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【2:50】DNAと日本人
1 名前:名無しさん:2013/02/13 14:04 ID:Yde1Sb8gSk IP:133.20.188.184
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日本にたどり着いたY染色体亜型の移動経路と推定年代
日本列島にたどりつけたY染色体亜型は3型四種類である。 その内訳は、人類すべての系統5つのうち、出アフリカ1−C、出アフリカ2−D、出アフリカ3−Kの中のOとNである。 アフリカにとどまったアフリカ人固有種以外のすべての出アフリカ系の三種類のすべてが、時代を経てたどりついた。日本列島がユーラシアの端の集合地、吹き溜まりであることの証明が、染色体の分類から明らかになった。
オレンジ色で囲った亜型が日本列島にたどりついた・・・つまり私たちが今現在共有しているY染色体の型式である。Oが今から17、500年前に、Nが8、830年前に、Dが13、000年前に、そしてCが2万年くらい前に、それぞれそれを持った新人がたどりつく。 ということは弥生時代直前にやってきたのはNを持った人々である。 それ以前はOとCが混在しているところへ縄文人になる人々・D型を持った一団がやってきたことになるのだろうか。
こうして、現代、すべての日本人のY染色体・・・つまり父方であるが、を持った人々の、時代別到達が解明されたこととなる。 あとは母方であるが、当然、一緒にやって来るわけである・・・船ではない、もちろん氷河期は徒歩でやってくる。弥生直前の来訪者の場合、船の可能性が非常に高くなる。しかし、船の場合、女性まで来たかどうかはわかろうはずもない。
縄文時代は今のところ16、000年くらいには始まっていたと考えられているから、それも船で来ることになっただろう。
これまで漠然と3万年〜2万年ほど前に日本人の原種が列島に来たというのが定説であったが、これでほぼ2万5千年前という数値が出たことになる。
41 名前:名無しさん:2013/02/14 17:08 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
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やっぱり日本人のO3系統は、O3発祥の南方から早期に渡海してきた血統か。
北上してC3を飲み込んだ華北や朝鮮のO3がルートってことは D2、O2bだけでなく、O3についても完全に嘘だったわけか。 O3-M122はその分布が、レクナー本のモンゴルや中国のデータだと北方系
42 名前:名無しさん:2013/02/14 17:12 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
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O3が南太平洋から、オーストラリアのアボリジニ、アンダマン諸島の原住民にまで広がっているので、
1)長江と黄河の間辺りで、半農(陸稲米)半漁の黒いO3がまず船で南太平洋地域へ散らばり、 2)残ったO3がC3から白肌を移植し、米の(陸稲米)栽培を内陸の黄河の流域へ広げていった。 3)ただ、黄河の流域では米の栽培は収穫量はあまり良くなかった。そこに北から誰かが、 麦を持ち込み、麦の栽培の方が黄河の流域ではより適性があったので、麦に変えた。 と言うような仮説 何故、太平洋地域へ 広がったのか、そう言う海のルートが考えられるのか?。と言うのが引っかかります
発生時期は以前(1年位前?)1万年だったのが、今は1万年から3万年の間となり、 3万年の方にはReで中国人の論文が参照されています。 3万年前にO3が発生だと、(NO)発生25000-30000BP、O発生20000-30000、O3発生30000になってしまいます。 まあ、(NO),O,O3が同時に発生なんて…???
43 名前:名無しさん:2013/02/14 17:16 ID:U88CU54Rqo IP:133.14.40.143
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O3は海洋民だったとは思うけれど、南太平洋の手前までは陸や島伝いに、結構近くまで行けるんだよね。
2万年ー1.5万年前が最寒気→最大海面低下だから、その頃アンダマン諸島辺りでO3に変化したとして、 マレー半島とスマトラ、ジャワ、バリ、セレベスは確か繋がってた。
今度はO2bのルートが難しくなった。東南アジアはO2aで占められていて 長江へ来るずっと以前にO2aに変わってるということだから、O2aからO2bは生まれないし、 O2がO2aに変わる前に分裂させなきゃいけない。
44 名前:名無しさん:2013/02/14 18:38 ID:ZbxM.2GhJI IP:182.249.238.96
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韓国の地域別のYーDNAサンプル数が少なすぎ朝鮮半島が若干見られるD1が全く出てない他の調査ではO3が40-50%なのにヤケに比率が低い。O2b1に居たっては検出する気が無いなど。
大元の論文は"Y chromosome homogeneity in the Korean population(2010) Soon Hee Kim, Myun Soo Han, Wook Kim and Won Kim"であり、この比率は間違いである。済州島、全羅道、慶尚道でごく少数のD2が見つかっているのがこの論文の特長であり、逆に北にいくほどD2は出ず、D1が出てくる、むしろ、倭の新羅、百済、任那支配を決定づけ、北が中国の一部であった事(D1は、羌族出身の太公望の末裔である姜斉の遺伝子と考えられる為)を示すデータである。 済州島 O2b 22.2% O3a 38.9 N1c1 22.2% C3 16.7% 全羅道 O2b 35.1% O3 35.1% C3 27.0% 慶尚道 O2b 58.3% O3 38.8% N1c1 3.3%
45 名前:名無しさん:2013/02/15 05:51 ID:irOXOh1zds IP:121.103.44.140
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Japan YDNA haplogroup percentage
and possible migration timeline
Paleolithic Age Migration Down to circa 14,000 BCE
C1-M8 5.4% Obsidian
Neolithic Age/Cordmark/Jomon Pottery Era Migration Circa 14,000-1,000 BCE (Northern Kyushu)
D2-P37.1* 3.9% Pottery D2a-M116.1 16.6% Ditto D2a1-M125* 12.0% Ditto D2a1a-P42 2.3% Ditto D2 Total 34.8%
Sub Total 40.2%
46 名前:名無しさん:2013/02/15 15:36 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
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熊津(ゆうしん、웅진、ウンジン)
古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり、こむなり)、百済語では古莫那羅(コムナル、곰나루)と表記・呼称される。熊川(錦江)の畔の都市であり、現在の忠清南道公州市にあたる。 475年に高句麗の長寿王が百済の国都・漢城(現在のソウル特別市)を陥落させ、百済の蓋鹵王を処刑すると、南方に逃れていた(あるいは新羅に救援を求めに行っていた)文周王が即位し、首都を熊津に移した。後に聖王が538年に、さらに南方の泗沘(現在の忠清南道扶余郡)へ遷都するまでの63年間、百済の首都であった。
47 名前:名無しさん:2013/02/15 15:39 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
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欽明天皇二三年(五六二)正月》二十三年春正月。新羅打滅任那官家。〈 一本云。二十一年、任那滅焉。忽言任那。別言加羅国。安羅国。斯二岐国。多羅国。卒麻国。古嗟国。子他国。散半下国。乞〓[冫+食]国。稔礼国。合十国。
任那が滅んだのは562年ということになっていますが、560年という説もあったことになります。 ちょうど、百済滅亡660年の100年前ということになります。
48 名前:名無しさん:2013/02/15 15:51 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
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聖王(せいおう、? - 554年7月)は、百済の第26代の王(在位:523年 - 554年)。先代の武寧王の子。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明穠。先王が523年5月に死去したことにより、王位についた。『日本書紀』には聖明王または明王とあり、武寧王の死去の翌年524年正月に即位したとある。『梁書』には明の名で現れる。
49 名前:名無しさん:2013/02/15 15:55 ID:W30PdRJeIE IP:182.249.233.179
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梁からは524年に〈持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王〉に冊封され、新羅と修好するなど、中国南朝と結び、また新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗しようとする百済の伝統的な外交態勢を再び固めた。しかし529年には高句麗の安臧王の親征に勝てず、2000人の死者を出した。538年に首都を熊津(忠清南道公州市)から泗沘(忠清南道扶余郡)に移し、「南扶余」と国号を改めた。新羅との連携についても、南方の伽耶諸国の領有を争って不安定なものとなり、新羅への対抗のために殊更に倭(ヤマト王権)との連携を図った。
541年には任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した(いわゆる任那復興会議)[1]。百済のヤマト王権に対する要請は、百済主導の伽耶諸国の連合体制を承認することと、新羅に対抗するための援軍の派遣とであったが、欽明天皇から武具や援軍が送られたのは547年以降のこととなった。この頃には百済は再び新羅と連合(羅済同盟)して高句麗に当たるようになっており、551年に漢山城(京畿道広州市)付近を奪回したが、553年に同地域は新羅に奪われてしまった。同年10月に王女を新羅に通婚させているが、554年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に、孤立した王子昌(後の威徳王)を救援しようとして狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ戦死した。在位32年。諡されて聖王といった。
50 名前:名無しさん:2013/02/23 04:41 ID:IgRchX5I3E IP:121.103.44.140
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アイヌの古話に「先住民のコロボックルという小人が住んでおり、これを滅ぼして住みついた」というものがあると聞いたことがあります。また、アイヌには、先に示した北方民族の特徴がほとんど見られないのです。むしろ、南方民族の特徴が顕著に見られるのです。
確かに、日本とロシアが地続きであれば、人が渡って来たと考えるのは正しいとは思いますが、それは「コロボックル」で南から来たアイヌ人(縄文人)に滅ぼされたと考えた方がよいと思います。アイヌは千島、樺太、沿海州にも多く居住しておりますが、これは日本から渡ったと考えた方がよかろう
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