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1: 百済 (27) 2: DNAと日本人 (50) 3: 邪馬台国 邪馬壹国 (7) 4: 新羅 (4) 5: 倭国と倭 (49) 6: 国号 (10)

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【1:27】百済
1 名前:名無しさん:2013/02/13 12:19 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143
百済は韓半島の中西南部に位置し、紀元前18年から西暦660年まで総678年の歴史を持つ韓国の古代国家である。
百済は、高句麗の始祖朱蒙の息子である沸流•温祚が高句麗から南下し、兄である沸流は弥鄒忽即ち今の仁川に定着し、弟である温祚は慰禮城、今のソウル地域に定着して各々の国家を建国したことから始まっている。沸流国は海岸という地理的な利点を活用して活発な海上活動を基に成長したものと判断される。
一方、温祚国は漢江流域の肥沃な土地を利用し高い農業生産力を基盤として成長した。しかし、次第に温祚の国の方がより強国となり、沸流の死後そこに住んでいた民を受け入れて百済を建国した。
[『三国史記』百済本紀始祖温祚王元年条]このような建国状況は、『三国史記』百済本紀始祖温祚王元年の温祚•沸流説話に記録されているが、歴史的実際とは差異があったものと研究者は見ている。
百済を建国した勢力の中にはいくつかの集団が存在したのだが、その中で代表的な集団が温祚集団と沸流集団だったのである。
説話においては彼らは兄弟と伝わるが、別々の説話によると血縁,南下経路などにおいて一定の差異が見られる。したがって、沸流と温祚に代表される個別集団の義弟的な関係を、後の百済で王室系譜としてまとめる時、兄弟関係と記したものと考えられる。


百済を含める韓国古代三国の歴史を記録した『三国史記』
一方、韓半島の中西南地域には、沸流と温祚の定着前から馬韓という54の小国連盟体が存在した。それゆえ、百済を建国した実質的な主体である支配層は、夫餘と高句麗系の移住民であるが、被支配階層は馬韓系の土着民によって構成されていたものと推定される。
また、中国の歴史書である『隋書』には、百済の住民階層が多様であったとし、「新羅•高句麗•倭から来た人々のみならず、中国人もいた」と記している。 初期の百済は、馬韓の一員として成長したものと推定される。
しかし、百済は馬韓の小国とは異なり、鉄器と北方の騎馬的な特性、対外交渉の求心的役割を活用し、馬韓の国々を征服•統合し、この地域で唯一の国家として成長した。
この他にも百済の始祖だとする都慕と仇台という人物の説話が、各々日本と中国の歴史書に伝えられている。

18 名前:名無しさん:2013/02/14 06:38 ID:9y2e/ojfAI IP:121.103.44.140
辰韓は馬韓の東にある。その耆老が世に伝えて云うには、古の亡人が、秦の役を避けてきて、韓の国へ行った。馬韓がその東界の地を割いてこれに与えた。
1辰韓には城柵があり、その言語は馬韓と同じではない。国のことを邦といったり、弓のことを弧といったり、賊のことを寇といったり、行酒(杯を回して順順に酒を飲む)のことを行觴と呼んだりするのは秦人の言葉に似ているとして、辰韓のことを秦韓と呼ぶ人もいる。
2子どもが生まれるとすぐ石でその頭を押さえつけて扁平にしようとする。現在の辰韓の人は皆頭が扁平である。
3男女の様子は倭人に近く、入れ墨もしている。歩兵戦にたくみで、兵器は馬韓と同じである。
4道で人に会うと、みな足を止めて道を譲り合う。
5その12国は辰王に属し、辰王は常に馬韓人を用いる。王位は世々相継ぐが、自ら立って王となることはできない。
6・・・人々は牛馬に乗り、嫁娶の礼俗には男女の別がある。
7この国には鉄が出る。そこで韓、濊、倭すべてが競ってこの鉄を採取する。諸市では鉄が通貨の役目を果たしており、楽浪・帯方二郡にも供給する。
8辰韓と雑居している弁辰にも城郭があり、衣服居処は辰韓と同じで、言語、法俗(習俗)は相似ているが、鬼神の祭祀に違いがあり、竈は皆家の西側に置かれる。弁辰の人たちの体つきは大柄で、衣服は清潔で、髪を長く伸ばしている。掟は特に厳しい。

その特徴を要約すると
1辰韓の言語が馬韓の言語とは異なったものであったこと、辰韓と弁韓の言語が同じであったこと、辰韓の言葉は秦人の言葉に似ていること
注)梁書によれば、新羅には文字はなく、木に刻みを入れて通信に用いる。言葉は百済の通訳が必要とあり、漢字が使われてなく、秦人の言葉は中国人には通じなかったことがわかる
2馬韓では馬に乗ることを知らなかったが、辰韓では牛を追い、馬に乗り、城郭を築き、市場で鉄というお金で買い物をするというきわめて発達した都市生活をしている。また衣服が清潔であり、習俗が峻厳である
3辰韓の人は皆頭が扁平である
4男女の様子は倭人に近く、入れ墨もしている。歩兵戦にたくみで、兵器は馬韓と同じである
新羅国でこれらの特徴を持つ風俗が発見できれば、新羅人は辰韓人の子孫である可能性は高いといえる。

19 名前:名無しさん:2013/02/14 06:42 ID:9y2e/ojfAI IP:121.103.44.140

新羅国でこれらの特徴を持つ風俗が発見できれば、新羅人は辰韓人の子孫である可能性は高いといえる。
まず馬に乗る習俗は同じである。
北史に、新羅では8月15日は行楽日として、官人に射撃競技をさせ、馬や布を商品として与える とあり、
また梁書に新羅人は牛を従え、馬に乗る とある。また頭が扁平であることは他にない特徴である。

ここで新羅人の王の頭が扁平であることを記した文献;高濬煥著「伽耶を知れば日本の古代史がわかる」から
新羅末の大学者崔致遠は
・・・扁頭 居寐錦之尊語 襲梵音弾舌 足多羅之字・・・
・・・宜君子之郷なり・・・
と、新羅の古語を聞慶鳳岩寺に残されている智證大師碑に彫った。
これは新羅王 居寐錦が扁頭であったこと明らかにした国内の記録である。

伽耶国においても、、、、金海礼安里古墳では鉄、武具とともに人骨(男160cm、女150cm)が出てきたが、2骨が平たい扁頭で、南弁韓の後継者としての伽耶を立証してくれている。

20 名前:名無しさん:2013/02/14 06:45 ID:9y2e/ojfAI IP:121.103.44.140
高濬煥氏によると、
伽耶国王と「倭国王」の関係について金首露王を始祖とする「金氏王世系という古記録に」
伽耶国第3代居叱弥王の代に、「倭国王」が嫁を娶りたいと縁組を提案したが、伽耶国王が近親結婚の非を訓戒したところ、使臣は新羅に行き、阿飡急利の娘が嫁ぐことになった という記録があるとのことである。

これが正しいとすると、倭国と金海伽耶国とは親戚同士ということになる。そうだとすれば、高句麗の好太王に共同で対抗したのもうなずける。

21 名前:名無しさん:2013/02/14 06:48 ID:9y2e/ojfAI IP:121.103.44.140
前三韓時代、辰韓と弁韓は雑居しており、弁韓は南端で倭と接しているとあり、また辰韓人は倭人に近い風俗をしているということは、弁韓人も同様だと思われ、これらの人々はあまり国家を意識せず、隣同士的な感覚で生活していたものと思われる。
新羅も建国当初は辰韓人だけでなく、漢人、高句麗人や他種族の人々が沃沮の地に交じり合って暮らしている中で、辰韓人が王位につき、貴族が辰韓人でかためられて、しだいに新しい国へと育っていったと考える。

22 名前:名無しさん:2013/02/15 15:32 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
『日本書紀』
漢江流域の百済本拠地が高句麗によって陥落(475年)、そして熊津に移った際、倭王(雄略)はその久麻那利(熊津)の地を百済の汶洲(文周)王に与えたという記録がある

『宋書』『梁書』など、中国史書に記録される大陸の遼西にあった百済:佛流百済?

《雄略天皇二一年(丁巳四七七)三月》二十一年春三月。天皇聞百済為高麗所破。以久麻那利賜汶洲王。救興其国。時人皆云。百済国雖属既亡聚夏倉下。実頼於天皇。更造其国。〈汶洲王蓋鹵王母弟也。日本旧記云。以久麻那利、賜末多王。蓋是誤也。久麻那利者任那国下哆呼利県之別邑也。 〉

百済が高句麗に破れたために、雄略天皇が久麻那利の地を汶洲王に与えた、という記事です。
そして、久麻那利は「任那国下哆呼利県之別邑」となっていますが、これは確かにおかしいです。
久麻那利が公州(コンジュ)だとすると、任那はそこまで領地だったことになります。

23 名前:名無しさん:2013/02/15 15:50 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
継体天皇のもとでの大伴金村の朝鮮政策の失敗(任那の一部を百済に割譲したこと)以来、任那諸国の自立化と新羅への接近が進んで行きました。
その後大和朝廷の政権は欽明(きんめい)天皇朝に引き継がれ、政治は物部尾輿(もののべのおこし)や蘇我稲目(そがのいなめ)らによって推進され、国内体制の整備が急がれました。
任那の経営に新しい方策を見出せない大和朝廷は、百済の聖明王に全面的支援を送り、これによって任那の復興を期待しました。一時、百済の故地漢城(京城)の奪還に成功したこともありましたが、聖明王が新羅と戦って戦死したので事態は急変、ついに562年、任那日本府は新羅によって滅ぼされ、大和朝廷は、約150年にわたった半島直轄領も失ってしまいました。

聖王(せいおう、? - 554年7月)は、百済の第26代の王(在位:523年 - 554年)。先代の武寧王の子。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明穠。先王が523年5月に死去したことにより、王位についた。『日本書紀』には聖明王または明王とあり、武寧王の死去の翌年524年正月に即位したとある。『梁書』には明の名で現れる。

24 名前:名無しさん:2013/02/23 21:34 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
古代高句麗王朝史は中国史とも深く関連する為、年表を並べてみました。
現在の集安が古代高句麗の首都だったのは第2代王から第20代王の時代ですが、現存する遺跡は平壌に遷都した後のものも多く含まれています。


年代 高句麗史 中国史
紀元前37年 初代高句麗王朱蒙(明聖王)が卒本(現在の中国遼寧省本渓市桓仁満族自治権)の五女山山城を都城として高句麗を建国
西暦3年 第2代瑠璃明王が王城を丸都城へ遷都
西暦8年 前漢滅亡、王莽が新を建国
西暦25年 劉秀が後漢を建国
西暦184年 張角が黄巾の乱を起こす
西暦197年 第9代故国川王没、王位継承を巡り内乱勃発
西暦216 曹操が魏を建国
西暦246年 魏が首都丸都城を陥落
西暦391年 第19代広開土王(好太王)即位
西暦412年 第20代長寿王即位
西暦427年 首都を丸都城から平壌へ遷都
西暦475年 高句麗が百済の首都を陥落
西暦491年 第20代長寿王死去
西暦581年 楊堅が隋を建国
西暦612年 隋の煬帝による第1次高句麗遠征失敗
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

25 名前:名無しさん:2013/03/08 14:50 ID:p/Bemj.45o IP:133.14.42.86
霊帝とは、三国志における皇帝(皇族)の1人。後漢王朝の第12代皇帝で、本名は劉宏、諡号は孝霊皇帝。諡の「霊帝」は「乱れはしたが国を滅ぼす程ではなかった」(『逸周書』諡法解第五十四)帝という意味がある。

西暦156年に生まれる。漢王朝の皇族の一人で、解涜亭侯に封ぜられていた(解涜は冀州河間国、現在の河北省の中にある田舎貴族と考えてよい)。167年、先代の皇帝である桓帝が没する。桓帝には男子がいなかったため、桓帝の妃や大尉・陳蕃らにより13歳で皇帝に擁立される。

すでに桓帝の頃から政治を壟断していた宦官は霊帝の世に至ってますます盛んに勢力を伸ばし、完全に国を掌握するようになった。特に即位直後に陳蕃ら清流派士人が宦官を排斥するために蠢動し、宦官に露見されて桓帝の旧臣共々獄死させられた「党錮の禁」の最中にあっても、霊帝はこれらに全く関与しなかった。
霊帝自身も、金子欲しさに官位を売買したり、酒と女に耽溺するなど全く人の上に立つ者らしいことはせず、政治はほとんど宦官(十常侍)に委ねていたという。これらの腐敗ぶりに加え、重い賦役を課したこと、北方・東方の異民族が幾度となく侵攻していたことなどが重なり、後漢末期では地方の反乱はますます活発になった。

26 名前:名無しさん:2013/03/08 14:52 ID:p/Bemj.45o IP:133.14.42.86
安帝の永初元年(西暦107年)に倭国から後漢に朝貢があったのだが、その後倭国に関して大きなできごとがあった。倭国大乱といわれる事件である。

桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主(後漢書東夷伝)

訳:桓帝、霊帝の時代、倭国は大いに乱れた。戦いが絶えず、何年も王が定まらなかった。

この後、女王を立ててようやく国家が統一され、その女王は卑弥呼・・・と続くのだが、桓帝の在位は146-167年、霊帝の在位は167-189年だから2世紀後半の数十年間にわたって、倭国は混乱状態にあった、というのが中国側の認識であった。

27 名前:名無しさん:2013/03/08 14:56 ID:p/Bemj.45o IP:133.14.42.86
189年、公孫度は後漢により遼東太守に任命されたが、そのまま後漢から自立する。そして朝鮮半島の北端である楽浪郡や、一時は山東半島まで勢力を伸張した。204年には、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、韓や倭を勢力下に置くほどまでに至る(『魏志韓伝』)。父の代に半独立を果たした公孫氏ではあったが、曹操により再び後漢の勢力が強まったため、公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられた。
公孫康の後継にはその弟である公孫恭が立ったが、228年に公孫康の子・公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとった。 当時、時代は後漢が崩壊し魏・呉・蜀の三国に分立し互いに覇を競っていたが、公孫淵は三国一強盛にして自領と隣接する魏に臣従を装いながら、一方では呉と同盟工作を行うなど密かに独立を謀っていた。 236年、魏の皇帝曹叡から上洛を求められた際、公孫淵はついに魏に反旗を翻して、燕王を称した。翌年には年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。近隣部族に印璽を与えるなどして魏を刺激し、いよいよ軍事衝突は決定的となった。
公孫淵は一度は魏の幽州刺史の軍勢を退けたものの、238年、太尉司馬懿の討伐を受けて国都襄平に包囲されて降伏し、一族ともども処刑されたために公孫氏の勢力は消滅した(遼隧の戦い)。公孫恭は魏への忠義を貫いたとして処刑されなかったが、子がおらず公孫恭の死により公孫度の子孫は滅亡した。
『魏志倭人伝』において、黄巾の乱の前後に起きたとされる倭国大乱から公孫氏滅亡後の卑弥呼による魏への遣使まで倭に関する記事が途絶えており、かつ公孫氏滅亡直後に遼東経由で遣使されたことから、公孫氏が倭の勢力が中国本土へ朝貢する道を遮っていたことになり、倭からの朝貢を公孫氏が受けていた可能性もある。



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【2:50】DNAと日本人
1 名前:名無しさん:2013/02/13 14:04 ID:Yde1Sb8gSk IP:133.20.188.184
日本にたどり着いたY染色体亜型の移動経路と推定年代

日本列島にたどりつけたY染色体亜型は3型四種類である。
その内訳は、人類すべての系統5つのうち、出アフリカ1−C、出アフリカ2−D、出アフリカ3−Kの中のOとNである。
アフリカにとどまったアフリカ人固有種以外のすべての出アフリカ系の三種類のすべてが、時代を経てたどりついた。日本列島がユーラシアの端の集合地、吹き溜まりであることの証明が、染色体の分類から明らかになった。

オレンジ色で囲った亜型が日本列島にたどりついた・・・つまり私たちが今現在共有しているY染色体の型式である。Oが今から17、500年前に、Nが8、830年前に、Dが13、000年前に、そしてCが2万年くらい前に、それぞれそれを持った新人がたどりつく。
ということは弥生時代直前にやってきたのはNを持った人々である。
それ以前はOとCが混在しているところへ縄文人になる人々・D型を持った一団がやってきたことになるのだろうか。

こうして、現代、すべての日本人のY染色体・・・つまり父方であるが、を持った人々の、時代別到達が解明されたこととなる。
あとは母方であるが、当然、一緒にやって来るわけである・・・船ではない、もちろん氷河期は徒歩でやってくる。弥生直前の来訪者の場合、船の可能性が非常に高くなる。しかし、船の場合、女性まで来たかどうかはわかろうはずもない。

縄文時代は今のところ16、000年くらいには始まっていたと考えられているから、それも船で来ることになっただろう。

これまで漠然と3万年〜2万年ほど前に日本人の原種が列島に来たというのが定説であったが、これでほぼ2万5千年前という数値が出たことになる。

41 名前:名無しさん:2013/02/14 17:08 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
やっぱり日本人のO3系統は、O3発祥の南方から早期に渡海してきた血統か。
北上してC3を飲み込んだ華北や朝鮮のO3がルートってことは
D2、O2bだけでなく、O3についても完全に嘘だったわけか。
O3-M122はその分布が、レクナー本のモンゴルや中国のデータだと北方系

42 名前:名無しさん:2013/02/14 17:12 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
O3が南太平洋から、オーストラリアのアボリジニ、アンダマン諸島の原住民にまで広がっているので、

1)長江と黄河の間辺りで、半農(陸稲米)半漁の黒いO3がまず船で南太平洋地域へ散らばり、
2)残ったO3がC3から白肌を移植し、米の(陸稲米)栽培を内陸の黄河の流域へ広げていった。
3)ただ、黄河の流域では米の栽培は収穫量はあまり良くなかった。そこに北から誰かが、
麦を持ち込み、麦の栽培の方が黄河の流域ではより適性があったので、麦に変えた。
と言うような仮説
何故、太平洋地域へ 広がったのか、そう言う海のルートが考えられるのか?。と言うのが引っかかります

発生時期は以前(1年位前?)1万年だったのが、今は1万年から3万年の間となり、
3万年の方にはReで中国人の論文が参照されています。
3万年前にO3が発生だと、(NO)発生25000-30000BP、O発生20000-30000、O3発生30000になってしまいます。
まあ、(NO),O,O3が同時に発生なんて…???

43 名前:名無しさん:2013/02/14 17:16 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
O3は海洋民だったとは思うけれど、南太平洋の手前までは陸や島伝いに、結構近くまで行けるんだよね。
2万年ー1.5万年前が最寒気→最大海面低下だから、その頃アンダマン諸島辺りでO3に変化したとして、
マレー半島とスマトラ、ジャワ、バリ、セレベスは確か繋がってた。

今度はO2bのルートが難しくなった。東南アジアはO2aで占められていて
長江へ来るずっと以前にO2aに変わってるということだから、O2aからO2bは生まれないし、
O2がO2aに変わる前に分裂させなきゃいけない。

44 名前:名無しさん:2013/02/14 18:38 ID:ZbxM.2GhJI IP:182.249.238.96
韓国の地域別のYーDNAサンプル数が少なすぎ朝鮮半島が若干見られるD1が全く出てない他の調査ではO3が40-50%なのにヤケに比率が低い。O2b1に居たっては検出する気が無いなど。
大元の論文は"Y chromosome homogeneity in the Korean population(2010) Soon Hee Kim, Myun Soo Han, Wook Kim and Won Kim"であり、この比率は間違いである。済州島、全羅道、慶尚道でごく少数のD2が見つかっているのがこの論文の特長であり、逆に北にいくほどD2は出ず、D1が出てくる、むしろ、倭の新羅、百済、任那支配を決定づけ、北が中国の一部であった事(D1は、羌族出身の太公望の末裔である姜斉の遺伝子と考えられる為)を示すデータである。
済州島
O2b 22.2%
O3a 38.9
N1c1 22.2%
C3 16.7%
全羅道
O2b 35.1%
O3 35.1%
C3 27.0%
慶尚道
O2b 58.3%
O3 38.8%
N1c1 3.3%

45 名前:名無しさん:2013/02/15 05:51 ID:irOXOh1zds IP:121.103.44.140
Japan YDNA haplogroup percentage
and possible migration timeline

Paleolithic Age Migration Down to circa 14,000 BCE

C1-M8 5.4% Obsidian

Neolithic Age/Cordmark/Jomon Pottery Era Migration
Circa 14,000-1,000 BCE (Northern Kyushu)

D2-P37.1* 3.9% Pottery
D2a-M116.1 16.6% Ditto
D2a1-M125* 12.0% Ditto
D2a1a-P42 2.3% Ditto
D2 Total 34.8%

Sub Total 40.2%

46 名前:名無しさん:2013/02/15 15:36 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
熊津(ゆうしん、웅진、ウンジン)
古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり、こむなり)、百済語では古莫那羅(コムナル、곰나루)と表記・呼称される。熊川(錦江)の畔の都市であり、現在の忠清南道公州市にあたる。
475年に高句麗の長寿王が百済の国都・漢城(現在のソウル特別市)を陥落させ、百済の蓋鹵王を処刑すると、南方に逃れていた(あるいは新羅に救援を求めに行っていた)文周王が即位し、首都を熊津に移した。後に聖王が538年に、さらに南方の泗沘(現在の忠清南道扶余郡)へ遷都するまでの63年間、百済の首都であった。

47 名前:名無しさん:2013/02/15 15:39 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
欽明天皇二三年(五六二)正月》二十三年春正月。新羅打滅任那官家。〈 一本云。二十一年、任那滅焉。忽言任那。別言加羅国。安羅国。斯二岐国。多羅国。卒麻国。古嗟国。子他国。散半下国。乞〓[冫+食]国。稔礼国。合十国。 

任那が滅んだのは562年ということになっていますが、560年という説もあったことになります。
ちょうど、百済滅亡660年の100年前ということになります。

48 名前:名無しさん:2013/02/15 15:51 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
聖王(せいおう、? - 554年7月)は、百済の第26代の王(在位:523年 - 554年)。先代の武寧王の子。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明穠。先王が523年5月に死去したことにより、王位についた。『日本書紀』には聖明王または明王とあり、武寧王の死去の翌年524年正月に即位したとある。『梁書』には明の名で現れる。

49 名前:名無しさん:2013/02/15 15:55 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
梁からは524年に〈持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王〉に冊封され、新羅と修好するなど、中国南朝と結び、また新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗しようとする百済の伝統的な外交態勢を再び固めた。しかし529年には高句麗の安臧王‎の親征に勝てず、2000人の死者を出した。538年に首都を熊津(忠清南道公州市)から泗沘(忠清南道扶余郡)に移し、「南扶余」と国号を改めた。新羅との連携についても、南方の伽耶諸国の領有を争って不安定なものとなり、新羅への対抗のために殊更に倭(ヤマト王権)との連携を図った。

541年には任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した(いわゆる任那復興会議)[1]。百済のヤマト王権に対する要請は、百済主導の伽耶諸国の連合体制を承認することと、新羅に対抗するための援軍の派遣とであったが、欽明天皇から武具や援軍が送られたのは547年以降のこととなった。この頃には百済は再び新羅と連合(羅済同盟)して高句麗に当たるようになっており、551年に漢山城(京畿道広州市)付近を奪回したが、553年に同地域は新羅に奪われてしまった。同年10月に王女を新羅に通婚させているが、554年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に、孤立した王子昌(後の威徳王)を救援しようとして狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ戦死した。在位32年。諡されて聖王といった。

50 名前:名無しさん:2013/02/23 04:41 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
 アイヌの古話に「先住民のコロボックルという小人が住んでおり、これを滅ぼして住みついた」というものがあると聞いたことがあります。また、アイヌには、先に示した北方民族の特徴がほとんど見られないのです。むしろ、南方民族の特徴が顕著に見られるのです。
 確かに、日本とロシアが地続きであれば、人が渡って来たと考えるのは正しいとは思いますが、それは「コロボックル」で南から来たアイヌ人(縄文人)に滅ぼされたと考えた方がよいと思います。アイヌは千島、樺太、沿海州にも多く居住しておりますが、これは日本から渡ったと考えた方がよかろう



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【3:7】邪馬台国 邪馬壹国
1 名前:名無しさん:2013/02/14 09:01 ID:DQ3FWpBsYc IP:182.249.231.1
日数行程の出発地を帯方郡とする私の著書(抜粋)

「南・水行十日・陸行一月」という行程は、不弥国から邪馬台国の区間ではなく、
 帯方郡から邪馬台国までの道のりを、再度、要約して日数でのべたもの、というの
 が私の解釈である」
 (奥野正男『邪馬台国はやっぱりここだった』毎日新聞社1989年)。

  この「南至耶馬台國、水行十日陸行一月」は、帯方郡から女王国までの一万二千里にかかる水行と陸行の日数である。この解釈はすでに1971年に古田武彦氏が『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)で発表しているものだが、陸行一月を朝鮮半島内や対馬・壱岐にとるなど、私の解釈とはだいぶん異なっている。魏志倭人伝は、国と国の区間を不弥国まで里数で示している。不弥国から邪馬台国までの区間がもし「水行十日・陸行一月」だとすると、『三国志』の撰者・陳寿は、筆法として各区間を里数と日数の両方を混用して書き、その総計を一万二千余里という里数で示しているということになろう。邪馬台国近畿説で「水行十日・陸行一月」を九州北部から大和への道のりとみる論者は、少なくとも陳寿が(直線行程で)里数と日数を混用したという前提に立っていることになるだろう。しかし、『三国志「魏書」明帝紀第三の景初二年条に引用の『晋紀』や『魏名臣奏』に、遼東の公孫淵を討つための軍議で、洛陽から遼東までの里数を、「四千余里」とし、これを行くのに必要な日数を「百日」としている。また『後漢書』南蛮伝に、荊州から日南(ベトナム)までを「九千余里なり。三百日にして到る」と書く例がある。長途の旅程を里数で記した後、つづけてその旅程に必要な日数を記すのは、文章としてもっとも理解しやい書き方ではないだろうか。
 こうした中国史書の旅程の記述方法を「魏志倭人伝」にあてはめると、「自郡至女王国、南水行十日陸行一月」という記述は、帯方郡から女王国までの「一万二余里」の旅程を日数であらわしたものといえる。同じように「南して投馬国にい至るに水行二十日」という記述も、帯方郡から水行での日数をあらわしたものと読める。投馬国は南水行二十日という文献史料だけで比定するのは不可能である。あえて候補地を求めれば、水行二十日のうち、末廬国までに十日費やしているから、残りは十日である。九州の遠賀川流域に、あるいは九州東回りで宮崎県西都原の妻にも求めうる。
   (奥野正男『邪馬台国は古代大和を征服した』1990年 JICC出版)。

2 名前:名無しさん:2013/02/14 12:34 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
そして1.4〜1.2万年の間に細石器文化は日本で隆盛を極め、C1・D2は衰退すしますが、その一方では
C1・D2の白い肌の導入は進みます。つまり、白い肌と黒い肌が混血して茶色の肌で生まれた子供の生存率が
何となく高いと感じたC1・D2はより白い肌への選考を強め、自然選択との相乗作用で、平均的により白肌へと
なっていったのです。

最終的には、1.2万年前、海退の終焉に続く海進で日本海に再び海流が流れ込み、裏日本の草原が喪失して
細石器狩猟文化は、日本では終焉を迎え、C3の細石器文化は完全に喪失し、C1・D2の木の葉型尖頭器を
始めとする以前の日本に特徴的な石器が、今度は石鏃と一緒に出現し始め、狩猟の割合がさらに増えただろう
と思われますが、もはや衰退する兆候は全く見当たらなくなります。

つまり、我々のご先祖はC3から白い肌の導入に成功したのです。ただ、一方では、男性が女性にプロポーズ
する、又は女性を略奪するという人類の形態により、スンダランドから一緒に連れ添ってきた女性の系統は
大きく減ってしまいました。

と言っても、それはミトコンドリアという次元の話で、彼女等の遺伝子は、遺伝子組み替えによって、
女性・男性を問わず、そこそこ長く日本に住んでいる全ての人々の中に、特に優性な部分をおもにして、
ちゃんと生き残っています。

ここで、皆様も重要な事実に気が付れたかと思います。y-染色体の分析と系統図が出てきているにもかかわらず、
ミトコンドリアの研究者が多い日本で、それに執着し、日本人の起源が中央アジアに有るなどと戯言を言って
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

3 名前:名無しさん:2013/02/14 12:42 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
これには同感ですが、ただC1・D2は、C・Dで日本へ入って来たのが日本で変異したもので、日本にしか
存在しません。
同系統のC3とC1が全然違う人種的特徴を備えたのは
同じC系ということで誤解も多いかと思いますが、何よりその二つが分かれたのは4万年前で、これは、
東南アジア-中国人を含むアジア人と現在中部ヨーロッパ(フランス・ドイツ…等)に住む白人のメインの
遺伝子が分かれた時期より前です。そして、その後の生活環境が相当違います

4 名前:名無しさん:2013/02/14 14:18 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
D2系統の日本列島での人口は、太古から非常に多くそれが現在まで続いていることが
遺伝子の分岐の多様性などから明確に分かる。
そのためにD2以外の種族が日本列島から別の地域(北方も当然含まれる)にもし大きく広がったならば、l
それらの地域にはある程度は父系マーカーとしてD2系統も見られる可能性がかなり高い。
私もC*やC3が日本(樺太)経由でシベリアへ広がった可能性を想像してみたことがあるが、
このために可能性は極めて低い。相当無理なナローパスな条件を設定しないと考えられない。
逆にインダス川流域から内陸北方へ長期に渡って環境適応した種族が存在する方が自然になる。

D2系統(日本人)と、D1系統やD3系統がいずれも南方の熱帯沿岸部から別の海域や河川を北上して
別れた種族である可能性が高いのと同様に、
C1(日本人)やC2系統(ポリネシア人)・C4系統(アボリジニ)と、C3系統(北方モンゴロイド)も
相当古い時期に南方の熱帯沿岸部から別の海域や河川を北上して別れた種族であるでしょう。

5 名前:名無しさん:2013/02/14 14:21 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
C3は狩猟民ですから、動物を追って、 と言うより、動物の尻を付いて回って移動しますから、あちこちに分散します。その移動は、基本的に
自分たちが決めるのではなく動物が決めます。
もし、自分勝手に行当りバッタリで狩猟をしていたら、その部族は長い時間の中では、動物を探せなくなる
期間ができて、行倒れた確率が高いと思います。
人間が自分たちで移動の方向を決められるようになったのは、羊等の放牧が出来るようになった後です。
それでも、彼らの行動範囲は牧草のある場所に限られました。

6 名前:名無しさん:2013/02/14 14:26 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
現在の所、最大の海退時期は最寒気の2万年前の120mで、日本と大陸は繋がらなかったと言うのが有力です。
でも、私は間違いなく日本は大陸と、多分済州島の南の方の西側で長崎の先辺と(現在では海面低下が150m程
ないと繋がりませんが)繋がっていたと思います。

そして、海面低下の最大時期は2万年前となっていますが、これも違うでしょう。多分、1.5/1.4万年前
から1.2万年前以前の間でしょう。海面低下は氷河の拡大で起こりますが、最寒気と氷河の最大期は時間が
ずれているのは間違いない。氷河は冬の積雪量が夏に解ける氷の量が小さければ、暖かくなってきていても、
増加率は減っても増加はするのです。だから、現在も、増加はしていませんがまだ氷河期なのです。

7 名前:名無しさん:2013/02/23 04:38 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
日本人は、朝鮮半島から渡来した人を祖先に持つということが誠しやかに語られているが、ツングース系ではないようです
南方系の縄文人がうんと古くから増えていた。

最初に南方民族が日本に渡来し、その後、朝鮮から北方民族が渡来したが、この北方民族の形体的特質は殊のほか少ない。



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【4:4】新羅
1 名前:名無しさん:2013/02/23 04:15 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
 新羅は紀元前57年に建国されたといわれるが、この時代の「女帝」を説明する前に、その「王の継承」について説明したい。新羅の歴史については中国にも「新羅記」や「唐書」などが多数あるが、ここでは専ら「三国史記」(高麗王朝の第17代 仁宗23年(1145年)に「金富軾」らによって編纂された)と「三国遺事」(高麗王朝の第25代 忠烈王7年(1281年)に僧侶の「一然」によって編纂された)によることにする。
 新羅の王(中国では長い間、王の呼称は許さず「公」しか許していなかった*。例 594年 隋は新羅の王に対し「上開府楽浪郡公」を名乗ることしか許さなかった。王という呼称を許したのは624年 唐の高祖が「柱国楽浪郡公新羅王」としてからであるが(これについても異論がある)、ここでは「王」と呼ぶことにする)は世襲制ではなかった。朴、昔、金(これらはすべて中国からの賜姓)などの中から合議制で王が選ばれた。

2 名前:名無しさん:2013/02/23 04:22 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
日本の推古天皇(593年―628年在位)の直後の632年に第27代として「善徳王」が即位された(632年―647年在位)。
前の「真平王」(572年―632年在位)に男子がなく、他に適当な王の候補がなかったために「真平王」の長女である「善徳王」が選ばれた(姓は「金」(中国の「冊府元亀」では「募」)、名は「曼」)。
「善徳王」は幼いときより聡明であり、なるべくして成ったとはいえるが、歴史上初めての女帝である(高句麗、百済にも女帝はなかった)

 この時代が新羅にとっては一番存亡の危機にさらされていたのであるが、「善徳王」は武将「金 ユ信」、宰相「金 春秋(後の「武烈王(654年―661年在位)―日本に人質として差し出されていたこと経歴があった」)」を巧みに使い、唐との交渉し、唐より再び「柱国楽浪郡公新羅王」を賜り、冊封を受け、百済、高句麗との戦争に対処して国を維持した。名君だった。

3 名前:名無しさん:2013/02/23 04:22 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
 次の第28代「真徳王」(647年―654年在位)も女帝である。「真徳王」は体が大きく手が長かったという記録がある。「真平王」の母の弟の「葛文王」の子である。姓は(中国の「冊府元亀」では「募」)、名は「徳曼」である。「善徳王」の5寸(親等)にあたり、かなり遠い。
 前の「善徳王」の善政もあり、女帝となり、女帝であることについて、異論がなかったようである。この時代には日本でも女帝の「皇極天皇」が即位されている。
 この時代も引き続き百済、高句麗の侵攻に悩まされた。「唐」との絆を強め、中国の礼服に改め、年号も中国のものを用いた。現在、中国の属国化を図ったとして非難する朝鮮の歴史学者もいるが、国を保持するため止むを得なかったと思う。
 この時代には、日本は百済との関係を深めていたため、新羅も日本の意に反して百済とは争うこともできずに、友好関係を結んだ。百済も次第に日本の意を汲み、新羅との争いは減少した。高句麗が巨大となり、唐も思ったほど頼りにならないため、百済とともに日本に援軍を要請し、日本も任那に軍を派遣して、百済、新羅とともに高句麗と戦った。
 前の「善徳王」と同じく、独身で子がいなかった。
 「善徳王」と同じく武将「金 ユ信」、宰相「金 春秋(後の「武烈王(654年―661年在位)」)」を用い、護国の人だった。

4 名前:名無しさん:2013/02/23 04:33 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
第47代「憲安王」(857年―861年在位)の最後の年の王の言葉
「私は不幸にも男の子がなく、娘だけである。わが国の故事に「善徳」と「真
 徳」という2人の女王がいるが、雌鳥が暁を告げる(不吉の兆)に近いから、これを法
 (決まり)とするのは良くない。甥は歳は少ないが、老成(大人びる)の徳があるから、
 臣下たちは彼を立てて良く仕えれば、必ず祖宗の令緒(良い跡継ぎ=功績)を落とさな
 いだろうから、私は死んでも朽ち果てない」



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【5:49】倭国と倭
1 名前:名無しさん:2013/02/11 09:41 ID:y.PIfCzZOg IP:121.103.44.140
倭国? 倭人 日本国などの始まり

40 名前:名無しさん:2013/02/14 07:04 ID:9y2e/ojfAI IP:121.103.44.140
倭は「392年以来」海を渡ってきて百済・新羅を破り臣民とした と解釈
「海を越えて」を日本列島から玄界灘を渡ってと解釈すると、倭国が日本列島内にあったことになります。
山形明郷氏の説に従うと、
1高句麗の首都は丸都山城(吉林省白山市渾江区板石鎮)だったが342年前燕の慕容皝による攻撃によって陥落、潰破されたため、343年王の居処を平壌の東黄城に移したとある(三国史記、注に一説として、集安の対岸江界地方とある)。
百済は鴨緑江の南から北朝鮮北部に、そして新羅は百済の東でやはり北朝鮮北部あたりに存在したことになります。
つまりいずれの国も北の境界で高句麗に接しているわけで、その影響下にあったと考えられます。
したがって「海を越えて」の意味は、
倭国は旧女王国と伽耶国の領地にあったと考えられ、百済や新羅を攻め、高句麗と戦うためには、朝鮮半島全羅道辺りから西海岸を北上し大同江か鴨緑江の河口辺に上陸するか、東海岸を北に舟行して新羅に上陸するかして、高句麗と戦ったと推測されます。
この記述どおりだとすれば、
倭国の半島における国力と軍事力は300年代に飛躍的に増大し、その軍勢を遠路派兵して、百済・新羅を攻略、制圧するくらいになったことを
示している。実際は倭は百済、伽耶と連合して高句麗・新羅に対抗した。
注)倭が百済・新羅を臣民にしてから5年後、広開土王の百済討伐が行なわれる。ということは、高句麗も直ちに反撃することができない状態にあったと思われる。後述。

2「永楽6年(397年)、(広開土)王みずから水軍を率いて、百残を討滅す。
軍■■はじめ壱八城・・・以下城の名が列挙されており・・・■■城を攻め取り、その国城に進み至る。
しかして(百)残、義に服さずして、あえて百戦に出ず。
(広開土)王、威嚇し、怒りて阿利水を渡り、刺を遣わして城に迫る。
横■■■■国城に便す。
しかして(百)残王、困逼して、男女生口1000人、細布1000匹を献じ、(好太)王に帰す。自ら、今より以後、永く奴客となることを誓う。
(広開土)王、(百残王の)先迷の愆を恩赦し、その後順の誠を録す。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

41 名前:名無しさん:2013/02/15 16:02 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているが、朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地はなく、東アジア全体でも日本の糸魚川周辺とミャンマーしか産地がないこと[注釈 6]に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明している[注釈 7]。
幾多の日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されているが、この地は任那四県とよばれる広義の任那の一部である[注釈 8]、[注釈 9]、[注釈 10]。
宋書倭国伝のなかで451年、宋朝の文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述や478年、宋朝の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述している。

42 名前:名無しさん:2013/02/15 16:14 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
吉田孝は、「任那」とは、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合であり、いわゆる地名である伽耶地域とは必ずしも一致しない政治上の概念であり、任那が倭国の軍事力を勢力拡大に利用するために倭国に設置させた軍事を主とする外交機関を後世「任那日本府」と呼んだとし、百済に割譲した四県[9]は、倭人が移住した地域であったとする。また、532年の任那加羅(金官加羅)滅亡[10]後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったとしている[2]。吉田は一時期否定された4世紀の日本府について金官加羅の主導性を認めつつ倭国の軍事的外交機関とし、任那が、倭の軍事力を利用する政策の一環として当該地域に倭人(倭系豪族)が移住することになったと述べている[11]。

43 名前:名無しさん:2013/02/15 16:28 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
  これを系図にすると、おおよそ下記のようになる。


  「百済派」 敏達───舒明─────皇極(斉明)─天智─弘文

  「倭国」 蘇我馬子─物部鎌姫大刀自連公─孝徳─────天武
           (聖徳太子こと入鹿摂政時代)

44 名前:名無しさん:2013/02/19 15:09 ID:CEku8209/Y IP:182.249.226.94
百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認される逸失書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。百済三書は、6世紀後半の威徳王の時代に、属国としての対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたとみられ、日本書紀の編者が参照したとみられてきた[4]。それゆえ、百済三書と日本書紀の記事を対照させていくと、古代日朝関係の実像が客観的に復元できると信じられていた。三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く[5]、また、任那日本府に関する記述(「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす」)もその中に表れている。

また、『神功紀』・『応神紀』の注釈に引用された『百済記』には、「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」など日本(倭国)を「貴国」と呼称する記述がある[6]。山尾幸久は、この「貴国」をこれまでの日本史学では二人称的称呼(あなたのおくに)と解釈してきたが、日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいることから、貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味で、「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と同期しており、それは天武の時代で、この神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかったとしている[7]。

45 名前:名無しさん:2013/02/19 15:13 ID:XRGYeFMc12 IP:182.249.220.46
三書は逸文が伝わるのみなので、成立過程は判然としないが、三書が唯一引用されている『日本書紀』は養老4年(720年)に成立しており、それまでには三書も成立していたといえる。『三国史記』に375年の出来事として「百済開国已来、未有以文字記事、至是博士高興、始有書記」(百済は開国以来文字で記録を残していなかったが、博士高興によってはじめて記録を始めた)と記録されている。このことと、百済が中華秩序の中のれっきとした一国であったことを考えると、独自の歴史書を持っていたことが伺われる。

そして、百済と倭(日本)は交流が盛んであったことと、660年に百済が滅んだ時に大量の亡命者を受け入れたことで百済の記録が日本にもたらされていたと考えられる。百済からの亡命者には知識人が多く、日本の歓心を買うために三書を特に編纂したと考える研究者もいる。この説に従うと、三書の成立は663年から720年の間となる。三品彰英は、『百済記』は推古天皇の時代(6世紀末から7世紀前葉)に成立したとしている。三書が百済滅亡後に成立したと考える場合も、その根拠資料は百済にもともと受け継がれてきた歴史書に基づく確かなものと考える研究者もいる[3]。

46 名前:名無しさん:2013/02/19 15:18 ID:XRGYeFMc12 IP:182.249.220.46
(1)神功紀のいう三韓國は、
高麗(狛)、百済(伯済)、新羅(新盧)でした。カッコ書きが正体。

(2)三国史記の三国は、
高句麗、百済、新羅(慶州)でした。
注記 百済:ひゃくさい。新羅:しんら。

(1)と(2)の國は全く違う、異なる国でした。

その証拠記事を二点ピックアップします。
★A 神功皇后49年(249年)条
兵を移して耽羅を滅ぼし、皇后は、耽羅(済州島)を百済(伯済)に与えた。
B 22代文周王2年(476年)条
百済へ耽羅國が土産物を持ってきたので、文周王は喜んで、使者に恩率の官名を与えた。
 Aが三国史記の百済であれば、Bの記事は、ありえないのです。

★24代東城王23年(501年)条
三国史記の百済本記は、南斉へ朝貢した記事がない。
 三国史記編者が、三韓古記にないので南齊書の記事を疑っている。
 これは、伯済が百済名で、朝貢しています。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

47 名前:名無しさん:2013/02/23 02:20 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
 『三国史記』において「倭国」が出現するのは、第8代「阿達羅尼師今」同11年(122年)である。『倭国の女王卑彌呼が使臣を遣わして修好した』と記している。同じ5年(157年)に『倭人が修好のためにやって来た。』とあるが、このころには「倭」をまとまった国と認識していたのではなかろうか。その後、「倭人」、「倭兵」とあるが、たびたび<修好>として国と国の関係を記していることからもそうしたことがうかがえる。なお、「新羅本紀」では「倭」、「倭人」、「倭国」と用語がまちまちであるが、「百済本紀」、「提上記」(『三国史記』卷第四十五−列伝第五)では「倭人」、「倭国」が同一記事に混在する例があり、これらを「倭」という同一実体を指すものとして考えているから、強いて区別する必要はない(「『三国史記』にみえる「倭」関係記事について」〔『歴史公論』8−4 雄山閣出版 1974年〕、「朝鮮三国と倭」〔『古代を考える 日本と朝鮮』木村 誠 吉川弘文館 2005年1月1日 96頁〕)。
 前述の「倭」の朝鮮半島南部への侵攻など伝承に過ぎず信じるに値しないという者がいる。その代表的なものは、新羅王権史は第17代「奈勿尼師今」(356年即位)から始まるとし、それ以前は伝説的世界である(『古代の日朝関係』山尾幸久 塙書房〔塙選書 93〕1989年4月10日 281頁)というのである。こういう者の主張は『日本書紀』・『古事記』の史実性への疑問にもつながっていく。しかし、伝承というものは簡単に<造作>できるものではない(このことは「神功皇后」の項で詳しく説明する)。「倭」の侵略は朝鮮半島南部、特に「新羅」の人々にとっては恐怖として長い間語り継がれて来たものであろう。『三国史記』新羅本紀によると、「倭」については、「倭」、「倭国」、「倭人」、「倭兵」の用語が使用されている。これは『三国史記』の編者が異なった史料を見ていたのではないかと考えられる(『任那日本府と倭』井上秀雄 東出版 1973年1月16日 159頁、『倭王権の時代』吉田 晶 新日本出版社〔新日本新書 490〕1998年9月30日 29頁)。そして、『三国史記』新羅本紀での「新羅」と「倭」との戦闘記録の35のうち、「新羅」が勝利したものは11、敗退したものは5ある(「吉田 晶」−前掲書 同頁)。「新羅」が敗退したものまでを載せるということは、新羅中心主義史観で編纂した『三国史記』の編者にしておそらくその記事に信憑性を感じたからであろう。こうしたことからも『三国史記』新羅本紀の対「倭」記事が<造作>とは到底考え難い。

48 名前:名無しさん:2013/02/23 02:26 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
 最近、韓国の南部にあった「伽耶諸国」のうち「金官伽耶」の故地の発掘が進み、この国が近隣の「百済」とも「新羅」とも異なった文化を有していることが明らかになった。
 先の「抜歯」した人の遺骨が発掘されたのもここである。この「金官伽耶」の故地こそ「任那日本府」があったとされる場所である。
 この地が重要なのは、「鉄」の産地だったということである。ところで「広開土王碑」(高句麗第19代王〔在位 392年〜413年〕)には王が倭と戦ったことが記されているが、韓国人学者は倭はここにいた<傭兵>の倭人が「金官伽耶」から鉄の甲冑を借り武装して高句麗と戦ったという。なぜなら、当時「倭」には鉄の甲冑を製造する技術がなかったことを根拠している。

しかし、日本の近畿地方からはこの時代以前の「鉄の甲冑」が多く出土している(例 大阪府黒姫山古墳)。
どこからこういう<珍説>が現れるのが不思議でしょうがない。

49 名前:名無しさん:2013/02/23 02:29 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
 『三国史記』では、「倭人」たちが兵船百余艘を繰り出して新羅の海辺を侵入して民家を掠奪した(14年−新羅第二代王「南解次次雄」)。第四代王「脱解尼師今」(解脱王)は日本(倭)の多婆国(丹波国)からやって来て即位(王権を奪ったと解釈される)(57年)と記され、「倭」と修好した(59年)(これは王が倭国から来たので可能になったと思われる)。
 232年には倭人が王都(金城)を取り囲んだという記述が見られる。「広開土王」の2年(393年)には再び「倭人」に王都(金城)を5日間取り囲まれるという事態にも陥っている。
「広開土王碑」の「391年に「倭」が伽耶・新羅を支配し臣下とした」との記述にも合致する。
 新羅は「倭人」の侵略にたびたび悩まされこれに対抗することが重大な国事となっていたことが伺われる



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【6:10】国号
1 名前:名無しさん:2013/02/13 11:40 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143
わが国における年号の最初は、孝徳天皇の時代の「大化」(六四五〜六四九)からと教えられた。そして「白雉」(六五〇〜六五四)と続き、その後断絶し、「朱鳥」(六八六)が一年だけ存在し、「大宝」(七〇一)から現在の平成まで連綿と続いたとされている。
これがわが国における一般的な年号教養であろう。元号の使用や法制化への賛成・反対を問わず、こうした理解が不動の通念として、明治以後の公教育の絶対的指針とされてきた。

2 名前:名無しさん:2013/02/13 11:43 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143
 古田武彦氏がこうした天皇家以外の古代年号を、志賀島の金印を貰った倭国の王者の後継である九州王朝が公布した年号、「九州年号」であるとする説を、『失われた九州王朝』(朝日新聞社刊、現在は朝日文庫に収録)で発表したのは一九七三年のことであった。
以来、九州年号研究は古田武彦氏を支持する全国の読者により深められていった。その中で、現存する最古の九州年号群史料として、『二中歴』(平安時代の辞典類、尊経閣文庫に鎌倉期古写本収蔵。本稿末に掲載)に収録されている「年代歴」が九州年号の原型である可能性が高いことが判明した。「継体」から「大化」(西暦五一七年〜七〇〇年)まで連綿と続く、この見慣れぬ年号群こそ古代九州王朝により建元された九州年号である。天皇家が「建元」したと『続日本紀』に記されている「大宝」に先立つこと、約百八十年前のことである。
 なお、『日本書紀』に記されている「大化」「白雉」「朱鳥」の三年号はいずれも「改元」とされており、初めて年号を立てたときに使用する「建元」という表記は使用されていない。すなわち、「大化」が天皇家の最初の年号ではないことを、『日本書紀』自身も示していたのである。これら三年号はいずれも九州年号からの盗用だったのだ(「大化」はその時間的位置も五十年ほどずらして盗用されている)。
九州年号の中でも最も著名な年号は「白鳳」であろう。それは現在でも、「白鳳時代」とか「白鳳文化」といった用語として使用されている。この「白鳳」こそ九州年号中、最長の二十三年間(六六一〜六八三)続いた年号である。この「白鳳」年号は天皇家の史書『続日本紀』に、聖武天皇の詔報として記録されている。次の通りだ。

 「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」
                 『続日本紀』神亀元年冬十月条(七二四)

 聖武天皇自らが「白鳳」「朱雀」という九州年号の存在を前提として発言していたのである。九州年号実在の証言か

3 名前:名無しさん:2013/02/13 11:45 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143
 朱鳥改元の史料批判 古賀達也より
『日本書紀』に現れる三年号中、もっとも謎に満ちた不自然な記述が朱鳥改元記事である。天武朱鳥元年七月条の次の記事だ。
「戊午(二十日)、改元して朱鳥元年と曰ふ。〈朱鳥、此を阿訶美苔利(あかみとり)といふ。〉仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)と曰ふ。」※〈〉内は細注。
                 『日本書紀』天武紀朱鳥元年七月条(六八六)

 天武の末年(十五年)七月に突然何の説明もなく改元し、その年の九月九日に天武は没している。そして、翌年は持統元年となり、『日本書紀』中では朱鳥は一年で終わっているのだ。大化は孝徳天皇即位に伴い「改元」され、続いて白雉と「改元」されており、それなりにつじつまはあっているが、朱鳥のみは天武末年の突然の改元という何とも不思議な現れ方をしているのである。
 まだ不思議な事はある。朱鳥にのみ「阿訶美苔利(あかみとり)」と和訓が施されている。年号に和訓とは何とも奇妙ではあるまいか。もちろん、大化・白雉にはない。しかも、朱鳥改元を飛鳥浄御原宮の命名の根拠としているが、これもおかしなことである。両者はほとんど音や意味に関連がない名称だからである。せいぜい「鳥」の一字を共有しているだけだが、「飛鳥」の地名や文字はそれ以前から存在し、この時に初めて使われたとも思われない。同様に飛鳥浄御原宮も天武元年に造られたことが見える。

「是歳、宮室を岡本宮の南に營る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」
                   『日本書紀』天武元年是歳条(六七二)
 天武元年から末年までの十四年もの間、天武が名無しの宮に住んでいたとは考えられない。このように朱鳥改元記事はかなり不自然、不明瞭な記事なのである。

4 名前:名無しさん:2013/02/13 11:52 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143
朱鳥元年の徳政令 古賀達也氏より

なぜ『日本書紀』編者たちは、朱鳥を大化・白雉と同様に天皇の即位・在位期間にあわせて盗用せず、九州年号「朱鳥」の本来の位置(六八六)、すなわち天武の末年という不自然な位置にそのまま記したのであろうか。うっかり、朱鳥のみを正しく盗用したとは思われない。やはり、そうせざるを得ない政治的理由があったため、あえて不自然な位置のまま朱鳥改元記事を盗用したのではあるまいか。その理由として、朱鳥改元記事の前日(七月十九日)の「徳政令」記事が注目される。
「丁巳(十九日)に、詔して曰はく、『天下の百姓の貧乏(まず)しきに由りて、稲と資材とを貸(いら)へし者は、乙酉の年(天武十四年、六八五)の十二月三十日より以前は、公私を問はず、皆免原(ゆる)せ」とのたまふ。」※()内は古賀による注。
                『日本書紀』朱鳥元年七月十九日条(六八六)

 このように前年以前の「借金」の元本返済を免除する詔勅が出されており、その翌日に朱鳥改元がなされているのである。しかも、この「朱鳥元年の徳政令」には続きがある。翌、持統元年七月条の次の記事だ。

 「秋七月の癸亥の朔甲子に、詔して曰はく、『凡そ負債者、乙酉年より以前の物は、利収ること莫。若し既に身を役へらば、利に役ふこと得ざれ』とのたまふ。」
                『日本書紀』持統元年秋七月二日条(六八七)

 このように、「利息」についても免除する詔勅が続いて出されているのだ。これら一連の「徳政令」にこそ、『日本書紀』に朱鳥年号を正しくその位置に盗用せざるを得なかった理由が隠されているのではあるまいか。というのも、朱鳥元年と翌年に出された詔勅は九州王朝と九州年号が健在だった当時であれば、「朱鳥元年」「朱鳥二年」の年号付き文書で通達されたと考えざるをえない。とすれば、それら朱鳥の「徳政令」通達は各豪族や評督など負債をかかえている者にとっては、貴重な「借金」免除の「証文」であったこと、これを疑えない。従って、近畿天皇家にとって、この「朱鳥の徳政令」を引き続き認めるのか、認めないのかは重要な政治的判断であったと思われるし、結果として近畿天皇家は『日本書紀』に「朱鳥の徳政令」を正しく記入することで、それら「証文」の価値を公認した。この場合、両詔勅を記した「徳政令」通達文書中には「朱鳥元年」「朱鳥二年」という発行年次や「乙酉以前」という免除年次が記入されていたはずであるから、『日本書紀』にも乙酉の翌年である六八六年に正しく朱鳥元年を記さざるを得ないという、動かすべからざる事情を有したのである。

5 名前:名無しさん:2013/02/13 11:56 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143
 この時期、もっとも経済的に疲弊していた勢力は、白村江の戦いに参戦敗北した九州王朝側の豪族たちであろう。しかも、戦前からの水城や神籠石山城の築城、そして戦時の徴兵と戦死による労働力不足など、その惨状は想像するに余りある。

「夏五月の辛卯の朔壬寅に、甲冑弓矢を以て、郭務宗*等に賜ふ。是の日、郭務宗*等に賜ふ物は、総合て[糸施]千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。戊午に、高麗、前部富加抃等を遣して調(みつき)進(たてまつ)る。庚申に、郭務宗*等罷(まか)り歸りぬ。」

 古田武彦氏によれば、この「朱鳥の徳政令」は九州王朝側が公布したものとされる(注7)。状況から判断しても頷ける見解である。他方、白村江戦に直接加わらず、戦力を温存した近畿天皇家側から見れば、おそらく債権者として「朱鳥の徳政令」に反発し、九州王朝を滅ぼす決断をしたのではあるまいか。
 ところが、七〇一年以後、列島の代表者として名実共に唐からも認知された新しき権力者、近畿天皇家にとって、自らの権力基盤を確かなものとするため、九州王朝影響下の豪族たちへの懐柔策として、「朱鳥の徳政令」を新王朝としても公式に追認するという政治的判断を行った。そのため、自らの新しき史書『日本書紀』に朱鳥元年条の「徳政令」記事を記すことにより、天下に周知させた、そのように思われるのである。
 『日本書紀』が成立した養老四年(七二〇)から三四年も昔の「徳政令」を追認しなければならなかった新王朝の政権基盤は、未だ必ずしも盤石ではなかったことがうかがわれるのであるが、九州王朝の影響を払拭するため、近畿天皇家はその後も様々な対応をせまられたようである。たとえば先に紹介した『続日本紀』神亀元年条(七二四)に見える聖武天皇による詔報も、その一例と思われる。

 「詔し報へて曰はく、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ。」
                   『続日本紀』神亀元年冬十月条(七二四)

 白鳳・朱雀という九州年号が近畿天皇家の詔中に現れる貴重な記事であるが、九州王朝時代の僧尼の名籍と実際とが一致しないため、新たに名籍を定めて運用するようにとの、聖武天皇自らの判断が示されている。このように、新王朝が旧王朝からの「行政」の継続に苦心している様子がうかがえるのである。なお、同詔報へのこうした視点については既に古田氏が述べているところでもある(注8)。

6 名前:名無しさん:2013/02/13 11:57 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143
 虎丸長者は藤原虎丸とも登羅麿とも伝えられ、筑前国御笠郡武蔵村古賀(注9)に館があったとされる。かなりの有力者で、国造とも伝えられている。主な伝承としては次のような内容が伝わっている。

○虎丸の娘、瑠璃姫が腫病を患った時、薬師如来のお告げにより地面を掘ったら温泉が出た。その温泉に入浴して娘の病が治った。その温泉が武蔵温泉で、『万葉集』に見える「次田温泉」のことと見られている。時に白雉四年のことであった。(『太宰府小史』太宰府天満宮発行、昭和二七年)

○白鳳二年、天智天皇の朝に仕える藤原虎丸が釈祚蓮を招いて武蔵寺を開基した。(『筑前國続風土記拾遺』)

○朱鳥元年十月十五日、虎丸卒す。毎年のこの日、武蔵村の村民七五家、虎丸の供養として地蔵會を催すようになった。虎丸の墓石が武蔵寺にある。(『筑前國続風土記拾遺』)

7 名前:名無しさん:2013/02/13 12:01 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143

 また、滋賀県大津に「鬼室集斯」の墓、と言うものがあります。「鬼室集斯」というのは「白村江の戦い」前後に活躍した「百済」の将軍であった「鬼室福信」の息子で、「白村江の戦い」の後日本に「亡命」したと「書紀」に書かれています。この彼の墓が大津にあるのですが、(六角型をしています)この中に「鬼室集斯」が死んだ年として、「朱鳥三年」と書かれています。(彫られています)

「朱鳥三年戊子十一月八日」

 ちなみに別資料(以下)によれば十三年まで続く事が推定されるもののようです。
「文武天皇御宇朱鳥一三年葛木神讒言 一代要記 」

 そのほか下記各種資料に確認され、実在性が大きいと考えられ、「書紀」のように一年で終わるものではないことが確かであると考えられます。

(以下使用確認例)
「持続天皇御宇朱鳥四年己丑依讒言伊豆国大島被流自夫。…」「會津正統記」
「文武天皇同十五庚子同十六年辛丑改元有大宝云…」「一六八八〜 本朝之大組之雑記」
「持統天皇朱鳥七年壬辰 朱鳥八年癸巳より元禄元年庚午迄…」 「一巻未書 」
「持統天皇御宇朱鳥八年歳次甲午春…」「修験道史料集II 昭和五九年 箕画寺秘密縁起 」
「朱鳥九年未月未刻に生まれ羊太夫と名付…」「上州の史話と伝説二 」
 
 なぜ一年間だけ「書紀」に記載されているかは諸説ありますが、この前年とこの年の二回にわたり「徳政令」(借金の利息と元金とを棒引きする)が発布されていることと関係しているという「古賀氏」の指摘が重要でしょう。

8 名前:名無しさん:2013/02/13 12:04 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143
 「大化」という年号は多分知らない人がいないのではないかと思われます。それほど「学校教育」での「大化の改新」という出来事については繰り返し教えられてきているわけですが、その「大化」というのは「書紀」では「六四五年」に「改元」され、(建元ではなく)そして、「白雉」へとつながっていきます。この「大化」は実は「二中歴」ではその元年が「六九五年」と記されており、「書紀」の「六四五年」とは「五十年」食い違っています。
 さらに「宮内庁書陵部」に蔵されている「帝皇系譜」(「副題」が「本朝皇統紹運録」というもの)には以下のように「文武天皇」について記載されています。

「文武天皇 白鳳十二癸未(十六日)降誕 大化三二立太子十五 慶雲四六十五崩卅五」

 ここに書かれた意味は「『白鳳』十年二月癸未の日に誕生し、『大化』三年二月に十五歳で立太子して、『慶雲』四年六月十五日に崩じた年齢は三十五歳であったというものです。
 この文章は「不思議」な文章であり、「即位」の年次が書かれていません。「立太子」の後に「即位」がなければならないはずですが、書かれていないのです。
 しかし「書紀」によると今度は逆に「立太子」したのがいつのことなのかが出ていません。「持統」から「禅譲」を受けて「即位」したのが「六九七年」とされていますから、「紹運録」とは「立太子」と「即位」が混乱しているように見えます。
 ただ、いずれにしても「大化三年」は「書紀」に言う「六四五年」を元年とするものではないことは「明確」です。

 「書紀」でも「続日本紀」でも「文武」の「即位」は「六九七年」であり、「慶雲四年」(七〇七年)に死去しています。死去した年齢は「続日本紀」では「二十五歳」とされ、逆算すると「立太子」した年齢の十五歳時は「六九七年」となりますから、この年が「大化三年」とされているわけです。この事から「大化元年」は「六九五年」となり、この年次は先に述べた「二中歴」の「大化」の元年と一致します。

 また、上の文章には「白鳳」という年号も出てきます。これも「大化」同様「九州年号」と考えられます。ただし、「白鳳年号」は「天智元年(称制元年)」(六六一年)を「元年」とする資料と、「天武元年」を「元年」とする資料と二系統確認されており、やや混乱があるようです。

9 名前:名無しさん:2013/02/13 12:06 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143
 (以下は「古賀氏」の研究によります)http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body046.html
 法隆寺には「善光寺如来の御書箱」というものがある(ようです)。というのも将来にわたって永久に封印するという法隆寺の方針により、開帳されることはない、ということになっているので詳細は不明なのです。しかし、明治時代に政府の調査により中が開けられ、その時の写しが東京国立博物館にあるようです。これは「善光寺如来」と「聖徳太子」の往復書簡と言われているものです。当然「善光寺」の側にも同様の伝承があり、天明五年(一七八五)に成立した「善光寺縁起集註」に「聖徳太子からの手紙」というものが記されていました。
 その内容は以下の通りです。

御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
         斑鳩厩戸勝鬘 上

 この中の日付に使われている「命長」は九州年号中に存在するものです。しかし、九州年号の「命長七年」は「六四六年」にあたり、干支は「丙午」です。この手紙では「丙子」とは書かれており、異なっているわけです。また、「聖徳太子」の生没年の(五七四〜六二一)とも全く整合していません。
 これについては、「聖徳太子」の時代の中の干支では「丙午」は五八六年になってしまい、この手紙を「聖徳太子」からのものであると主張するには、無理があると思われたのではないでしょうか。これが「丙子」であれば「六一六年」のこととなり、「聖徳太子」四十歳ぐらいとなって、このような手紙を出すのに矛盾がないと思われたのではないかと推察され、この手紙の年次(干支)については後年の手が入っていると考えられるものです。
 ただし、元々「命長七年」に「聖徳」から手紙が来た、という「伝承」があったものと思われ、(でなければ「命長七年」という年次が書かれる理由がありません)この人物を後年のイデオロギーにより、「聖徳太子」に「あつらえる」作業が行われたのではないかと考えられます。

 では「本来」のこの手紙の差出人はどこの誰なのでしょう。
 それは「御使」と記された「黒木臣」という人物がその鍵を握っているようです。というのはその「黒木」という姓です。この姓は調べてみると九州に非常に多い姓であり、というより、九州以外には「全く」存在していないといえるぐらい他の地域には少ない姓なのです。現在でも宮崎県の姓別ランキングでは第一位となっています。また、福岡県には福岡郡黒木村という地名が存在し、ここが黒木臣の出身地ではないかと考えられます。(現在も「黒木の大藤」などで有名)
 「御使」として遣わされた人物が「筑紫」ないし「日向」の人物であるとすると、彼を派遣した人物が「奈良」にいたと考えるのはかなり無理があると考えられます。「黒木臣」同様「筑紫」に所在していたと考えるのはそんなに困難な仮定ではないと考えられます。

 また、この願文の内容については「自分自身」と言うより「済度」つまり「他の誰か」を救うと言うことに力を貸してほしいという願文と考えられますから、この願文の主は「利歌彌多仏利」本人ではなく、例えば「家族」「親族」などの立場にいる人物が最もふさわしいのではないかと考えられます。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

10 名前:名無しさん:2013/02/13 12:15 ID:07cK/QnJZw IP:133.14.40.143
威徳王が新羅軍を倭国で迎撃すべく、援軍を要請して、倭国で新羅軍を返り討ちにした時に、威徳王は、騎馬民族の風習に従い、妻を稲目の子 蘇我馬子に与え、百済に帰ったと記されていたりします。

三国史記
600年(百済法王2年)法王が王興寺(ワンフンサ)の建立を開始し、僧侶30人を得度し、634年(武王35年)に落成したとされる。と伝えられてきたが、2007年10月 飛鳥寺の原型とも言われる扶余王興寺 ワンフンサ 址から出土した舎利容器から、577年2月に創建された寺であることが判明した。
木塔心礎から舎利壮厳具が発見され、その中の銘文には577年に百済王・昌が亡くなった王子のために寺を建てたと刻まれていたことがわかった。
威徳王(526/524 - 598.12 74歳)が 50歳
阿佐太子(557 - 631 74歳)が 20歳 の時のできごとです。

555年 欽明天皇16年2月に聖王が亡くなった事を知らせるために威徳王の使者として弟の恵が倭国に渡った。との『日本書紀』にみられるように、阿佐太子が同様に倭国との使者役を果たしていた。

598年、新羅の韓河流域の占領にもかかわらず、交通路に沿って高句麗軍が百済を侵攻した。威徳王の統治力が衰退し、阿佐太子は倭国に渡っていった(597年 推古 5年来朝)。戦争を主導的に導いていく勢力が明らかでなかったのに、百済は高句麗軍の侵攻を撃退した。この戦いは、孝順(法王)によって主導された。

598年12月 威徳王が死去した。威徳王の息子である阿佐太子が存在したにもかかわらず、戦いが終わった3ヶ月後、70歳を過ぎる高齢で、威徳王の弟である恵王が即位した。孝順(法王)は高句麗の侵攻の戦いにおいて主導的立場となり、政治的実権を握った。貴族たちの反発を考慮し高齢の父親の恵王を即位させた、孝順(法王)の政変が考えられる。



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