南方 曼陀羅

  • 明治36年 土宜法竜宛書簡にて、物、事、こころに関する図を書いて、宇宙と事の理について、記す。南方マンダラと人は言う。
    • 土宜法竜(1854~1923) 京都栂尾高山寺住職、のちに高野派管長。真言宗聯合総裁、高野山大学総理などを兼任した当時の学僧。
    • 真言密教の大日如来:「画にあらわれし外に何があるか、それこそ、大日、本来の大不思議なり」としている。

ここに一言す。不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。理不思議あり。大日如来の大不思議あり。予は、今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ、その順序だけざっと立てならべ得たることと思う。(人は理由とか原理とかいう。しかし実際は原理にあらず。不思議を解剖して現象《げんしょう》団とせしまでなり。このこと、前書にいえり、故に省く。)心不思議は、心理学というものあれど、これは脳とか諸感覚とかを離れずに研究中ゆえ、物不思議をはなれず。したがって、心ばかりの不思議の学というもの今はなし、またはいまだなし。  次に事不思議は、数字のひと一事、精緻を究めたり、また今も進行しおれり。論理術なる学(論というと、人が二人以上より、または自問自答する人為すなわち人を所立地として見る意が大部を占む。故に事理というか性理(数理に対して)といいたきことなり。このこと、前年、パリへ申し上げたりし)は、ド・モールガンおよびプールニ氏などは、数理同前に微細に説き始めしが、かなしいかな、人間というものは、目前の功を急にするものにて(代数学の発明はありながら、数千年、世に出でず。指南車を知りながら、羅針盤は晩く出でしごとく)、実用の急なきことゆえ、数理ほどに明ならず、また、修むる者少なし。

予実は一昨夜来少しも睡らず。これは英国へ急ぐ投書ありて、すこぶる長文のものゆえ、直しおるうち、また書き添ゆべきことおこり、一を出しては後がちょっと記臆し出せぬという双方相対のものゆえ、睡らずにかきたり。なにか三日三夜も睡らずに生きておるとは妙と思う人もあらんが、前田正名氏などもこの流儀の由みずから語られしことあり。小生またかかることに誇るべきにも、この状誰にか、仁者の外に見るべきにもあらず。ただ実をいうなり。しかして今夜少々ねむけさすが、かかるものは、馬と同じく、一度休むときはあとがなかなか出にくいものゆえ、強き茶をのんでかきおわるつもりなり。ただし、むつかしき外国文(九ヶ国の語にてかけり)かきし上のことなれば、精神弱りゆき、字句判然せず、また誤脱もあらん。そのときは猶予なく聞き返されよ、答うべし。しかして知らぬことをいわぬ例に、右のド・モールガンとブール氏の微細論理式をここに少々のせんとしたが、何様右の事情ゆえ、かくも間違いの一もあらんには、何の用もなきこととなるから、ここには省くなり。小生実は知らずして知ったことをいうと思わるるもかまいなし。ただし、せめてはそんなものあるということを知っただけは事実と思われよ。

 前年、パリへ申せしごとく、易理また禅の公案などは、この事理の(人間社会また箇人より見て)ごくごく麁《そ》なるものながら、その用意ありしは感心なり。  さて物心事の上に理不思議がある。これはちょっと今はいわぬ方がよろしかろうと思う。右述のごとく精神疲れおれば十分に言いあらわし得ぬゆえなり。これらの諸不思議は、不思議と称するものの、大いに大日如来の大不思議と異にして、法則だに立たんには、必ず人智にて知りうるものと思考す。さて妙なことは、この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はみちすじ)、図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍《ふえん》追求するときは、いかなることをも見出し、いかなることをもなしうるようになっておる。

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 その捗《はかど》りに難易あるは、図中(イ)のごときは、諸事理の萃点《すいてん》ゆえ、それをとると、いろいろの理を見出だすに易しくてはやい。(ロ)のごときは、(チ)(リ)の二点へ達して、初めて事理を見出だすの途に着く。それまではまずは無用のものなれば、要用のみに汲々たる人間にはちょっと考え及ばぬ。(ニ)また然り。(ハ)ごときは、さして要用ならぬことながら、二理の会萃せるところゆえ、人の気につきやすい。(ホ)また然り。(ヘ)ことに(ト)ごときは、(人間を図の中心に立つとして)人間に遠く、また他の事理との関係まことに薄いから、容易に気づかぬ。また実用がさし当たりない、(ヌ)ごときに至りては、人間の今日の推理の及ぶべき事理の一切の境の中で、(この図に現ずるを左様のものとして)(オ)(ワ)の二点で人間の知りうる事理にふれおる(ヌ)、その(ヌ)と少しも触るるところないが、近処にある理由をもって、多少の影響を及ぼすを、わずかに(オ)(ワ)の二点を中媒として、こんな事理ということは分からぬながら、なにか一切ありそうなと思う事理の外に、どうやら(ル)なる事理がありそうに思わるということぐらいのことを想像しうるなり。すなわち図中の、あるいは遠く近き一切の理が、心、物、事、理の不思議にして、それの理を(動かすことはならぬが)道筋を追蹤しえたるだけが、理由(実は現象《げんしょう》の総概括)となりおるなり。  さてこれら、ついには可知の理の外に横たわりて、今少しく眼鏡を(この画を)広くして、いずれかて(オ)(ワ)ごとく触れた点を求めねば、到底追蹤に手がかりなきながら、(ヌ)と近いから多少の影響より、どうやらこんなものがなくてかなわぬと想わるる(ル)ごときが、一切の分かり、知りうべき性の理に対する理不思議なり。さてすべて画にあらわれし外に何があるか、それこそ、大日、本来の大不思議なり。それまではここに説かずして、史籍以来また今存の史籍一切の前に人間が知りえたる理は必ずしも今の物不思議境の幾分に限らぬことと思う。(この一傍証としていわんに、近来アッシリアの大開化のこと、大いに分かり来たる。小生はいまだその概略すら聞かず。しかしながら、人より聞くに、それを読むときは、今日開化の頂上という欧州の開化など智識などは、それに比べて、よく人間もこれほど堕落したものかと思うほどなる由。)また、その方法としても、今の器械的、数量的にあらずんば、必ずしも理は分からぬものにあらず。  現に今の人にもtactというがあり。何と訳してよいか知れぬが、予は久しく顕微鏡標品を作りおるに、同じ薬品、知れきったものを、一人がいろいろとこまかく斗《はか》りて調合して、よき薬品のみ用うるもたちまち欺れる。予は乱妨にて大酒などして、むちゃに調合し、その薬品の中に何が入ったか知れず、また垢だらけの手でいろうなど、まるでむちゃなり。しかれども、久しくやっておるゆえにや、予の作りし標品は敗れず。この「久しくやっておるゆえ」という語は、まことに無意味の語にて、久しくなにか気をつけて改良に改良を加え、前度は失敗せし廉《かど》を心得おき、用心して避けて後に事業がすすむなら、「久しくやったゆえ」という意はあり。ここに余のいうは然らず。何の気もなく、久しくやっておると、むちゃはむちゃながら事がすすむなり。これすなわち本論の主意なる、宇宙のことは、よき理にさえつかまえ中《あた》れぱ、知らぬながら、うまく行くようになっておるというところなり。  故にこのtact(何と訳してよいか知らず。)石きりやが長く仕事するときは、話しながら臼の目を正しく実用あるようにきるごとし。コンパスで斗り、筋ひいてきったりとて実用に立たぬものできる。熟練と訳せる人あり。しかし、それでは多年ついやせし、またはなはだ精力を労せし意に聞こゆ。実は「やりあて」(やりあてるの名詞とでも言ってよい)ということは、口筆にて伝えようにも、自分もそのことを知らぬゆえ(気がつかぬ)、何とも伝うることならぬなり。されども、伝うることならぬから、そのことなしとも、そのことの用なしともいいがたし。現に化学などに、硫黄と錫と合し、窒素と水素と合して、硫黄にも正反し錫にも正しく異なり、また窒素とも水素ともまるで異なる性質のもの出ること多い。窒素は無害なり、炭素は大営養品なり。しかるに、その化合物たる青素《シアン》は人をころす。酸素は火を熾《さか》んにし、水素は火にあえぱ強熱を発して燃える。しかるに、この二者を合してできる水は、火とははなはだ中《なか》悪きごとく、またタピオカという大滋養品は病人にはなはだよきものなるに、これを産出する植物の生《なま》の汁は人を殺す毒あるごとし。故に一度そのことを発見して後でこそ、数量が役に立つ(実は同じことをくりかえすに、前の試験と少しもたがわぬために)。が、発見ということは、予期よりもやりあての方が多いなり(やりあて多くを一切概括して運という)。


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Last-modified: 2012-08-18 (土) 11:46:00 (2675d)