奈良と大和川

天岩樟船

  • 舟山神社 古墳? http://www.geocities.jp/bear7bear7/koufu/funaya/funaya.htm
  • 天岩樟船命とは?
  • ホツマツタエ 天の巻 1アヤ ワカ姫
  • http://www.hotsuma.gr.jp/aya/aya01.html
    • イサナギとイサナミの子、ヒルコは両神の慈しみを一身に受けて育てられ、まだ三年にも満たないというのに、親の元から引き離されて岩樟船(イワクスフネ)に乗せ捨てられました。下流でカナサキ(住吉神)が拾い上げて、妻のエシナズの乳を得て何不自由なく我が子同様に育てられました。ヒルコ姫は、今では美しい乙女に成長しました。厄もきれいに川の水に流された今、再び両親の元に呼び戻されて、兄の天照神の妹(イロト)として復活し、ヒルコの名もワカヒルメと変わりました。
    • この後、アチヒコとワカ姫はカナサキの船が縁をとりもち、今はヤス川(野州・やす)辺に宮を造り、名もアマテル神の妹シタテル姫となり幸せに暮らしました。
  • 回文歌:カナサキ(住吉神)の話し
    • アマテル神の御幸(みゆき)のお供で船に乗っていた時のこと、暴風が激しくて波が高いのを打ち返そうと回文歌(マワリウタ)を詠み、
ながき夜(よ)の 遠(とお)の眠(ねぶ)りの 皆目覚(みなめざ)め
波乗(なみの)り船(ふね)の 音(おと)の良(よ)きかな

と詠ったところ、やがて風が止んで波は静かになり、船は心地よくアワ(阿波)の湊に着きました

物部 磐船神社

  • 大昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降った。
  • 磐船神社は、物部(もののべ)氏の神社であったと言われいる。

 物部の本拠地

  • 哮が峰:かたの市の(元の磐船村の地域か?)
    • 河内のかたの市「交野」の名称は、和名抄に「加多乃」と読む。その名称の起源については、丘陵と平地が交迭(かたがた)に存すると言い、また、淀川流域の低地から見ると丘陵上の平地とも見えるので「肩野」と称せられたとも言うが、いずれも明らかではない。交野(こうの)村が、昭和14年に磐船村と合併して、交野町(かたのちょう)となるまで、「こうの」村で通していた。
  • 交野みやけ
    • 6世紀の終わりごろ、敏達天皇は、皇后豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)のために皇后領として、全国各地に稲の実りの良い田を求められたが、その中に河内交野の「あま田」があった。以来この田を守る民部(かきベ=私有民)は、皇后のために労投するものとし「きさいべ」(私部)と総称する5~6カ所の農村落が「あま田」の周辺に制定されるようになった。古代、天皇直属の所領は一般に「みやけ」(三宅・屯倉)と言った。そこで「きさいべ」だった村々が「交野みやけ」と呼ばれるようになった。
    • 平安時代後期:石清水八幡宮寺領としての「交野郡字三宅山」
    • 白鳳元年(672)天智天皇の子・弘文天皇と天智の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が対立して戦った時、この山麓の機物(はたもの)の生産者たちは立ち上がり、大海人皇子に味方した。その戦勝の後、皇子は天武天皇となり、倉治機物の首長に交野忌寸(かたのいみき)の姓を与えられ、この一族はいよいよ繁栄した。

天鳥船

  • 古事記の中に天鳥船という神名が見える。これが事代主のところに使者として 降下してくるのであるが、書紀によると三穂之岬に使者稲背脛を乗せていく熊 野諸手船のまたの名天鳩船とある。

熊野という船

  • 伊予の國の風土記に曰はく、野間の郡。熊野の岑。熊野と名づくる由は、昔時(むかし)、熊野と云ふ船を此に設(つく)りき。今に至るまで、石と成りてあり。因りて熊野と謂ふ、本なり。

枯野

 仁徳天皇の時代に、大きな木がありました。その木がどこにあったか、正確な位置はわかっていませんが、朝日があたれば淡路島に影をおとし、夕日があたれば大阪に影を落とすほど大きな木だったということです。  この木を切りたおして船をつくることになりました。その船は枯野という名前で、帝がお飲みになる水を淡路島の泉から運ぶのにつかわれていました。

 その船が古くなりつかえなくなると、浜辺で焼いて塩をとることにしました。船に火をかけると、炎が天たかく立ちのぼり、ごうごうと音をたてて船は塩をふくんだ灰になっていきました。

 ところが、どうしても焼けずにのこってしまった部分がありました。その部分をよくみがいてみると、小さな舟のかたちをしていました。そこで、その舟に弦をはって琴にしてみたところ、七つの里をこえて音がひびく、すばらしい楽器になったということです。

軽野 

「古事記」の仁徳天皇の章で、「枯野」という速く走る舟が記述されています。一般には「枯れ野を駆けめぐるほど速い舟」といった意味にとられていますが、茂在博士は「枯野」という漢字は言葉の発音に合わせた当て字と解釈するのが妥当であり、本来、「カラノ」とか「カノー」といった発音の言葉があったのではないかと推測しています。発音から船に関する言葉を探していくと、「カヌー」に出合います。「カヌー」という言葉は、カリブ海の住民から西洋人に伝わったとされており、その語源をたどると北太平洋環流に関係してくるそうです。「カヌー」とは、太平洋からカリブ海にかけての広い地域で使われた船の名称かも知れません。

 「枯野」は、「日本書紀」で「軽野」に変わり、3世紀頃、伊豆の国で造船にあたったという記述が出てきます。現在、伊豆の山間部に「軽野神社」があり、付近を流れる「狩野川(かのがわ)」が駿河湾に注いでいます。カヌーを作る木を山で切り出し、狩野川を使って海辺へ運んだと考えても不思議ではありません。「軽野」や「狩野」という地名は各地で見ることができ、たとえば7世紀から8世紀にかけて書かれた「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」には、長さ15丈(45メートル)もの大船を作った「軽野の里」のことが記述されています。

加良怒

『日本書紀』応神紀5年10月の条に「枯野(からの)」船の記事があります。伊豆国に命じて長さ10丈(約30メートル)の大船を建造させたところ、「軽く泛(うか)びて疾(と)く行くこと馳(はし)るが如し。故、其の船を名づけて枯野(からの)という」とあります。この箇所には分注がありまして「船の軽く疾きに由りて、枯野と名くるは、是義(ことわり)違へり。若しは軽野(かるの)と謂へるを、後人訛(よこなま)れるか」とあります。

 また、『古事記』仁徳紀にも、河内国の高樹でつくった船足の早い「枯野」船の記事があります。この条の歌には枯野を「加良怒」と表記していますから、船名は「からぬ」であった可能性があります。さらに、『常陸国風土記』香島郡の条に大船が流れ着いた軽野(かるの)郷の記事がありますが、この地名も「からの」船によるものではないかと考えられます。

カヌー

  • http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/ship/1300.htm カヌーの語源は比較的に新しい用語と言って良い。15世紀後半、カリブ海のアラワク諸島にいたコロンブスが書いた文書の中で使われたアラワク語が元になっている。その文書記録を見るニューラテン語ではカノアcanoa またはカノーcanowと書かれていた。従って、スペイン語やポルトガル語、イタリア語は現在でもカノアcanoa と言い表し、フランス語ではカノーcanot 、オランダ語でもカノーkanoである。そしてカヌーcanoe という英語に繋がる。唯一の例外として、ドイツ語だけが英語と同じ発音のカヌーkanuなのだ。  『古事記』と『日本書紀』の記事の意味、浮上するのが日本の伊豆下田であるとは言う。「“古事記”にて「いと速く行く船なりき。時にその船をなづけて枯野という」とかかれており、国文学では「枯野」はカラヌと読むがカレノと読めるし、カルノとも読めるし、カノーと読めないこともない。」と言う。  また別の記事、『日本書紀』の応神天皇五年の条には「冬十月に伊豆国に命じて船を作らせた」とあり(その船を軽野というという記載が後ろに続く)伊豆国で船を作ったという。これもカラヌと読まれている。もちろん、以下同文の趣旨でカレノ、カルノと読める、カノーとも読める。いずれにしろ、「船=枯野=軽野」とされ、カヌーの語源としては世界最古、最も順当な史料として挙げられる。そうすると、日本の場合、早くも古代に流入して「野」という文字になったと考えられなくもない。『古事記』『日本書紀』の軽野という文字は、カヌーの語源を探る上で、それだけ重要な意味を持っているのである。『記紀』の枯野も軽野も、単なる船名ではなく、『軽く走る船』という意味を持たせた、日梵合成語と解釈すべきではないか」ということなのだ。日本語が語源になっており、そのルーツは奇しくも伊豆にあったのだ。となると、カヌーの語源は古代日本にあったということではないのか?また、カルノ、カレノの「ノ」という音はサンスクリット語のノウNOV ではないかという説もある。NOV は、それ自体で船を意味する。スペイン語のナオNAO は英語でいうshipであり、変化語のNAV はポルトガル語でも同じである。フランス語でもナブNAVEは船を意味している。これが英語にいうNAUTICAL(航海の)、NAVAL (海軍の)に展開して行く。

目無龍(めなしかたま) 无間勝間(まなしかつま)

  • 開聞岳の山中には、山幸が兄海幸から借りた釣り針をなくして困っていた時、目無龍(めなしかたま)と言う舟に乗せて助けた神、塩椎神(シオツチノカミ)の修練所(天の岩戸)がある。また、木花開耶姫の誕生地と言われる池田湖のぞきがある。
  • 塩土老翁(しおつちのおきな・塩椎神)が、山幸(火遠理命)を海神宮(龍宮)に送ったという、「无間勝間(まなしかつま・無目籠・無目堅間・大目麁籠)」という「籠舟」があります。 「日本書紀」の一書では、、山幸(火遠理命)が、兄の海幸(火照命)の釣針を無くして困っていると、塩土老翁神が現れて、袋から櫛を出し地面に投げると竹林となって、その竹で籠舟を作ったとあります。別の一書では、浜辺で罠にかかった川雁を解き放ってやると、塩土老翁神が現れて、籠舟で海神宮へ送ってくれたとあるのです。 籠の船なんて浮きそうにもないですけれど、古代の海人は、竹で堅く籠を編んで、天然のタールなどを塗料として塗り、「舟」として用いたそうです。この「カタマ」とか「カタ」とかいうのは、台湾から南の島々で、「舟」とか「筏」とか「籠」をさし、同様の舟が、台湾・ベトナムを始め、ビルマ・南洋群島・中国奥地の河川でも見られるといいます(上野喜一郎著「船の歴史」より)。つまり、筏(いかだ)の「カタ」です。 ところで、「籠」という字は、何故「竹」冠に「龍」なのでしょうか? 「籠」という字は「こもる」とも読みます。「海人籠り」という海人の祭があって、詳しくは知らないのですが、「籠もる」という字からして、「御籠り」、つまり、神社に籠って神に祈願することの元になった儀式と考えられます。とにかく、「海人」と「竹籠」は、大変関係深いのです。
  • 「日葡辞書」によれば、なんと鉾は漁夫が魚を突く「銛(もり)」のことだそうです。海人が魚を突く銛だって、最初は「竹」で出来ていたに違いありません。門松の竹も、「銛」のように、尖って切ってあるものがありますよね? それに、宮中で正月15と18日に清涼殿東庭で行われる「どんど焼」のルーツである「三毬杖(さぎちょう)」の、三つの長柄の槌を結びつけるのは「青竹」の束で、山陰地方ではそれを「心鉾様(しんぼこさん)」と呼ぶそうです。単に「尖がり」を「ホコ」というのかもしれませんが・・・。 参考:http://homepage2.nifty.com/amanokuni/takekago.htm

額田王の歌 

  • 熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今はこぎ出でな                                        
  • 額田王の詩心の真骨頂があらはれ感動を呼ぶ歌
  • 斉明天皇七年(六六一)、朝鮮半島の百済救援のために新羅追討の軍を派遣することになって、お年をめされた斉明天皇御自身、筑前朝倉宮まで赴かれた。この軍團には中大兄皇子・大海人皇子も従ってゐた。その途中、伊豫熟田津(愛媛県松山市北部の海岸)石湯行宮(今日の道後温泉)に滞在された時、供奉してゐた額田王の歌。

 「船乗りせむと」は船に乗り込むこと。「潮もかなひぬ」は船出に都合よく潮が満ちてきたこと。「潮も」とあるから月も望み通り出たことがわかる。この歌の詠まれた時刻について、一月二三日(太陽暦三月二日)午前二時頃であらうと推定されてゐる。「今はこぎ出でな」の「な」は歌ひ手の意志をあらはす助詞でこの場合は勧誘的用法。

 古代の船は船底が扁平だったため、潮が引くとそのまま干潟の上に固定されてしまふので、船出は月が出て潮が満ちて来て船が浮上するまで出来なかったといふ。

古代の記録

・日本の古代の壁画の船の絵は、田代太田、五郎山、弁慶ヶ穴、竹原など双胴船が多い。 ・福岡遺跡、鳥取県西伯郡淀江町、弥生土器と供に1.3、1.52、1.8mの3本の櫂が出土。近くに鮒ガ口の地名がある ・壱岐カラカミ遺跡、弥生式土器にゴンドラ4本櫂全長8m? ・津古遺跡、福岡、竿櫂、船上に3本の縦線、マスト? ・唐古遺跡、奈良、ゴンドラ4櫂人の漕ぐ絵。 ・大石遺跡、福井、銅鐸に線刻画、櫂が両舷で18~20本、全長15m、中央部にマスト?。

・準構造船:弥生中期の浜松市の角江遺跡や埼玉行田市の小敷田遺跡出土の船材はいずれも丸木舟の装着用であるほぞ穴を持っていた。

・東殿塚古墳(天理市大和神社側)から出土した楕円筒埴輪に三隻の大型船が線刻で描かれていた。 ・奈良天理市清水風遺跡、弥生土器に描かれた線画、大体長さ25m、片舷17本の櫂と一本の梶櫂。 ・(1997)大阪平野区高廻り一号噴から長107cm高さ31cmの船型埴輪が見つかった。高廻り二号墳からはL128.5cm,H41cmの"準なみはや型"埴輪が見つかった。 ・船型埴輪は宮崎西都原(さいとばる)古墳、京都府ニゴレ古墳出土など全国で30例ほどある。

・長保寺遺跡、寝屋川市昭栄町木田町、古墳中、後期。堀立柱建物、古代船の再利用井戸枠(準構造船の中央胴体部分)。 ・蓮田遺跡の刳船、門真市三島、長18mのケヤキ材、船首に二股の根が残されており造船途中で20本ほどの枕木の上にあった、定員30人程と思われる。

・物部氏の先祖の饒速日が天磐船に乗ってきたとき、船長は跡部首で、舵取りは「阿刀造」あとのみやつこ)。それに天津麻良という金属を精錬する「真浦」とか「麻良」の名を持つ鍛冶屋集団を乗せている。 ・庚子、崇神17、詔して1諸国に船舶を造らす。 ・垂仁2年是歳条、「御間城天皇の世、額に角有人、一の船に乗りて越国、笥飯浦の泊まれり、故そこを名付けて角鹿という。」 ・景行紀に豊前の、神夏磯(かむなつそ)姫が、賢木(さかき)に、鏡・剣・玉をつけ、船の舳に「素幡しろはた」を立てて参向したとある。 ・応神5(400頃?)、伊豆国に命じ十丈(18m)の船を造らせた、速かったので枯野と名付けられた。 書紀推古16年6/15条、「客等、難波津に泊まれり。是の日に、飾船三十艘を以って、客等を江口に迎えて、新しき館に安置らしむ・・・」

・「兎木(とのき)」、(楠)高安山と淡路へ影、仁徳のときその木を切って枯野(からの)という船をつくった。その枯野で淡路島にある井戸に飲料水を取りに行かせた。 ・平城京でも条坊にあわせた河道の制御が行われ、新たに人工の堀河が開削され、左京では佐保川から分流させて東三坊に人工の東堀河を開削した。 ・蓮田遺跡の刳船、門真市三島。全長18mのケヤキ材、船首に二股の根が残されており造船途中で20本ほどの枕木の上にあった、定員30人程と思われる。

・書紀は、倉稲魂を于介能美た麿(うあかのみたま)と訓めと注している。延喜式の大殿祭の祝詞にも「屋船豊宇気姫」に注して「是稲霊なり、俗の詞に宇賀能美多麻」とある。

・「道昭法師、大唐にいき、新羅にいたり山中で法花経を講じき。虎500の中に、役の優婆塞なりき。」道照とも書くが、道昭は船連の出自である、船氏は百済からの渡来人だからなぜ新羅山中か? ・斎宮、任務を終えるのは天皇崩御、譲位、近親者の喪、自身の病など。退下道は、一志、川口、阿保、都介ツゲ、相楽の各頓宮で宿泊し木津へ出て船旅、淀を下り大庭堀川に入り、茨田真手に入るのは斎宮を出発して6日目。船中で一泊した斎王は難波の三津浜(心斎橋あたり)で禊ぎを済ませ、茨田真手にもどり山城の河陽宮を経て都へ戻る。 ・貫前縁起(神道集):姫は抜堤河(ばっていが)の中央に抜鉾を立てて住んだが草河の王が追うので、3人の美女を連れ天の早船に乗って飛行脱出し降りたところが上信国境の荒船山であり抜堤河の水も運んできた。

・青森十三湊には宣教師カルワーリュ(17c前半)は「メナシ(東方の?)アイヌ」だけでも100隻の船が松前に交易の為産品を積んで訪れ、そのなかには200俵の米を積める物が含まれている、と記している。

船の輸送力

  • 春秋戦国の呉越には大型船が存在したようで楼船、橋船といった名称が残っていますがどんな船かはわかりません。 漢書地理志のBC100頃のインド航路の船は推定500キロほどの航続距離、AD400頃のインド航路の船は乗員200人ほどで50日数千キロの航海ができたようです(10章古代船参照)。

遣唐使の帰国用に提供された宋船が長さ24mで50人ほどが乗った。これを越えるサイズではないとみてBC200頃の山東半島の船としては、数十人乗りの排水量100トン程度か(遣唐使船の半分程度)。

船の神様は女神

  • 神事は「ご神(しん)入れ」と呼ばれる。船の舳先(へさき)に設けられた「船霊様」の鎮座所にお神酒や米、塩を奉納、「船霊様」に使ってもらう道具として人形やクシ、口紅、おしろいなどをささげた。
  • 「船の神様が嫉妬するゆうて、漁に行く時はしょうがないけど、大体は女性は乗せんですね。それで全部箱に入れて、酒八合は欧みきらんでも船から下ろしたら駄目。取り舵、左舷から持って入って、船の上で、御身、魂を入れて、頭梁が船主に酒をつぐわけ、それが船の受け渡しになるわけです。そして船を下ろしたら、取り舵回りで、集落の前の海で3回りするわけで、氏神様の方を向いて3回船をゆすって、あか(水)を入れにやいかんて言いよったけど今の大きい船じゃ入らんです。そして面舵から竜宮様に酒をまきます。結局漁師に酒はつきもんです。そして帰ってきてから進水の祝いがあるわけです。そいけん進水式の時はなかなか忙しいとです」

海女の久具都:海人と芸能

  • 「傀儡子は定居無く当家無し…弓馬を使い、狩猟を営み、また生きた人のごとく木偶(人形)を舞わせ、種々の奇術を演ずる。…漂泊の民であるから農耕をせず、権力を恐れず、課役に服さないことをもって一生の楽しみとしている。夜は百神をまつり、にぎやかに舞い、福助を祈る…」 『傀儡子記』(平安時代の文書)
  • 藻を容れるクグツコ(籠)に、海人族は、彼らの神である人形も入れていた。これを「クグツ」と呼び、人形を繰る彼ら自身も「クグツ」と呼ばれたと、民俗学者の折口信夫は述べている。
塩干しの三津の 海女の久具都持ち
 玉藻刈るらむ いざ行きて見む
(『万葉集』巻三・二百九十三番)
  • 八幡社の総本社、宇佐八幡宮の放生会には、奈良時代から「傀儡子舞」が奏されていた。水草の生い茂る和間浜に舟を出して、船上で人形たちを舞わせたとのこと。

船大工

  •  神戸洋家具の黎明期を支えた塩飽の人々
    • 神戸洋家具産業の起源となる業種には、外国人が居留地に持ち込んだ家具の修理を請け負った修理業と外国人から不要になった家財道具を買い取り再生販売する道具商の二系統があり、需要の拡大によって製造業に成長した。
    • 讃岐(香川県)の塩飽(しわく)本島出身の真木徳助(まきとくすけ)がその祖とされている。真木徳助は明治初期に、生田区加納町あたりに製作所(後の明治8年「真木製作所」を創業)を設け、西洋人の洋家具の修理や製造を始めた。
  • 船大工の技術から発展した「塩飽大工」の技術を持った人々。当時の塩飽大工にとっては、造船も社寺や家の建築も一連の高い技術から行った。
  • 塩飽大工とは、江戸末期から明治にかけ、瀬戸内沿岸を中心に腕のよさで鳴らした塩飽出身の大工の総称。
    •  「幕府の御用船方として全国でも有数の海運王国を築いた塩飽。回船業の隆盛は、造船技術の発展を生み、水夫とともに大勢の船大工を輩出した。 しかし、一七二一(享保六)年、塩飽が一手に引き受けていた幕府城米輸送の特権が大坂の回船問屋に移ると、回船業は衰退の道をたどり、多くの水夫は転業を余儀なくされた。 <島内で暮らしを立てるのは難しく、男子は十二、三歳から他国で水夫をしたり、多くは大工職として近国に出稼ぎに出た>(牛島極楽寺蔵「塩飽島諸事覚」)
  • 多くの神社や寺を建築・改修。
    • 「塩飽大工騒動」の記録によると、騒動に加わった大工は三百七十三人。出稼ぎなどで参加しなかった大工を合わせると、その数は四百五十人に上る。
    • 明治五年の壬申戸籍では大工の家は七百七戸。塩飽全体の三二・一%を占め、三軒に一軒は大工という状況。

一刀彫

  • 讃岐一刀彫  金刀比羅宮の旭社が建てられた天保八年(1837)当時、全国から腕利きの宮大工が琴平に集まり、仕事の合間にだるまを彫ったのが起源とされています。

続日本記 船の記録


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Last-modified: 2012-08-18 (土) 10:23:00 (2078d)