隋書 東夷 百済伝

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
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百濟之先,出自高麗國。其國王有一侍婢,忽懷孕,王欲殺之。婢云:「有物状如雞子,來感於我,故有娠也。」王捨之。後…

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コメント

  •  夫余隆の墓碑銘

    現在中国の河南省開封市図書館に収蔵されているが、その墓誌銘は拓本によって戦前の日本でも知られていたし、朝鮮でも『朝鮮金石総覧』のなかに入っていたが、学界の注意をあまり惹かなかったようである。

    私も中国の有名な金石家羅振玉が稲葉君山に贈ったその墓誌銘の拓本

    「公、諱名は隆、字も隆、百済辰朝の人なり」と明記されている

    辰朝とあるのは辰王朝のことに違いない。それが百済王家として、百済滅亡までつづいたことを、この墓誌銘に書いている。

    夫余隆は百済最後の王の義慈王の太子で、唐が新羅と同盟して百済を滅ぼしたとき、唐側に捕われて長安に送られたが、その後新羅が強くなって、朝鮮半島から唐の勢力が追い出されるような形勢になったとき、唐は百済を復興して、新羅に対抗させることを計画し、夫余隆を楽浪郡王にして、朝鮮に行かせようとしたが、彼にはその意志がなく、中国で死んだ。
  • 百済王家は夫余族出身で、辰朝の後裔

    辰王朝

    三韓の時代、南部朝鮮に辰王という王がいて、馬韓の月支国に都をおき、馬韓と辰韓・弁韓24国のうちの12国(弁辰)を服属していたと言われるが、その辰王は流移の人で、馬韓の人でなく、それでみずから立って王となることはできなかったが、その一族は歴代馬韓の人に推されて王家を世襲したという所伝が、『三国志』の魏書東夷伝などに見えている。

    一方、馬韓の諸邑落国家が統一されて百済国になったとき、百済王家となったものが姓を(夫)余と称し、その王の一人(夫)余慶が北魏に使を遣わして上表した文中に「臣は高句麗とともに、源が夫余に出づ」とあるのによれば、百済王家の(夫)余家は、その先祖が中国東北地区にいた夫余で、おなじく夫余に出自したという高句麗と同族で、いずれも東北アジア系の騎馬民族であったことが分っていたのである。

           
  • 夫余本族(中国東北地区牡丹江中流域) ― 辰王家(南部朝鮮)―百済王家(南部朝鮮)

    夫余本族(中国東北地区牡丹江中流域) ーーーーーー― 高句麗王家(北部朝鮮)
  • 顕宗天皇3年条(487年)

    任那と百済の争い

    「この年、紀生磐宿禰(きのおいわのすくね)が、任那から高麗へ行き通い、三韓に王たらんとして、官府を整え自ら神聖(かみ)と名乗った。任那の佐魯(さる)・那奇他甲背(なかたこうはい)らが計を用い、百済の適莫爾解(ちゃくまにげ)を爾林城(にりんじょう)に殺した。帯山城(しとろもろのさし)を築いて東道を守った。食糧を運ぶ港をおさえて、軍を飢え苦しませた。百済王は大いに怒り、古爾解(こにげ)・内頭莫古解(ないとうのまくこげ)らを遣わし、兵を率いて帯山を攻めさせた。生磐宿禰は軍を進め迎え討った。勢い盛んで向う所敵なしであった。一をもって百に当る勢いであつたが、しばらくしてその力も尽きた。失敗を覚り任那から帰った。これによって百済国は、佐魯(さる)・那奇他甲背(なかたこうはい)ら三百余人を殺した。」
  • 紀生磐宿禰(きのおいわのすくね)とは、当時は任那や百済に多くいた現地に住み着いた倭人か、あるいは、その子孫(韓子)と思われる。更に人物を絞り込むと、雄略9年(465)に新羅へ派遣されて戦死した将軍「紀小弓宿禰」(きのおみのすくね)の子である、「紀大磐宿禰」(きのおいわのすくね)が考えられる。
     紀生磐宿禰(きのおいわのすくね)とだと考えられる「紀大磐宿禰」(きのおいわのすくね)が書かれている箇所を、「日本書紀 上」(講談社学術文庫版)の雄略天皇9年(465)条から引用する。
    「夏5月 紀大磐宿禰(きのおいわのすくね)は、父が彼の地で死んだことを聞き、新羅に行き、小鹿火宿彌(おかひのすくね)が掌っていた兵馬・船官と諸々の小官をとって、自分勝手に振舞った」と記載されている。
     「生」と「大」とで漢字の違いはあるが、同じ名前であり、かつ雄略紀天皇9年(465)と顕宗天皇3年(487年)の記事であり、年齢も照合するのでこの人物と思われる。また、「兵馬・船官と諸々の小官をとって」(原文は「所掌兵馬・船官及諸小官」)と書かれていることから、雄略天皇8年条に書かれている「日本府行軍元帥等」つまり「日本府の将軍たち」との関係が推測され、雄略天皇9年条に書かれている任那に住み着いた倭人「紀大磐宿禰」(きのおいわのすくね)に、その前年に新羅を助けた「日本府行軍元帥等」を代表させていると思われる。

    帯山城(しとろもろのさし)事件の記事の中で、紀生磐宿禰(きのおいわのすくね)に協力して百済と戦い、百済によって殺された任那人「佐魯(さる)・那奇他甲背(なかたこうはい)」の子孫と思える人物が、欽明紀5年条の任那日本府の記事に登場している。百済が新羅よりの奸物だとして、再三に渡り排除を訴えている日本府の役人、河内直(かわちのあたい)・移那斯(えなし)・麻都(まつ)の先祖が、帯山城(しとろものさし)事件の「佐魯(さる)・那奇他甲背(なかたこうはい)」と推測されている。先祖が百済によって殺害されているとしたら、彼らが百済に協力的であるはずもない
  • 「百済本記に云はく、汝が先(おや)那千陀甲背(なかんだかふはい)・加猟直岐甲背(からふぢきかふはい)といふ。亦(また)那奇陀甲背(ながだかふはい)・鷹奇岐弥(ようがきみ)といふ。語訛(ことばよこなまり)りて、未だ詳(つまびらか)ならず。」

     注釈によると那千陀甲背(なかんだかふはい)と、次に出てくる那奇陀甲背(ながだかふはい)は同一人物で、顕宗天皇3年条の「佐魯(さる)・那奇他甲背(なかたこうはい)」のことであろうとしている。つまり帯山城(しとろものさし)事件で、「紀生磐宿禰」(きのおいわのすくね)と共に百済と戦った人物の子孫が、任那日本府の実力者になり、百済から疎まれている。
  • 扶余王・依羅(イリ)

    『渤海国・国書』
    渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。

    神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。

    285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投身自殺したほどの潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の依羅(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建する
  • 渤海国書
    渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。

    神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。国書に記すだけの確たる根拠があったと思われる。

    285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投身自殺したほどの潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の依羅(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建するのだが、高句麗系の史書『朝鮮史』には驚くべき記事が載っている。

    『朝鮮史』
    依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。自後、慕容廆、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。
     
      この記述の信憑性はともかく、名前の「イリ」から、いり(渡来)系王朝とも呼ばれる御間城入彦 (ミマキイリヒコ)五十瓊殖尊。第10代の崇神天皇だろうと推察される。
    崇神天皇を『日本書紀』では御肇国(ハツクニシラス)天皇。『古事記』では初国知らしし御真き(ミマキ)天皇とし、ともに初めて国家を立ち上げた大王だとしている。
    『記紀』神話でも、大倭(やまと)王朝の初の天皇はニニギ(神武天皇)のはずなのに、なぜか「初めて国を統治した」として、神武ではなく、嵩神天皇の方を「初の天皇」として扱っている。
     扶余王の依羅が倭国に渡来したのが285年前後とすれば、『魏志倭人伝』の記事からして、邪馬台国の二代目女王『壹與』が50歳前後の頃で、おそらく神武東征の前後の時期かもしれない。アマテラス(天照大神)を女王「壹與」だと仮定すれば、彼女から十種の神宝を授かったニギハヤヒとは『扶余王の依羅』の可能性がある。
     なお、依羅との関係は不明だが、依羅連(ヨサミノムラジ)という氏族がいる。
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