宮道天神社とは †
宮道天神社:愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂字宮路 †
- 参考:http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/yama/miya.htm
- 御祭神 建貝児王命(日本武尊第三皇子 宮路別族の祖)、大山咋神、草壁皇子命(天武・持統天皇御長子)
- 當社は天武天皇御宇白鳳年間草壁皇子此地に住居ましまし事より御代々赤坂の地を頓し給ふ皇子現宮路山上に一小祠を遣し給ひしが村民これを保護長保の頃前記三神を合祀して永久に全村の産土神と崇敬し奉るに至れり該地は大宝2年10月持統上皇御巡幸の際此の山を頓宮に充てさせ給ひ霜葉を叡覧し給ひし御遺跡あるを以て宮路山と稱し社號を宮道天神社と敬ひ奉る而して御鎭座の地たるや宮路山中の殊嶽にして往昔草壁皇子御住居せし地なるを以て其字名を嶽ヶ城と稱す仍て中古より嶽明神とぞ通稱し來りしを明治13年に其の社號を復旧して宮道天神となし大正14年10月9日郷社に昇格す。
- 宮道天神社の伝承によれば、日本武尊東征の際、建貝児王をこの地に封ぜられたそうです。この建貝児王が宮道別の祖であり、その子の宮道宿禰速麿は穂国の県主(国造の下位の地方長官)となられ、その子孫は引き続き当地に在住し、ある時、その祖である建貝児王を祀ったのが宮道天神社だというのです。
- 。『先代旧事本紀』の「天皇本紀」では、宮道君の祖は、第二皇子・稚武王とし、第三皇子は武卵王で、讃岐綾君等の祖としています。
建貝児王 は、日本武尊と穴戸武媛(吉備武彦の娘)の子 †
- 日本武尊東征の際、建貝児王をこの地に封ぜられたそうです。
- 景行天皇の御代、南海に大魚が居た。常には土佐の南の海に居るものの、時に、阿波、讃岐、伊予の海上に出没して、波を起こし舟を覆し、舟を呑み人を食うこと数知れず、人々は大変に難儀をした。 このことを朝廷に奏上するすると、朝廷では播磨武人(はりまのたけお)に討伐を命じたが、彼はこの役目を皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)に譲った。皇子は吉備の穴海に至り、ここで兵船を整え、火攻めの具を用意し、大魚の動静を探りながら待ち受けていた。この間、吉備武彦の娘穴戸武媛(あなとたけるひめ)を妃に入れ、やがて、媛は武殻王(たけかいこのきみ)(記は建貝児王、紀は武卵王)を生む。
- 武殻王は讃留王と呼ばれ、讃岐綾君(さぬきあやきみ)の祖となった。
- 日本武尊東征に同行し、愛知で封ぜられた??。讃岐ではないのか。
讃岐の墳墓:武殻王 †
- 武殻王は、鵜足郡井上郷玉井村(現在の綾歌郡飯山町下法軍寺)の讃留霊王神社に讃留王大明神として祀られており、神社の裏手にある前方後円墳は武殻王を葬ったものと云われている。
軍王とは、誰か †
- 武殻王=讃留霊王か??
- 軍王
- 舒明天皇が讃岐國安益(あや)郡に行幸遊ばされた時に、軍王が山を見て詠んだ歌がある
- 宇多津あたりを昔、津の郷とよび。ここから城山をみて歌ったのではないか。
- 日本武尊の御子十城別王(別王の祖)は、武殻王=讃留霊王の弟
- 武卵王(子:爾弥摩命、建久呂彦命): 十城別王; 妃:山代玖々麻毛理比売(ククマモリヒメ): 葦敢竈見別命(蘆髪蒲見別命?)
- 古事記の「足鏡別王」とは「蘆髪蒲見別王」のことであろう。
- 紀では布多遅能伊理毘売命と布多遅比売を同一人物としている。
また、玖々麻毛理比売と一妻(息長田別王オキナガタワケノミコの生母)は紀には見られない。記において息長田別王は、応神天皇妃で、謎の単独系譜を持つ若沼毛二俣王ワカヌケノフタマタノミコの生母,息長真若中比売オキナガマワカナカツヒメの祖父にあたり、若沼毛二俣王は第26代継体天皇の系譜につながる。
- 吉備穴戸武媛キビアナトノタケヒメは、日本書紀にある。大吉備建比売は古事記にあり
、同じか。
阿沼美神社:松山市 伊予和気駅の東 †
- 御村別の祖・景行天皇の皇子武国凝別、および別王の祖・日本武尊の御子十城別王の宮居があった場所という。
- 社伝記によると十二代景行天皇の皇子武国凝別(御村別の祖)日本武尊の御子十城別王(別王の祖)の宮居された所と伝えられており地名を大内小字を宮内という
別氏の子孫は阿沼美の神を奉斎して深く尊崇を尽くし四十代天武天皇四十五代聖武天皇五十代桓武天皇五十二代嵯峨天皇七十五代崇徳院等は幣帛を奉り勅願により宮殿を再造営した
別氏の没落後河野氏は三島の神を合わせ祭り「阿沼美三島大明神」と号して累代崇啓を尽くし神領を三百二十一町六反を寄進した
さらに河野道直は新たに社殿を築き厳命して「新宮」の二字を加え「阿沼美三島新宮大明神」と称え一族の潮見山城主大内伊賀守越智信泰を大宮司として祭事を掌らせた
ヤマトタケルの子の妻たち †
- ヤマトタケルは近淡海(息長田別王オキナガタワケノミコの生母)、吉備(大吉備建比売)、山代(十城別王妃 山代玖々麻毛理比売)、大和 と婚姻関係を持っていた
寒田神社:神奈川県足柄上郡松田町惣領1767 †
- 寒田神社[さむた]
- 「倭健命、弟橘比賣命、菅原道眞、譽田別命」を祀る
- 西暦400年頃の古代に創建されたと言われる由緒ある神社で、延長五年(927 年)に国が 作成した延喜式神名帳に、相模国十三座の内「足上郡一座小寒田の神社」と 明記。
- 往古は、相模田、佐牟多などと称した
- 延喜式内社としては足上郡に寒田神社、余綾郡に川勾神社、大住郡に前鳥神社、高部屋 神社、高座郡に寒川神社(名神大社)などが鎮座する。
- 相模の国波多野氏の出身地秦野市の近くである。秦氏との関係は???。
- タタラ跡があり、神社には タケルが使ったという古代の木のお椀が社宝として保存されているらしい。
- 神社の前を流れる酒匂川の由来。
- ヤマトタケルが川の水を飲んだ。水はお酒の匂いがした。それで、酒匂川という名前になった。
- 寒川(サンガワ)では、タタラで鉄を作ったとの説もある。
- 寒川町岡田の安楽寺境内の裏手の大(応)神塚古墳は、全長約51mの前方後円墳で、後円部の高さは約5m。
- 明治41年(1908年)に寒川神社宮司莵田氏の提唱で、考古学者坪井正五郎氏らによって発掘調査された。
- 後円部の墳頂下部1.8mほどの場所から、傍製鏡(ぼうせいきょう)と直刀、鉄製品が出土。周辺には陪塚(ばいちょう)と称される5基の小型古墳が発見され、勾玉(まがたま)、 金環(きんかん)などの副葬品が豊富に出土し、寒川神社に保管。
- 前方部が低く伸びる前期形式の前方後円墳であることや、石室のない粘土槨(ねんどかく)か木棺直葬であったと思われることから、 5世紀代のものと考えられています
- 寒田神社や寒川神社との関連は??
- 山霊崇敬の古俗(石井広夫説)によれば
二宮神社:千葉の寒川 †
- 角川『日本地名大辞典』によれば、千葉県船橋市三山町にある二宮神社を式内社の寒川神社に当てる説が有力とのこと。
- 速須佐之男命 配祀 稻田比賣命 大國主命 藤原時平 大雀命 譽田別命
- 神紋は『神社名鑑』には、九曜紋とあるらしい。社殿には、亀甲に七曜の紋。千葉氏の妙見信仰に由来するか。北辰の紋。
相模の国造 †
- 相模地方は、相武と師長に分かれ、相武国造が相模の山間地域(相模川流域)を、師長国造が大磯を中心とした海岸地方、酒匂川流域を支配していたらしい。
- 鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉・三浦地方は、別の地域。
- 古事記では倭建命を「相模の国の国造」があざむく。生還した倭建命に切り亡ぼされ焼かれる。この国造は、どこの勢力化にあった国であり、だれが任命したのか?。
- 『先代旧事紀』の巻第十「国造本紀」によれば
- 无邪志国造:志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に、出雲臣の祖、名は二井之宇迦諸忍之神の十世孫、兄多毛比命を以って、国造に定め賜ふ。相模国造に弟武彦を定めたとある。
- 出雲系の兄弟が国造。
- また、伊狭知直は『日本書紀』の神功紀にでている海上五十狭芽であり、海上(上総・下総)を支配している。
- 武刺国造祖伊勢都彦3世孫, 弟武彦, 伊勢津彦は伊勢 風土記に出ている。伊勢津彦とは、『伊勢国風土記』逸文に見える神武朝の神 。伊勢津彦は神武天皇の命でやって来た天日別命の兵を恐れて、東に去ったと出ている。
- 初代は成務天皇の五年九月、茅武彦命(かや たけひこのみこと)が国造に任命されたという。
- 関東でも、大和系と出雲系の勢力の変化があったような??。
- 『伊勢国風土記』逸文の国号の由来には、伊勢津彦は神武天皇の命でやって来た天日別命の兵を恐れて、東に去ったと出ている。伊勢の国の主は、阿倍志彦の神、伊勢津彦の神、天津神と変遷しているので、天津神に置き換わったらしい。
下総の国造と古墳 †
- 律令体制の房総
下総地方には下海上国造と印波国造がいました。古墳の分布を見ると、下海上国造代々の墓は小見川古墳群 にあり、印波国造代々の墓は龍角寺古墳群の浅間山古墳・岩屋古墳、公津原古墳群 の瓢塚古墳・天王塚古墳・舟塚古墳などであったと推定され、これらの古墳の形態からみて古い順に並べると 瓢塚、天王塚、浅間山、舟塚、岩屋となり、印波国造の地位は公津原古墳群の勢力と龍角寺古墳群の勢力との 間で交互に継承され、世襲化されていなかったと考えられます。印波国造を支えていたのは古墳を築造した 小豪族や有力農民たちです。7世紀には豪族ばかりでなく、有力農民にも古墳を作る力がありました。
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