元明-元正-聖武天皇 諸兄と家持 †
- 母元明天皇より譲位され、幼弱の皇太子首への中継的な天皇として即位する。藤原不比等らにより『養老律令』が撰修される。養老四年(720)二月、隼人反乱に際し大伴旅人を九州に派遣する。
- 同年五月、舎人親王らが『日本書紀』を撰進。同年八月、不比等が薨去すると舎人親王を知太政官事に任命し、翌年には長屋王を右大臣に、藤原房前を内臣に任命する。同七年、三世一身法を発布。
- 神亀元年(724)、皇太子首に譲位。以後は太上天皇として聖武天皇の後見的な立場にあったが、天平十六年(744)二月、聖武天皇の紫香楽行幸に際しては左大臣橘諸兄とともに難波に留まり、諸兄に難波遷都の勅を宣伝させた。
- この頃、難波堀江と諸兄宅で遊宴し、橘讃歌を詠むなど、諸兄に対する信頼を表明している。
- 平城還都後の天平十八年(746)正月、橘諸兄らが諸王諸臣を率いて太上天皇の御在所(中宮西院)に参入し、雪掃きに供奉。この時諸兄・家持らが詔に応じて歌を詠んだ。
- 常世の木
- 垂仁天皇の時代のこと、天皇は田道間守に命じて、時じくの香の木の実(『日本書紀』では非時香菓)を持ち帰るように常世国に遣わした
- 橘:母系社会の象徴 そして代代続く実
- 多胚種で、受精による胚、受精によらない胚があり、これを蒔くと多くは受精に依らない胚が芽を出すそうです。母植物そのものを再現する。
- 橘の実の代々のつならり
橘の果実を収穫せずに置くと、次のシーズンの開花時にも、果実は落ちず、腐らずになっているものもある。生命力のある橙は代代続く実としての「橙」が縁起物となったのに似ています。
- 田道間守が持ち帰ったのは橘ではなく橙といわれている。
橘奈良麻呂の変 [757年/権力移行に反発] †
- 叔母の光明皇后と皇女の高野姫尊(後の孝謙天皇)の覚えめでたい南家・藤原仲麻呂は、聖武天皇の鎮護国家仏教政策に対する臣民の不満を慰撫することにより抬頭し、まず玄?ムを筑紫観世音寺別当に左遷した。吉備真備を自らの配下に取り込んだ藤原仲麻呂は聖武天皇崩御後も抬頭を続け、やがて紫微中台[しびちゅうだい](皇后宮職[こうごうぐうしき])の長官たる紫微令[しびれい]に就任した。紫微中台とは皇后が生活する場所のことである。実権を失った橘諸兄は失意の内に没し、息子の橘奈良麻呂は757年に佐伯氏・大伴氏・多治比氏ら旧豪族と結託して謀叛を企てたが、小野東人の自白により露顕し、拷問の末に死亡した。この橘奈良麻呂の変により、形式上橘諸兄まで続いていた皇親政治の終焉が確定した。
田道間守は難升米??:卑弥呼は誰?? †
橘の京 †
- 橘嶋(たちばなしま)の宮
- 河内の国 と云々(勅撰名所)。おもうに橘の京は大和の国あきらけし。一応こゝにあらわす。
橘の嶋の宮にはあかぬかも さたの岡邊に殿井しにけり (万葉)
- 山田寺
- 玉林抄に云う、橘の京にあり。当世山田村これなり。
山田寺亦は華嚴寺という。孝徳天皇五年、蘇我の山田の石川麻呂の大臣、天皇の御ため
に構造して山田寺と号せり。同年三月廿四日、讒にかゝり大臣をはじめ多くの人ほろびにけり。
- 飛鳥の橘寺。
- 田道間守が持ち帰った橘を植えたとの伝説があり、現に背の高い橘の木がある。
- 聖徳太子の誕生の地とも云われ、常世との繋がりの深い處。
- 欽明天皇の別宮である”橘の宮”の跡をこの寺としたと云います。
- 大和の広瀬大社の創建譚に橘が出てくる。
- 崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられる。
- 広瀬町のあたりは、広い沼沢だったのか???
難波 †
- 『日本書紀』という古代の歴史書に、6世紀以降、難波津を中心としてその周辺に、内外の外交施設が置かれた。 当時諸外国の使節団は、瀬戸内海を船で東上し難波津に上陸したためです。そのため諸外国の大使館に相当するような施設とか、 わが国の迎賓館とか外務省の出先機関に相当するような施設がつくられた。
- 難波は港を抱えた流通の中心地であったことから、難波津の周辺には、西日本各地からの物資を集積するためのたくさんの施設がつくられ、 賑わいをみせました。
- このような施設が難波に最初につくられたのは、実は5世紀の後半であることが、近年の発掘調査でわかりました。 上町台地の最も高い所に、整然と並ぶ16棟以上もの巨大な倉庫群が建設されたのです
- 大化元年(645年)。「大化改新」のはじまりとともに新しく即位した孝徳天皇は、気分を一新して政治を行うために、 同年12月、難波に遷都します。遷都先として難波の地が選ばれたのは、難波津。
- 聖武天皇は、神亀元年(724年)、皇位につくとすぐに難波宮の造営を計画します。当時首都は平城京でしたが、 難波は「副都」とされていたにもかかわらず、シンボルともいうべき前期難波宮は朱鳥元年(686年)の火災により焼け落ちたままになっていたので、 新たに宮殿を復興する必要があると考えた。
- 造営は神亀3年(726年)から始められました。前期難波宮が日本古来の建築様式で建てられていたのに対して、 後期難波宮はその中心部をより立派にみせるために、大陸式の建築様式で飾っていました。大陸式の建築様式とは、 基壇上に礎石を据えその上に柱を立て、屋根には瓦を葺くというものです
讃岐の橘氏は、東讃の真鍋(真部)氏の遠祖 †
橘の むかしの薫 しのばれて 涙があめと 流れて止まず 真部助芳
- 弘仁六年(815年)舎人内大臣 橘清友郷の娘 嘉知子が、時の帝 嵯峨天皇の皇后となった。それより二十数年にして皇后の御兄 橘氏公 が従二位右大臣として、天下に活躍。橘の香り栄えるかに見えたが、藤原政権に執って変わられた。
- 天安元年(857年)正月過ぎて藤原良房朝臣太政大臣となり、天安二年に摂政関白につかせられて以来、 藤原氏 源氏 平氏 交々に天下を掌握し武家政治に至る。ここで、中央の高官 公郷並びに武士共を、下向せしめられた。橘一族は振るわなくなり、地方で暮らすようになった。
- 永暦元年(1160年) 橘左大臣弁祐王公は讃岐国の天皇領である山田郡司として下向一家を連れての赴任。
- 讃岐国東方四郡の守護は、世々橘家の郡司だったらしい。西方七郡の郡司は、藤原家が任地である。
- 寿永二年(1183年)の夏より平家是を頼みて、屋嶋に壇ノ浦と言う所を皇居の地と定め、郡司に命じて是を経営す。
- 源平の合戦の時、讃岐国天領山田郡の住人は、好むと好まざるにかかわらず王事安徳天皇(平氏)にくみして参加。
- 橘家は讃州にて采(配)地 那珂と任地 天領なる山田郡に移住し、その枝葉を繁る者は大響 楠木 内海 三條 甲斐 篠原 新居 松井 大河原 柏原 萩原 丹下 百々 小寺等の各門葉を分かつと言え共、天正 中期 末期 より録を離れ諸国に散逸す。
大内 寒川 は神櫛王の子孫の地。珂郡は、往古より藤原家 橘家 伴家の公家の采地 †
- 讃州 大内 寒川の二郡は寒川左馬允次郎世々この食邑なれ共、三代実録曰 貞観六年八月十七日辛来右京の人 散位正五位上讃岐朝臣高作大史 正六位上讃岐朝臣時人等賜姓 和気朝臣彼等其先 出自景行天皇皇子神櫛王命也。
- 讃州国那珂郡は、往古より藤原家 橘家 伴家の公家の采地なり。郡中十郷なり。
保安年中(1120~1131年)中御門 藤中納言家成郷 讃岐守として当地に下向。家成郷と綾大領 貞宣の娘の間に資高が生まれる。資高が羽床氏の始めにて、その末葉として 平田 玉井 竹内 成宗豊田 柞田 紫野 宮川 森田 松本 茶水 武本 谷本 有岡 福家 大地 飯田 木村等の枝葉をうみ広繁し裔栄ゆ。
- 寒川三木郡司 安富民部少輔元綱は、細川管領の旗本の武将として世々鴨城に居住。初代讃州に下りし時は、安富筑前守盛方は関東下総の住人鎌倉権五郎の裔 細川頼之管領の部下で、三木郡を賜う。
- 讃州綾北南香河郡司 香西備後守元資は、勝賀山城に居城(香西 植田 寒川)。遠祖は日本武尊綾公の裔として由来高し、王代の間は綾大領として、六位 五位の間なり。
- 讃州の国 鵜足郡司 奈良太郎左衛門元安は、足利将軍に尽くし関東より細川管領に従い入封し、以来細川管領の旗本四臣の一となり武勇勝れたる家系なり。1584年四国で長曽我部勢に破られたる将兵は合わせて三千五百名。奈良太郎兵衛門元安が戦死し、子 太郎左衛門 他従は讃岐に引具して鵜足郡津之郷辺に居住し、生涯を送り裔を残す。
寒川左馬允 †
- 香川県史によれば「寒川左馬允之レニ居ル、此所ハ仁徳天皇ヲ奉祀所ナリ倭名鈔ニ此地ヲ難波郷ト称ス 蓋此奉祀所アルヲ以テナラン 蓋当時ノ土民同天皇ノ恩徳ヲ追念シ 奉祀所ヲ設クルナラン」とある。みろく公園近くの冨田茶臼山古墳の平坦部に妙見神社があり、このあたりが本丸かもしれない。櫓を設けた平山城で昼寝城城主寒川左馬允は冨田茶臼山古墳を出城として築城したらしい。
- 参考:讃岐の古城
生駒氏 †
- 生駒氏は大和国藤原忠仁公の末えい。生駒山麓谷口村(現奈良県)の住人で、当時河内の国では戦乱が続いていたので、前野氏との旧縁を頼り、尾州柳橋郷郡村(現江南市小折)へ移り住んだといわれている。
参考 †