任那とは、史書より

April 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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1.崇神紀 六十五年秋七月、任那国が蘇那曷叱智を遣わして朝貢してきた。任那は筑紫を去ること二千余里。北のかた海…

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  • 5世紀前葉に謎の失踪

    金官加耶(加羅)があった大成洞古墳(金海市)

    旧狗邪韓国のあった土地で、3世紀の終わり頃以後に、騎馬用甲冑・馬具・蒙古鉢形冑・珪甲・轡(くつわ)などの北方騎馬民族文化の副葬品が出土している。そして、騎馬文化を副葬する王たちの墓は、前の支配者の墓を破壊してその上に造られており、騎馬民族の墓制である木槨墓に葬られている。この騎馬文化の源流は夫余族と推定されており、前の支配者の墓を破壊して自分たちの墓を築造していることから、何等かの征服があったことを伺わせている。

    5世紀前半、集団移動か?

    金官加耶(加羅)では、騎馬民族の墓制である木槨墓を最後に五世紀前葉以降は王の墳墓が築造されていない。つまり王がいなくなった。

    大成洞古墳を長年にわたり発掘調査してきた韓国の真(シン)教授は、

    「五世紀前葉に金海大成洞の集団が、突然行方知らずになった」

    と述べており、「日本列島への集団移住も否定できない」としている。理由は、集団失踪した5世紀前葉と全く同じ時期に、日本列島の古墳は騎馬文化を伴った中期古墳時代に急激に変わり、同じ時期であり、中期古墳文化への急激な変化をもたらしたのは、大成洞古墳の集団とすることも考えられるからだ。

     夫余族の辰王の都があった月氏国から南下をして、旧弁韓諸国の中で夫余族が都をおいた有力地としは、金官加耶(加羅)・旧狗邪韓国が想定される。その地には3世紀から倭人が住んでいた事が「魏志東夷伝」から判明している。そこにある大成洞古墳から近年判明したことは、5世紀前葉に、王が突然行方不明になり「集団が行方知らずになった」事である。

    この行方不明になった集団はかなり強力な武力を保有していたことであり、強力な武力を持つ集団に放逐されたわけではないと思われる。何等かの内部の事情で、どこかわからない場所へ突然移動してしまった。 

    4世紀の交易

    真(シン)教授は、金官加耶(加羅)の4世紀の遺跡からは、近畿地方の遺物が多く発見されると述べている。近畿地方の豪族が、金官加耶(加羅)の鉄を求めるための見返り品、つまり貿易の対価の遺物である。
  • 金海市にある大成洞古墳(金官加羅・旧狗邪韓国)に騎馬民族文化が現れるのは3世紀終わり頃からである。

    (江上氏は、旧狗邪韓国など半島に居住する倭人の協力を得て筑紫を征服したのは4世紀前半と述べている。)

    筑紫への遷都があったとすると、その理由として、396年に百済が高句麗に敗れ、高句麗と倭韓連合王国が直接対峙する事態になったので国防上の理由から九州側に移動か?
  • 広開土王碑には高句麗が任那加羅へ攻め込んだ時、安羅人戍兵(じゅへい)が反撃したことが書かれていることがある。安羅(あら)という国ではなく、安羅人戍兵(じゅへい)すなわち安羅人の守備兵が反撃したという記述である。

    安羅(あら)と言う国は金官加羅の西隣にある喙己呑(とくことん)の西の卓淳(とくじゅん)の更に西にある国である。任那加羅の守備兵に安羅人がいることから、「任那加羅」を任那地域の中の加羅と解釈して、任那とは金官加羅国だけではなく、安羅国等を含む金官加羅を盟主とする豪族連盟地域と見なせる。
  • 史書にみる

     任那は中国史料『宋書』・『南齊書』・『梁書』・『南史』・『翰苑』・『通典』にみえる。

      (『宋書』夷蛮倭国)
    ①讃死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。
    ②(元嘉)二十八年〔451 倭國王濟〕、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。
    ③興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
    ④順帝昇明二年〔478〕、遣使上表曰、(中略)詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。
      (『南齊書』東南夷倭国)
    ⑤建元元年〔479〕、進新除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事、安東大將軍倭王。武號爲鎭東大將軍。
      (『梁書』東夷倭)
    ⑥興死、立弟武。齊建元中〔479~481〕、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東將軍。
      (『南史』夷貊東夷倭)
    ⑦讃死、弟珍立。遣使貢獻、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
    ⑧二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故、并除所上二十三人職。
    ⑨興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
    ⑩詔除武使持節、都督倭新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。
    ⑪齊建元中〔479~481〕、除武持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。梁武帝即位、進武號征東大将軍。
      (『翰苑』新羅)
    ⑫括地志云、案宋書、元嘉中、倭王彌自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦慕韓六國諸軍事。此則新羅有國在晉宋之間、且晉宋齊梁、普普並無正傳、故其有國所由、靡得詳也、金水晉宋之也。
    ⑬《地惣任那》齊書云、加羅國三韓種也。今訊新羅耆老云、加羅任那昔爲新羅所滅、其故今並在國南七八百里。此新羅有辰韓卞辰廿四國、及任那加羅慕韓之地也。
      (『通典』北宋版 邊防第一東夷 新羅)
    ⑭其先附屬於百濟、後因百濟征高麗人、不堪戎役、相率歸之、遂致強盛、因襲加羅任那諸國滅之。【並三韓之地】
  •   朝鮮史料の中の任那

      (高句麗広開土王碑)
    ⑮(永樂)十年庚子〔400〕教遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵
      (『三国史記』列伝第六 強首)
    ⑯及太宗大王即位〔654〕、唐使者至傳詔書。其中有難讀處。王召問之、在王前一見説釋無疑滯。王驚喜、恨相見之晩、問其姓名、對曰、臣本任那加良人、名字頭。
      (真鏡大師宝月凌空塔碑 924年)
    ⑰大師は諱は審希で、俗姓は新金氏である。その祖先は任那王族で、・・・わが国に投じた。遠祖の興武大王は・・・武略を携えて王室をたすけついに二敵(百済・高句麗)をたいらげた。(訳文 田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』による)
  • 倭が高句麗軍に敗けて逃げるのに、その南には安羅戌兵がまだ健在なのであるから、さらにその南の金海まで逃げて行き高句麗軍がそこまで追っていった、とは考えにくく、倭軍の根拠地のあった西方の山地の高霊へ逃げたのであろうと思う。要するに四〇〇年頃には「任那加羅」で加羅諸国の主家、高霊伽耶を指すことが高句麗にまでよく知られていたということである。
  • . 諱審希俗姓新金氏其先任那王族草拔聖枝每苦隣兵投於我國遠祖興武大王鼇山稟氣鰈水騰精握文符而出自相庭携武略而高扶王室
    (新羅鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑)
  • 金庾信
    532年に新羅に併合された金官伽倻の王家の血を引いており、金庾信の妹が武烈王(金春秋)に嫁いで文明夫人となり、その長子が後の第30代の文武王となる。金庾信自身も後に武烈王の三女を智炤夫人として娶っており、新羅の王族ではなかったが王族との関係は親密であった。

    668年12月、文武王より太大角干の官位を贈られる。それまでの新羅の官位の最上階の大角干を上回る官位として設置されたものである。673年7月1日に79歳で死去したとき、文武王は嘆き悲しみ、帛1千匹と租2千石とを香典として下賜した。のちに興徳王(在位:826年 - 836年)の時代になって、<興武大王>に封じられた。

    金庾信の死後、676年に百済に熊津都督府、高句麗に安東都護府、新羅に鶏林州都督府を設置して着々と朝鮮半島支配を進める唐を唐・新羅戦争で破り、ついに三国を統一した。

    三国史記では編者の金富軾が、乙支文徳の知略や張保皐の義勇を称えながらも金庾信の功名を図抜けたものと記しており、三国統一の功績を高く評価している。
  • 任那は十国の総称とされている。「官家」は「屯倉」であり、任那の場合、十の国それぞれを「屯倉」としたのではなく、十国の中の代表国に「屯倉」を置いたのではないか。そうすると、広義では「任那全体が任那官家」であるが、狭義では「任那の代表国に置いた官家(屯倉)が任那官家」と呼ばれたという可能性はある。

     欽明天皇23年〔562〕正月、新羅は任那官家を滅ぼす。「廿三年春正月、新羅打滅任那官家」である。任那は官家なのだから、「任那官家」は任那のことだとする人が多いが、562年に滅んだ任那がなぜ646年まで存続しているのか説明が必要である。
      ここで大切なのは、滅んだのは「任那官家」であり「任那」ではないということである。つまり任那の「官家」の部分が滅んだということであり、それは、任那が日本に直接貢納する国ではなくなったということを意味している。
      「新羅打滅任那官家」をこのように解釈すれば、その後も任那が存続し、新羅とともに(官家としてではなく)朝貢してくることも理解できる。
      『日本書紀』には「任那を建てよ」という言葉が多い。それは562年の「新羅打滅任那官家」以後ではなく、それ以前からである。新羅に取られた任那が任那のほんの一部であっても、それを新羅から取り戻すこと、それが「任那を建てる」という言葉の意味なのである。
      「新羅打滅任那官家」も、新羅が任那を滅ぼして、任那という名と実態が無くなった、ということではなく、任那が日本の宮家ではなくなった(日本が関係していたかどうかは別として)、というそういう状況を意味しているにすぎない。
  • 末松保和の「任那興亡史」


    任那の成立(369年)
    盛時(4世紀末~5世紀後半)
    衰退(5世紀後半~6世紀前半)
    滅亡(6世紀半ば)
    結末(646年)
    の順で述べられている

    「丙寅年すなわち366年、日本は韓地に派遣した使者によって、百済に日本遣使の意図あることを知ったのみならず、その使者の従者は、実地に百済に至り、その意図を確かめ得た。その翌年367年、百済の最初の日本遣使は実現した。その遣使の主旨は、珍宝の貢上にはあらず、実は日本の出兵を請わんととするものであったと考へられる。日本はそれに応じて、一年おいた369年に至って大兵を出した。その出兵の目的は、第一、東方に於いて新羅を討ち、第二、西方に於いても示威することであった。新羅を討つということは、具体的にいえば、新羅の服属を直接に要求するよりも、未だ新羅に併されてゐない加羅の諸国をして、日本に帰依せしめる事、換言すれば、新羅の発展を現状でとどめしむることに意義があったと解される」

    「369年に任那加羅(加羅の一国としての任那)を中心とする加羅諸国の支配体制を中心として百済・新羅の協力のもと、任那・百済・新羅の三国連合で高句麗に対抗した。
    372年、倭の出征の成果を見て百済は国策として日本に対する属国的な関係を自ら認めた」
  • 西暦400年頃からの好太王の南征によって、百済と、新羅・任那は属国のようになってしまった。高句麗は新羅に軍隊を駐留させて、支配していたようである。427年には高句麗が都を国内城から南の平城に移したころから、ようやく百済の勢力が盛り返し始めたようで、倭国の都督諸軍事の任は、高句麗との対抗上、諸国の賛成もあって認可されたようである。
     倭王は438年には宋国にたいして「倭隋」ら13人に将軍号の授与を願い出て許可され、さらに451年にも23人をが許可された。倭国が加羅諸国において軍事支配するのは430年のころから500年ぐらいの事であるようだ。
     429年には百済と倭が兵を率いて進軍し新羅に駐屯する高句麗軍を駆逐して百済と加羅国を高句麗の呪縛から解放することができ、倭は加羅、百済の軍事顧問としての立場を確立するようになった。百済は百済の苦境から逃れるために、倭国と加羅の軍力を積極的に利用したようだ。
     しかし、この一時的優勢も475年高句麗長寿王の大侵攻によって敗退ぎみとなり、攻めたり、攻められたりの様相を呈するようになった。新羅はこうした状況のなかで地道に国力をつけ、加羅の地をも狙うようになってきた。
  • 新羅本記によれば

    393年 五月 倭人が来て金城(新羅王国の都の城)を包囲して五日も解かなかった。将兵、兵は皆、出て戦うことを願ったが、王は「いま倭は船を離れて陸地に深く入って決死の覚悟でいるから、その戦意は鋭いものがある。倭はすぐに戦って船に戻りたいのであるから、城から出てはならない」と言って
    城門を閉じて堅く守った。倭は新羅を破ることができず退却しはじめた。その時をとらえて、新羅王は勇猛な騎兵200人を先導してその進路を遮断し、歩兵1000人を後ろから攻めさせ独山で破り、ほとんど全てを殺害、捕虜にした。
     402年 三月 新羅は倭国と国交を通じて奈勿王なもちおうの子、未斯欣みしきんを人質として渡した。403年 七月百済が辺境を侵した。 405年 倭兵が明活城を攻めてきて落とせずに独山の南あたりを帰るところを王が率いる騎兵で襲って三百名を惨殺した。 407年 三月 倭人が東の海岸を襲った。 六月今度は南の国境を襲い、百名を略奪した。408年 二月、倭人が対馬島に軍営を設けて、兵器と軍食糧を貯蔵して、新羅を襲撃しようと謀っていると王は聞き、「倭が攻めて来る前に海に出、今のうちに精兵を選んで打ち破るべきだ」と言った。軍首官僚の未斯品みしひんは答えて言った。
    「臣が聞いておりますことには、倭兵は兇器のように荒々しく、危険な戦闘となりましょう。まして私達が不得意な広い海を渡るのですから倭人を征伐できなかった時には戻るに戻れず全滅となるでしょう。ですから国内の山により要塞を設置すれば倭の侵略があるときはこれを防ぎ、撤退すれば襲う事ができます。これが上策だと考えます」王はこれを聞き入れた。
  • 「加耶」は、本来、朝鮮半島南部の慶尚南道を中心に、その周辺もある程度含んだ地域名であった。やがて新羅に併呑されたが、その範囲は時代により変わる。一般的には洛東江下流域が中心で、時には中流域まで及ぶこともあった。
     狭義の加耶は、たとえば六加耶などの特定の国を指す。ちなみに、六加耶とは、以下の国々をいう。
     『三国遺記』には、金官伽耶(きんかんかや;金海)・阿羅加耶(あらかや;咸安)・古寧加耶(こねいかや;咸昌)・大加耶(おおかや、だいかや;高霊;コリョン)・星山加耶(または碧珍加耶;星州)・小加耶(こかや;固城)の六加耶を、その他に、卓淳(とくじゅん;大邱)・非火(ひか;昌寧)・多羅(たら;陝川)、己汶(こもん;蟠岩・南原)・多沙(たざ;河東)などが加耶に含まれた。
     『日本書紀』の「任那」とは、加耶諸国の汎称として使われたが、加耶は、一般に言われているように、朝鮮半島南部の小国群の呼称ではなく、実は、加耶諸国の一国である金官国の別名にほかならない。金官国が、他の加耶諸国の盟主的存在であった時代であれば、その範囲内で影響力を行使したようだ。

     924年に慶尚南道の昌原の鳳林寺に建てられた「昌原鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑(しょうげんほうりんじしんきょうたいしほうげつりようくうとうひ)」には、「大師は諱(いみな)を審希(しんき)といい、俗姓は新金氏(しんきんし)、その先祖は任那の王族に連なる、・・・我が国に投ず」とある。「我が国に投ず」とは、532年に金官国最後の王金仇亥(きんきゅうがい)が、妃・長男の金奴宗・次男の金武徳・三男の金武力とともに新羅に投降したことをいう。この碑は、現在はソウルの景福宮内にある。
     『三国史記』の強首(きょうしゅ)伝にも「臣本任那加良人」という一文がある。韓国では良と耶は同音という、「任那加良」は「任那加耶」である。その他に、倭の五王が要求した都督諸軍事の称号の中に「任那」の2字が頻繁に入っている。
     「任那」という地域名は、『日本書紀』の独善による創始ではない。古来、朝鮮半島の一地域の呼称として厳存していた。
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