凡海

  • 舞鶴湾の入口東側に大丹生おおにゅうおおにゅうおおにゅう・浦入うらにゅううらにゅううらにゅう(『加佐郡誌』に浦丹生。海軍も浦丹生と書いている)の集落がある。隣同士の村である。若狭との国境に付け根を持つ、この大きな半島を大浦半島と呼ぶ。 浦入・大丹生あたりは残欠本文では志楽郷に含まれるようである。『加佐郡誌』は凡海郷と推定している。
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  • 齋大神は東の大波上の北野神社の境内にもある(由緒祭神不詳)し、大江町公庄の齋宮神社がある、ここはちゃんと竹野姫命を祀る(由来記に麻呂子親王とも伝える)。竹野郡の竹野神社が齋宮とも呼ばれており、大江山から逃れてきた三鬼をここで麻呂子親王が退治して立岩に封じ込めたの伝説がある。
  • 竹野たかのたかのたかの神社は天照大神を祀る。その本殿の右側に齋宮いつきのみやいつきのみやいつきのみや神社があり、日子坐王命・竹野媛命・建豊波良和気命を祀っている。建豊波良和気命は記に開化の子で、日子坐王とは兄弟、道守臣,忍海部造,御名部造,稲羽の忍海部,丹波の竹野別,依網の阿毘古等の祖となっている。
  • 『古事記』(七一二年完成)(以下『記』と略記)開化天皇の条に、「この天皇、旦彼の大県主・名は由碁理が女、竹野比売を娶りて生みたまへる御子、比古由牟須美命」とあり、また『日本書紀』(七二〇年成る)(以下『紀』と略記)の開化天皇六年の条に「天皇、丹波竹野媛を納れて妃としたまふ。彦湯産隅命を生む。」とある。
  • 竹野比売-比古由牟須美命-大筒木垂根王-迦具夜比売命
  • 竹野はタケノではなく、タカノと読む。タカヌだろう。舞鶴の高野と同じである。畑井弘氏は高山と書いてカグ山と読む(万葉集)から高はカグ(銅)のことだとされている。竹野神社とは何でもない、籠神社のことであるかも知れない。
  • 参考:http://www.geocities.jp/k_saito_site/kasagun6.htm

元伊勢

  • http://www.geocities.jp/k_saito_site/motoise.html
    • 籠神社は、丹後一の宮であると共に、伊勢神宮の元宮としても知られる。
    • 本殿の様式も伊勢神宮とほとんど同様の唯一神明造で、高欄上の五色の座玉( すえたま )は伊勢神宮とこちらにしか見られない貴重なもの。神社建築としては、最古の様式と高い格式を表わしています。
  • 神社の変遷
    神代に彦火明命が降臨し、豊受大神( 伊勢神宮の外宮の祭神 )を祀られたが、
    第10代・崇神天皇の御代に、天照大神が大和国笠縫邑( カサヌイノムラ )からこの地に巡幸されたため、合祀された。
    その後、天照大神は第11代・垂仁天皇の御代、豊受大神は第21代・雄略天皇御代に、伊勢に遷られたといわれています。 
    そしてその後、主祭神を彦火明命とし、社名を籠宮( このみや )としたそうです

大海人:天武天皇

  • 天武天皇の殯があった朱鳥元年(686)九月二十七日、第一番に天武の壬生のことを誅したてまつった人物がいる。壬生とは、天皇を育てた幼児の頃のことであるのだが、その人物は「大海宿禰蒭蒲」(おおあましのすくねあらかま)である。「大海氏」(「凡海」とも書く)が、幼少の面倒をみたから「大海人皇子」と呼ばれたという説がある。
  • 天武の幼少が「大海」ではなく、「大海人」。
  • 「蒭浦」が「大海人」扶養したことは史実であろうから、時代を考慮すれば 肉親同様の関係であったと言えるかもしれない。

尾張氏の祖は火明

  • 「凡海氏」はホアカリを祖とし、「尾張氏」とは血縁的に非常に近い関係、言うなれば同族である。
  • 生駒山麓の東大阪市東石切町にある石切劔箭命神社の祭神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、宇摩志麻冶命とある。櫛甕玉・彦天火明とは、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の略称で、本名は饒速日命である。
  • 丹後国一宮とされている籠神社(元伊勢籠神社)は、天照大神が伊勢へ鎮座するまでの仮宮だったが、ここでは彦天火明命は、皇祖神・天照大神や伊勢外宮に祀られている豊受大神よりも上位に位置する神であるという。
  • 各務原市鵜沼山崎町1丁目108「村国真墨田神社」                  「天之火明命 村国連男依命ほか」
  • 各務原市各務おがせ町3丁目4 「村国神社」                  「村国連男依命・天火明命ほか」
  • 「村国」の名が付く神社であるので、『壬申の乱』で功績を挙げた「村国連男依」が祭神であるのは当然なのだが、そのどちらもに、「尾張氏」の祖神「ホアカリ」を合祀している。

饒速日命

  • 饒速日命は天の磐船に乗りて天降り、河内国河上の哮峯に坐す。則ち、遷りて、大倭 国鳥見の白庭山に坐す。物部氏の祖。
  • 古くからニギハヤヒを祀る天照神社の祭神がそれを物語っているし、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命という立派な諡号がある。
  • ニギハヤヒは、他に櫛玉(くしたま)、櫛甕玉(くしみかたま)、鴨大神(かもおおかみ)、別雷神(わけいかづち)、大物主(おおものぬし)もニギハヤヒだった。
  • 三輪山は、偉大なる覇王・ニギハヤヒのお墓だった。ニギハヤヒの末娘は御歳(ミトシ)で、比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)、媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)ともよばれるが、本名は高照姫(タカテルヒメ)と呼ばれているという。
  • 哮峰の所在地については2つの説がある。
  • 哮峰=北河内郡説
  • 交野の地は、摂津・河内から大和に入る要衝である。後の神武天皇が長髓彦と戦った孔舎衛(くさえ)の坂もこの近くである。また交野の地は肩野物部氏の本貫地でもある。
  • 哮峰=南河内郡説
  • 南河内郡河南町平石にある磐船神社の近くの山であるとする説である。
  • 「饒速日の尊は河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天下った。さらに、大倭の国の鳥見(とみ)の白山(または白庭山)にうつった。」
  • 『先代旧事本紀』の巻五「天孫本紀」には「(饒速日の尊がなくなったとき)天の羽弓矢(はゆみや)、羽羽矢(ははや)、神衣帯手貫(かむみそおびたまき)を、登美(とみ)の白庭の邑に埋葬して、墓とした。」とある
  • 大和には、生駒郡鳥見郷、磯城郡迹見郷がある。

庄内式土器と物部

  • 河内では物部氏の本願地や関係地域から庄内式土器が集中的に出土し、奈良県でも物部氏と関係のある地域から庄内式土器が出土する。物部氏の移動に従って庄内式土器も、九州から河内、河内から大和へ移っていった可能性がある。
  • 庄内式土器とは、3世紀、弥生時代から古墳時代に移る時代の土器である。
    • 卑弥呼の時代でもあり、注目に値する。
  • 庄内式土器は豊中市の庄内という地名から名づけられた古墳時代初頭の土器です。八尾市の久宝寺遺跡からは庄内式土器のなかでも古い段階の土器がまとまって出土し、この時期のものとしては質的にも量的にも突出した内容を持っています。
    河内の古式土師器(新資料)
     久宝寺遺跡(東西線)531井戸・405大溝出土庄内式(古段階)土器群
     中田遺跡 刑部土坑から出土した庄内式(古段階)土器
      東弓削遺跡第4次調査 SD‐1から出土した庄内式土器
和泉の古式土師器・河内の布留式(古段階)土器
 下田遺跡SD1305から出土した庄内式(古段階)土器群

椿井大塚山もこの頃:

  • 椿井大塚山古墳の築造時期がほぼ確定。
    •  前方部の祭紀に使われた一括土器資料から、庄内式土器と布留式士器が共存する時期(3世紀後半)の年代観を得ることができました。この時期は、いわゆる邪馬台国の時代に相当します。定型化した前方後円墳の最初期のものとすることができます。
    • 鏡の多さは群を抜く。総数37面の鏡を出土し、その中の33面は三角縁神獣鏡である。
  • http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/7-4tubaiootuka.htm
  • 椿井大塚古墳は、海部の墓との説がある
    • 『勘注系図』は始祖彦火明から数えて七代目、すなわち六世孫建田勢命が、七代孝霊の時、丹波の宰(みこともち)となり、その後山背(山城)久世郡水主村(くせのこうりみずしむら)に移り、さらにその後大和に移ったとする。注目されるのはこの、山背久世郡水主である。久世の地名は、現在京都府久世郡(ぐん)と城陽市久世に、その地名を残す。この城陽市に、水主(みずし)神社という古い神社がある。京奈和自動車道が木津川を渡る高架の、東たもとあたりである。祭神を始祖彦天火明として以下、天香語山命、天村雲命、天忍男命、建額赤命、建筒草命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山背大国魂命とする。まさに『勘注系図』が示す始祖彦天火明から九世孫までを祭神とする。山背大国魂命(やましろおおくにみたま)とは、九世孫とされる玉勝山背根子(たまかつやましろねこ)のことである。この人をこの地域の祖とするのである。 木津川中流域は建田背命以降、天の香語山の後裔で、後に海部(あまべ)あるいは和邇・和珥を名乗る一族の根拠地である。椿井大塚古墳はこの水主神社から木津川を南に10kmほど遡った、木津川の東側に位置する。この一族の墓と推測できる。 そしてこの椿井大塚古墳の被葬者として可能性が高いのは、丹波の大県主、由碁理(建諸隅命)の娘、竹野媛と九代開化の間に生まれた、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)である。

 尾張と福井の関係

  • 古代、丹生か息長氏を介して、海部の水運で繋がっていたのでは
  • 『壬申の乱』にて最重要な役割を担った尾張宿禰大隅
    • 『続日本紀』 天平宝字元年(757)十二月九日の条
    •  「従五位上尾張宿禰大隅が壬申の年の功田卅町、淡海朝廷の諒陰の際、  義をもちて興し蹕を驚せしめ、潜に関東に出たまふ。時に大隅参り迎へて  導き奉り、私の第を掃ひ清めて、遂に行宮と作し、軍資を供へ助けき。そ  の功実に重し。大に准ふれば及ばず、中に比ぶれば余り有り。令に依るに  上功なり。三世に伝ふべし。」
    • 「大海人」が東国へ逃れたとき、「大隅」は私邸を行宮として差し出し、さらに軍資までも提供するという、惜しみない多大な援助をした。
  • 尾張は、二万兵で大海人に協力した。壬申の乱の最大の功績

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Last-modified: 2012-08-18 (土) 11:32:00 (2306d)