馬韓伝

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
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『三国志魏書』馬韓伝  魏略曰:初,右渠未破時,朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戸,亦與…

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コメント

  • 馬韓の位置は


    後漢書高句麗伝では建光元年(121年)高句麗が馬韓や□貊と共に玄菟郡へ侵攻し、夫余によって撃退されたとある。 馬韓が朝鮮半島南西部とすると、高句麗が楽浪郡の向こう側にあった馬韓と共に遼東にあった玄菟郡に 侵攻するのは不可解であり、馬韓は玄菟郡の近くにあったと考えられる

    宋書百済伝では百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に在ったとされる。

    宋書百済伝では百済が遼西を支配したある。朝鮮半島南西部にあった百済が遼河の西部を支配 するのは不自然である。

    北史百済伝では百済の南、海行三カ月に耽牟羅国(済州島)がある、とある。遼東半島にあったと すれば800km程度なので、1日10km程度で移動可能となる。

    南斉書では北魏が数十万騎で百済を攻めたとある。渡海作戦を行ったような記述は無いが、 百済が朝鮮半島南西部にあったとすると高句麗の向こう側に数十万騎を送るのは不自然である。

    史記夏本紀では「百済国西南渤海中に大島15有り、皆百済に属す」とある。百済は渤海に 面していた
  • 馬韓伝

    常に五月に種まきを終わり、鬼神を祭る。
    群衆は昼夜休むことなく、歌って踊り、酒を飲む。
    その舞は数十人で同じように地を高く低く踏んで、手足を合わせて動かし、
    リズムは中国の鐸舞と似ている。
    十月に農作業が終わるとまた同じような事をする。

    鬼神を信じ、国の邑(むら)ごとに、それぞれ一人の祭主がいて、
    天の神を祭り、その人を「天君」と呼ぶ。

    また諸国ごとに特別な邑があって、「蘇塗」という大木を立てて、
    鈴や小銅鐸を懸けて鬼神に仕える。
    その南部は倭に近く、刺青を入れている者もいる。

    「蘇塗」の使い方が二種類書いてあります。
    <前半>
    五月と十月の農作業が終わると人々は竿や大木に鳥の羽,白紙,布をつけて
    天神を降ろし、これをとりまいて歌って踊り、五穀豊穣を祈る。
    祭主は「天君」という。
    <後半>
    クニやムラの境界線の一区画に「蘇塗」を立てて、鈴や小銅鐸を掛けて
    邪気が入らないように鬼神に祈る。「ソッテ信仰」と言われている。

    「蘇塗」につけられる小銅鐸は数センチのサイズで、リーダーが腰につけたりもします。
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