多度郡/那珂郡/鵜足郡の式内社 †
大麻神社 †
- 由緒
- 延喜神名式「讃岐国多度郡尓大麻神社とありて、延喜式内二十四社の一なり」。
- 天太玉命は、高皇産霊神の御子に座して、天児屋根命と倶に祭祀を主り給い、抜群の御功績あり。天照大御神、瓊々杵尊に豊葦原瑞穂国を御依し給ひて、天孫降臨。命は供奉三十二神の五伴緒の一神にして、所謂、忌部氏の祖神なり。
- 御鎮座創祀は往古に属し、正史に神武天皇の御宇、諸国に忌部の社を建て祭祀せしと相伝ふ。往古当国の忌部氏、阿波忌部と協力して讃岐を開拓し、此の地に麻を植え殖産興業の途を開かれ、国利民福の基を進め、その祖神天太玉命を祀り大麻天神と奉称し、村の名を大麻と云ふ。
- 12代景行天皇23年癸巳年夏、南海に悪魚ありて災害をなす。天皇、皇子神櫛王に平げ給へと勅ありて、軍士を率いて下る。討伐に際し大麻神は天孫と倶に、国土平定の守護の神なりとて祭り、果して験あり。土佐国より当国綾の海にて斯を平定し後、国造に任ぜらる。その時、崇敬愈厚く御供仕へし穂積忍山彦根をして、社殿を修営し玉串を納め祭祀を主らしめ給へり。(穂積忍山彦根は、現宮司白玖氏の遠祖なり)
雲氣神社 †
- 式内社 讃岐國多度郡 雲氣(くもげ)神社
- 豐受大神 大龍神 大雷神
- 雲気神社 縁起
- 当社の祭神は 香川県神社誌によれば 豊宇気大神 大龍神 大雷神の三座とされており また延喜式神名帳の式社考には 天御中主尊とある なお いずれの祭神におかれましても その鎮座の年月は不詳である
- 当社の神位は 三代実録によれば 貞観元年(八五九年)正月七日に清和天皇より讃岐国従五位下を賜り 翌年五月二十日には讃岐国従五位上に昇階を賜ったと記されている
- 社号の由来は 天霧山よりい出し雲により良く雨が降るとのことから雲気神社と呼ばれたと全讃誌に記されているが 真偽の程は定かではない
- 当社の所在については 総本山善通寺伽藍に雲気明神を含む五社明神が祀られており 東寺の文書抄にもこれに係る天喜四年(一〇五六年)の記録がある また生駒記讃陽綱目の金刀比羅宮の條には 金刀比羅宮が即ち雲気神社であると記されてている このように当社の所在は諸説あるが天正六年(一五七八年)長宗我部軍の天霧城侵攻のおり 兵火にかかり社殿が消失したと伝えられており そのため定かではなく 宝暦四年(一七五四年)に丸亀藩主京極高矩公により雲気神の所在について調査が行われ 当地に社殿が再興されたものである
- 祭祀については 京極家において春秋二回執り行われ 藩主自らが公式参拝をされていたと伝えられているが 明治維新後は神社制度も改革され 廃藩の際に弘田村に委ねられ 以来冨頭部落において祭祀を行っている次第である
飯神社 †
- 式内社 讃岐國鵜足郡 飯神社
- 飯依比古命 少彦名命
- 神紋 : 菊
- 創祀年代は不詳
- 『古事記』国生みの条に、伊予国を愛比売と謂ひ、讃岐国を飯依比古と謂う
- 祭神は、讃岐国の国魂神である
- 仁和四年神階従五位上を授けられた。往古は山上に鎮座し、中古には山腹に迂座し、更に後年は山麓に迂座した。天正年間兵火にあい、元和八年再興し、再度寛文元年再興した。大正一〇年県社に列した。
- 吉備の飯盛山
「飯盛山、讃伎の國宇達の郡の飯の神の妾、名は飯盛の大刀自といふ。此の神度り来て、此の山を占めて居りき。故、飯盛山と名づく。」ともある。
神野(かんの)神社 †
- 創祀年代は、継体天皇二年(508):社伝
- 伊予国神野郡の人久留島(和気氏の一族)当地に移住し、その祖神伊曽乃神社を創祀し神野神社と奉称。延喜式内二十四社の一。高松藩祖松平頼重の崇敬厚く正保元年社地を検して境内方五十間、馬場三丁三十間を寄進された。最近では明治二十三年、大正十二年社殿を改修、昭和五年幣殿拝殿を改築した
宇閇(うべ)神社 †
- 香川県丸亀市綾歌町岡田下字天神695
- 式内社 讃岐國鵜足郡 宇閇神社
- 祭祀:武内宿禰命
配祀 品陀和氣命 菅原道眞
合祀 金山彦命
- 社伝によると、因幡国一ノ宮の宇倍神社を勧請し、宇閇神社と称した。
- 綾歌町に同名の神社がもうひとつある
- 香川県丸亀市綾歌町栗熊西277
- 祭祀:鵜茅葺不合尊
- 『新撰姓氏録』に「酒部公、讃岐公同祖、神櫛別命之後也」とある。
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