿賀児 ━┳ 忍 山 ━━ 大 虫 ━━ 廣 海
         ┗ 善 通 ━━ 五十茅 ━━ 伊 能 ━━ 大入直 ━┓
         ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
         ┗ 根 麿 ━━ 枳波都 ━━━━━━━━━━━━━━━┓
         ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
         ┣ 男 足 ━┳ 真 氏 ━━ 真 佐 ━┳ 真 人[佐伯宿禰祖]
         ┃      ┃             ┗ 長 人[佐伯宿禰祖]
         ┃      ┗ 田 公 ━┳ 空 海
         ┃             ┣ 女(和気宅成妻)
         ┃             ┣ 真 雅
         ┃             ┣ 鈴伎麿 ━┳ 貞 持[佐伯宿禰祖]
         ┃             ┃      ┣ 貞 継[佐伯宿禰祖]
         ┃             ┃      ┗ 葛 野[佐伯宿禰祖]
         ┃             ┣ 酒 麿 ━┳ 豊 雅[佐伯宿禰祖]
         ┃             ┃      ┗ 豊 守[佐伯宿禰祖]
         ┃             ┗ 魚 主 ━━ 粟 氏[佐伯宿禰祖]
         ┗ 韓 人 ━━ 年魚麿 ━━ 大 野

智證大師

  • 智證大師は讃岐国善通寺市金蔵寺町(大師当時は那珂郡龍川村)にご誕生、父は和気 宅成、母は、佐伯家の出で弘法大師の姪である
  • 空海さんの兄弟から法弟が出ている
    1番目 男(鈴伎麿) 
    2番目 女(智泉の母) 
    3番目 男 空海 
    4番目 男 真雅 
    5番目 女 (和気宅成妻・智證大師 円珍さんの母) 
    6番目 男 (真然さんの父) 

佐伯

  • 弘法大師の唐への留学は一年だけで,長安の青龍寺で恵開と言う僧について学んでいる。 恵開は三蔵法師の3-4代後の弟子になる。そして空海は色んな文物 書物を唐から持ち帰って,密教真言宗を開いている。 空海の始めての弟子が実恵である。弘法大師の二代目の東寺の長者になっている。この人は檜尾長者と言われているほどに行基に相通ずる心情を持っていたと考える。
  • 空海の弟子実恵のまた弟子に恵運がおりこの人も唐に5年間留学して空海と同じように 文物 書物を持ち帰っている。そして醍醐寺が聖宝によって建てられる以前に安祥寺という寺院をば観修寺の横の京都側粟田山の一部に醍醐寺と同じように山上と山麓に安祥寺を建立している。
  • 醍醐寺の聖宝は空海の実の弟の真雅の弟子で,真雅は東寺の4代目の長者になつている。三代目は真済で紀氏の出身である。
  • 空海 実恵 真雅は佐伯氏の出である。

佐伯宿禰今毛人 石川朝臣 大伴宿禰家持

  • 家持
    • 718ごろ~785(養老2ごろ~延暦4)『万葉集』第4期の歌人。父は同じく万葉歌人の旅人(たびと)。その作歌数は集中群を抜いており,長短合わせて479首となっている。一般にその歌人としての生涯を,3期に分け,第1期を最初の歌の733年(天平5)から,越中守になるまでをいい,先人の作に学んだ習作時代をさす。第2期は越中守時代で,遠く都をしのび種々の経験をしたことにより,独自の詠風を確立した。第3期は,少納言となって帰京した751年(天平勝宝3)からの,8年間をさす。この期には,藤原氏の勢いに圧倒されてしだいに衰退する名門大伴氏の氏上として,苦悩の日々を送ることとなってしまう。作歌数は,しだいに減少してゆく。758年(天平宝字2)因幡守となり,その翌年の正月の歌が最後の歌である。その後,薩摩守に左遷され,各国国守をつとめ,中納言などとすすむが,政変のなか,遺骸も葬ることができない有様であった,とされている。大伴家持論 http://www2s.biglobe.ne.jp/~machino/yaka1/
    • 紀小鹿女郎は大伴家持の年上の恋人(歌の上?)。「紀女郎」の歌の題詞には、「鹿人大夫之女。名曰小鹿也。安貴王之妻也」と注があり。大炊頭おおいのかみ・典鑄正いものしのかみなどを歴任した紀鹿人きのかひとのむすめで、名は「小鹿」、安貴王あきのおおきみの妻。
    • 安貴王は(小鹿との結婚後のことと推測されますが)采女あがりの人妻と密通事件を起こす。養老末年、因幡八上采女(藤原麻呂に娶られ浜成を産んだ采女と同一人であろう)を娶り「不敬之罪」で本郷に退却せらる。この時の歌が万葉集の長歌「安貴王歌一首」。現役の采女を娶ったのであれば、天皇に対する侮辱となり、「大不敬」にあたる。したがって「因幡八上采女」は采女あがりの婦人の字(あざな=通称)であろう。ここに言う「不敬之罪」とは、おそらく八上采女の夫であった藤原麻呂に対する不敬であったと思われる。むろん罪状は姦通であったはずである。
    • 安貴王の子、市原王は、美押勝暗殺未遂事件で解任された佐伯今毛人の後任として造東大寺長官に再任。同年5月、御執経所長官(造東大寺長官に同じか。大日本古文書)。 以後、史料に見えず。翌天平宝字8年正月には吉備真備が造東大寺司長官となっており、これ以前に引退または死去したか。しかし年齢はおそらく四十代だったことを考えれば、何らかの科により官界から追放されたのではないかとも疑われる。一説に、宝字7年12月29日、造東大寺司判官葛井根道らが酒席で不敬の言葉を吐き流罪に処せられた事件の折、上司である王がその責に連座したともいう。
    • 聖武天皇は天平十二(740)年、奈良を捨てて恭仁くに(今の京都府相楽郡あたり)への遷都を敢行しました。大伴家持が小鹿女郎との仲を深めたのは、この頃のことでした。 当時、天皇に近侍する内舎人うちとねりという職にあった家持は、遷都と共に恭仁に移り住みました。彼にはすでに坂上大嬢という幼馴染みの定められた相手がありましたが、彼女は旧都に残ります。いっぽう、官女だったらしい小鹿女郎は恭仁にやって来ました。小鹿女郎への歌  百年ももとせに老舌(おいした)出でてよよむ(腰が曲がる)とも吾は厭はじ恋は増すとも
    • 笠女郎(かさのいらつめ)/奈良時代 女流歌人。大伴家持の若い頃の愛人と言われ、『萬葉集』中の作は、29首全て家持へ贈られた恋歌。修辞に秀でた歌が多い。
    • 天智天皇--志貴皇子--春日王--安貴王--市原王(家持の友)
    • 志貴皇子の正室は多紀皇女(天武天皇の皇女で伊勢斎宮。天平勝宝3年薨)。側室に紀朝臣橡姫(白壁王の母)がいる。
  • 石川年足
    • 年足の父親は、「石足」(いわたり)、子息は「名足」で、「足」の漢字を継承しています。 蘇我氏族の流れは次のようになっています。(出典:「国史大辞典」吉川弘文館)
 石川石足
667年 天智年間安麻呂子息として生る。
708年 和銅元年 正五位下・河内守
729年 天平元年2月 長屋王の変時、
仮の参議叙任、 正四位上左大弁、
天平元年3月 従三位昇進、
8月9日63歳で没。

名門豪族蘇我一門の末裔として老年漸く正式に参議に成りかけた時に亡くなっています。 しかし、息子の年足は親の分までいい目をしました。それは、おばさんに当たる媼子が藤原不比等に嫁して、武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(式家)の兄弟を生んだのです。

  • 佐伯宿禰今毛人
    • 775年六月十九日 正四位下の佐伯宿禰今毛人を遣唐大使に任じ 正五位上の大伴宿禰益立と従五位下の藤原朝臣鷹取を副史に任じた 判官と録事はそれぞれ四人を任じた 使節の乗る船四隻は安芸国に造らせた
  • 777年四月十七日 遣唐大使の佐伯宿禰今毛人らが 暇乞いのため天皇に謁見した ただし 大使の今毛人は羅城門まで来た時 病と称して留まった P168 四月二十二日 この日 遣唐大使の佐伯宿禰今毛人は病の身を輿に乗って出発した攝津職まで着いたが 日数を経ても治らなかった そこで 天皇は副使の小野朝臣石根に「節を持って先発し 大使の職務を代行せよ 順風を得たら大使を待たずに出帆せよ」と勅した また 右中弁・従四位下の石川朝臣豊人を遣わして 遣唐使の一行の対し 次のような詔を述べさせた 「判官以下で死罪を犯した者は 節を持つ主席の使者が独断で判決することを許す」と 
  • 762年9.30

九月乙巳、御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等石川朝臣年足薨。時年七十五。詔、遣摂津大夫従四位下佐伯宿禰今毛人、信部大輔従五位上大伴宿禰家持、弔賻之。

  • 764(天平宝字8)年1.21

己未、以正五位下山村王、為少納言。(中略)従四位上佐伯宿禰毛人、為大宰大弐。従五位上石川朝臣宅嗣、為少弐。従四位下佐伯宿禰今毛人、為営城監。従五位下佐味朝臣伊与麻呂、為豊前守。従五位上大伴宿禰家持、為薩摩守。

  • 777年9.18

丙寅、内大臣勲四等藤原朝臣良継薨。平城朝参議正三位式部卿大宰帥馬養之第二子也。天平十二年、坐兄広嗣謀反、流于伊豆。十四年、免罪補少判事。十八年、授従五位。歴職内外、所在無績。太師押勝、起宅於楊梅宮南、東西構楼、高臨内裏。南面之門、便以為櫓。人士側目、稍有不臣之譏。于時押勝之男三人、並任参議。良継位在子姪之下、益懐忿怨。乃与従四位下佐伯宿禰今毛人・従五位上石上朝臣宅嗣・大伴宿禰家持等、同謀欲害太師。於是右大舎人弓削宿禰男広、知計以告太師。即皆捕其身、下吏験之、良継対曰、良継独為謀首。他人曽不預知。於是強劾大不敬。除姓奪位。居二歳、仲満謀反、走於近江。即日奉詔、将兵数百、追而討之、授従四位下勲四等。尋補参議、授従三位。宝亀二年、自中納言拝内臣、賜職封千戸。専政得志、升降自由。八年任内大臣。薨時年六十二。贈従一位。遣中納言従三位物部朝臣宅嗣・従四位下壱師濃王、弔之。

  • 恵美押勝暗殺計画の存在が初めて明らかにされている。家持は佐伯今毛人・石上宅嗣らと共にこの謀略に参加したが、罪は良継が独り被る形になった。
  • 780(宝亀11)年2.1

二月丙甲朔、以中納言従三位石上朝臣宅嗣、為大納言。参議従三位藤原朝臣田麻呂・参議兵部卿従三位兼左兵衞督藤原朝臣継縄、並為中納言。本官如故。伊勢守正四位下大伴宿禰家持・右大弁従四位下石川朝臣名足・陸奥按察使兼鎮守副将軍従四位下紀朝臣広純、並為参議。

(注)参議を拝命。八日後には伊勢守から右大弁に遷任されており、家持の政治的地位は著しく躍進した。当時の議政官は以下の通り。

・右大臣 大中臣清麻呂
・内大臣 藤原北家魚名
・大納言 石上宅嗣
・中納言 式家田麻呂 南家継縄
・参 議 南家弟縄(乙縄) 南家是公 北家小黒麻呂 大伴伯麻呂
     大伴家持 紀広純(同年三月没、代わって神王) 石川名足
     京家浜成 北家家依
  • 781年4.15

癸卯、天皇御大極殿。詔曰。(中略)正四位下大伴宿禰伯麻呂・大伴宿禰家持・佐伯宿禰今毛人・坂上忌寸苅田麻呂、並正四位上。

(注)桓武天皇が母高野新笠に皇太夫人の尊称を与える旨の詔の後、「又仕え奉る人等の中に自(し)が仕え奉る状に随ひて一二人等冠位上げ賜ふ」(原文は宣命体)として三十数名の名を挙げ、位を授けた。

遣唐使の悲惨

  • 777年の話
  • 第一船は海上の只中で中央から分断し 舳と艫がそれぞれ分かれ 主神の津守宿禰国麻呂と唐の判官ら五十六人は その艫に乗ってこしき島にたどり着いた 一方 判官の大伴宿禰継人と前の入唐大使・藤原朝臣河清の娘喜娘(きじょう)ら四十一人は その舳に乗って肥後国天草郡に漂着した 継人らは上奏して次のように言った 『継人らは 去年の六月二十四日に四船が同時に海に入り 七月三日揚州の海陵県に到着し 停泊しました ‥六月二十二日お別れの挨拶をして帰途につくことになりました 天子は勅され 内使の楊光耀に監督し送らせ 揚州まで行って そこから使者を日本に向けて出発させるようにされました ‥ 六月二十五日 惟楊に到着しました 九月三日 揚子江の河口より出発し 蘇州の常熟県に到り順風を待ちました 第三船は楊州の海陵県に在り 第四船は楚州塩城県に停泊していました しかし それらが出発した日は今も分かりません 十一月五日 都合のよい季節風(北西風)が吹いてきましたので 第一船と第二船は同時に出発して海に入りました ところが 外海に達しました頃の八日の初更(午後八時頃)に 風激しく波が高くなりました そして 左右の棚根(舷側の下部)を打ち破って潮水が船に満ち 甲板はことごとく流れ去りました 人や荷物は波のまにまに漂い わずかの米や水も残りませんでした 副使の小野朝臣石根ら三十八人と唐使の趙宝英ら二十五人は 同時に海に沈んで救うことができませんでした ただ 私一人は海中を潜り行き 舳の手すりの角にたどり着きました 前後を見渡したところ 生き延びる道はありませんでした 十一日の五更(午前四時頃)に帆柱が船底に倒れ 船体は二つに断たれました 舳と艫がそれぞれ流れ去って どこへ行ったのか分からなくなりました 私ども四十余人は方一丈(約三平方メ-トル)の舳にまつわりついていて 重さのために舳全体が沈没しそうになりました そこでとも綱を切り舵を投げ捨てると 少し浮き上がらせることができました 今度は着ているものを脱ぎ捨てて裸で舳にしがみつき 宙吊りのような格好で座っていました 米も水も口にすることなく すでに六日が経っていました 十三日の亥の刻(午後十時頃)に 肥前国天草郡の西仲嶋に漂着しました 私の命拾いは天の救いによるものです 幸運の極みで 喜びに耐えません 謹んで上表文を奉って申し上げます』と

和気清麻呂

  • 733年 - 799年4月4日 奈良時代末期から平安時代初期の高級官僚。備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。
  • 安遷都の建設の進言し自ら造営大夫として尽力した。785年(延暦4年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行った。その後、また、大和川を直接大阪湾に注ぐ工事を行ったが失敗。

神護寺

  • 810年 空海 神護寺で国家鎮守の法をする。
  • 813年 空海 金剛界潅頂
  • 824年 神護国祚真言寺(略して神護寺)となる。
  • 827年 両界曼荼羅(国宝)が製作される。
  • 神護寺の前身は、この地に古くからあった和気(わけ)氏の氏寺である高雄山寺。和気清麿が、白雲寺などと共に建てた愛宕五坊の1つ。河内の神願寺(和気氏創建)と合併して「神護国祚真言寺」と称した。
  • 802 和気清磨呂の子・広世の発願により、最澄と南都七大寺の学徒を招請し講義が開かれるなど、高雄山寺は和気氏と最澄との関係によって発展していた。
  • 空海が大同4年(809)に入山、14年間住持を勤めた。現在の伽藍は数次の興亡を経て、大師堂(桃山)を除き、江戸初期の再建による。
  • 空海は、大同4年(809年)~弘仁14年(823年)まで、この高雄寺におられ、翌年、天長元年(824年)に、神護国祚真言寺(略して神護寺)となり、空海の真言宗が中心となって栄えたそうです
  • 神護寺の唐門を越えると和気公霊廟で、平安京造営(794~)の最高責任者であった和気清麿呂公と、姉の広虫が祀られていた護王神社跡
  • 神願寺と高尾山寺との合併は、空海の働きかけがあったとされている。

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Last-modified: 2012-08-18 (土) 10:17:00 (2249d)