始祖は

http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&nl=34/44/48.190&el=135/41/36.711&scl=500000&size=450,400&grp=all

  • 饒速日尊
    • 天神の御祖の詔を稟て天の磐船に乗りて、河内国の河上の哮峯に天降り坐し。すなはち大倭国鳥見の白山に遷り坐す。
    • 遺体は天上へ持ち去られたものの、遺品を代わりに「登美(トミ)の白庭邑」に埋葬した。
  • 奈良盆地を平定したニギハヤヒは、桜井市の三輪山西麓から鳥見山附近にかけて勢力を張っていた長髄彦を服従させてその統治権を掌握し、長髄彦の妹御炊屋姫を妃として、宇摩志麻冶命(可美真手命)と、後に神武天皇の皇后となる伊須気余理比売(媛蹈輔五十鈴媛命)が誕生することになる。

十種神宝とは

物部氏の祖、神饒速日命が天神御祖より授けられた宝 http://kamnavi.jp/mn/togusa.htm

大和の本拠地

  • 富雄側流域 説1 生駒市北部から奈良市西部の一帯です。現在の地図を広げてみても、登美ヶ丘、富雄、鳥見町など、かつての登見郷・鳥見郷にちなむ地名が多くあります。長髄彦の本拠地も「鳥見」。
  • 桜井市三輪山南方一帯 説2 『日本書紀』で神武天皇が兄磯城を攻めるためにとった進軍経路を見ると、「忍坂の道」「墨坂」「宇陀川」などの地名が出てきて、それに続いて金鵄の話や「鳥見」という地名が出てきます。饒速日命は、この鵄の話や「鳥見」の地名の話のすぐ後で長髄彦を殺して、神武天皇に帰順しています。

近畿の物部

  • ゆかりの神社一覧  http://kamnavi.jp/mn/monomap.htm
  • 天田神社付近:肩野物部氏(かたのもののべし)の所領 肩野物部氏の祖の饒速日命が祀られている。物部氏の衰退や住吉信仰の流行とともに、磐船の神も海に関係するととらえられるようになり、祭神は住吉神に変わったとのこと http://murata35.cool.ne.jp/meisho/amadamiya/ 交野地方は、肩野物部氏(かたのもののべし)の所領でその先祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)が天の磐船に乗って河内の哮が峰(たけるがみね)に天降ったと「先代旧事紀(せんだいくじき)」に記され、長く交野の祭神となっていた。
  • 奈良県北葛城郡広陵町:櫛玉比女命神社の所在地
  • 近鉄生駒線石切駅付近:石切劔箭(いしきりつるぎや)神社 物部氏の有力支族である穂積氏が祖神を祀ったとされる。
  • 八尾市恩智  恩智神社 鳥越憲三郎氏は『大いなる邪馬台国』で祭神は生産の神で饒速日命ではないが物部本家の神社との見方をされる。 これは旧社地(現頓宮)東北500m付近の垣内山と都塚山から銅鐸が発見されていること。 また西方の八尾市街地は物部氏の本拠地であったこと。http://kamnavi.jp/mn/osaka/onji.htm 生駒山の西側の中河内は、物部氏本宗のあった現在の八尾市(旧若江郡、渋川郡)を中心として、物部系氏族の一大居住地であり、物部系と考えられる式内社に、八尾市南本町の矢作神社(やはぎじんじや=矢作氏、主神は経津主命)、八尾市の東弓削(ひがしゆげ)と弓削の弓削神社(弓削氏、祖饒速日尊)、八尾市跡部(あとべ)本町の跡部神社(阿刀氏、祭神不詳)があり、その他物部系とみられる神社が多くある。
  • 跡部神社  http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/atobe.htm 「日本書紀」の崇峻天皇紀、崇峻二年の秋の物部守屋討伐のくだりでは、八尾市の地名がぞくぞくと出てきます。

交野天神社 かたのあまつかみのやしろ

  • 大阪府枚方市楠葉丘2-19-1
  • 継体天皇の楠葉宮であったと伝わる。 当地の河内馬飼首荒籠が密使として三国に遣いしており、継体天皇の即位に当地を本貫とする馬飼部の大きな貢献があったのが、楠葉宮での即位となったのであろう。
  • 継体朝の最大の政治課題は朝鮮半島問題だった。任那4県の割譲処理も、磐井の反乱の鎮圧も、突き詰めれば半島に築いた倭国の権益をいかに守るかという政治課題に直結する。

交野のいわれ

  • 古墳時代
    • 倉治付近一帯の山ろく地方は、古代の機織を職とする渡来民族の居住地で、南から「はたやま」(寺)、「はたもの」(倉治)、「はただ」(枚方市津田清水谷のロ)の3集落が繁栄した。
    • 当時の天野川の低湿地は、稲作に良い沼沢地を広げつつ、私市から枚方市まで流れ下っていた。この流域の野は、種をまけば天然の水が流れてきて稲が実る。その穂を摘めば人の糧とする米となる。このような重宝な米ができる不思議な野、有り難い川の水、この稲作地をたたえて「あまの」(甘野)と言い、川を「あまのかわ」(甘野川)と言った。  後、この稲作地に区画が設けられて田になると、その田を「あまだ」(甘田)と言った。「あま」という言葉は、人の最も喜ぶ味覚の表現で、また、親しみをこめた形容である。このように良い食物を与えてくれる±地や田、川には神がいるとして祭った。  田の神の社は、稲田の最上流に建てて「あまたの宮」とし、川の神は、谷を分け上った巨岩の横たわる磐船の宮に祭った。 その後、平安特代になり「あま」は「天」の字を当てるようになり、「天野川」、「天田宮」となった。
    •  6世紀の終わりごろ、敏達天皇は、皇后豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)のために皇后領として、全国各地に稲の実りの良い田を求められたが、その中に河内交野の「あま田」があった。以来この田を守る民部(かきベ=私有民)は、皇后のために労投するものとし「きさいべ」(私部)と総称する5~6カ所の農村落が「あま田」の周辺に制定されるようになった。  「私」は、中国の前漢時代から「后」と同じ意味に使われ、我が国ではこれを「きさき」と読み、「きさい」は音便である。「部」は、朝廷に属する各種職業人の集団であり、「私部」は、皇后のために稲作をする人々の集団である。  この「私部」の範囲は、天野川流域を含め私部、寺、森、私市、星田、茄子作(枚方)、郡津を合わせた地域の総称と恩われる。  そして現在の「私部」「私市」は、皇后領の中でも主要集落であったため、皇后領廃止後もその名称は残ったと思われる。  なお、私市は一方に山はあるが、その周りを「きさいべ」の村々に囲まれた中心集落で、ここに「あま田の宮」を祭ったから、「きさいべの内」すなわち略して「きさいうち」と称し、後に「きさいち」と変化したものと思われる。
    • 古代、天皇直属の所領は一般に「みやけ」(三宅・屯倉)と言った。そこで「きさいべ」だった村々が「交野みやけ」と呼ばれるようになった。その後、大化の改新で全国の土地、人民が天皇直属となったため、いまさら「みやけ」を置くこともなくなり、廃止された。しかし、大化の改新による土地改革は、山岳地までは行き届かず、以前「みやけ」だった私部、私市に付属した土地は、そのまま三宅山の称を残し、交野郡司の管轄に任せ、天平~平安時代まで伝わって、後には石情水八幡宮寺領荘園の三宅山となるのである。

九州本拠地説

  • 地域別「県・県主」の数 地域 県・県主の数 百分率  西海道(築紫、豊、肥、日向、薩摩、壱岐、対馬) 23例 41.8%  畿内(倭、河内、摂津、山背) 18例 32.7%  山陽道(吉備、周防) 6例 10.9%  東海道(伊勢、尾張) 4例 7.3%  南海道(讃岐) 1例 1.8%  山陰道(丹波) 1例 1.8%  北陸道(越) 1例 1.8%  東山道(美濃) 1例 1.8%  計 55例 100.0%
  • 天皇の直轄地が九州に多いので、九州の物部が移動したとの説あり
  • 終末期の銅鐸が出土する地域は、物部氏が国造になっている例が多い。また、物部氏の本拠である河内の国の跡部郡からも銅鐸が出土している。

大和を2つの勢力の対立でみる

  • 大和の古代の勢力圏を西の葛城と東の磯城との対立と共立で見ていく史観がある。これに高句麗の勢力をからめて日本の古代を見ると比較的説けやすい。妥当な仮設と言える。葛城-紀伊-難波-吉備-筑紫-百済の系列と磯城-山城-近江-越・若狭-出雲-新羅の系列の関係史から見ていくのである。持統天皇は天智天皇の娘として、皇統を葛城系とするべく女帝として君臨し、自らを天照皇大神とし、大神の託宣として天譲無窮の理を神話に入れたのである。

仏教争う

  • 新興勢力蘇我氏は仏教を掲げ、それに物部氏、三輪氏、中臣氏(物部一族)が対抗した。大臣の蘇我馬子は聖徳太子らとはかり大連の物部守屋を滅ぼした。各地の物部氏が守屋のために戦った訳ではない。それでも以降の、蘇我氏の物部狩りは厳しかったようであるが、名を変えたり、落ち延びたりして生き延びた。東北の安倍一族も物部氏の後裔ではないかとの説もある。
  • 蘇我側に、紀、巨勢、葛城、大伴、阿倍、平群、春日などの諸豪族を味方に引き入れ、物部守屋大連を攻めた。

645年 大化の改新、672年 壬申の乱

  •  中臣鎌子は中大兄皇子らとはかり、蘇我入鹿を皇極天皇の目前で殺傷し、親の蝦夷をも殺した。ここに蘇我本家は滅び、分家筋の山田石川氏が蘇我氏を嗣いだ。物部本家を滅ぼされた中臣氏の復讐戦との見方もある。

 讃岐神社 忌部 モモソ姫 大内

 物部 降臨


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Last-modified: 2012-08-18 (土) 12:07:00 (2078d)