坂本臣、紀角宿禰、根使主、使主とは

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コメント

  •   安康紀と雄略紀に次のような話がある。大泊瀬皇子(雄略)の妃に草香幡梭皇女を乞うたが、使いをした根使主が草香部皇子が承諾の徴として差し出した押木珠蔓を横取りした上、草香部氏は皇妃を出すつもりはないと言っていると讒言した。この根使主(坂本臣の祖)の悪事は、後に露顕し、根使主は殺される。そして、根使主の子孫を二分し、一方は大草香部民として皇后に封じ、もう一方は茅渟県主に与え、また難波吉士日香蚊の子孫を探して大草香部吉士にしたというのである。

    茅渟県主に袋かつぎ人として与えられたという根使主の子孫の坂本臣は推古朝の高官であり、祖先が袋かつぎ人であったようには見えない。

    根使主(坂本臣の祖)が、大草香部民と茅渟県主に二分されたという。
      坂本臣の坂本は『和名抄』の「和泉国和泉郡坂本郷」(大阪府和泉市阪本町付近)とされる。根使主の所在地は坂本であり、これを二分した一つを治めたのが茅渟県主とすれば、坂本は茅渟の領域にある。坂本は奈良時代に和泉監・和泉国府がおかれた和泉府中があった地であり、聖武天皇の珍努宮があったと推定されている地域である。
      「茅渟」については、衣通郎姫を住まわせた地として現在の泉佐野市上之郷付近などに比定されることがあるが、和泉府中とみるのが適当である。
      坂本臣というのは茅渟に入った草香部氏の別称と解される。根使主の「根」とはおそらく「在地」であり、草香部氏が坂本(茅渟)に侵攻し、在地勢力を制圧したということであろう。
      『書紀』に坂本臣と大河内氏にともに「糠手」という人物が現れる。
      坂本臣糠手  推古八年  百済派遣
             推古十八年 新羅・任那の使者を迎える
      大河内直糠手 推古十六年裴世清を接待(『隋書』では小徳阿輩台)
    この両者は同一人物であり、複姓であろう。
  • この地域で須恵器を生産した遺跡を「陶邑古窯址群」とよばれます。ここで生産された須恵器は、全国的に広い範囲にもたらされ、貯蔵・調理用の日常容器や祭祀の用具として使われました。陶邑古窯址群における生産のピークは5世紀後半から6世紀にかけてとみられています。古墳に副葬品として埋葬される須恵器を大量に生産することを活動の拠点とされていました。しかし古墳が築造されなくなるにつれて、宮廷・寺院などで用いる祭器として使用されるようになっていきました

    5世紀末から6世紀はじめ頃になると、全国的に倭王権の地方支配が強化され、新たな支配の方式が導入されました。人々を部民に編成して支配し、屯倉(みやけ)を置いて土地を支配するという方法がとられたのです。そのような動きは和泉地方においてもみられ、堺市草部付近の人々が倭王権の部民に設定されたと考えられています。「日本書記」において「大草香部民」という部民が設定されたと記されています。大草香が現在の堺市草部付近をさしていることより、この地域の人々が倭王権の正式な部民に設定されたことがうかがえます。
    この地は陶邑古窯址群の真ん中を貫流する石津川と和田川の合流地点にあたり、また当時の幹線道路である南海道が通る水陸交通の要地でした。当然、須恵器製品の輸送、資材・燃料の運搬にとって重要な場所であるとみられ、この地域の人々が倭王権の部民に任じられたことは、倭王権の管轄に重要な意味を持っていたものであることは間違いないと思われます。屯倉がおかれた場所としては、現在の堺市栂や片蔵付近であるものと考えられます。現在の桜井神社付近において、桜井屯倉がおかれたことがわかっています。この場所はまさに陶邑古窯址群の中央にあたり、石津川の各支流の合流点にあたることから、須恵器製品や資材などの運搬に最適の地域なのです。またこの付近に建てられた倉庫址からは大量の須恵器製品が出土しています。この点からも、倭王権がこの地域をより直接に支配していたことがうかがわれます。
  • 垂仁天皇三九年』 垂仁の皇子の五十瓊敷命は茅渟菟砥川上宮にいて、剣一千口を造らせた。
    よって、その剣を川上部と云う。またの名を裸伴と云う。
    菟砥川上宮 『和泉国名所図会』では、鳥取荘自然田邑の東南 (阪南市自然田)。菟砥川の上流。

    この西側に岬町があり、褐鉄鉱の塊がとれる場所があった。鍛冶屋谷と云う。褐鉄鉱の塊は湿原の薦・葦・茅などの根に、球・楕円・管状になった水酸化鉄の団塊が密生した状態を云う。鈴生りとなる。
    これを砕いて夾雑物を取り除くと、低質の砂鉄となり、砂鉄と混ぜて製鉄の原料にする。

    宇度墓古墳(淡輪ニサンザイ古墳)
    南海淡輪駅の南側に五十瓊敷命の陵とされる泉南第2位の前方後円墳がある。墳丘長170m、後円部径110m、3段築成で、後円部を囲むように6基の賠塚がある。この3段築成は、元福井県埋文ンター所長の中司照世氏は「大王家につながりのある人物が埋葬されている。」との説であるが、五十瓊敷命は実在するとして4世紀代と思われる。宇度墓古墳は5世紀中葉から後半の造営と推測されており、宮内庁の指定は当たらない。

    『雄略紀九年』 新羅を征討するため、天皇は紀小弓宿禰らを大将軍として派遣した。紀小弓宿禰らは進撃がめざましかったが、陣中で病気になり、薨じたと云う。
    紀小弓宿禰の妻の吉備上道釆女大海は小弓宿禰の喪に従って帰国し、大伴室屋大連に小弓宿禰の墓を造る場所を相談し、室屋は天皇に申しあげた。天皇は紀小弓宿禰を称えて、視葬者を派遣し、大伴卿と紀卿は同じ国の近い隣であると云われ、淡輪邑に墓を造らせて葬った
  • 日根郡を舞台とした刀剣製作の伝承が、紀氏が招来した韓鍛冶による優れた武器製作を背景にしている。宇土墓造営に力を発揮した大伴室屋に紀小弓の妻は韓奴六口を贈った。吉備の勢力は同時期に造営された造山古墳・作山古墳の巨大さに、強大さがしめされている。さらに吉備は砂鉄を原料にさらに吉備は砂鉄をした鉄器生産は5~6世紀には行われていた形跡もある。
    吉備から紀氏へ贈られた韓奴は鉄器製作の工人であって、ある時期、和泉の地で鉄器製作に従事したのだろう。真弓常忠氏は五十猛神を韓鍛冶が奉じた神と見ておられる。
    『和泉国名所図会』 の淡輪の条に紀氏にかかわる伝承地が書かれている。
     小弓宿禰墓  淡輪邑の東南にあり。方一町許。周知に水をたたえる。
     上道大海墓  同村の西南にあり。小弓宿禰の妻なり。
     紀船守墓   淡輪村の西にあり。船守は雄人の子。桓武天皇の寵臣なり。
    船守神社が鎮座している。紀船守、紀小弓宿禰、五十瓊敷入彦命を祭神としている。
  • May 2016 編集されました
    紀朝臣・紀角宿祢を祖とす。皇別。
    坂本朝臣  和泉郡坂本郷 和泉市 泉北高速和泉中央駅の北坂本町

    竹内宿禰 ー 紀角宿禰━━白城宿禰━━紀小弓━━━大磐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・男麻呂→ [紀氏]
  • 応神天皇の巻
       三年百済の辰斯王が貴国の天皇に非礼があり、紀角宿禰・石川宿禰・木莵宿禰を使わした。百済国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは阿花を王として帰国した。

    仁徳天皇の巻
       四十一年、紀角宿禰を百済にやり、国境の分け方、郷土の産物を記録させた。この時百済の王族酒君が無礼であったので、紀角宿禰は百済王を責めた。

    雄略天皇の巻
       九年、紀小弓宿禰が新羅討伐の大将軍として海を渡り、新羅軍を打ち破った。この戦で、大伴談連と紀崗前来目連が戦死、紀小弓宿禰は病没と記されている。
       紀小弓宿禰の子の紀大磐宿禰は父の死を聞いて新羅に向かったが、蘇我韓子宿禰などと仲違いして、帰還した。
        船守神社「紀船守、紀小弓、五十瓊敷入彦命」泉南郡岬町淡輪4442番地 紀氏一族を祀る。
    顕宗天皇の巻
       三年、紀生磐宿禰が任那をまたにかけて高句麗と通じ、三韓の王となろうとし、自らを神と称した。

    欽明天皇の巻
       二十三年、新羅が任那諸国を滅ぼしたので、修復のために紀男麻呂宿禰が大将軍として派遣された。

    崇竣天皇の巻
       即位前紀、物部・蘇我戦争で、紀男麻呂は蘇我側につた。

    崇竣天皇の巻
       四年、任那再建の為、紀男麻呂は巨勢猿臣らと大将軍として2万の軍勢ともに筑紫に到った。推古天皇三年大和に帰った。
  • 阿閉臣事代銜レ命、出二使于任那一於レ是、月神著レ人謂之曰、我祖高皇産霊、有レ預下鎔二造天地一之功上。宜下以二民地一、奉中我月神上。若依レ請献レ我、当福慶。事代由レ是、還レ京具奏。奉以二歌荒樔田一。歌荒樔田、在山瀬国葛野郡也壹伎県主先祖押見宿禰侍レ祠。

    阿閉臣事代が使者として行ったのが任那であり、そこで高皇産霊や月神が現れるのは何を意味するか。「高天原」が「高霊伽耶」??

    顕宗三年(四八七)是歳 紀生磐宿禰が任那を占有し高麗に通い三韓の王となろうとし神聖を自称した

    紀生磐宿弥、跨二據任那一、交二通高麗一。将三西王二三韓一、整二脩官府一、自称二神聖一。用二任那左魯、那奇地甲背等計一、殺二百済適莫尓解於尓林一。尓林高麓地也築二帯山城一、距二守東道一、断二運レ粮津一、令二軍飢困一。百済王大怒、遣二領軍古尓解、内頭莫古解等一、率レ衆趣二于帯山一攻。於レ是、生磐宿弥、進レ軍逆撃、膽気益壮、所レ向皆破。以レ一当レ百。俄而兵尽力竭。知二事不一レ済、自二任那一帰。由レ是、百済国殺二佐魯、那奇他甲背等三百余人一。

    阿閉臣事代は命をうけ、使いとして任那に行った。この年、紀生磐宿禰が任那を占有し高麗に通い三韓の王となろうとし神聖を自称した。任那の左魯・那奇他甲背らの計を用いて百済の適莫爾解を爾林で殺した。百済王は怒り、帯山に出向き攻めた。紀生磐はことのならないのを知り任那から帰った。百済国は任那の左魯・那奇他甲背ら三百余人を殺した

    という事件が任那をめぐって起きた。これには新羅が入っていないから「西三韓」とは高句麗・百済・任那のことかと思われ、とすればこの「任那」は高霊伽耶を中心としていると考えるべきであり、「帯山城」がどこであったかがきめ手になるが、これは鮎貝氏以下によれば、全羅北道井邑郡泰仁の地だという。この「任那」を田中氏は「安羅」としているが賛成し難い。
  • October 2016 編集されました
    草香部氏は摂津長田と関係がある

    大草香皇子の妻で後に安康妃となる中蒂媛皇女は雄略即位前紀にはまたの名として長田大娘皇女となっている。草香部氏が摂津長田から妃を迎えているわけだが、これは草香部氏が長田の氏族と結びついているか、あるいは長田を統属したことを示している。

    やはりこの長田と関係している氏族に大河内氏がある。摂津国菟原郡(西宮市)に河内国国魂神社があり、雄伴郡(神戸市長田区)に凡河内寺山がありこれが氏寺だという。この氏の出自については、菟原郡・雄伴郡を本拠としたが、河内へ進出したものとする論者もあるが、直木孝次郎氏は、本来は河内を拠点とした氏族であろうとしている。継体天皇が淀川右岸までヤマト政権の勢力下においたのを契機に、淀川左岸の河内に勢力を有していた河内直が淀川右岸にまで進出した。河内の拡大したものとして凡河内国と称され、河内直は凡河内直の氏姓を得たのであろうという。氏寺が雄伴郡(神戸市長田区)にあるのは、藤原氏が平城京に氏寺興福寺を建てたように本来の居地以外に氏寺を建てることがあるとしている。
      大河内氏の勢力圏が本来、河内~淀川左岸だとすると、これは草香部氏の所在地域と重なっている。草香部氏は古くからの勢力で長田との関係も履中朝からが現れるが、大河内氏は、雄略紀に凡河内直香賜の名が始めて現れる氏族である。草香部氏のいる長田に河内直が入ったのではなく、草香部氏が大河内氏を名乗ったものと見てよいだろう。
      安康紀と雄略紀に次のような話がある。大泊瀬皇子(雄略)の妃に草香幡梭皇女を乞うたが、使いをした根使主が草香部皇子が承諾の徴として差し出した押木珠蔓を横取りした上、草香部氏は皇妃を出すつもりはないと言っていると讒言した。この根使主(坂本臣の祖)の悪事は、後に露顕し、根使主は殺される。そして、根使主の子孫を二分し、一方は大草香部民として皇后に封じ、もう一方は茅渟県主に与え、また難波吉士日香蚊の子孫を探して大草香部吉士にしたというのである。

    茅渟県主に袋かつぎ人として与えられたという根使主の子孫の坂本臣は推古朝の高官であり、祖先が袋かつぎ人であったようには見えない。
    しかしこれらの話が全く根拠がないかとなるとそうではなく、氏族の分岐や統合といったものを反映している可能性が高い。

      ここで注目したいのは、根使主(坂本臣の祖)が、大草香部民と茅渟県主に二分されたという記述である。

      坂本臣の坂本は『和名抄』の「和泉国和泉郡坂本郷」(大阪府和泉市阪本町付近)とされる。根使主の所在地は坂本であり、これを二分した一つを治めたのが茅渟県主とすれば、坂本は茅渟の領域にある。坂本は奈良時代に和泉監・和泉国府がおかれた和泉府中があった地であり、聖武天皇の珍努宮があったと推定されている地域である。

    「茅渟」については、衣通郎姫を住まわせた地として現在の泉佐野市上之郷付近などに比定されることがあるが、和泉府中とみるのが適当である。
      坂本臣というのは茅渟に入った草香部氏の別称と解される。根使主の「根」とはおそらく「在地」であり、草香部氏が坂本(茅渟)に侵攻し、在地勢力を制圧したということであろう。

    『書紀』に坂本臣と大河内氏にともに「糠手」という人物が現れる。
      坂本臣糠手  推古八年  百済派遣
             推古十八年 新羅・任那の使者を迎える
      大河内直糠手 推古十六年裴世清を接待(『隋書』では小徳阿輩台)

    この両者は同一人物であり、複姓であろう。ともに外交に関係し、外国から来た客の接待にあたっている。外交交渉をやりうるのは王権の中でもトップに近い官位の人物に限られる。それがたまたま同じ「糠手」という名であったとは考えにくい。
  • 「丹後の国の風土記に曰はく、輿謝の郡、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫、日下部首等が先祖の名を筒川の嶼子と云いき。為人、姿容秀美しく、風流なること類なかりき。斯は謂はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。……長谷の朝倉の宮に御宇しめしし天皇の御世、嶼子、独小船に乗りて海中に汎び出でて釣するに、三日三夜を経るも、一つの魚だに得ず、乃ち五色の亀を得たり。心に奇異と思ひて船の中に置きて、即て寝るに、忽ち婦人と為りぬ」。この『丹後国風土記』逸文にみえる浦島子説話が、その後、民間伝承として日本人の中に浦島物語となって今日まで伝わっています。この「浦島子説話」 で注目されることは、この説話が輿謝郡筒川村(現、伊根町本庄浜)の島子伝承になっている一方で、この島子は 「日下部首等」の先祖にあたると記されていることです。
  • 阿蘇国造の姓氏は阿蘇君であるから、国造家の本宗はこの姓氏を子孫に伝えたことになる。武凝人の時点ですでにこの系統の支庶家となっていたということであるから、A系図に見える武凝人の兄弟の味吹乃君に国造職は受け継がれたとみられる。味吹の孫の宇志瓶・吹羽の兄弟は、遠明日香大宮朝(允恭朝)に阿蘇直姓となり、その甥の馬甘は長谷朝倉大宮朝(雄略朝)に穴穂部直姓となったと記されるから、この辺は『書紀』雄略十九年三月条の記事と合致し、自然な流れといえよう

    雄略天皇の皇后若日下命に因むとみられる日下部(草部)も阿蘇にある。すなわち、阿蘇神社の神官のなかに草部権大宮司家のほか、年祢祝・修理職検校・諸神祝・擬大宮司(苗字はいずれも宮川)として見える。もう一つの権大宮司家の下田権大宮司家も、草部権大宮司家の祖・草五郎吉治の兄の草部四郎吉成の後裔という系譜があるが、後に阿蘇一族から養子が入った形になっている。地名としても阿蘇郡東南隅にあたる現高森町草部に遺名地があって、草部吉見神社が草部一族の祖神として鎮座することも興味深い。
  • March 2017 編集されました
    讃岐の阿蘇氏

    平安中期になって遠く離れた讃岐に阿蘇氏一族が現れる。『政事要略』五九の承平五年(935)六月十三日の太政官符に弾正少疏大初位下阿蘇公広遠の調を免除するとし、広遠が三年前に出した解状では、讃岐国大内郡白鳥郷の戸主阿蘇豊成の戸口とされている。広遠は累進し、右大史を経て天暦五年(951)には左大史正六位上阿蘇宿祢広遠と見える(『朝野群載』『政事要略』)から、カバネも公→宿祢と変わっていたことが分かる。広遠の子孫は京都の官人として残り、正暦年間(とくに991~994)の右少史として阿蘇有隣が見えるが、世代的に考えると広遠の孫ではなかろうか。
    讃岐ではほかにも阿蘇氏が見える。寛弘元年(1004)の同国大内郡入野郷の戸籍(『平安遺文』)には戸主阿蘇氏宗(姓は不明)、同貞町、同中知など十八名の名前が見えるから、大内郡に阿蘇氏の支族が遷住していたことが知られる。阿蘇氏の同族は、北九州から伊予・讃岐さらには播磨に進出しこれらの地域に国造家として有力者であったから、阿蘇氏自体もこのルートに乗って遷住した支族があっても不思議ではない。

    『日本書紀』には宣化天皇の元年五月条に阿蘇仍君(名前は不明)が見え、宣化天皇は自ら阿蘇仍君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の穀を筑前のの津まで運ばせたと記される。このとき、物部麁鹿火は同族の新家連を、阿倍臣は同族の伊賀臣を各々遣わしており(蘇我稲目が尾張連を遣わした事情は不明だが)、この阿蘇君が九州の氏族か讃岐の支族かどうかは不明だが、阿蘇氏と茨田連が同族だという系譜を伝えていたことと無縁ではないと思われる。阿蘇仍君は天皇の直接命令を受けているということは、「阿蘇仍君が天皇家と密接に結ばれていたことを示唆する」と井上辰雄氏は記述しており、このときには阿蘇氏と天皇家との同族系譜が定まっていたのかもしれない。

  • 津野神社(つのじんじゃ)は、滋賀県高島市今津町北仰にある神社。湖西線の線路の西、近江中庄と近江今津の駅の中間。御朱印の有無は不明。

    『延喜式神名帳』にある「津野神社(近江国・高島郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

    創祀年代は不詳。社伝によれば、第12代景行天皇が志賀の高穴穂宮に坐した時、志賀の仰木に居た武内宿禰に、西淡海(琵琶湖の西)の屯田を下賜した。

    そこで、武内宿禰の子である紀角宿禰に治めさせたという。また、『古事記』にも記された、武内宿禰が敦賀に向う途中のこと。

    当地で武内宿禰が病になったが、天地神祇に祈り、病を払った。そこで、武内宿禰の子である紀角宿禰を周防国都乃郡より呼び寄せ、この地を治めさせたともいう。

    このため、当地は角郷と呼び、以来、その裔である角氏の治める土地となった。『和名類聚抄』にある「津野郷」は当地、及び当社のことではないかとする説がある。

    当地で亡くなった紀角宿禰の遺骸を角山に葬ったという。そこで、紀角宿禰の六世孫である角臣来子宿禰(角凝魂神)がこれを奉斎したのが当社の起源。

    平安時代前期の斉衡年間(854年-857年)、父である武内宿禰を配祀して、旧角大明神と称した。

    その後、紀角氏の遠祖である第8代孝元天皇を配祀し、三神を相殿とした。なお、式内社「津野神社」の論社は他に、角川に当社および式内同名神社がある。

    往古は角氏領有の角郷総社で、後に分地されて都農・川上の二郷となり、さらに治暦年間(1065年-1069年)、善積郷を加えて三郷を川上郷平等院の荘園となった。

    以降、日置神社とともに、旧川上庄22ヶ村の氏神で、この伝統は4月18日の両社共催による川上祭りとして、今も連綿と続いている。
  • 葛城氏が伝承上では大阪府から兵庫県にかけて勢力を広げていましたが、根臣の本拠もどうやら大阪府のようなのです。
     それと言うのも、根使主が稲城を造り籠城した日根は、大阪府にあった日根郡(現在も大阪府泉佐野市に日根野の地名を残しています)のことと解釈されていますし、坂本氏の本拠も大阪府和泉市の阪本町や東阪本町だとされている
  • 紀辛梶宿祢弟、建日宿祢「宿」二河内国和泉県坂本里一。清寧天皇改レ氏賜二坂本臣一。(成信考、建日宿祢者、白城宿祢曽孫、小弓宿祢孫、大磐宿祢二男也。) 注 卓云、「宿」はあるいは家か。
  • October 2018 編集されました
    安康天皇は、弟の大泊瀬皇子(おおはつせのみこと:雄略天皇)の后に、幡梭皇女(はたびのひめみこ:仁徳天皇の皇女)を貰いたい旨、その兄の大草香皇子(おおくさかのみこ)に申し入れ喜ばれるが、根使主(ねのおみ)と言う家臣が大草香皇子の献上品を着服し天皇に虚偽の報告をしたため、その讒言を信じ大草香皇子を殺害してしまう。そしてその妻、中磯皇女(なかしひめ)を宮中に召し抱え皇后とするのである。

    しかし、安康3年(456)8月、山宮(どこかは不明)に遊んだ時、大草香皇子の遺児で中磯皇女の連れ子であった眉輪王(まよわのおおきみ)に、皇后の膝枕で寝ているところを刺し殺されてしまう。56歳。

    兄安康天皇の死を知った大泊瀬皇子は、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)・八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)の二人の兄に眉輪王を討とうと持ちかけるが断られ、軍勢を率いて眉輪王を滅ぼし、二人の兄をも殺害してしまう。更に、従兄の市辺押磐皇子 (父允恭の兄、履中天皇の子)も、滅ぼし、21代雄略天皇となる。

    この時、市辺押磐皇子の皇子二人は播磨の国に逃亡。
    「播磨国風土記」等に新たな物語を生むが、後に23顕宗、24代仁賢天皇として再び日本書紀に登場する。

    安康天皇は生存中、市辺皇子に皇位をゆずる約束をしていたが、弟の大泊瀬皇子(雄略天皇)は、皇位につくため、市辺皇子を狩に誘い射殺するのである。しかし雄略天皇の次の清寧(せいねい)天皇に皇子がなかったので、側近は播磨の国にいた市辺押磐皇子の二子を探し出して皇位につけた。顕宗天皇(弟)と仁賢天皇(兄)である
  • 安康天皇が、仁徳天皇(16代)の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭姫皇女を同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した(大草香皇子と草香幡梭姫皇女は父系の叔父と叔母に成ります)際に、仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りするために、天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をします。
    安康天皇は大草香皇子を殺害し、その妃である中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后としました。
    中蒂姫は大草香皇子との子である眉輪王を連れており、これが眉輪王に安康天皇が殺害される直接の原因となったといわれます。

    暗殺の事実を知った大泊瀬皇子(雄略天皇)は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王を焼き殺します。
    さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いたのでした。

    雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇(24代)の皇后となり、その娘の手白香皇女が継体天皇(26代)の皇后となり欽明天皇を産んでいることから、雄略天皇の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いています。
  • 多気・坂本神社[たけ・さかもと]「武内宿禰(多気神社)、葛城襲津彦命(坂本神社)」
    由来書
    当社の御祭神は、多気(たけ)神社は武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)で 坂本神社は、葛城襲津彦命(かづらぎのそつたのみこと)である。
    共に延喜式内社であり両者は宝永の頃に合祀りされたと伝えられる。
    延喜式内社とは、醍醐天皇の御世撰上された延喜式神名帳に登載される古社の事であ る。武内宿禰袮命は第八代孝元天皇の御孫にして、永く朝政に参興し、樞機に興り、 其の歴任は実に景行、成務、仲哀、應神、仁徳、の五朝の久しきにわたり長寿の仁と 称さる。又御懐妊中の神功皇后を補佐し、應神天皇の御養育につとめられた事は、今 も人口に膾炙されている。葛城襲津彦命は、武内宿袮命の御子である。
    仁徳天皇の御製に、魂きはる宇智の吾兄汝こそは世の長人そらみつやまとの國にかり こむと聞くやと、御言葉があるによっても、長命であった事がうかがわれる。葛城襲 津彦命も武内宿禰袮命の御遺徳をつがれよく仁政を補弼された。命の息女、磐之媛は 履中、反正、允恭、各天皇の御生母である。ご祭神の子孫は蘇我氏であり、其の一族 布師臣、坂本臣、等が土佐の國にも点住し各地を開発し文化をひろめ産業をおこし租 神を奉齋して地域の守護神として祀った。一千有余年の鎮守の森は現在奈半利郷分七 ヶ部落の総氏神であり、延喜の古社のご神徳は広く内外からの崇敬を多しとしている。
    「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う」と云う。産業、文化 、延命長寿、安産育成。数々のご威徳は此の地に参ずる人々の、悪を抜い寿を増し命 を延べてご守護下さる。遠い遠い古代から神人共に生きぬき尚永久に続く信仰の有難 さは、何ものにも増して強く清く尊いものである。
    伝説、土佐の國の古名を建依別と云う、多気神社は土佐の國の國魂であろう「讃岐國 宮社考」神武天皇の御東征は日向から瀬戸内海を通過されたと歴史上の通説になって いる。しかし天皇の御通路は瀬戸内海ではなく土佐の沿岸だといわれる、日向から高 岡郡宇佐に着かれて安芸の多祁理の宮(多気神社鎮座地)に御滞在になり、諸準備を 整え阿波を経て、やまとに向かわれたと伝えられる。「古事記に」阿岐國之多祁理宮 七年坐と記す。広島県安芸郡府中に多家神社あり。
    古事記に匂う、安芸の地名や多気の御社名と共に、古代の人々が神武天皇ゆかりの伝 説を今に伝えてくれし事に、云いしれぬ心の温もりを感ず。
    高知県安芸郡奈半利町字広岡3855 玄松子の記憶
  • 10/10編集されました
    坂本氏の和泉市における拠点は、陶邑窯跡群の西に位置しますが、さらに西に行くと、和泉市と泉大津市の境界に池上曽根遺跡があります。これは弥生時代の集落跡で現在は史跡公園になっていますが、この地に曽根神社があります。ここの祭神は、物部氏や穂積氏の始祖であるニギハヤヒと、穂積氏の祖イカガシコオです。
    このように、陶邑窯跡群の西にあるのが坂本氏の拠点と曽根神社であれば、陶邑窯跡群の南に位置するところには、摩湯山古墳と土生神社があります。

    摩湯山古墳は岸和田市摩湯町にある全長200メートルの巨大前方後円墳で、古墳時代前期に造られたと推測されますが、被葬者についてはわかっていません。
     土生神社は摩湯山古墳よりさらに南に行ったところに位置する岸和田市土生町にある神社で、菅原道真、すなわち天神様を祀る神社ですが、元はオオクニヌシの国譲り神話で高天の原側の使者となったタケミカヅチ、フツヌシを祀る神社だったようです。このタケミカヅチも物部氏の祭祀する神です。
     その他にも、岸和田市中井町にある式内社夜擬神社の祭神は、やはり物部氏と関係の深い布留(ふる)の名を持つ布留多摩神です。
     何よりも、国道26号を岸和田市から下って貝塚市に入ってすぐのところに、式内社阿理莫神社(ありまか神社)が鎮座しますが、ここもまた物部氏と関係の深い地なのです。
     物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされた時、物部守屋の邸宅を守っていたのが捕鳥部万(ととりべのよろず)でした。『日本書紀』には捕鳥部と書かれていますが、捕鳥部は鳥取部とも書かれます

  •  『武内宿禰』は、讃岐に最も深い関係を有する。「讃岐通史」によると、宿禰の讃岐で繁栄した子孫に、
       三豊郡の木臣(紀氏)・坂本臣、
       綾歌郡の都奴臣・坂本臣・蘇我臣、
       香川郡の川邊臣、
       木田郡の坂本臣・布師臣・林臣、
       大川郡の木臣・坂本臣が       挙げられる。

     木臣から出た刈田氏に平安朝の中頃「刈田種継」及びその子安雄・氏雄・今雄がいる。

     三豊郡粟井村には、その古跡があり、同村の「刈田神」(県社 粟井神社 境内)は、同氏との関係が深い神社で、旧豊田郡は古く刈田郡といい、この神の神領であった。

     三豊郡大野原村の「應神社」は県下最大の古墳「椀貸塚」の上に鎮座しており、延喜式内社「於神社」はこの社とも伝えられる。

     坂本臣からは岡田氏が出ている。

     大川郡志度町 岡田神社 は同氏関係の神社である。
  • ≪丹後の浦嶋神社の公式サイトには  日下部氏は 月読命の末裔。浦嶋神社の由緒には  「開化天皇の子 彦座命の跡なり」。≫
    京都の松尾大社の摂社の月読神社は、(松尾大社よりも古いらしい)
    ≪ 「月神の裔と称する押見宿禰が神社を造営し祠官として奉仕した」≫

    さらに、

    ≪押見宿禰は 壱岐を氏の名とした押見宿禰の子孫は世襲神官として永く神社に仕えた≫

    ≪壱岐氏は 卜占を中央に伝えた氏族のひとつで   卜占に関与した者は 卜部氏を名乗っていた≫

    上の内容を簡潔にすると、

    月神(月読命)を祭る壱岐氏は、占に携わった人を卜部氏と呼び、その先祖には開化天皇の孫・彦坐王がいて、後裔は日下部氏である
  • 坂本糠手
    氏(ウジ):坂本【日本書紀】(さかもと)
    姓(カバネ):臣【日本書紀】(おみ)
    名:糠手【日本書紀】(あらて)
    生年月日
    ( ~ 用明天皇2年7月29日)
    没年月日
    (推古天皇18年10月9日 ~ )
    出来事
    用明天皇2年7月
    諸皇子や蘇我馬子ら群臣と共に物部守屋を討つ。
    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年七月条】
    推古天皇9年3月5日
    推古天皇が大伴連囓を 高麗こま に遣わし、坂本臣糠手を百済に遣わし、詔して「急ぎ任那を救え」と
    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇九年三月戊子条】
    推古天皇10年6月3日
    大伴連囓と共に百済から帰国する。
    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十年六月己酉条】
    推古天皇18年10月9日
    新羅・任那の使人が朝庭で拝礼した。
    秦造河勝・土部連菟を新羅の導者とし、間人連塩蓋・阿閉臣大籠を任那の導者とする。

    共に先導しながら南門から入って中庭に立った。

    この時に大伴咋連・蘇我豊浦蝦夷臣・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣は共に坐位から立って庭に伏した。

    両国の客は各々再拝して使いの旨を述べた。

    四大夫は進み出て大臣に伝えた。

    大臣は坐位から立って政庁の前で聞いた。
    諸客は禄を賜った。
    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十八年十月丁酉条】
    関連
    坂本臣
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