丸亀城について(丸)

  •  慶長2年(1597)に讃岐守生駒親正が西讃の本拠として那珂郡と鵜足郡の境だった亀  山に城をつくり丸亀城と名づけた。内部は東西4町・南北3町,外郭は東西6町・南北  8町で現在の規模と大差はない。
  •   丸亀城は最初の城主生駒親正から一正・正俊・高俊と4代54年間,山崎甲斐守から  俊家・治頼と3代17年間,京極高和から高豊・高或・高矩・高中・高朗・朗徹と7代2  12年間計282年間の大名の城となった。
  •  丸亀城 丸亀城ものがたり まるがめ1~6号 丸亀の歴史 丸亀の文化財
  • 詳細
    • 丸亀は讃岐国の中で、鵜足、那珂二郡の間の北辺にある

     領治地の南は大山が連なり、西北には海が開け、東は平野が続き、      鵜足、那珂二郡の村里は東讃に接している。       南方大山の峰は阿波国と境界を持ち、西は伊豫国にまで陸路が続き、      北方は海を隔てて吉備三国に近い所で五里、遠い所で十里で接している。       北辰地を出る事三十四度。東方京都に至るまでは六十三里、西方赤間      関に至るまでは百里である。

      丸亀と言う名前は、城山の形が亀に似ている事から名付けられた。      慶長二年に生駒雅楽頭藤原親正によって築城が始められ、その子讃岐守      一正が西讃の政を摂って居城とした。親正の逝去後、その家臣佐藤掃部      に守らせた。

      寛永十七年に生駒氏が出羽国へと還された後、加藤出羽守秀興が預か      り治めた。

      同十八年辛巳九月になって大猷院殿は、ここを山崎甲斐守源家治へと      与えたので十月になって山崎氏が入城した。

      同二十年に内外の堀を深くして櫓、門等を修築した。      慶安元年三月十七日に家治が逝去したので嫡子の志摩守俊家が継いだ。

      同四年十月二十八日俊家が逝去したので嫡子虎之助治頼が継いだ。

      明暦三年三月六日に治頼が逝去したが跡継ぎが無く後嗣が絶えたので、      代官多羅尾久右衛門、今井彦右衛門に御目付として下曽根三十郎、仁賀      保内記等が来讃して一年程統治した。

      万治元年戊戌二月十七日、厳有院は、この地を我が先公である刑部少      輔源高和君へと与えた。

      同三月二十三日に城受け取りの先手として佐々、佐脇等の諸氏以下      二十五名が塩屋村に上陸して二十五日に城を受け取った。

      同四月一日に多羅尾、今井氏等の諸氏は丸亀を発した。      五月五日に播磨国龍野城から公は入城した。以来代々継いで現在に至っ      ている。

城郭              櫓十二 鐘堂一 皷櫓一 宝庫一               御館 御屋舗               神祠五(太神宮、佐々木宮、金比羅宮、天満宮、亀山宮)              橋梁二 馬場一 弓場一 門八               番所六(内侍番所二)

外廓              門四 神祠四(天満宮三、八幡宮一)               西御屋舗 学館一(正明館と称する)              御用屋舗               勘定所一 評定所一 米倉二 射場二 銃場二 馬場二              宅倉二百五十 長屋十七 廐

島原市本光寺蔵「混一彊理歴代国都地図」の内容と地図学史的意義

  • 上記 大絵図の中の九州全図
  • 「九州全図」は「日本大絵図」の九州部分を写して領分の区別を示し、付紙にそれぞれの領主名を列記したものである。肥後天草の富岡城主に「山崎甲斐守」が記されており、甲斐守は山崎家治のことである。家治は島原の乱直後の大名異動によって備中の成羽より富岡に転封したもので、同人の富岡城主としての在任は寛永十五年(1638)から廃藩の同十八年(1641)までのわずか三年間であることから、本図の作成時期はこの三年間に限定できる。すると、問題の「日本大絵図」は少なくともこの「九州全図」の作成された最下限の寛永十八年以前にすでに存在していたことが裏付けられるので、「日本大絵図」が慶長日本総図である可能性は高まることにもなろう。ただ、このような九州全体を一枚に描いた地域図が寛永十五から十八年に、どのような目的で作成されたのかは定かでない。

おかやまゆかりの江戸城外堀石垣のある小石川後楽園

 後楽園と称されるものには、東京都文京区にある小石川後楽園と岡山市にある岡山後楽園の二つがあり、ともに、江戸時代の典型的な大名の回遊式庭園である。その名称はともに中国宋代の范文正「岳陽楼記」の「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」(先憂後楽)からつけられた。  水戸藩初代の徳川頼房は、徳川家光から江戸中屋敷として与えられた地に、一六二九年(寛永六年)小石川後楽園の築造を始めた。二代光圀もこれを継承し、中国明の遺臣朱舜水の意見を用いて、中国趣味を付け加えた。  中央に池があり、四方に築山を配して、各地の名所にちなむ堂社や亭を建てたが、その後、一七〇二年(元禄十五年)には将軍綱吉の生母桂昌院の来園で歩行障害となる奇岩大石を取り除いたため、景趣は著しく減じ、翌年の江戸大地震でも損傷を被った。明治維新で官収され、兵部省造兵司のちの東京砲兵工廠となり陸軍省が所管、内外の招宴場に用いられたが、関東大震災で建物の大部分が焼失した。一九三六年(昭和十一年)東京府の管理となり、一九四五年には戦災を被ったが、逐次整備され、一九五二年特別史跡および特別名勝に指定された。面積は約7ヘクタール。  その小石川後楽園の外壁(平成十年に改修された。153メートル)には、諸大名が競って築い

た寛永十三年(一六三六年) の江戸城外堀普請(丸の内一丁目鍛冶橋付近)で、当時松平新太郎(池田光政)岡山藩主を組頭とする石垣方四組に属していた備中成羽藩主山崎甲斐守(山崎家治)の丁場の石垣で、江戸城外堀発掘調査の際に出土した石垣が使われている。石垣の石材は伊豆半島もしくは真鶴半島から運ばれたもののようであるが、その石垣には備中藩山崎家の刻印が掘られており、当時が偲ばれる。

天草 富岡城

山崎甲斐守家治は成羽から肥後国天草へ転封となっていますが、これは幕府から命ぜられて「島原の乱」の後始末に行かされたのです。しかし、甲斐守は富岡城を再建するなど戦乱後統治で多大な功績を挙げ、讃岐国丸亀(香川県丸亀市)五万石の領主に栄転となりました。

富岡城は慶長7年(1602)天草を統治するため唐津城主寺沢志摩守広高によって築かれました。寛永14年(1637)に天草島原の乱でキリシタン一揆勢、1万2千人の攻撃を受けたが落城しませんでした。その後、山崎甲斐守家治によって城郭の再建が行われました。一時天領を経て再び私領となり、寛文10年(1670)に戸田伊賀守忠昌によって破却されるまで富岡城はその偉様を誇っていました。富岡城跡からの眺望もすばらしく、巴崎を望む風景は、「新くまもと百景」にも選ばれています。百間塘は、寛永15年(1638)山崎甲斐守が、城修築に際し城濠と巴汀を隔てて城門に直通する大道を構えたもので、長さ96間、高さ4間半、幅4間。当時の富岡城の威容が偲ばれます。


山崎

26 飯ノ山城 丸亀市飯野町東二山崎 高木右馬守 藤井太郎右衛門尉

飯野村史に「飯野山西麓にあり、高木右馬守城跡と云う。その後後藤井太郎右衛門の居城と云う。段々田圃と修理、屋敷、井量やしき杯と地名残れり。何れ此の辺両姓の末流今に多し。山の尾崎を城跡と云。則曰天大明神と今此所に奉尊敬也」とある。 丸亀市飯野町東二の小山は飯野山から西に派生した舌状の丘である。標高はせいぜい20m位であろうか、現在丸亀市青少年野外センター駐車場に飯野神社が祀られている。この飯野神社が旧飯野村史で言う天大明神を祀る社であろうか。今は開発されて飯ノ山城の遺構を知る事もできない。後、同じ場所かその付近に山崎甲斐守が居城したものと思われる。 

27 山崎城(山崎邑城) 丸亀市飯野町東二山崎(飯野町東分山崎・東二) 山崎甲斐守 飯野村史に戦国時代の豪族で山崎甲斐守が山崎に築城したが、土佐の長宗我部元親に滅ぼされたと書かれている。 上記の飯ノ山城落城の後、山崎甲斐守が拠ったものと思われるが確証はない。≪参考文献≫の『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』は山崎邑城(飯野山城)と表記し城主は高木右馬守~藤井太郎右衛門尉と書いている又『伝承地には、伊勢神社のある台地上と飯野山麓の高速道路北側の二ヶ所ある』ととも書かれている。

山崎甲斐守

  • 山崎甲斐守家治
    • 家治は宇多天皇七世の孫、佐々木兵庫助経方の四男四郎大夫家行の子六郎憲家の末裔。
    • 憲家が頼朝公に仕えて近江国犬上郡山崎の城に居たので氏とした。数世後に左馬允家盛に至って豊臣公に仕え功あって天正十一年摂津国三田城を賜り二万石を領した。東西の軍が起こったときその身は大阪にあったにもかかわらず東国のお方に味方した功により因幡国若桜城を賜って移った。慶長二十九年十月八日に四十八歳で卒する。
  • 家治はその子供である。父の後を継いで大阪前後の軍に功あって、天和三年備中成羽城を賜り移った。
  • 寛永十五年肥前国天草郡にて三万八千石を領して富田城及び松倉長門守重次の闕所と、道具、 石火矢、数十挺の鉄砲、数百艘の大小の船を賜った。
  • 同十八年九月丸亀の城を賜り、多度、三野、豊田の三郡に加え、那珂郡の内、地方、中府、監屋、津森、今津、田村、山北、金倉、櫛梨、佐文西の七ヶ村、鵜足郡の内、土居村。全てで五万三千石を領した。慶安元年三月十七日に五十五歳で卒する。
  • 長男俊家が後を継いだ。
  • 次男豊治は勘解由と称し、安定期に至って所領六千石を分かち与えられて仁保に住まいした。山崎氏が絶えた後、万治元年備中成羽で五千石を賜った。

長尾勝行

平右衛門。出羽守。福島家三家老のひとり長尾隼人一勝の子。三原衆。 広島城開城の際に城受取の安藤対馬守重信が城に入り、並んでいる福島家臣の面々に向って「左衛門殿事申すべきやうもなし」と言葉をかけた。その時に皆礼をしたが、一人茶筅髪で撞木の杖をついて、対馬守の言葉を聞かたはらを見て礼したのを、山崎甲斐守が見てこれはなみなみたる人物ではないと思い福島家改易後の家族の扶養を申し出た。勝行はこれに対して感謝の言葉を述べた。【常山紀談】

後に勝行は津山藩森家に礼を厚くして招かれ4000石で召抱えられて代々長尾隼人と名乗った。勝行が建立した父長尾隼人の供養塔が菩提寺の千住寺に残る。

1016石。間島美作組下。御鉄砲衆預け30人。

 本門寺

山崎氏については、北山との本末問題でも、讃岐側の地元領主としてかかわってくるので、ここで触れておきましょう。山崎甲斐守家治は、寛永十八(一六四一年)年に当地に入封しています。ちなみにそれ以前の領主については、香川氏滅亡の後、讃岐一国を仙石氏が治め、その跡を尾藤氏・生駒氏と継ぎました。寛永十七年の生駒騒動で転封された生駒氏に替わり、入国したのが山崎氏です。  山崎氏は西讃地方五万石の領主として、丸亀城を修造して治めることになりました(丸亀藩)。しかし山崎氏の治世も長くは続かず、世嗣がない為にお家断絶となり、明暦三(一六五七)年には京極氏が跡を継ぎ、明治初年の版籍奉還まで当地を治めています。  こうして、戦国末期には秋山氏の没落があり、当然ながら本門寺としてもその影響を受けざるを得ず、寺勢の上で大きな退潮があったことが知られます。そのような状況の中で、北山からの画策を招きました。その後の幕府の介入・北山との対決の上でも、讃岐本門寺の寺勢の衰えはそのまま訴訟結果に反映した形となり、敗因の一つとなったことは否定できません。

柳生

  • 江戸柳生との不和の原因?である利巌の妹 利巌の妹(巌勝の長女)は一度伊賀国山崎惣左衛門に嫁いだが、訳があり不縁となり、宗矩が柳生へ引き取って、老職の柳生主馬(佐野主馬)に嫁がせた。『玉栄拾遺』には「伝に曰く、主馬者朝鮮国の種也」とあり、また、別の記録には「然る所、主馬は他国人で氏も知られていない」とある。この再婚は利巌に何の相談もなく宗矩の一存で運ばれ、利巌には事後報告された。 これが利巌には気に入らず、どこの人間かも、氏素性も明らかでない者に尾張柳生の当主であり当人の実兄である自分に一言も相談もなく事を運んだのは無法であるとして、以後尾張柳生は江戸柳生に対して絶交状態を続けるようになる。 万事抜け目なく事を運ぶ宗矩としては、不覚といっていい。 主馬は後に柳生姓を許され老職になり芳徳寺の墓地に墓を列ねているほどであるから、よほど優れた人物であったようである。 夫婦仲も良く、嫡子の八郎左衛門は山崎甲斐守、後に有馬氏に仕えている。 しかし、江戸、尾張柳生の不和は、宗矩、利巌の間だけでなく江戸時代を通して解けることがなかった

中津

  • 徳行寺            無量山と称し、一向宗西本願寺の末寺である。昔は堀江村に          あったものを承応年間に当地へと移したと言われている。
  • 元真言 http://www006.upp.so-net.ne.jp/toku-gyou/enkaku.html

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Last-modified: 2012-08-18 (土) 10:31:00 (2193d)