高皇産霊尊の孫 †
- 天日鷲翔矢命とも書かれる
- 高魂命(高皇産霊尊)の孫
安房と阿波:粟と麻の国 房=総=麻 †
古事記 †
- 天岩戸で、粟国忌部の遠祖であり、祈祷のために作った木綿を天香山の真榊に掛けたこと
- 高皇産霊尊が作木綿者とした
天照大御神が天の岩戸におかくれになり、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞を舞われたとき、楽
器の弦を奏でられました。命の父神、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸をお開きになりますと、
その弦の先に鷲がどこからともなく飛んできてとまりました。その様子を固唾をのんで見守っていた八百万の神々は、
その光景を、世の中を明るくする瑞祥(よいしるし)だとして、鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称しました。
『古語拾遺』 †
少彦名神と同一か? †
- 少彦名神は、海上より出雲の五十狭狭(いささ)の浜に着いた小男。
- 薬草カガミの皮で作った舟に乗り鷦鷯の羽根で作った衣を着ており、高皇産霊尊の子でその指間から落ちた神とも伝えられます。
安房と粟 †
- 記紀神話では、木綿の製作者。
- 式内社 安房國朝夷郡 下立松原神社 しもたてまつばら 千葉県安房郡白浜町
- 合祀 式内社 安房國朝夷郡 天神社
- 祭神・天日鷲命は、天太玉命の部下。
- 天太玉命の後裔である天富命が、天日鷲命の孫・由布津主命を率いて、
阿波から当地(安房)開拓のため上陸したという。
由布津主命が、祖神である天日鷲命を祀った神社。
- 千倉の下立松原神社
- 祭神は、天日鷲命で、美奴射持命(ミヌエモチのみこと)が祀ったという。
が、美奴射持命が誰なのかは不明。安房忌部の一族と考えられている。
後裔たち †
- 『姓氏録』では、弓削宿祢、天語連、多米連・宿祢、田辺宿祢など。
- 系図などでは、安房の忌部、神麻績連、倭文連、長幡部、神宮部造が後裔。
- 「斎部宿祢本系帳」では、天日鷲翔矢命の子の天羽雷雄命の子孫として委文宿祢・美努宿祢・大椋置始連・鳥取部連
- 古代の衣服・繊維氏族も同族か?
- 服部連も?。
- 伊豆の賀茂郡で三島大社(伊豆三島神社)を奉斎。同郡の式内社阿波神社が、いま神津島に鎮座。
讃岐の粟 †
讃岐の日本武尊 †
天皇寺の由縁
保元の乱で讃岐に流罪となった崇徳天皇は長寛二年八月讃岐の国府における歌会に出席する途次、ここで亡くなられました。
真の暑い時期であったため遺骸を八十八の水につけて腐敗を防ぎ、寺に安置しておき京都からの令旨を待ちました。そして令旨を受けると白峰山で荼毘に付されました。
阿波の粟 †
- 阿波国の古社、忌部神社と大麻比古神社は、ともに古代の忌部氏に縁りの神社
- 忌部氏は忌部神社付近に栄え、代々荒妙御衣を貢上して御衣御殿人と呼ばれ、室町時代に及んだ。忌部氏の中心地は社地の西南種野山の平地で、南北朝時代には武士として活躍しており、三木氏を称していた。
- 天玉太命の玄孫にあたる飯長媛命に斎主と注記され、神魂命の後裔にあたる由布津主命と夫婦となり、その間に堅田主命が生れている。
安房の粟 †
伊豆 †
三島鴨神社:大阪府高槻市三島江 †
酉の市で知られる鷲神社:台東区 †
- ご祭神:天日鷲命(あめのひわしのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと)寿老人
- 開運、商売繁昌、家運隆昌、子育て、出世の神徳が深いとされ、「おとりさま」と称されて江戸下町の民衆に篤く尊信されてきました。 そして天日鷲命は、開運、開拓の福神として当地に鎮座されたのです。
下野国 鷲宮(わしのみや)神社 †
- 都賀町家中の総鎮守として、また「お酉様」として親しまれております鷲宮神社
- 大同3年(808)創建
- 鷲宮神社に伝わる御神楽は伊勢神楽の流れを汲む、依田流太々神楽
- 日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の際に東国治定や開発の為、日本武尊と共に三浦半島を経て船で安房国(千葉県)に移って来た忌部氏が、利根川を上るようにして東国を開発していくのに伴い、天日鷲命も広く祀られていきました。弓削連(ゆげのむらじ)の祖でもある天日鷲命は、東国武士等に弓矢を作り始めた神様、武道守護の神様としても篤く崇敬されていたようです。
日本武尊に同行した忌部?? †
- 景行紀、日本武尊の蝦夷征伐に吉備武彦と大伴武日が従う。日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で武日は靫負部を賜わる。
- 日本武尊の妃であった弟橘比売(『日本書紀』によれば、 穂積臣忍山宿禰の娘)が同行。
- 志摩の国も大伴部が、同行したか。
- 倭武命が倭姫命から天叢雲剣を受け取って遠征に赴くのだが、この際に倭姫命が建立した伊雑宮(いざわのみや)の御食地にはダイダラボッチの伝説が残っている。この地から宮中の神事を司っていた大伴部氏(膳氏)が遠征に同行している。
- 日本武尊は「鷺」または「白鷺」に例えられます。
- 志摩国佐芸郡」と呼ばれていた時代があります。この「佐芸」(さき)とは「鷺」(さぎ)の事で、大王町には崎山(佐芸山:元宮内庁御用地)という地名でこの地に名を残しています。
安房の浮島の天皇と磐鹿六鴈命(いわかむつかり) †
- 景行天皇は日本武尊の死を深く悲しみ、ついには尊の活躍した跡を偲ぶため、同じ旅路をたどり安房へ渡ってこられました。天皇は浮島がたいそう気に入られ、行宮を設けて長期にわたり滞在されたと言います。
- この時、天皇に同行した臣に磐鹿六鴈命という人がいました。ある時、カタカという鳥の声が聞こえたので、その鳥の姿を見ようと船で沖へこぎだすと、魚がたくさん集まってきました。六鴈命が角で作った弓の先で海をかきまわすと魚がそれをくわえるのでたくさんの魚がとれました。そこでこの魚を頑魚と名付けましたが、のち堅魚(鰹)というようになったそうです。
- また浜辺で大きな白い蛤を見つけ、六鴈命が心をこめてこれをなますに造り、天皇に奉ったところ、大変喜ばれ、「おまえの子孫は永くわが天皇家のために御食膳を清めととのえて仕えるがよかろう」と膳大伴部の名を賜り、諸国の膳夫(料理人)を選び出して六鴈命の下につけて下さいました。
- 現在、浮島神社には日本武尊、景行天皇とともに六橋命も料理の神様としてまつられています
- ガクガクと鳴く不思議な鳥(覚駕鳥)はミサゴ鳥であり、現在の勝山港のそばにミサゴ島があり、すぐ沖に浮島が見える。
安房の丸山町 御殿山(364m) †
- 日本武尊が安房地方を平定したとき、平定地を一望できるこの山を居城にしたことから、御殿山と呼ばれるようになったという。この祠も武尊に関連があるようで、同行していた彼の王子を祀ったものだとされている。御殿山の南山麓、丸山町宮下元御子神に王子命を祀っている王子神社があり、その奥の宮。
- 王子神社のある地名は、宮下元御子神という。宮の下だったらしい。
韮崎市 の わに塚 †
- 武田氏の祖、武田信義公が累代の祈願所として再興した願成寺の近くにこんもりと盛り上がった塚、ここは日本武尊の王子、武田王の墓であるとも言われています。
三河の広瀬の猿投神社 †
- 猿投神社は、古くから神様の領域として神聖視されてきた猿投山に開かれた神社で、山麓と東宮・西宮の3つの社がある。
- 日本武尊と双子であった大碓命がこの地に住まわれて没したところから、この大碓命とその父・景行天皇、祖父・垂仁天皇を奉っています。