国宝 信貴山縁起絵〈部分〉(朝護孫子寺)

  • 朝護孫子寺に伝わる、同時代の『源氏物語絵巻』,『鳥獣戯画』,『伴大納言絵詞』とともに絵巻物の代表作品である。
  • 平安中期に信貴山で修行した命蓮[みょうれん]上人の不思議な物語が描かれている。
  • 「飛倉の巻」、「延喜加持[えんぎかじ]の巻」、「尼公の巻」の3巻からなる。
  • 藤原時代の制作と考えられているが、作者は不明で、当時の宮廷専門絵師が描いたと推定されている。
  • 信貴山朝護孫子寺 指 定 明治32年 8月 1日 昭和26年 6月 9日 時 代 平安時代 後期 その他 奈良国立博物館に寄託毎秋、霊宝館で一部が里帰り展示される。

朝護孫子寺

  • 開基 不明
  • 標高437mの信貴山中腹にある聖徳太子ゆかりの寺。
    • 「和州旧迹幽考」には,聖徳太子がこの地において物部守屋の討伐を祈願したときに,虎を供にした毘沙門天が現れて戦勝の秘法を授けらた.
      大和国信貴山は毘沙門天王が日本で最初に御出現になった霊地で、
      毘沙門天王の総本山です。 
      聖徳太子は山で毘沙門天王を御感得になり、自ら天王の尊像を彫刻され
      おまつりになり、信ずべき貴ぶべき山として
      「信貴山」と名づけられ寺院を建立されました。
  • 寅の年・寅の日・寅の刻に現れた毘沙門天を、太子が祭ったのが始まりとされる。
  • 松永久秀が築いた信貴山城が1577年(天正5)に織田信長に攻められて炎上すると、寺も焼亡、のち豊臣秀頼が復興した。
  • 本尊の毘沙門天は福徳と財宝を授けるといわれることから、庶民信仰が篤い。
  • 石灯籠が並ぶ参道には巨大なトラの像も設置されている。
  • 山腹に護摩堂や三重塔などが立ち並び、一番奥の舞台造の朱塗りの本堂からは、奈良盆地の眺望がすばらしい。
  • 命蓮上人は、寺の中興の祖
    910年頃(延期10年頃)、醍醐天皇が重い病に罹られた時に、
    命蓮上人が「朝廟安穏、守護国土、子孫長久」を願って、毘沙門天王に祈願したら、
    数日後加持満願の日に劒鎧童子が天皇の枕元に現れ、霊感を授けたので病気が平癒

信貴山 とは

  • 西に山城で有名な高安城
  • 東に斑鳩の平野を望む
  • 竹取で有名な広陵町 讃岐寺は、斑鳩の南

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  • 「飛倉ノ巻」(部分)倉を乗せた鉢が飛び上がる 所 有 平群町信貴山2280番地
    
     平安時代、延喜(えんぎ)年間に信貴山で毘沙門天(びしゃもんてん)を祀り、不思議な法力で寺を中興した命蓮(みょうれん)上人(しょうにん)の事績を物語風に描いた絵巻物。
  •  「飛倉(とびくら)ノ巻」(山崎長者の巻)
  • 「延喜加持(えんぎかじ)ノ巻」
  • 「尼公(あまぎみ)ノ巻」
  • 日本の絵巻物における最高傑作で、日本上代の世俗画の到達点といわれる。自然風景の描写だけでなく、すべてに写実的に描かれ、建築史・風俗史の研究資料としての価値も高く評価されている。「延喜加持ノ巻」と「尼公ノ巻」には、絵巻の途中に二段の詞書(ことばがき)があり、描かれた内容を理解することが出来る。  「飛倉ノ巻」は、この詞書を欠くが、『宇治拾遺物語』に同じ内容の記載があり、詞書の内容を確認することが出来る。鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の執筆ともいわれるが作者は未詳で、平安後期(12世紀後半)に描かれたと考えられている。  
  • 「飛倉ノ巻」 縦31.5cm、長さ827cm。  信濃の国より奈良に来て東大寺で授戒した法師(命蓮)が、帰郷を思いとどまり大仏の前であちこち見ていると坤(未申(ひつじさる):南西)の方向にかすかに信貴山が見えた。そこで修行 する内に小さな厨子に入った毘沙門天を得、ささやかなお堂を建てて一心に修行を行った。  山の麓に長者が居り、その元に命蓮上人が托鉢(たくはつ)のために飛ばした鉢が飛来するが、長者は度重なる托鉢を嫌って瓦葺きの米倉に鉢を閉じこめてしまう。  絵巻はこの場面から始まっており、倉から鉢が飛び出し、蔵を乗せて信貴山へ飛んで帰ってしまう。長者は馬に乗り、あわてて従者とともに後を追い、信貴山に登って命蓮に倉を返すように懇願する。命蓮は倉は返さないが、蔵の中にある米俵は返すと約束し、長者の従者に俵を一つ鉢に乗せるように指示する。すると、俵を乗せた鉢が米俵を従えて飛行し、長者宅に帰り着き、下女達が驚き喜ぶ様子で締めくくられる。  瓦葺き、校倉造りの立派な倉や当時の長者クラス(油商人)の生活実体が丁寧に描き込まれており、宗教説話を越えた価値がある。  
  • 「延喜加持ノ巻」  縦31.25cm、長さ1270.3cm。  時の帝、醍醐(だいご)天皇が病となり、高僧の祈祷(きとう)を受けるが、改善せず、信貴山で法力を駆使する命蓮に白羽の矢が当たる。絵巻は、信貴山に向かう勅使一行の姿で始まり、入れ違いに宮中に入る高僧と、これを噂の種にする庶民の姿がある。勅使は京都より遙々(はるばる)信貴山に赴き、命蓮に帝の病気平癒を依頼する。命蓮は、自分は京都に行かないが、ここで祈祷すると答え、勅使は合点がいかないながらも京都に戻って報告する。  そして、三日ばかりして信山より都へ剣鎧護法(けんがいごほう)が飛行する。たくさんの剣を鎧にした童子が、輪宝を廻しつつ天を懸け、宮中で帝の枕元に立つと、帝の病気は全快する。  帝はたいそう喜ばれ、僧正の位や荘園を授けようとお礼の勅使を使わすが、命蓮はこれを受けず、その欲のなさが強調されている。  ここでも、命蓮の法力の強さと共に、宮中の様子が克明に記され、資料的な価値も高い。  
  • 「尼公ノ巻」  縦31.5cm、長さ1416cm。  20年も前に、大和国へ得度するために旅立った弟の消息を訪ねようと、従者を連れて姉の尼公が信濃の国を後にする。道中、街道沿いの民家で命蓮の消息を聞く尼公の姿があり、応対する人々の暖かい様子が描かれている。そして鹿の群が描かれ、奈良に入った様子が暗示される。東大寺大仏の前でぬかずく尼公の姿があり、命蓮の消息をたずねて祈るうちに、仏前でまどろみ、夢枕で大仏に西の方、紫雲たなびく山に命蓮の存在を暗示され、西を目指して出立する。ここでは、大仏の前で複数の尼公が描かれ、「異時同図法」により時間の変化を表現している。  尼公は信貴山に至り、無事命蓮に会うことが出来、土産のあたたかな「たい(祇=僧衣)」を渡し、再開を喜び合う。尼公は信濃に帰らず、命蓮と共に信貴山で信仰生活を送ったのである。命蓮はこの「たい(祇=僧衣)」をずっと着続けたためすっかり破れてしまう。人々はこの切れ端をお守りとし、あの飛倉も朽ちやぶれてしまうが、その材の破片も持ち帰ってお守りにしたのである。巻末には荒れ果てた倉の屋根が描かれ、命蓮の遷化を暗示している。  ここに描かれた東大寺大仏殿は、治承4年(1180)に平重衡(しげひら)の南都焼き討ちの際に焼け落ちる以前の建立当初の姿を描いた唯一の資料であり、道中の商家、農家、職人の家と庶民の風俗など、当時の庶民の生活が伺え、民俗的資料としての価値も高い。
  • 旧村社「平群神社」

 「平群中央公園」から東へ向うと、直ぐ融通念仏宗城峯山「来迎寺」で、その隣が西宮集落の北端に鎮座する「平群神社」で、俗に「西宮」と称し、近世には「春日大明神」と呼ばれていました。祭神は、山野を司る大山祇神(おおやまずみのかみ)で、平群氏の祖武内宿弥(たけのうちのすくね)が、神功皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願して、この地に祀ったと伝えられ、武運長久と共に、後に五穀豊饒、家内安全の守護神として信仰を集め、延喜式神名帳に、「平群神社五座」とあり、神宮寺として龍華山「西宮密寺」があったが神仏分離で廃絶して社務所となり、仏像、仏画、扁額は西隣の「来迎寺」に保管されています。

  •  国の史跡「烏土塚(うどづか)古墳」

 「平群神社」から近鉄生駒線沿いに南へ500m行くと「竜田川駅」で、右折して、西の春日丘住宅地へ向かって坂を上がり、3筋目の辻を右へ入ると、史跡「烏土塚古墳」です。竜田川西岸で南北に延びる独立丘に築造され、平群谷で最大規模、全長60.5mの前方後円墳で、西側の階段を登って、頂上から南側へ下ると、後円部で巨石を用いた両袖式横穴式石室が南向きに開口し、中に彫刻をした組合せ式石棺があり、発掘調査で、埴輪、土器類、四獣鏡、玉類、太刀・鉾の武具、馬具等の副葬品が多数出土し、石室前庭部で埴輪を用いた祭祀跡が確認され、6世紀後半の築造と考えられ、県下で最後に埴輪を使用した古墳です。


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Last-modified: 2012-08-18 (土) 11:05:00 (2227d)