霧の中の物部氏

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コメント

  • 地域と年代等を考えて、大和三輪の大物主命は、北九州にあった大国主命(大己貴神)と別神であり、出雲にあった大国主命(大穴持命)とも別神でありますが、これら大国主神関係神はいずれも海神族の祖神であり、天孫族の物部連の男系祖神になりようがありません。古田説は間違いか。
    大物主命の後裔の磯城県主家がいったん絶えたのち、その女系を引く者が物部連の系統から入って磯城県主家を再興したことがあり(天孫本紀に記事がある)、その物部系統が後世まで磯城県主を世襲し後世の中原朝臣氏につながった事情がありますが、二つの磯城県主家を同じ氏として混同するのは疑問大
  • 一族の矢田部氏

    添下郡矢田郷を中心に大和郡山市・奈良市辺りに勢力を持ち、穂積氏は摂津国島下郡穂積郷(現茨木市穂積)を中心に西方の豊島郡穂積村(現豊中市の穂積・服部)にかけての地域に居住した。大和郡山市矢田には名神大社の矢田坐久志玉比古神社があり、茨木市穂積の北方近隣の福井に三島郡唯一の名神大社・新屋坐天照御魂神社があって、ともに饒速日命を祀るから、各々矢田部氏、穂積氏が奉斎したものとみられる。
     豊中市の穂積遺跡から出土したのが弥生後期の土器様式「穂積式」であり、大和の石上神宮の西側の布留遺跡(天理市布留町・三島町・守目堂町の一帯) から出たのが古式土師器として有名な「布留式」であって、物部氏の故地・遠賀川流域の遠賀川式土器につながる。近畿で遠賀川式土器をまともに伝える史跡が 東大阪市の鬼塚遺跡であり、その北に隣接する西ノ辻遺跡と併せて規模が大きいが、その真北一キロほどには石切劔箭神社が鎮座する。穂積一族が古来奉斎して きた古社である。
     これら三地域では、古墳の規模からみて山辺郡の勢力が最も盛んであったことが分かる。
  • 藤原明氏は、「国造本紀」の物部系国造の分布に疑問を呈しています
    物部系国造の大半が尾張氏の属する東海地方に濃密な分布

    静岡県(駿遠豆)及び愛知県東部(参)におかれた七ないし八の国造のうち、四国造(参河、遠淡海、久努、駿河)が物部系と伝えられます

    これは、『高橋氏文』や『書紀』景行段などに見える景行天皇の東国巡狩に随行した物部一族の子弟が配置された結果なのです。
    『古事記』では、「物部と無関係の天穂日命の後裔とされていた遠淡海国造が物部の系に取り込まれているという問題さえある」と記述されますが、これは氏の誤解であり、『古事記』の記事のほうが間違っています。どうして『古事記』の記事のほうが正しいと判断したのでしょうか。

    実際には、出雲国造家は天穂日命の後裔ではないし、物部連は出雲国造家と同祖関係にあった(実際の祖を天若日子、すなわち天津彦根命とする)という事情にあります。伊豆国造も物部一族とみる説がありますが、ここの「物部」は「服部」の誤記ないし誤解であり、「物部一族」を饒速日命後裔と限定すれば、一族ではなく、同じ系統の氏族(服部は物部同族ということ)です。
  • 饒速日命の本来の位置づけはきわめて難解であるが、天忍穂耳命の子で、瓊々杵命の兄弟にあたる天火明命(北九州筑後所在の邪馬台王家の祖か)と近い親族であったことが考えられる。その場合、「天孫本紀」に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と表現しているのも、その出自を示唆するものとみられる。天火明命との関係では、実際にはその従兄弟たる天目一箇命(都留支日古命)かその兄弟・少彦名神かの子かとみられ、現段階では、具体的には「天津彦根命-天目一箇命(経津主神)-饒速日命」という系譜が妥当ではないかと考えられる。
      谷川健一氏は物部と少彦名神を祖とする鳥取部との近縁性、物部・鳥取部ともにすぐれた鍛冶技術をもつことを指摘する(『白鳥伝説』など)。少彦名神が出雲の大穴持命の国造りに協力したことは記紀等に見えており、この兄弟が出雲で活動したことは、それに比定される神々が別名とはいえ、『出雲国風土記』に見える。意宇郡の山代郷や大庭辺りに本来の本拠をもち、熊野大神を奉斎する出雲国造家も、実際の出自は天目一箇命後裔ではないかと推される。
      なお、天目一箇命(天太玉命)の位置にその兄弟の少彦名神が入る可能性もあり、山代国造が祖とする伊岐志邇保命(「天神本紀」)は物部連の祖五十研丹穂命(「伊福部系譜」で、伊伎志爾冨命とも表現)と同神であり、この神は筑紫の大己貴命の子(娘婿も含めて)にあたり、おそらく天津彦根命にあたるものかとみられる。

    ○ 饒速日命は畿内に遷住して河内国河内郡の日下の地に入り、のちに大和国鳥見白庭山(磯城郡)に遷ったと伝える。その子・可美眞手命とその正統は、大和国十市(磯城)郡穂積里(現、田原本町大字保津)に居て穂積姓を負い、孝元天皇~成務天皇朝に后妃を輩出した。この氏族の原始名が穂積で、嫡裔が穂積臣であったと考えられる。穂は稲の穂にもみられるが、むしろ鍛冶部族の「火(ホ)」に通じ、天忍穂耳命や天火明命、五十研丹穂命という遠祖の名に用いられている。
      その一方で、饒速日命が大和入りしたとき天物部を率いていたことや、崇神朝頃に分岐した支族の物部連がその軍事・刑罰という職掌からか次第に強大化し、履中朝の伊弗、雄略朝の目など大連の位につく者を輩出したため、一般に「物部氏族」で呼ばれることになる。「物部」とは、真年翁が「品物ヲ作ル也」と記しており、『旧事本紀』の「天神本紀」には二田物部・当麻物部・芹田物部・鳥見物部・横田物部など二十五物部が記される(この「物部」自体は物部氏族とは限らないことに留意)。
      物部連の本拠は河内国渋川郡とみられることが多いが、これは守屋大連の頃のことで、初期以来、大和国山辺郡の穂積郷・石上郷(天理市中央部の前栽町から布留町にかけての一帯)が同様以上に重要な地であった。古式土師器とされる布留式土器を出した布留遺跡(天理市布留町・三島町等一帯)は、古墳時代までの複合遺跡であり、物部氏族に関係するものとみられる。その近隣には、同氏族奉斎の石上神宮や一族の墳墓もある。布留遺跡よりも古い唐古・鍵遺跡は穂積郷に近く、ここが物部氏族初期の居地とみられる。
  • 遠祖の天目一箇命・少彦名神兄弟の母は、海神族綿積豊玉彦命の姉妹、豊玉媛(高比売)であり、饒速日命の母は足浜目門比売命とみられ、その系譜は不明だが、海神族の一員で、足浜は葦浜の意で猿田彦神(豊玉彦命の子)の姉妹ではないかと推される。饒速日命の同母兄弟には、伊豆・服部氏族の祖もいたとみられるが、布留遺跡の近隣には山辺郡服部郷もあった

     大売布命は『高橋氏文』に若湯坐連等の始祖物部意冨売布連と見え、その子の豊日連とともに景行天皇の東国巡狩に随行したと記される。大和の志紀県主や東海地方から関東にかけての物部氏系の諸国造の多くは、この大売布命ないしはその兄弟の大新川命・十市根命の子孫とされる。
      諸国の国造家としては、熊野国造(紀伊国牟婁郡熊野)、三河国造(三河)、遠淡海国造(遠江)、久努国造(遠江国山名郡久努郷)、珠流河国造(駿河)、久自国造(常陸国久慈郡)、三野後国造(美濃)、及び四国・九州の小市国造(伊予国越智郡)、風速国造(伊予国風早郡)、杵肆国造(肥前国基肆郡)と相当多くあり、「国造本紀」に掲げる。

    駿遠参の物部氏系という国造については、別系的ともみられる色彩もある……参河・珠流河国造はともに三野後国造の支流ではないかとみられ、遠江の二国造家も参駿両国造と同系か和邇氏族かで、水神性が濃い。伊予の小市国造も同様に水神性が強く、珠流河国造と同系とみられる。美濃の村国連、矢集連なども、当初は別系統であった氏で混入したのではないかと疑ったが、三野後国造の一族とみられる。これらは御井神(木股神)を奉斎し、その式内社が三野では各務郡(奉斎者は村国連か)、多芸郡(同、物部多芸連か)に鎮座する
  • 熊野神人出の鈴木一族(穂積臣後裔)、熊野国造後裔氏族、伊予の河野・越智一族(小市国造後裔)、武蔵の児玉党(久自国造後裔)、長門の厚東一族などが繁衍している。また、伊予の越智支族から出た橘遠保が藤原純友追討に活躍したが、この一族は橘朝臣姓を冒称し、武家橘氏として諸国に繁衍した。遠江・駿河の物部古族の流れには、橘や越智水(不老水)など長寿の信仰が見られることに留意
  • 志紀県主(志貴県主。録・和泉。志貴、惣社-駿河府中惣社神主家)、志貴連(録・大和。吉野郡十津川の蛛手氏は磯城姓というが、族裔か)、志紀宿祢、志紀朝臣、十市部首、十市部宿祢(十市宿祢。十市、山尾、新賀、八田、味間-大和国十市郡人で、称中原姓。その一族と伝えるものには、大和の田原本南、釜口、白土、乾、西尾、喜多、辰巳、吉田。津田-河内国交野郡人)、
  • 越智国造と駿河国造

    「国造本紀」に見るように、駿河国造の祖は須堅石命で大新川命の子とされており、越智国造の祖・大小市命も大新川命の子ですから兄弟となりますが、私は実際には同一人で、越智国造は大小市命の子の子致命(実名は若伊香加)に始まると考えています。
    駿河には不死の山(富士山)があり、ここでも不老長寿が関係します。富士山の祭神木花開耶姫命は大山祇神の子とされ、大山祇神は大三島など越智一族が奉斎する各地の三島神社で祀られますし、『予章記』には、小千御子の兄弟が駿河の清見崎に着いて当地の庵原・大宅氏の祖となったと伝えます。この辺が、越智国造の駿河起源とヲチ命名の由来についての傍証です。
  • August 2017 編集されました
    先代旧事本紀巻十「国造本紀」には、以下の物部氏族国造があったという。

    ◉熊野国造(くまののくにのみやつこ、くまのこくそう)
    熊野国(紀伊国牟婁郡、現在の和歌山県南部と三重県南部)を古代に支配した熊野国造は、饒速日命の後裔で、物部氏や穂積氏とは同祖とされる。
    姓(かばね)は初め熊野直、後に熊野連。
    「和田氏系図」によると、子孫の一部は和田氏を称したという。

    饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔、大阿刀足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の代に熊野国造となり、その子・稲比が熊野直の姓を賜ったという。また、大阿刀足尼の弟がもとの河内阿斗に住み阿刀氏の祖となったという。
    「阿刀」の起源の地は、河内国渋川群跡部郷で「跡部神社」はこの一族の奉斎する神社です。一族から空海(母は阿刀氏)を輩出した。

    熊野国造の系譜では、後裔一族が熊野本宮を世襲した。
    熊野本宮・新宮・那智という熊野三社で祭祀がなされ、主な社家は、各々、熊野姓の和田氏、穂積姓の鈴木氏、尾張姓を称する潮崎氏であった。
    速玉神を祭神とする新宮は、神階では常に本宮より上位にあり熊野中心の神とみられ、新宮の摂社「神倉神社」の御神体であるコトビキ岩が最初の速玉神の降臨場所とされ、本来の元宮であり、本来の祭神は速玉神であるという。「速玉」とは饒速日命とも言える。

    「和田氏系図」によると、醍醐天皇の代に牟婁郡大領(従五位下右衛門尉)熊野広方(橘広方)が橘姓に改姓(橘良殖の猶子となったか)、広方の娘は鈴木良氏に嫁いで鈴木重氏の生母となった。広方の 3代後の橘良冬(和田良冬)が和田庄司を称した。
    それ以来、国造家は和田庄司(和田国造)を称して和田氏となり、神仏習合の時代に中央の後盾をえた熊野三山社僧勢力の筆頭であった熊野別当の勢力に圧されたが、子孫は土豪として紀伊国全域、河内国などに勢力を持った。

    ◉参河国造 三河

    三河国(現・愛知県東部)は古く三州・参州 (さんしゅう)とも呼ばれ、かつての地方行政区分である国の1つであり、参河国とも表記されたが長岡京以後は三河と表記されるようになった。成務天皇(13代)の時代、出雲色大臣命(いずものしこおおみのみこと)の5世孫・知波夜命(ちはやのみこと)が三河国造に任ぜられたことに始まるという。
    現在の三河国には三河国造と穂国造があり、大化の改新(645年)の時、西の参河国と東の穂国が合併して三河国となり、国府・国分寺は豊川市の白鳥・八幡周辺に設置されたとも。

    ◉久努国造 遠江
    久努(くど、くぬ)国造は久努国(現・静岡県磐田市・袋井市周辺)を支配した国造で、仲哀天皇(14代)の時代に物部連(もののべのむらじ)の祖・伊香色男命(いかしこおのみこと)の孫・印播足尼(いなばのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。

    大化の改新後の国郡制の実施により、出雲氏又は物部氏の系統の地方豪族であった遠淡海国・久努国・素賀国が遠江国に属することになった。

    ◉遠淡海国造 遠江
    遠淡海国造は遠江国(現・静岡県西部、遠州平野一帯)西部を支配した国造とされ、成務天皇(13代)の時代、伊香色雄命(いかしこおのみこと)の子・伊岐美命(いさみのみこと)が遠淡海国造に任じられたことに始まるという。
    大化の改新後の国郡制の実施により、出雲氏又は物部氏の系統の地方豪族であった遠淡海国・久努国・素賀国が遠江国に属することになった。遠淡海は一般に「浜名湖」を指すと言われ、「磐田湖(大之浦)」を指すとの一説もあるが、琵琶湖を近淡海(ちかつおうみ)と称したのに対して浜名湖を遠淡海と呼んだことから名が付いたという。また遠淡海から「遠江」に変わったのは713年の勅命により国名を2字としたことによる。国府は現・磐田市中泉の府八幡宮付近と考えられている。

    ◉珠流河国造 駿河
    珠流河国造・駿河国造(現・静岡県東部)は駿河国東部を支配した国造で、成務天皇(13代)の時代に物部連(もののべのむらじ)の祖・大新川命(おおにいかわのみこと)の子である片堅石命()を国造に定めたことに始まるとされる。

    駿河国は駿州(すんしゅう)とも呼ばれ、大化改新以降、珠流河国造と廬原国造(現・静岡県中部)の領域とを併せ、また伊豆半島・伊豆諸島(後の伊豆国)を含む広大な領地だったという。須流加・須留可・薦河等とも表記されるが、語源は明確には分かっておらず、山から海に落ちる険しい川の意を有することからというのが一般的である。珠流河国・盧原国が一つになり、更に7世紀の後半、「駿河」の名で統一され、681年には伊豆国が分離し、駿河国は駿河・富士・盧原・安倍・有度・益頭・志太の7郡になり、国府・国分寺は静岡市におかれたという。

    ◉伊豆国造 伊豆
    伊豆国造は伊豆国(現・静岡県三島市周辺)を支配した国造であり、仲哀天皇(14代)の后・神功皇后摂政の時代、物部連の祖で機織(はたおり)を司る天藐(藐の兒は生)桙命又は天御鉾命(あめのみほこのみこと)の八世孫・若多祁命又は若建命(わかたけのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。
    孝徳天皇(36代)の時代には駿河国の属国であったが、681年には伊豆国として分離した。伊豆氏や後の日下部氏が伊豆国造の後裔とされ、若多祁命の裔孫・矢田部氏の子孫は伊豆国三島神社の神主を代々世襲しているという。

    ◉久自国造 遠江
    久自国造は久自国(現・茨城県日立市・常陸太田市周辺、旧久慈郡)を支配した国造と言われ、国造本紀(先代旧事本紀)によると、成務天皇(13代)]の時代に物部連の祖・伊香色雄命(いかしこおのみこと)の三世孫である船瀬足尼(ふなせのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。

    釆女(うねめ)氏・丈部(はせつかべ)氏が国造を世襲し、後には有道(ありみち)氏が世襲した。日立市にある泉神社(天速玉姫命神社)の由来によると、崇神天皇(10代)の時代に久自国造であった船瀬宿禰の奉請により大臣・伊香色雄命をこの神社に祭ったという。また常陸太田市にある梵天山古墳の被葬者は船瀬足尼(ふなせのすくね)と言われている。

    ◉三野後国造 美濃
    三野後国造は美濃国東部(現・岐阜県可児市周辺)を支配したと言われ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、物部連(もののべのむらじ)の祖・出雲大臣命(いずもおおおみのみこと)又は物部十千根(もののべのとちね)の孫・臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)が国造に任じられたことに始まるとされることから、物部氏と同系とみられる美濃後直(みのしりのあたい)が国造家であったが、後に三野前国造に合併されたとも言われている。

    同じ美濃地方にあった三野前国造は伊勢・安濃県造と同族と見られているが、三野後国造とは遠祖が同じと考えられている。 また岐阜市金町の金神社の境内には「賀夫良城(かぶらぎ)」という史跡があり物部賀夫良(臣賀夫良命)の墓と言い伝えられ、また神社周辺に蕪城(かぶらぎ)町がある事からも国造との関連性が高いと考えられている。

    ◉小市国造 伊予
    小市国造は小市国(現・愛媛県今治市)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(10代)の時代、物部連(もののべのむらじ)と同祖の大新川命(おおにいかわのみこと、大新河命)の孫である小致命(おちのみこと、こちのみこと、子致命)を国造に定めたことに始まるとされる。
    小致命は姓氏録にも名が載り、また初代国造・小致が越智氏の祖とされ、小市(おち、小千・乎千)氏が国造を世襲し、大三島大山祇神社を奉祭したという。天孫本紀の物部系譜には大新川命の子・物部大小市連(おおおちのむらじ)が小市直(おちのあたい)の祖とされている。

    愛媛県今治市大三島町にある大山祇神社は全国の山祇神社、三島神社の総本社となっており、その所蔵文書によれば社家は三島大祝家と呼ばれ、伊予小市国造の越智氏の後裔とされる。愛媛県今治市にある鯨山前方後円墳は初代国造・小致命の墳墓と伝えられている。

    ◉風速国造 伊予

    国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(10代)の時代に物部連(もののべのむらじ)の祖・伊香色男命(いかしこおのみこと、伊香色雄命)の4世孫にあたる阿佐利命(あさりのみこと)を国造に定めたこと始まるとされる。
    松山市八反地にある国津比古命神社は物部阿佐利(阿佐利命)が創建したと伝えられる延喜式内社で、風早氏・物部氏の氏神として河野氏の崇拝も厚かったという。

    ◉末羅国造 肥前

    末羅国造とは末羅(松浦)国(現・長崎県松浦、佐賀県唐津市、伊万里市、東松浦郡)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、穂積臣(ほずみのおみ)と同祖で伊香賀色雄(いかがしこお)の子・大水口足尼(おおみなくちのすくね、大水口宿禰)の孫にあたる矢田稲吉(やたいなぎ)を国造に定めたことに始まるとされる。
    末羅国は、魏志倭人伝の末廬国と考えられており、古事記・先代旧事本紀などには末羅県・末羅国造等と名が記され、肥前国風土記・延喜式には松浦郡となっている。矢田稲吉は肥前風土記に登場する唐津地方の土蜘蛛を討滅した大屋田子(日下部君の祖)と同一人物とも考えられている。

    ◉松津国造 肥前
    松津国の所在地は、明らかではない。
    松津国造に物部連の祖・伊香色雄命の孫の金連(かねのむらじ)が任じられた。
    佐賀県(肥前国)基肄郡(きいぐん)は、明らかではない物部連の祖・伊香色雄命の孫の金連(かねのむらじ)の松津国造の「松津」を 「杵肄」の 誤記と見て肥前国基肄郡にあてる説がある。
  • October 2017 編集されました
    『先代旧事本紀』物部氏系譜


    児 宇摩志麻治命 神武天皇の御世に、初めて足尼(すくね)になり、次に食国政申大夫(おすくにまつりごともうすまえつきみ)となる。
    孫 彦湯支命 綏靖天皇の御世に初めは足尼になり、次に食国政申大夫となる。
    三世孫 大禰命 安寧天皇の御世に、侍臣。
    弟 出雲醜大臣命 懿徳天皇の御世に初め食国政申大夫となり、次に大臣となる。
    弟 出石心大臣命 孝昭天皇の御世に大臣となる。
    四世孫 六見宿禰 (孝安天皇の御世)宇摩志麻治命の裔孫の六見命を足尼(すくね)とし、次に宿禰(すくね)とした。
    弟 三見宿禰命 孝安天皇の御世に近くに宿直する縁で初めに足尼になる。次に宿禰となる。
    児 大水口宿禰命 (孝霊の御世)大水口命と大矢口命は共に宿禰となる。
    弟 大矢口宿禰命 孝霊天皇の御世に宿禰となる。
    五世孫 鬱色雄命 孝元天皇の御世に大臣。
    妹 鬱色謎命 孝元皇后、開化朝皇太后、崇神朝太皇太后。
    弟 大綜杵命 孝元の御世に大禰(おおね)となる。
    弟 大峰大尼命 開化の御世に大尼(おおね)となって仕えた。
  • August 2018 編集されました
    法隆寺庄倉

    河内國
    同国で最も多く「庄倉」を布施したのは、澁 川郡で約46町歩、次が和泉郡で約45町歩であっ た。澁川郡の豪族については物部本宗家である ことは前述した。
    和泉郡の庄は和泉郡坂本郷珍南荘にあったこ とは『法隆寺別当次第(続群4下)』で確かめら れており、同地の有力豪族は韓国連源の祖で、『続 日本紀-延暦九年十一月十日条』に、外従五位 下の韓国連源が「自らの祖は物部大連の末裔で す。物部連とはそれぞれの居住地と事の担当に よって百八十氏に別れ、源の先祖の物部連塩児 は父祖が遣わされた国の名によってわざと、物 部連を韓国連と改めましたが、もともと大連の 子孫は日本の古くからの人民であるのに、三韓 から新たに渡来した人民のようにみられている のは遺憾で、したがって韓国の二字を改め高原 姓を賜るよう願い出た。」とする記事について検 討したい。

    『日本書紀』-継体紀には、「九年(515)春 二月、物部連(『百済本紀』では物部至至連)を 百済派遣」記事の他、物部連の記事が十年九月 まで続き、「同二十三年(529)春三月に、物部 伊勢連父根の百済派遣と津割譲記事が見える。 (但し、同記事は継体九年記事と重複している との指摘あり)したがって、これらの記事群か ら『続日本紀』延暦九年十一月十日条が記す韓 国連源の「改姓」記事には信憑性が認められる。
    また韓国連源の官位外従五位下は、地方豪族 に贈位され、その位は中流貴族層に相当するこ とからも、法隆寺に「庄倉」を布施したのは、 七世紀以前から河内国和泉郡を支配していた豪 族である韓国連源の先祖と思われる。
  • 菅原道真が書いたとされる『長谷寺縁起』に よれば、道明上人と共に長谷寺を開基した徳道 上人(656~735年)は揖保郡矢田郷の生まれで、 俗名は辛矢田部造米丸であることから、先祖は 朝鮮半島南部に進出していた「倭国」の物部一 族の矢田部氏であったと思われる。その他、同 郡には出雲臣や佐伯直一族の記録が見られる。
    なお、播磨國太子町の法隆寺庄倉施入時期に ついて、『太子町史』は、「法隆寺別当次第-親 誉大徳の項に、長暦四年(1040)寺家慶好を実 検使として播磨国鵤御荘へ遣わす」との記事よ り、平安中期を鵤荘の成立とする指摘がある。 したがって『法隆寺資材帳』の天平十九年記事 は後世の記述と考える学者も多い。そのため「郡 名」の表記は後世に記述した時点の認識と思わ れる。
    以上の考察と約219町歩という大規模な庄倉を 法隆寺へ布施したのは揖保郡の物部氏をはじめ とした多くの豪族・知識層と思われる。
  • 六人部(むとべ)の由来(の一説)

    ☆「天孫記」によると、神代(かみよ)の古(いにしえ)には、
      妙斗(みょうと)の命(みこと)は、身渡部(みとべ)の運(むらじ)
      の祖であった。現在のむとべ(六人部)は、みとべ(身渡部)
      からきたものといえよう。
       身渡部の運は、京の西方に住み、篠を皇室に献上していた。
      篠とは竹のことで、皇居の建築等に利用されていた。
    ☆藤原時代。平安初期の弘仁(元年801年)時代以降、約270年間。
    このころ、身渡部の郷は、平の資基(つねもと)の所領となる。 
      その後、鳥羽天皇の皇女、八條院の所領となる。
    そのころは、  六人部の荘園と称せられる。
    ☆鎌倉時代、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、北条氏が政権を握
      っていた時代。(1192年~1333年)。「六人部の郷」は、
      八條院から亀山天皇(700年前)の皇子 、守良親王に譲られる。
      その時の譲り書には、「丹波ノ国六人部庄、生野・大内・長田」と
      いう地名が出ている。庄は荘園とも称し、下屋敷または隠居所で
      あったといわれる。
  • 阿閉苅田臣比羅夫

    まずは、苅田の神社 地名を探る。
    ーーーーーーーー
    苅田 (かりた)
    首姓。三代実録貞観十二年十二月に、伊予国宇摩郡の人、苅田首倉継・苅田首浄根らに物部連の姓を賜ったことがみえる。ウヂ名の苅田は讃岐国苅田郡の地名にもとづき、伊予国へ移り住んだものがいたのだろう。
    高屋神社
    香川県観音寺市高屋町
    山田神社
    香川県観音寺市柞田町
    加麻良神社
    香川県観音寺市流岡町
    (論)加茂神社
    香川県観音寺市植田町

    於神社
    香川県観音寺市粟井町
    (論)応神社
    香川県観音寺市大野原町大野原
    粟井神社
    香川県観音寺市粟井町

    丸部臣、刈田首の両氏は三野郡、豊田郡の大領をつとめ、刈田首は紀井朝臣を賜り土佐の国造ともなった家系であり、丸部臣は橘氏の子孫であるといわれ、後にまなべ姓を名乗り西讃岐地方で活躍していると考えられる。

    粟井神社
    創建時期は不明。讃岐忌部氏がこの地を開墾したさい、氏神の天太玉命を祭ったのが始まりと伝えられる。「粟井」は阿波国または安房国から転じたという。かつては刈田大明神と称し、苅田郡(刈田郡、神田郡とも呼称)の由来となったという。
    かつての鎮座地は、現在の鎮座地より南方約600mの所という。大同2年(807年)に焼失し、寛弘元年(1004年)に杉尾神社(現・粟井神社境内社杉尾神社)の地(現在地)に遷座したという。
  • 元明天皇は藤原不比等によって擁立された天皇だった。その元明天皇のあと、平城京の遷都がおこる。これによって不比等の一族の繁栄が確立する(857夜)。一方逆に、石上麻呂は、この歌の2年後に平城京が遷都されたときは、藤原京に置き去りにされた。そういう宿命をもつ。つまり中央から切られたのだ。不比等の仕業であったろう。
     こういう事情を勘案していくと、元明天皇が恐れたのは、石上麻呂に代表される物部一族やその残党がおこしそうな「何か」を恐れていたということになる。その「何か」がデモンストレーションとしての「ますらをの鞆の音」に象徴されていたのであろう。それがつまり、弓の弦を鳴らす音だった
  • December 2018 編集されました
    欠史八代は、大物主を奉斎した時代。

    崇神まではヤマト朝廷はあきらかにオオモノヌシを大神と仰いだのだ。
     いま、大神といえばアマテラスにしか使えない称号になっている。しかし、少なくとも崇神の時代前後は大神はオオモノヌシのことだった。しかしその後、アマテラスを大神(おおみかみ)と称することになると、オオモノヌシは「おおみわ」と称ばれる大神に格下げされた。これがいま、三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社である。

    石見の物部氏の東遷

    崇神による四道将軍・吉備津彦の派遣になっていく。吉備津彦がわざわざ山陰山陽の平定に派遣されたということは、そこにはすでに先行の国のモデルがあったということになる。
     本書も、ここからは「三輪のオオモノヌシ」が実のところは「出雲のオオモノヌシ」(大国主)からの転身であること、しかし実際の国作りのモデルは大和ではなく、それに先行して出雲や吉備にもあったのではないか
  • December 2018 編集されました
    崇神から継体天皇は、大和を中心に王権が確立する時代=古墳時代
    各地に大王が現れた時代でもある。

    継体天皇から天智天皇までは、交易と繁栄の時代。

    その後、仏教と律令制の時代になる。

  • 09/03編集されました
    高屋神社(たかやじんじゃ)

    所在地 大阪府羽曳野市古市10
    主祭神 饒速日命
    広国押武金日命
    社格等 式内社(小)・村社
    創建 宣化天皇3年(538年)

    式内社で、旧社格は村社。

    饒速日命と広国押武金日命(安閑天皇)を祀る。

    当地は物部氏の系統で、『新撰姓氏録』に「饒速日命の十世の孫、伊己止尼大連の後」と記される「高屋連」の本貫地であり、祖神として饒速日命を祀ったものである。

    安閑一族が都としていたのは、現在、橿原市曲川町大垣内に比定されている勾金橋宮で、彼の諡も「勾大兄」だったのですが、終の棲家は隣国河内・高屋の地に造営されました。
    安閑と高屋に一体どのような繋がりがあったのでしょうか?

    襲国の高屋

    高屋神社 宮崎県宮崎市

    日本書紀 景行天皇の12年7月
    熊襲が背いて貢ぎ物を差し出さなかったので、天皇は筑紫(九州)に下り、その年の11月、日向に入り、高屋に行宮(あんぐう)を建て、住まいとした。
    同13年5月、ことごとく熊襲の国を平定。すでに高屋の宮に居ること6年となり、日向に美人の聞こえ高い御刀媛(みはかしひめ)を召して、妃(きさき)とした。妃は日向国造(くにのみやつこ)の始祖である豊国別(とよくにわけ)皇子を産んだ。
    景行天皇は 竹田で土蜘蛛を征伐した後熊襲の国 襲国の高屋に行宮(あんぐう)を建て住んだようです。

    讃岐、観音寺市の高屋神社
    延喜式内社讃岐二十四社の一つ。本宮は稲積山の山上にあり、下に下宮(遙拝所)があります。この社は当初稲積山頂にあったのを1600年頃に、山の中腹に移し、さらに1760年頃に山嶺に移しましたが、里人はその祟りをおそれ、1831年に山頂の旧地に再び本殿を造営しました。山の名を取り稲積社とも呼ばれています。

  • 遠賀軍団の存在を示す「遠賀団印」(奈良時代?)が太宰府市で発見されています。

    遠賀団、あるいは遠賀水軍とはどのような組織だったのでしょうか。

    その萌芽は仲哀天皇と神功皇后の時代に見ることが出来ます。

    仲哀天皇が下関市豊浦宮(忌宮神社)に皇居を構えた七年目、新羅軍が上陸して皇居を襲撃しました。
    (この戦いは記紀には書かれていません)

    それ以前から皇居周辺に侵入していた新羅と戦うために豊や筑紫の古代豪族たちが一致団結しました。

    遠賀川流域の遠賀水軍は、崗県主の祖・熊鰐を長とし、陸軍は物部氏が中心となっています。
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