日子坐王、神大根王、長幡部、結城紬

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
image日子坐王、神大根王、長幡部、結城紬

彦坐王日本書紀では「詳細」は全く触れておらず、古事記だけの記述であります。是には何か、述べたくない意図的なもの…

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コメント

  • 日下部氏
     開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、但馬国造家の後裔である。 孝徳天皇裔とする系図が多く見られるが、大日本史の説に従う。 越前の戦国大名朝倉氏は、日下部氏の後裔を称する。
  • 誉津別命の出雲神参拝に随行したのは、やはり卜して日子坐王の孫の曙立王・兎上王兄弟で あった。そのとき曙立王は倭は師木の登美朝倉の曙立王という名を与えられたと『古事記』はいう。 師木は三輪山麓の磯城に他ならず、その名において出雲神の加護を得ることが出来たのである。
    □ さらに兄弟の系譜が『古事記』にあり、曙立王は伊勢の品遅部君と伊勢の佐那造の祖、兎上王は 比売陀君の祖である。このうち比売陀君の名は他の文献に一再出てこず、himedaはmがぬけたhieda、 つまり『古事記』を誦んだ稗田阿礼を出した稗田氏かもしれないと考えられる。また伊勢の佐那造 とは、おそらく銅鐸・鉄鐸の鐸に関わる一族である。というのも、銅鐸について『記・紀』はあか らさまに語らないが、齋部宿禰廣成が上申した『古語拾遺』には鉄鐸を「サナギ」としており、 佐那造の名に重なる
  • 『古事記』
    唖の誉津別命が出雲国に赴くさい、そのお供をするべき人物として占いに当たったので、曙立王がウケイをすると、一度死んだサギが蘇り、また一度枯れた樹木が蘇った。そこで垂仁天皇は彼に大和師木登美豊朝倉曙立王という名を与え、さらに菟上王をもお供にして、出雲を訪問させたという。

    手力男命を祀る佐那神社(三重県多気郡多気町)には曙立王命が配祀されています。また、佐那神社の辺りは水銀の産地で丹生神社(にゅうじんじゃ)もあります。

    兎足宿禰、兎上王

    生江臣の祖、孝元天皇の裔・葛城襲津彦命の四世孫。
    雄略天皇の頃、穂国の国造となった。


    菟上王は、彦坐王の子である大俣王の子で曙立王の弟。比売陀君の祖。
    物言わぬ品牟都和気命に付き添って出雲大神を拝し、神宮造築を奉行した。
  • 常陸の久自国造

    久慈郡を領域とした久自国造は、物部氏族で伊香色雄命の三世孫船瀬足尼が任命されたと「国造本紀」に伝え、常陸太田市天神林町に鎮座の式内社稲村神社は同国造が奉斎して大祖饒速日命を祀つたといわれる。この地は、もとは物部の一派・狭竹物部がおり、その居住によつて佐竹郷の起因となったが、佐竹氏の起源の地でもあった。こうしてみると、これら物部の同族が久慈郡密筑里(のち多賀郡水木)に居て泉神社を奉斎していたことが考えられる。

    茨城県の
    古墳時代前期の4世紀代に築造された可能性が高い古墳

    星神社古墳(大田市)は、古墳時代前期の4世紀代に築造された可能性が高く、伊勢山古墳(鹿嶋市)、王塚古墳(土浦市)、佐自塚古墳(石岡市)、長辺寺山古墳(桜川市)等とともに県内最古級の前方後円墳のひとつに数えられ、かつ、久慈川流域では梵天山古墳とともに最古の前方後円墳である。

    梵天山古墳(ぼんてんやまこふん)は、梵天山古墳群の主墳。

    茨城県内第2位の大きさを誇る前方後円墳で、前方部を西方に向けている。前方部が未発達で後円部が前方部に比べて高いという墳形等から、5世紀中頃の築造と見られている。葺石・埴輪・周溝はない。発掘はされていない。その規模から久慈川流域を支配した主張の墳墓と見られ、初代久自国造の船瀬足尼(ふなせのすくね)の墓と伝えられている。

    年代で見ると、梵天山の西側の星神社古墳が、初期の国造の古墳にふさわしい。

    星神社古墳(諏訪山古墳)
    拝領山諏訪山古墳
    所在地 茨城県常陸太田市小島町清水
    形 式 柄鏡式の前方後円墳
    周囲を水田に囲まれた全長100mの前方後円墳で、後円部の頂上には星宮神社が祀られていることからこの名がついた。江戸時代に鴨志田家が水戸藩から拝領したことから拝領山といわれ、諏訪山古墳とも呼ばれている。
    後円部に比べ前方部が未発達であることから、古墳時代前期に造られたものと考えられており、墳丘からは、特殊器台型埴輪という吉備(岡山)地方で見られる埴輪の破片が見つかっている。
    約650m南東に離れた全長160mの前方後円墳の梵天山古墳(県指定史跡)とほぼ同時期の古墳と考えられており、その関係が注目されている。
    星神社古墳の概要
    全長100m 主軸N80°E
    後円部 直径54m 高さ8.6m
    前方部 長さ46m 高さ2.6m 先端幅39m
    常陸太田市教育委員会
  • 古代の久慈郡の佐都郷・太田郷で繁衍したとみられる氏族に長幡部があります。『常陸国風土記』には、崇神朝に長幡部の美濃から常陸の久慈郡太田郷への遷住を伝え、当地で長幡部神社を奉斎したことが記されます。長幡部と同族の倭文部は、古代の衣服繊維を管掌する氏族として著名ですが、古代久慈郡で大いに栄えた模様で、十世紀初頭の延喜式神名帳には長幡部・倭文部に関連する式内社が久慈郡で五社ないし六社あげられます。常陸国全体で式内社が28座あり、久慈郡と那賀郡が各々七座あげられますから、久慈郡におけるこの古代氏族の比重の大きさが知られます。

      小野崎及び那珂の両系統の元祖的な位置を占める人物が太田大夫通延といわれることに着目すれば、当時の久慈郡太田郷が起源の地と考えられます。しかも、当地の古社の奉斎からみて、それが古族の末裔ということであれば、古代長幡部とのつながりが重視され、他の地域の例も考え併せますと、長幡部末裔の宗家的存在であったのが問題の小野崎一族と推されます。
  • 721年に成立した常陸国風土記(ひたちのくにふどき)に
    …郡東七里、太田郷、
    長幡部之社。古老曰、珠売美万命、自天降時、為織御服、従而降之神、名綺日女命。本自筑紫国日向二折之峰、至三野国引津根之丘。後及美麻貴天皇之世、長幡部遠祖多弖命、避自三野、遷于久慈、造立機殿、初織之。其所織服、自成衣裳、更無裁縫。謂之内幡。或曰、当織絁時、輙為人見。閇屋扇、闇内而織。因名烏織。丁兵丙刃、不得裁断。今毎年、別為神調献納之。…

    「…珠売美万命が天から降ったとき、衣服を織るために綺日女命を伴ってきた。初めは高千穂の峰に降り、そこから三野(美濃)引津根の丘に移った。その後、長幡部の祖である多弖命が美濃から久慈に移り、機屋を造って初めて布を織った。命が織った衣服はそのまま着ることができ、改めて裁縫する必要がなかった。だから命の織った衣服は“内幡”と言われた。またある人は“あしぎぬ(太絹:上質の徴税用の絹)”を織るときは人目につかないように、部屋を閉め切り闇の中で織ったので、“烏織”(うつはた)と名づけられたという。その布は兵士の刃も断ち切ることができない。この布は毎年、神への供え物として奉納している。…」と記されている
  • 幡山古墳群は、幡町の北南にのびる舌状台地上の高塚墳群・円墳群と台地斜面の横穴群からなる。以前は、前方後円墳1基と円墳約30基、横穴約160基からなる北関東屈指の古墳群であったが、現在は、宅地造成等により一部湮滅している。昭和38年の調査で、6号と11号横穴の内部に鳥や龍、船などの線刻壁画が発見された。7世紀前半から8世紀初頭に営まれたものと推定されている。
  • 常陸国風土記によると、祭神・綺日女命は天孫降臨に従い、
    後、日向から美濃(三野)へ移り、
    崇神天皇の御代に、長幡部遠祖・多弖命が、
    美濃から久慈の当地へ遷したという。
    当社は、優れた絁(太織りの紬か?)を織る長幡部の祖神を祀る神社。
    同じく織物の神を祀る、倭文神社(日本の古代布)などとは別の系統に属すようだ。

    現在の祭神は、風土記から、綺日女命と多弖命となっているが、
    江戸時代には、社名・長幡部から、大幡主命としたこともあった。
    また、美濃から遷ってきたことから、
    三野国本巣国造長幡部連の祖である、神大根王とする説もある。
    多弖命の文字が、多尼命の誤字で、「おおね」に通じるとも。
  • 延式内 長幡部神社御由緒
    御祭神 綺日女命、多弖命
    御由緒
    今より一二〇〇年以前に上られた常陸風土記に次の如く記されて居る。
    『郡の東七里、太田郷に長幡部の社あり。古老の曰へらく、珠売美 萬命、天より降りましし時、御服を織らむ為に、従ひて降りし神の 御名は、綺日女命、本は筑紫國の日向の二神の峰より、三野國の引津根の丘に至りき、後、美麻貴天皇(崇神天皇)の世に及び、長幡部の 遠祖多弖命、三野より避りて、久慈に遷り、機殿を造り立てて、初の て織りき、其の織れる服、自ら衣裳と成り、更に裁ち縫ふこと無し。 之を内幡と謂ふ、或は曰へらく、絁を織る時に当りて、輙く人の見 るが為に、故れ、屋の扉を閉ぢ、内を闇くして、織る、因りて烏織 と名づく。強兵、利剱も、裁ち断ることを得ず。今、年毎に、別に 神調として獻納れり』
    と、誠に御由緒深き古社である。
    即ち長幡とは、絁の名にして、これを織り作るものを長幡部という。
    御祭神の子孫が、その遠祖を祀ったのが当社である。
    延喜の制式内に列し、常陸二十八社の一なり。神階は仁寿三年 正六位上、明応十年正三位を進めらる。
    中世以降、小幡足明神 又駒形明神と称す。康平中源頼義北征に際し 戎旗一旗を献じ、以て戦勝を祈る。凱旋に及び、社地に鹿島、三島、神明、 若宮八幡の四所を祭り、四所明神とした。後、四所明神盛大になり、遂に 社号を失い、鹿島明神とのみ称え、延享年間に至り、故老の口碑に依 って旧社号に、復活したと云う。水戸藩 特に木材を進め、その用に 供す。殊に斉昭公深く敬し、弓矢刀剣の奉納あり。神社の北五町許り の処に旧宮跡ありて、神輿出社の際は必ず安置す。
    明治五年、郷社に列格。
    斯くて、当神社は、今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の 原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる所以でも
    祭祀
    元旦祭 一月一日、祈年祭 二月二十日、例祭 四月九日、 秋祭 旧九月二十九日、新嘗祭 十一月三十日

    -境内案内より-


    長幡部神社由緒
    御祭神 綺日女命。多弖命
    新編常陸国誌に「久慈郡太田郷幡村ニアリ二十八社考・郡郷考・蓋長幡部遠祖綺日女命・多弖命ヲ祭ル」とあり、皇孫瓊瓊杵尊天降りの時、御服を織られるため、機具を携えて御供した神に綺日女命あり、本は筑紫の日向の二神の峰より、三野国の引津根の丘に至られた。後、崇神朝に及び其の子孫多弖命、三野より常陸に移り、此地に機殿を建て長幡を織られた。長幡とは絁の名にて之れを織作るものを長幡部と云い、以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。即ち御祭神の子孫がその遠祖を祭ったのが当社である。今関東一円に広がる名声高き機業は実にわが御祭神の流れを伝えるものと云えます。
    神階は仁寿元年正六位上、明応十年正三位を進めらる。延喜式内久慈郡七座の一。常陸二十八社の一で、式内小社である。神社の北五町ばかりの処に旧宮跡ありて、神輿出社の際は必ず安置す。
    中世以降小幡足明神と云い、後駒形明神と尊称、康平年間、源頼義奥州征討の際、当社に戎旗一旗を奉献して戦勝を祈念し、凱旋に及び、社地に鹿島、三島、明神、若宮八幡の四所を祭り、四所明神とした。後四所明神盛大となり、遂に社号を失い鹿島明神とのみ称えて居ったが、延享年間に至り故老の口碑に依って旧社号に復活したと云う。正月七日間の祭礼、四月九日水木浜へ神幸あり、水戸藩代々の崇敬厚く、その祠宇の造営には常にその材を進め、殊に斎昭公深く敬し、弓矢刀剣の奉納あり、除税地四石八斗八合、明治六年郷社に列格、同四十年四月十日(第百七八号)供進指定。昭和二十七年六月十四日宗教法人設立(常陸風土記、延喜式、常陸二十八社考、新編常陸国誌略録誌)

    -『平成祭データ』-
  • 常陸太田市幡町に鎮座する、久慈郡式内社の長幡部(ながはたべ)神社です。
    祭神は綺日女命(かむはたひめ) 多弖命(たてのみこと)
    常陸国は織物が盛んだったようで、以前紹介した、静神社(那珂市静)や大甕倭文神社(日立市大みか町)がありました。蚕養(こかい)神社(日立市川尻町)があります。
  • May 2016 編集されました
    栲幡千千姫命
    葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する。
    『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘としている。
    『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)、第七の一書では「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子で玉依姫命というと記されている。天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。

    たく【栲】 コウゾの古名。「常に―の皮を取りて木綿(ゆふ)を造る」〈豊後国風土記〉「Goo辞書」より

    たえ たへ
    カジノキ ・藤 ・麻などからとった繊維 。また,それで織った布。 「臣の子 は-の袴を七重 をし/日本書紀 雄略 」
    布類の総称 。 「御服 (みぞ)は明る -・照る-・にぎ-・荒-に/祝詞 祈年祭 」

    たく 【栲▼】
    コウゾ またはカジノキ の古名 。 「此の 郷の中に -の樹 多(さわ)に生ひたり/豊後 風土記 」 「栲」に似た言葉 「三省堂大辞林 」より
  • 縫殿神社 ぬいどのじんじゃ
    福岡県福津市奴山

    応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。

    祭神はこの4名の姫と応神天皇、神功皇后、大歳神で、この神社は日本最初の裁縫の神様であり、この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます。

    この神社には、永享12年(1440年)につくられた梵鐘(県指定有形文化財、宗像大社神宝館に展示)、南北朝時代の大般若経600巻や江戸時中期ごろの三十六歌仙絵扁額をはじめとする絵馬があります。
  • May 2016 編集されました
    『新撰姓氏録』左京皇 別上に「御使朝臣。出レ自二諡景行皇子気入彦命之後一也。(後略)」とみえる氏(ウヂ)である。筑紫の御使君氏は、 これとは別のウヂであり、君の姓(カバネ)を称するこ とからすると、宗像氏と同系のウヂである可能性が高 い。



    応神天皇37年の春2月1日に、天皇は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)を呉に遣わして、縫工女(きぬぬいひめ)を求めた。
    阿知使主たちは高句麗国に渡って、呉に行こうと考えた。高句麗に着いたが、その先の道は分からない。道案内の者を高句麗に頼んだ。高句麗の王はクレハ、クレシの二人を道案内として与えたお蔭で、呉に行く事が出来た。

    呉の王は工女兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を倭国に与えた。

    応神天皇41年春2月15日に天皇は明宮で崩御された。御年110歳。
    この月に阿知使主たちは呉から筑紫に着いた。この時、宗像大神は工女たちを欲しいと言った。そこで兄媛(えひめ)を献上した。
    これが今筑紫国にいる御使君(みつかいのきみ)の祖である。

    残りの三人を連れて津の国に行って、武庫(むこ)に着くと、天皇はすでに崩御されていた。間に合わなかった。そこで次のオオサザキ尊に献上した。三人の末裔は今の呉の衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋の衣縫である。

  • May 2016 編集されました
    長幡(ながはた)とは絁(あしぎぬ)という絹織物(一説には絹より太い糸の織物)のことで、美濃絁(みののあしぎぬ)が有名だというので、この風土記の記述と関係してくる。
    部(べ)は長幡を織る人達という意味である。

    後の紬(つむぎ)の基となったものと解釈されており、この長幡部神社が、「今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる」と説明書きには書かれています。

    『日用重宝記』には、「纐纈」にハナブサという訓が見られますから、纐纈も花房も同訓であることが分かります
    纐纈は現在では音で「こうけつ(文語ではカウケツ)」と訓まれることが多く、岐阜県に集中して見られる苗字として知られていますが、もとは「ククリ」と訓まれ、「キクトヂ・ハナブサ」とも訓まれ、布の染色方法に由来します。この辺の詳細な事情は、吉川弘文館発行の『国史大辞典』「くくりぞめ(絞染)」の項(今永清士氏執筆)をご覧いただければ分かると思われますが、絞染(括染)とは布帛に模様を染め表すため糸などで結縛布地を防染する手法で古くから中国・インドなどで発達してきたものであり、天平三纈の一つが纐纈とされます。江戸時代の絞染で注目すべきは庶民の衣服に見られる木綿絞だと上掲書に記されますが、古代でも麻や木綿の染め方として用いられたと推されます。というのは、「くくり・はなぶさ」という地名が麻などの古代の衣服管掌氏族(及びその後裔)の分布地に現れるからです。

      いま久々利・纐纈・花房という地名が最も知られるのは美濃(岐阜県)です。久々利は全国でも可児郡可児町(現可児市)久々利だけですし、纐纈は可児郡御嵩町中の南町に纐纈神社が鎮座しています。花房については、加茂郡七宗町(もと武儀郡七宗村)の上麻生大柿にあり、花房山は揖斐郡(久瀬村と藤橋村の村境)にあります。これに関連して、北九州市若松区の花房山城が当地の中世豪族麻生氏により築かれたという事情もあります。
  • May 2016 編集されました
    『書紀』景行四年条には、美濃のククリの地名が見えます。
    すなわち、景行天皇の行宮泳宮(くくりのみや)があげられ、天皇が美濃に行幸され、八坂入彦皇子の娘弟姫を妃にしようとした故事が記されます。『万葉集』にも「ももきねの美濃の国の 高北の 八十一隣(くくり)の宮に ……」(歌番3242)と見えますから、ククリが古い地名と知られます。「泳」がククリと訓まれるのは、『古今集』に収める在原業平朝臣の歌「千早振る 神代も聞かず 竜田川 唐紅に水括るとは」からも知られます。

    神骨命の娘二人は景行天皇の子・大碓命に密通して、生んだ子が美濃の守君・武儀君等の祖となったと伝えますが、大碓命は同母弟の小碓命(倭建命)に殺害されたという伝承があり、子孫を残したことは考え難いものです。この系統は、実際には、大碓命が妃としたという三野前国造(美濃県主)の娘の一族・関係者であった可能性が高いと考えられます。
      中田憲信編『皇胤志』では、景行天皇の皇子五十功彦命の子の久々理彦命が大野君(美濃国大野郡住)等の祖とされますが、五十功彦命は景行の皇子ということで大碓命に通じており、世代的にみて三野前国造の祖・神骨命*2の子であって、久々理彦命が実際の守君・武儀君等の祖ではなかろうかと推されます。守君の起源の地は大野郡守村(現本巣郡巣南町北部の森)とされており、地理的に本巣国造や大野君との関係が推されますが、武儀川の下流域にも森(もと山県郡で、現岐阜市北部)の地名があります。
      守君の末裔は可児郡兼山(金山とも書き、いま兼山町で久々利の北方近隣)に居て森蘭丸を出した森氏となり(俗に清和源氏義家流と称)、花房の地名は武儀郡七宗村の上麻生大柿にある
  • 常陸国久慈郡の花房は、古代美濃に居た支族が遷住して伝えた地名だと考えられます。
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hanabusa.htm
    三野前国造(美濃県主の後身で、本巣国造ともいう)の同族の倭文(シヅリ)連・長幡部は、ともに「麻」に関係深い少彦名神の後裔で古代の衣服・繊維関係氏族ですが、それぞれ常陸国久慈郡に遷住した所伝があります。常陸への東遷の所伝が同じ事件なのか、別の出来事なのかは不明ですが、『常陸国風土記』や鈴木真年翁著述の『日本事物原始』によると、長幡部の遠祖多弖命は崇神朝に三野国引津根丘から久慈郡太田郷(郡衙の東七里)に移り、そこで長幡部社(現常陸太田市幡に鎮座)を祀ったと記されます。
    倭文連のほうは、久慈郡で静織(綾織)を製作したもので、久慈郡静里(郡衙の西十里。現瓜連町静)に静神社を祀ることが伝えられます。倭文連の遠祖は、大和国葛城の猪石岡で始めて静織を製作したと伝えますから、やはり支族が東遷したことが知られます。

    美濃の「引津根丘」とは、『美濃国神名帳』の不破郡引常明神の鎮座地とみられますが、現在遺称地がなく、一説に関ヶ原・垂井付近とされています。しかし、この比定地はやや疑問であり、私は大垣市(もと大柿)の西部の静里・綾野から垂井町東部の綾戸にかけての地ではないかと推しています。ここに「静里」という地名が残ることに注目され、倭文連・長幡部はかなり近い同族であったことが推されます。
      ところで、常陸国久慈郡の花房は、静神社の僅か四キロほど東北に位置しており、この地名は倭文連の後裔の居住地と関係があったと考えられます。この地の花房も由来が比較的古く、建武三年八月日の伊賀盛光軍忠状に花房山と見えます。
  • 天羽槌雄神
    別名 天羽雷命:あまのはずちのみこと 建葉槌命:たけはずちのみこと 倭文神:しずりのかみ
    ……
    『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠された際、 大神に献上する文布(しず)を織った神で、倭文氏の祖神。 ちなみに倭文宿禰の祖は神魂命、倭文連の祖は神魂命の子・角凝魂命。天棚機姫神と共に機織の神として祀られる
  • May 2016 編集されました
    絹巻神社 (豊岡市)

    社伝によると、応神天皇三年四月大山守命をして山海の政を統治せしめし時、大山守命は多遅麻黄沼前県主武身主命の子・海部直命をして多遅麻の海政を行わせ、姓を海部直と称することを許した。
    海部直命は、始祖である天火明命を黄沼前県に祀りて清明宮と称したという。

    仁徳天皇十年八月、海部直命を城崎郡司とし、海部直を兼ねることとなり黄沼前県を海部村に置き、多遅麻の海人を領し、清明宮(黄沼前神社)を海部村の絹巻山に移し絹巻神社と称した。

    履中天皇の御代、海部直部の子・西刀宿禰が城崎郡司となり、父・海部直命を気比の丘に葬り、祠を建てて海神社とし、天武天皇白鳳三年、城崎郡司・韓国連久々比命が各神社の鎮座を定めた時、海神社を絹巻山に移転して海神社絹巻大明神と称するようになった。
    (現在、海神社は独立し遷座されている。)

    仁明天皇仁和元年、神階従五位下を賜り、文化十一年現在の本殿を再建した。

    上記のように、現在の主祭神は海部直命の祖・天火明命。相殿に海部直命と天衣織女命を祀っているが異説も多い。

    まず、『兵庫県神社誌』には、祭神は天衣織女命。他に、海部直命、海部姫命、海童神、船魂神、建田背命、玉櫛姫命などの名が記されている。

    また、上中下三柱の神として、
    上・建田背命、中・天火明命、下・玉櫛姫命。
    上・玉櫛姫命、中・豊宇気比売命、下・事代主命
    とする資料もある。

    明治六年十月村社に列した。

    当社は但馬国五社大明神の一社。ちなみに、五社大明神とは、
    粟鹿大明神、出石大明神、養父大明神、小田井大明神、絹巻大明神。
  • 長幡とは絹の名にして、これを織り作る者を長幡部という。御祭神の子孫がその遠祖を祀ったのが当社である。延喜の式内社に列し常陸二十八社の一なり。

    中世以降、小幡足明神、また駒形明神と称す。今、関東に広がる名声高き結城紬をはじめ、織物の原点の神社であり、織業の祖神と仰がれる所以である。
  • May 2016 編集されました
    稲村神社
    『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)久自国造条には、成務天皇の御世に物部直の祖である伊香色雄命の三世孫・船瀬足尼命が初代久自国造に任命されたという記載がある。社伝では、この任命の際に船瀬足尼命が大祖・饒速日命を祀ったといい、「天神」とも、また7面の神鏡が祀られていたので「七代天神」とも称したという。また、日本武尊が東征の際、この地に天神七代の霊を祀ったともいう。
    当地周辺は久自国造の本拠地と見られ、当社の南西にはその関係性が指摘される梵天山古墳群が残っている。古墳群の主墳・梵天山古墳は茨城県第2位の大きさを誇る前方後円墳で、船瀬足尼命の墓と伝えられている。
    国史では『続日本後紀』嘉祥2年(849年)に「稲村神」が官社に預かったという記事が見え、水旱に霊験を表したと記される。その後、「稲村神」には神階が従五位上まで昇叙された。『延喜式神名帳』には「常陸国久慈郡 稲村神社」と記載され、式内社に列している。ただし、これらの「稲村神」には他の論社もある。
    『新編常陸国誌』によると、元禄4年(1691年)徳川光圀が天神林村を通った際、天神七社の所在を質し、当時「七代天神」と称していた7塚を巡見した。そしてこれらを1社とするよう諭したので、元禄6年(1693年)に現在地に社殿を造営して合祀したという。また、光圀は鳥居に「七代天神宮」の扁額をかけさせ、神器を奉納した。江戸時代には社領として6石5斗余、除地として9石9斗3升を有した。
    明治に入って式内社・稲村神社に比定され、「七代天神宮」から社名を改めた。また近代社格制度では郷社に列した。

     古墳時代の中期(5世紀)に東国は、物部氏を中心とする大和政権の遠征軍によって征服され、稲村神社の祭神は久慈国造に物部連の祖伊香色雄命三世の孫、船瀬足尼が任命された時、物部氏の祖先神である餞速日尊(にぎはやひのみこと)と、皇室の祖先神である国常立尊(くにのとこたちみこと)以下11神を祀っている。
     これらの神は、いずれも天神なので、神社は古くから天神社と呼ばれ、物部氏族二十五部の中に狭竹物部があり、居住によって佐竹郷の起原となり、後に久慈郡佐竹郷と呼ばれる行政区域となり、天神林は天神社と共に稲木と合わせて佐竹郷稲木村となった。
     平安時代になると天神社は、村の名をとって稲木神社と呼ばれたらしいが、神社名は「稲材神社」と書かれた様であり、字数が似ているので稲村神社と書かれるようになり(新編常陸国誌)、中央政府(平安朝)にも伝えられたと言われている。
  • June 2016 編集されました
    漢氏、文氏(越人)で、最も近い時代に渡来したという意味から、「今来」の漢人と呼ばれています。漢氏は今来だけです。秦氏(楚)は新たに来た人という意味で、アラ来、サラ来とされたようで、河内の讃良(サララ)や信濃の更級(サラシナ)、大和葛城の蛇穴(サラギ)などは秦系の地名と考えられます。最も古い韓人(呉)はフル来、モト来かもしれません。文・漢氏の渡来は、次のように表されています。
     応神紀
    「15年●百済王が阿直伎を派遣し、良馬二匹を奉ったので、阿直伎を管理者として、軽の坂
         上の厩で飼わせた。
        ●阿直伎は経典を読むのに習熟しており、太子の菟道稚郎子の教育係とした。
        ●阿直伎に、汝より優れた博士がいるかと尋ねると、王仁という人物がいると教えた。
         そこで、上毛野君の祖、荒田別、巫別を百済へ派遣して、王仁を迎えた。阿直伎は阿
         直岐史の始祖である。
     16年2月、王仁が渡来したので、皇太子の教育係とした。これが書首(ふみのおびと)等の
           始祖である。
     20年、倭漢直の祖、阿知使主とその子、都加使主が、党類十七県を率いて渡来した。」

     百済からの渡来人、阿直伎の居住した軽の坂上は高市郡にあり、軽は孝元天皇の都が置かれたとされる土地で、孝元天皇とは卑弥呼を補佐したという男弟です。そして、阿直伎(アチキ)が王仁を紹介するという親密な関係を持っています。つまり、これは全て邪馬壱国の一族の表現です。
     漢氏の本拠地は高市郡(=古くは今来郡)の桧隈で、宝亀三年(772)四月庚午(二十日)、漢氏の坂上刈田麻呂がこう奏上しています(続日本紀)
    「先祖、阿智使主は、応神天皇の御世に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡の桧隈村を賜って住んでいました。およそ、高市郡内は桧隈忌寸及び十七県の人夫が地に満ちて住み、他姓の者は十のうち一、二でした。」

    阿智王は本国の戦乱を避け、一族と共に日本に渡来したと唱え、母の弟(叔父)の姓は迁(セン)だとしています。史記趙世家に、「世本いわく、越芊姓なり。楚と同祖是なり。」と注されており、確かに越にもセン姓があって、これは本当のようです。越と楚は親戚筋の苗系民族なのです。ただ、日本に渡来した楚人は堂谿氏が首長となっていて、呉と同祖(姫姓)になります。
     阿智王自身の姓は記されていませんが、阿智は阿千と同音です。楚人の後裔、タイ族は雲南ではセン、セム、サム、シェム、シャンなどと呼ばれており(「雲南」)、日本ではシャムとなります。見比べると、これが千の転訛であることは一目瞭然ですし、高句麗王も同一人物が朱蒙、鄒牟、衆解と表されていました。
     以上から、越王は、騶(スウ)とも千(セン)とも朱(シュ)とも聞こえるシゥームというような音で表されていたと考えればいいようです。

    姓氏録第廿三巻曰く 阿智王
    「誉田(応神)天皇の御世、本国の乱を避け、母並び妻子、母弟迁興徳、七姓漢人等を率いて帰化。
     七姓第一は段。これは高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首等の祖なり。
       次、李姓。これ刑部史の祖なり。
       次、皂郭姓。これは坂合部首、佐大首等の祖なり。
       次、朱姓。これは小市(をち)、佐奈宜等の祖なり。
       次、多姓。これは桧前調使等の祖なり。
       次、皂姓。これは大和国宇太郡、佐波多村主、長幡部等の祖なり。
       次、高姓。これは桧前村主の祖なり。
    …阿智王を号して使主となす。大和国桧前郡郷を賜い、ここに居住した。…阿智使主は奏して言う。『臣が入朝の時、本郷の人民は去って離散し、いま、高麗、百済、新羅等の国にあまねく住んでいます。使者を派遣して呼び寄せていただきたいのです。』天皇は使者を遣して、これを呼び、仁徳天皇の時代に、こぞってやって来た。今、高向村主、西波多村主、平方村主、石村村主、飽波村主、危寸村主、長野村主、俾加村主、茅沼山村主、高宮村主、大石村主、飛鳥村主、西大友村主、長田村主、錦部村主、田村村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主、白鳥村主、額田村主、牟佐村主、甲賀村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村主、今来村主、石寸村主、金作村主、尾張吹角村主等はその後である。……今来郡を建て、後、改めて高市郡と号した。人が多いのに居住地は狭く、更に分けて国に置いた。摂津、三河、近江、播磨、阿波等の漢人村主がこれである。」
  • 応神紀37年(西暦427年)、応神天皇は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)を呉(ご)に遣わし、縫工女(きぬぬいひめ)を求めた。阿知使主たちは高句麗国に渡たり高句麗王に案内人を乞い、久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の案内により呉に行く事が出来た。呉王は工女兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を倭国に与えた。阿知使主たちが呉から筑紫(福岡県)に着くと、宗像大神が工女たちを欲しがったので、兄媛(えひめ)を献上した。これが今の筑紫国にいる御使君(みつかいのきみ)の祖である。残りの三人は津の国に連れて行き、この三人の末裔は今の呉の衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋の衣縫(かやのきぬい)である。』
    実はこの記述、同じ事が応神天皇から6代後の雄略紀(雄略天皇紀)にも書かれております。その内容は『身狭村主青(むさのすぐりあお)等、呉国使と共に呉の献れる「手末の才伎(たなすえのてひと:技術職人)」、「漢織(あやはとり)」、「呉織(くれはとり)」、「衣縫の兄媛と弟媛」等を率いて住吉津に泊る』とあります。
    先の応神紀の方は後の雄略紀をみて、後から書きかえられたと言われております。なぜかと言えば、応神紀37年頃は高句麗と日本の関係はあまりよろしくなく、あえて高句麗に行く事が不可解な事と、「呉(ご)」はもう滅んで亡国なのに、呉の王から工女を賜ったと書かれている事がおかしいからです。
    ではこの「呉」は一体どこでしょうか?
    実は呉は「くれ」であり、中国南部にあった呉国では無く、慶尚北道達城郡苞山の「求礼(クレ)」の地にあった国、「安羅(阿羅)」の事を言います。なぜそう言えるのかと言えば、雄略天皇は6年の間に4回も身狭村主青を「呉」に派遣します。当時の交通手段からすれば、中国の「呉」に6年で4回も行くには、相当な時間と労力を要するので無理ではないかと思います。でもこれが、朝鮮半島南部の「求礼」であれば可能な話であります。
    継体紀(継体天皇紀)には、「久礼(求礼)牟羅の城(くれむらのさし)」という記述があり、これが応神紀、雄略紀の「呉」の事だと言われております。呉織は、漢織(穴織)、兄媛、弟媛の4人とも、「呉(求礼)」出身の安羅人だと言う事です。
  • 沼津の高尾山古墳

     鏡は大きさ13.5センチ、後漢時代の中国製で「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいうきぼりしきじゅうたいきょう)」と呼ばれ、破片がバラバラに散らばった状態で見つかった。意図的に壊された「破砕鏡」と考えられている。

     高尾山古墳を巡る最大の問題は古墳がいつ作られたのか、という築造時期だった。研究者の見解が「230年ごろ説」と「250年ごろ説」に分かれたからだ。この20年の違いが意味するところは、日本の古代史を考える上でとても大きいのだ。

     230年ごろの場合、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)に代表される本格的な前方後円墳が築造されるより以前に、東海地方で独自に古墳が造られたことになる。250年ごろの場合だと、初期のヤマト政権が作成した設計規格に沿って墳墓が造営されたとの見方が強まる。
  • March 2017 編集されました
    古事記
    日子坐王(ヒコイマス王)は近淡海(チカツアフミ)の御上祝が信奉する天之御影神(アメノミカゲ神)の娘で息長水頼比売(オキナガノミズヨリヒメ)を娶って産んだ子供が、丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)、水穂之真若王(ミズホノマワカ王)、神大根王(カムオオネ王)――別名は八瓜入日子王(ヤツリノイリヒコ王)、水穂五百依比売(ミズホノイホヨリヒメ)、御井津比売(ミイツヒメ)の5柱です。

    また日子坐王(ヒコイマス王)が母の妹の袁祁都比売命(オケツヒメ命)を娶って産んだ子供が大筒木真若王(オオツツキマワカ王)、比古意須王(ヒコオス王)、伊理泥王(イリネ王)の三柱です。

    日子坐王(ヒコイマス王)の子供は合わせて11王です。

    日本書紀に記載なし。

    ーーーーーーーーーーーーー
    丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばのひこたたすみちのうしのみこ)

    古事記に

    父は、第九代開化天皇の皇子ヒコイマス、母はその妃の一人であるオキナガノミズヨリヒメ。

    同母兄弟に、ミズホノマワカ、カムノオオネ、ミズホノイオヨリヒメ、ミイツヒメがいる。

    タンバノカワカミノマスノイラツメと結婚し、ヒバスヒメ、マトノヒメ、オトヒメ、ミカドワケの四子をもうける。

    ヒバスヒメは第十一代垂仁天皇の皇后になる。また垂仁天皇の項では、ヒバスヒメの妹として、垂仁天皇妃のヌバタニイリヒメ、アザミニイリビメがおり、これらもヒコタタスミチノウシの娘らと考えられる。

    一方、マトノヒメの説話においては、娘の四人が垂仁天皇に嫁いだとされ、ヒバスヒメ(比婆須比売命。初出と表記が違う)、オトヒメ、ウタゴリヒメ、マトノヒメとなっている。

    ただし、その前段での紹介はあくまでもヒコタタスミチノウシ“ら”の娘、であるため、ウタゴリヒメは、ヒコタタスミチノウシの娘として確実なヒバスヒメ、オトヒメ、マトノヒメの姉妹とは別の、この三人とは血統の違う姫である可能性もある。

    表記違いの長女は同一人物だとして、ウタゴリヒメとマトノヒメは嫁いだ途端、垂仁天皇がブサイクと言って実家に戻しているので、常識的には子は生まれようはずもなく、それぞれ垂仁天皇との子をもうけるヌバタニイリヒメ、アザミニイリメとは対応しないと思われる。

    オトヒメは、長女のヒバスヒメともども留め置かれたとされ、名前としてもヒバスヒメの妹程度の意味しかないとも考えられ、ヌバタニイリヒメ、アザミニイリビメのどちらかの別名か、または子を残さなかった妃の一人、と考えられるか。

    なお、古事記に墓の記載はないが、宮内庁により雲部車塚古墳(兵庫県・篠山市)が「雲部陵墓参考地」として管理されている。

    【主な登場場面】
    ・実子に後妻寝取られ反逆される故・神武天皇 直系が奮起して乱を平定

    【関連記事】
    ・『倭姫命世記』(26) - ヤマトヒメ夢でアマテラスの神託、外宮トヨウケビメノカミを遷座
    ・與能神社 - 丹波道主命が祀った桑田郡三座の一つ、10月に「六華祭」、亀が神使
    ・小幡神社(亀岡市) - 式内で唯一第9代開化天皇を奉斎、大本・出口王仁三郎ゆかり

    【ヒコタタスミチノウシを祀る神社】
    ・伊奈波神社 - 岐阜開拓の神・垂仁天皇皇子を祀る、斎藤道三以来の稲葉山城鎮守
    ・養父神社 - 「養父の明神さん」農業の神として知られる但馬国三宮、紅葉の名所
    ・川内多々奴比神社 - 楯縫氏ゆかり、四道将軍の伝承が残る式内古社、天智朝から祭礼
    ・摩氣神社 - 食・稲作の神を祀る園部藩小出氏の崇敬を受けた式内名神大社、10月に神幸祭
  • 「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮」の「寺」については、「役所」または「侍る」の誤記などと解釈されているが、「斯鬼宮」を「シキ宮」と読むことには、異論がない。
    しかし、雄略天皇は泊瀬の朝倉で即位し、そこを宮としている。だから、国風諡号も「オオハツセノワカタケ」=「大泊瀬幼武(日本書紀)」=「大長谷若(古事記)」である。
    それゆえ、斯鬼宮にいなかった雄略天皇は、斯鬼宮にいた獲加多支鹵大王とは別人となり、
    「倭王武=雄略天皇=獲加多支鹵大王」という図式が成立しなくなる。
    そこで、「倭王武=雄略天皇=獲加多支鹵大王」という図式を守ろうとして、雄略天皇と斯鬼宮を結びつける説が登場するが、いずれも理由付けが弱い。
    1. 青木和夫・佐伯有清の説: 『古事記』に、雄略天皇が河内の志幾大県主(しきのおおあがたぬし)の家を焼こうとした記事がある。これによって、一時期、雄略天皇が河内の志幾に宮を構えていたといえる。
    〔批判〕  『古事記』には、雄略天皇が、河内の日下(くさか)に住んでいた後の皇后=若日下王の所へ行った時、直越(ただごえ)の峠の上から河内を見ると、志幾大県主の家が宮殿に似ていたので、怒って焼こうとしたとあるだけで、志幾に宮があったとは書いてない。
    のみならず、その記事には、雄略天皇が東から峠を越えてきたとある。河内の志幾は日下の南にあり、しかも、その間は平野部で、越えなければならない峠は存在しない。
    よって、『古事記』の記事をもとに、雄略天皇が河内の志幾に宮を構えていたとはいえない。
    2.井上光貞の説: 長谷も磯城(しき)に入るから、斯鬼宮は大和の磯城である。
    〔批判〕  『日本書紀』の欽明元年の条に、天皇は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)に宮居したとあるが、欽明31年の条には、泊瀬柴籬(しばがき)宮に行幸す、とある。
    『日本書紀』が、泊瀬と磯城島(=磯城)とを、はっきり書き分けているのだから、鉄剣銘の斯鬼宮を大和の磯城とするには無理がある。
    3.埼玉教委の概報の説:  『古事記』垂仁天皇条に、曙立(あけたつ)王」に「倭者師木登美豊朝倉(やまとしきとみとよあさくら)曙立王」という名を賜わったとある。
    これによれば、朝倉を磯城と書いた可能性がある。
    〔批判〕 登美は『和名抄』の添下鳥見郷であって、磯城の鳥見は後世に付会した地名と『大和志料』『大日本地名辞書』は記す。
    大系本の『古事記』で倉野憲司も、倭(やまと)の各地の地名を美称にしたと注している。
    この例をもって、斯鬼宮を長谷朝倉宮のこととするわけにはいかない。
    4.岸俊男の説: 『日本霊異記』に、小子部連スガル(虫果羸)が磐余宮(いわれのみや)から飛鳥の雷丘(いかずちのおか)の雷をとりにいったという、飛鳥の雷丘の地名説話がある。
    一方、神武紀には、兄磯城(えしき)というものが磐余に陣をしいた記事がある。これは、磯城が磐余であった証拠である。
    よって、「雄略天皇の磐余宮(=磯城宮)=獲加多支鹵大王の斯鬼宮」が成立する。
    〔批判〕 『日本書紀』に載っている小子部連スガルの説話では、スガルは、三輪山の神(大物主神)もしくは菟田(うだ)の墨坂神を捉えて雄略の宮に連れて来たとある。
    菟田は「こもりく」の泊瀬の奥で、泊瀬は三輪山の南麓だから、『日本書紀』のスガルの説話の雄略の宮は、泊瀬朝倉宮のことである。
    スガルが飛鳥の雷丘の雷を捉えるという『日本霊異記』の地名説話では、雄略の宮が泊瀬朝倉では遠すぎるので、史実とは関係なく、磐余宮としたのであろう。
    いずれにしても、『日本霊異記』のような説話集の磐余宮を認めて、歴史書としての、『日本書紀』を無視していることになり、問題がある。
    なお、『日本霊異記』には、「小子部栖軽(スガル)は、泊瀬朝倉の宮に二十三年天の下治めたまひし雄略天皇の随身、肺脯(しふ)の従者なり。天皇、磐余の宮に住みたまひし時云々」とある。
    だから、スガルが雷を捉えたという説話は、たまたま雄略が磐余の宮に居た時のことで、このことによって雄略の宮が磐余宮(磯城宮)=斯鬼宮であるとはいえない。
    5.門脇禎二の説: (1)雄略紀によれば、木羅満致の渡来をはじめ百済との往来がしきりであった。(2)雄略に、葛城登山の伝承がある。(3)雄略の陵墓が河内にある。
    上記の三つの理由から、斯鬼は朝倉やその近くではなく、河内の志紀と見るべきである。
    〔批判〕 (1)百済との多かった時代でも大和に宮のあった天皇はいくらでも居る。
    (2) 河内に陵墓があっても大和に宮のあった天皇のほうが多い。
    (3) 葛城山は、河内側からしか登れない山ではなく、大和側から登った方がいい山である。
  • 『古事記』開化天皇段には、開化天皇が丸邇臣(和珥臣)の祖・日子国意祁都命(彦国姨津)の妹・意祁都比売命を娶って生まれたのが日子坐王(彦坐王)で、同王が春日の建国勝戸売の娘・沙本の大闇見戸売を娶って産んだ子が沙本毘子王・オサホ王であって、沙本毘子王が甲斐国造及び日下部連の祖と記される。「国造本紀」では、纒向日代朝(景行天皇の御世)、狭穂彦王の三世孫、臣知津彦公の子、塩海足尼が甲斐国造に任じられたと記される。更に、但馬の神部直氏の系譜を記す『粟鹿大神元記』には、先祖の武押雲命(三輪君の祖・大田々祢古の曾孫)の母を、「甲斐国造等が上祖狭積穂彦命の女、角姫命」と記される。系譜関係で史料に見えるのはこの三つの書だけであり、『日本書紀』では、狭穂彦王について甲斐国造との関係を何ら言及しない。
     狭穂彦は、妹・狭穂媛が垂仁天皇の皇后に入り、狭穂彦本人が垂仁朝に反乱を起こして討伐されたと諸書に見え、一方、垂仁天皇の実弟たる景行天皇(記紀では景行天皇は垂仁の皇子に置かれるが、これは後世の変更による)の時代に、狭穂彦の後裔で「三世孫」(ないし「四世孫」)にあたる塩海足尼が活動できるはずがない。狭穂彦と塩海足尼とが、ともに実在の人物であったのならば、活動年代の差異はせいぜい叔父甥という間柄(一世代の差)くらいにしか考え難いのである。そのため、『集成』編纂のときは上記両書の記事が信じがたいと私見では考えて、別途、東国諸国造や三枝部連氏の祖・建許呂命(天孫族系で、天照大神の子の天津彦根命の後裔)に関係する系図のなかに、その同族に出た塩海足尼が見えることから、こちらのほうを採用した経緯があった。
  • 甲斐国は『和名抄』に四つの郡(山梨、八代、巨摩、都留)があげられ、中央部の甲府盆地を占めるのが北部の山梨郡、南部の八代郡であって、この主要地域に国造が居たことに間違いなかろう。そのうち、最初に栄えたのが八代郡という見方もある。すなわち、甲府市南部の旧・中道町には、古墳時代前期の当時、東日本最大級とされる甲斐銚子塚古墳(中道銚子塚)が築造された。その時期は四世紀後半頃とみられており、倭建命が遠征の途次に配布した可能性のある三角縁神獣鏡の出土もこの地域からあり、こうした副葬品や畿内の古墳と類似する古墳型式から見て、畿内王権の影響の大きさが窺われる。その被葬者は、倭建命に応対した塩海足尼が候補としてまず考えられ、かつ、中道町あたりにはほかにも前期古墳が多く見られるから、この地域を上古の甲斐の中心域とみるものである。
     その一方、甲斐の祭祀の中心は甲府盆地北部の山梨郡のほうにあったから、普段の居地は北部のほうであって、南部の八代郡のほうは奥津城としての位置づけを考えるほうが妥当とみられる。もっとも、北部・南部と言っても同じ甲府盆地のなかだから、それほど距離が遠いわけではなく、南北が同じ勢力だと考えても無理がない。
     六世紀頃の古墳時代後期になると、古墳も甲府盆地の北部のほうに造られるようになる。現在の甲府市、笛吹市のあたり、旧郡名でいうと、山梨郡西部と巨摩郡東部のあたりで、笛吹市御坂町井之上(旧・御坂町)に姥塚古墳、甲府市千塚町には加牟那塚古墳と、石室の大きさで見ると全国十指に入るような後期の円墳が六世紀代後半に造られた。これらの古墳の築造者については、物部氏などを考える見方があるが、総じて国造一族の墳墓であろう。これらは現在の国道一三七・一三八号にあたる「御坂路」の沿線や延長線上に位置しており、甲斐の基幹道路の道筋が、四世紀頃には西側の中道往還だったのが、東回りの御坂路に移動したとされる。この原因としては、馬を使った陸上交通が要となったことで、高低差の大きい中道往還よりも、だらだら坂の御坂峠の方が好都合だったのではないかとみられている。
     以上に見るように、甲府盆地のなかでも主要道路や古墳分布に変化があったものの、甲斐国造の本拠地は、塩海足尼以降は一貫して北部の山梨郡にあり、なかでも考古遺跡や主要神社・祭祀などから見て、笛吹市の旧春日居町あたりから甲府市東部にかけての地域ではないかとみられる。
     初祖の塩海足尼は後年、山梨郡塩田(笛吹市一宮町塩田)に住んだと伝え、当地の国立神社の祭神の一とされる。同社は甲斐国造族の出とみられる三枝氏の氏神とされる。塩田長者といわれるのが降矢氏で、この降矢姓の由来となる矢石も当社境内に残される。降矢・古屋などの苗字は、一宮浅間神社の祠官家で有名だが、『古屋家譜』に言う中央の大伴連氏の後ではなく、国造一族に出たことがこの事情からも知られる。
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