大宰府

  • 万葉集に「遠の朝廷(とおのみがど)」と詠まれた大宰府政庁は、古代最大の地方役所。憶良も旅人もここで政務を執った。
  • 太宰帥(だざいのそち)大伴旅人、太宰少弐小野老(おののおゆ)、筑前守山上憶良、造観世音寺別当沙弥満誓(しゃみまんせい)、大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)など、錚々たる万葉歌人が当時の筑紫に集まっていた。
  • 神亀2年(725)山上憶良筑前守に就任、神亀4年(727)大伴旅人太宰帥に就任。この頃から天平2年(730)10月に旅人が大納言に昇進して、12月頃に太宰府を離れるまでが、九州筑紫の地に万葉の文化が花開いた時であった。
  • 上流貴族の歌の他に、東国から徴集されて、遠く筑紫の地で国土防衛に当たらされた防人の歌が、数多く載せられている。

当時

  • 日本書紀によれば、天武10年(681)3月、川島皇子等に、帝紀および上古の諸事を記録・校定せしめた。古事記序文によると、舎人稗田阿礼は、年28のとき、記憶力の良さを買われて、即位前に壬申の乱を体験している天皇の命令で修史事業に関係した、とあります。
  • 天武天皇が没したのは朱鳥元年(686)9月なので、「沈痾自哀文」から660年生まれとなる憶良が年28になるのは、その翌年の持統元年(687)になります。

和歌=倭歌

  • 万葉集に出ている「倭」  【和歌は古くは「倭歌」と書いた。この語の初出は万葉集で、天平二年(730)十二月、山上憶良が謹上した 一連の歌の題詞「書殿餞酒日倭歌四首」に見える(万葉集巻五、旧国歌大観番号876)。当時は唐に対して 自国を倭と称することが多かったから、唐の歌詩と区別するために、日本の歌を倭歌と記したのである。 憶良はほかに「日本挽歌」などという書き方もしている(「日本語で書かれた挽歌」の意味)。 おそらく倭歌という言葉の創案者は憶良であったと思われる。】

抱朴子を読んだ憶良

抱朴子に曰く、人は但(ただ)其の當に死なむ日を知らず。故に憂へず。若し誠に羽き(うかく)して期を延ぶることを得べしと知らば、必らず之を為さむ。此を以て觀れば、乃ち知る。我が病は、盖し斯れ飲食の招く所にして自ら治むること能はざる乎と

貧窮問答歌

  • 問う
    • 風交じり 雨降る夜の 雨交じり 雪降る夜は 術も無く 寒くしあれば 堅塩を とりつつしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ凍ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る
  • 答える
    • 天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて 鵺鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道
  • 反歌
    • 世の中を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

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Last-modified: 2012-08-18 (土) 10:36:00 (2621d)