吉備の中山を根拠とする「吉備の海人」

大和の移住者

  • 雄略天皇の時代に新漢陶部高貴らの渡来人を上桃原・下桃原・眞神原の地へ、また呉人を檜隈野に住まわせた事が記されています。
    • 居住地は『日本書紀』によると現在の大字飛鳥や島庄、桧前の地。
    • 氏寺は、檜隈寺 ( 東漢氏 ) や呉原寺 ( 呉原氏 ) 、坂田寺 ( 鞍作氏 ) など
    • 墓の特徴は石室に巨大な自然石を用いており、天井は高く、ドーム形。石室内からはミニチュア炊飯具 ( 竈・甑・瓶・鍋等 ) や釵子 ( かんざし ) 、などが出土。
  • 日本は456、雄略天皇のとき、中国の冊封体制から離脱国交断絶。456年から593年まで 約 150年近く冊封体制から離れて独立。魏が滅び、西晋が立ち、北から、また西域、あるいは蒙古のほうから、中国の黄河流域に蛮族がなだれ込む。(五胡十六国の時代) 589年に南朝を潰し隋が統一。長い間中国の脅威は無かった。難民は多くいたかもしれない。野妹子隋に行く(607)
  • 「古い金石文では、大和は山の東、生駒・金剛山脈の東。西の河内のほうの渡来人が先で、大和辺りを根拠にする渡来人集団が後と考えている」(上田正昭氏)

三蔵

  • 大和時代の斎蔵(イミクラ)・内蔵(ウチクラ)・大蔵(オオクラ)の総称。いづれも朝廷の財物を収納した倉庫。蘇我(ソガ)氏が三蔵を統括する。「さんぞう(三蔵)」とも呼ぶ。
    • 〈斎蔵〉
      	 祭祀に用いる神宝や神への貢租(コウソ)を納めた蔵。
      	 斎部(インベ)氏が世襲・管理した。
    • 〈内蔵〉
      	 官物(皇室の財物)を納めた蔵。
      	 東漢人(ヤマトノアヤウジ)・西文氏(カワチノフミウジ)が事務を掌(ツカサド)
      	る。
    • 〈大蔵〉
      	 政府の貢租を納めた蔵。内蔵から分離して設置。
      	 秦氏(ハタウジ)が事務を掌る。
  • 東漢(やまとのあや)氏の族長であった坂上刈田麿らの上奏文に、『 先祖阿智使主、(応神天皇)の御世、十七県の人夫を率いて帰化す。」…高市郡檜前村を賜(たま)いて居す。およそ高市郡内は、檜前忌寸(いみき)および十七県の人夫、地に満ちて居る。他姓の者は十に一、二なり。]

造山古墳

  • (応神天皇の頃)の吉備には、造山古墳を築く勢力があったはず。それは列島第一の特大の勢力である。

石作とかぐや姫

  • 竹取物語の石作皇子が多治比嶋であるなら、石作氏と多治比氏の関係も世間周知の事 であったろう。河内国丹比郡の中心部、現大阪府南河内郡美原町一帯を本拠とし、同地には五世紀前半と推定される全長百米以上の前方後円墳黒姫山古墳があり、六世紀末から八世紀中にかけての平尾遺跡には大規模な掘立柱建築があり、丹比神社・丹比廃寺を有した。そして一族からは歴代にわたって遣唐大使・押使・渤海使等の外交官を出している。こうした多治比氏と関わる石作氏は、播磨国賀茂郡の既多寺で書写事業のスポンサーであり、それまでは播磨平野に数多い石船と呼ばれる石棺を製作していた。
  • 「石の宝殿」直ぐ付近の竜山石の石切り場の石を切り離して、加工途中で放置 されたのだという。

地域と部民

  • 美作
    英多 財部 巨勢        
    勝田 家部 鷹取 賀茂       
    苫東 綾部 賀茂        
    久米 倭文 錦織 弓削 久米 家部 秦    
    真嶋 健部         
  • 備前
    和気 矢田部 秦        
    磐梨 別部 忍海部 財部 母止理部 物部 佐伯部    
    邑久 別部 秦部 海部 靱負 土師 須恵 宗我部 服部 石上 
    赤坂 軽部 佐伯 鳥取 家部 別部 葛木    
    御野 伊福部 物部        
    津高 健部 漢部 按作部 蝮王部 賀茂     
    児島 山守部 賀茂        
    上道 財部 日下 宇部 山 秦 海部 壬生部 家人部  
  • 備中
    都宇 健部 丸部 西漢人 秦人部 赤染部 服部 史戸   
    窪屋 軽部 白髪部 物部 氷人 家部 神人部 私部 刑部 出雲部 
    爾麻部 語直        
  • 賀夜
    服部 八部 刑部 忍海漢部 鳥取部 山守部 弓削部 物部 出雲部 
    健部 生部 東漢人部 西漢人部 史戸 川人部 和邇部 白髪部 犬甘部 
    下道 八田 二万部        
    浅口 犬養部         
    小田 草壁 出部 白髪部       
    後月 出部         
    哲多 額部         
    英賀 刑部 呰部 丹部       
  • 備後
    深津 海部         
    神石 物部         
    奴可 刑部 道部        
    沼隈 春部         
    品治 品治部 服織        
    葺田 品治部         
    恵蘇 刑部 春部 額田       
    三谿 刑部 松部
  • 阿智郷 (今の万寿・菅生・倉敷・帯江に当たるか)
    • (和名抄) 「窪屋郡阿智郷」。
      帰化漢人☆阿智使主(アチノオミ)の土着せる地域、広大なり。
      邑久郡大宮村に「上阿智」・「下阿智」あり。
      吉備・都窪・朝口の三郡に「呉服部」・「西阿智」・「東阿智」あり。
      倉敷市に阿知神社・阿智町あり。 
    • (日本書紀)応神天皇三十七年春二月条
      三十七年の春二月.阿知使主・都加使主を呉に遣わして、縫工女を求めしむ。
      呉の王、是に、工女兄媛・弟媛、呉織、穴織、四の婦女を与ふ。 
  • 備中の吉備津宮の四隅に祭る神の中に、「忍海(おしぬみ)部」がある。凡海(大海人)か。
  • 備前は秦、備中は百済。播磨の西部は秦。秦は親新羅か??。
  • 長い頸のある壷が大きな特徴。備前・備中・讃岐を中心に、備後・美作・播磨にまで分布。時期は、2 世紀から3 世紀にかけて
  • 吉備で須恵器が出現するのは、5 世紀の前半。高梁川と足守川にはさまれた吉備中枢部で出ている
  • 森浩一氏は「律令政府は、海上交通の要地を、『海部郡』 として掌握した」とする。一方「海部郡」とは、即ち、魚・海草・貝などを年貢(税)として治める人たちが多く住んでいた郡との説が一般的。祭事用の忌部が海部でもある。
  • 秦人の土着地… ・秦(ハタ)・土田(ハタ)・幡田(ハタ)・半田(ハタ)・畑谷(ハタヤ)・服部(ハットリ)・勝部(カチへ)・勝間田(カツマタ)・勝田(カツタ)可知(カチ)。
  • 漢人の土着地… 阿智(アチ)・阿知(アチ)・漢部・綾部・綾部田・英田・英多・呉服部・呉織・錦織・西郡。

鉄と塩

  • 欽明天皇16年(555)に白猪屯倉、同17年(556)に児島屯倉が設置されたのは、吉備の鉄と海(海路と製塩)を掌握するためであった????

吉備(カヤ)+大和の説

  • キビは大和へ入った。その時期は、特殊器台・特殊壷で言えば、立坂型の次の向木見型の次の宮山型の時。大和へ入ったキビの連中は、箸墓古墳を造り、大和政権の基を樹立した。その勢力の長は、記紀に言う崇神天皇。崇神は大和へ進出する前、朝鮮半島南部(カヤ)からキビの備中(後の備中国カヤ郡・高梁川の流域)にやって来た人物。何故ここに来たかというと、ここには、既に朝鮮半島南部(カヤ)から来たカヤ人が、多数住み着いていたから。つまり、高梁川の流域は、朝鮮南部のカヤ人の最も重要な移住先きであったわけである。「カヤ」という地名は日本各地に見られるので、カヤ人は列島の各所に移住した可能性があるが、移住地が後に「郡」になった例は、ただ備中のみ。ということは、備中国カヤ郡の地は、カヤからやって来た連中が、列島で最も多数、集中的に住み着いた所と考えてよい。

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Last-modified: 2012-08-18 (土) 10:08:00 (2249d)