伊香我色男命

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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伊香我色男命 猪名部(いなべ)神社の祭神。物部系の神で、饒速日命の六世の孫。猪名部造(いなべのみやつこ)の祖神…

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  • この意富伊我都命の嫡系は
    「彦伊賀津命--阿目夷沙比止命--川枯彦命--坂戸毘古命」
  • December 2017 編集されました
    猪名部神社
    所在地 三重県員弁郡東員町北大社796番地 
    主祭神 猪名部氏祖、伊香我色男命、
    建速須佐男命、天照大御神

    猪名部氏の出自には諸説ある。『日本書紀』応神31年8月条に、朝廷の船五百隻を造って武庫水門(むこのみなと)に停泊させていたところ、新羅の遣の船から失火、朝廷の船が全焼したため、新羅の王はその贖罪として、自らの優れた工匠を倭国に献上した。この工匠一族が猪名部の祖という、とある。しかし、『新選姓氏録』には、祭神伊香我色男命は猪名部氏の祖神で、天孫瓊々杵尊の兄、饒速日命の六世の孫と記されている。『先代旧事本紀』天神本紀には、饒速日命が天降りした際に5人が供奉したとある。これを「五部人(いつとものおのかみ)」と呼び、それらは

    天津麻良(あまつまら) - 物部造等の祖
    天勇蘇(あまつゆそ) - 笠縫部等の祖
    天津赤占(あまつあかうら)
    富々侶(ほほろ) - 十市部首等の祖
    天津赤星(あまつあかぼし) - 筑紫弦田物部等の祖
    とあり、このうち天津赤占あるいは天津赤星が猪名部氏の祖であるとしている。

    社伝では、猪名部氏は、攝津国(兵庫県)の猪名川周辺からの移住してきたとしている。北摂地方(現在の伊丹市、尼崎市、宝塚市、池田市付近)にはかつてヤマト王権時代に猪名県が置かれ、為那都比古を首長とする一族が支配していたとされる。ただしここから員弁財麿、豊雄に至る系譜は明らかになっていない。

    和銅6年(713年)、第43代元明天皇の勅命により、猪名部の族名が転じて「員弁」とされた。

    出自と直接関係づける史料はないが、この猪名部は木工建築の匠の技術を持っていたことが伺われ、天平17年(745年)8月に第45代聖武天皇の勅で始まった東大寺の建立に、猪名部氏族から猪名部百世が大工(=棟梁)として、飛騨の匠の益田縄手が少工(=副棟梁)として動員され完成している。さらには法隆寺、石山寺、興福寺の建立にも携わった記録が残り、古墳の出土品からは飛鳥寺建立にも携わっていることが知られている。
  • December 2017 編集されました
    伊奈波神社(いなばじんじゃ)は、岐阜県岐阜市にある神社である。美濃国三宮で、旧社格は国幣小社。式内社「美濃国厚見郡 物部神社」の論社である。
    祭神 五十瓊敷入彦命
  • December 2017 編集されました
    伊那上神社
    いなかみ
    鎮座地 静岡県賀茂郡松崎町宮内
    御祭神 積羽八重事代主神

     社伝によれば、当社は第五十二代嵯峨天皇弘仁八年(817)伊豫國越智郡三島より遷座したと伝えられ、また伊豆国国府三島より遷座したと伝えられる。文治元年(1186)の文書に仁科荘那賀郷三島宮正中二年(1346)の文書に三島大明神、慶長拾参年(1608)時の金山奉行、兼 伊豆代官 大久保石見守が寄進した金燈籠には仲神社とほりこんである。
    昔は三島大明神、三島宮または仲神社といわれたのである。
     承安三年(1173)源頼朝当社に参詣され社田を寄進したので、其の後は将軍家の尊嵩が厚く、神領五百石を領し、宮殿広大荘厳 末社八拾有余を有し、西伊豆第一の大社であったが、天正年間の大火に遭い時の社司金差義長四拾余社を再建して、従来の大社の面目を保ったが、続いて間もなく慶長年間に再び火災に遭い壮麗の新宮殿、本社、拝殿、社寶、旧記、等一宇も余さず全焼したが、なお二十石の御朱印地を賜って、大社の面影を今も伝えている。上宮とは慶長五年(1600)の神領附の古文書が最初である。正徳二年(1712)の棟札が最初で、唯一神道祭官那賀郷大鎮守也といって、従来の伊豆の五大社の面目を伝えている。~境内の案内板より~

    式内社・伊那下神社の論社

    伊豆国神階帳に「従四位上 いなしもの明神」とある古社。

    慶長十三年(1608)三月、大久保石見守長安が
    伊那上神社に金燈籠を奉納したが、そこに「那賀神社」と記されており
    当社にも同型の灯籠を奉納し、そこには「松崎大明神」と記されていた。
    このように、伊那上神社と当社は対等の待遇をなしていたと思われる。

    当時、当社は唐(もろこし)大明神と称されていたが
    寛政年代に江川坦庵によって「伊那下」の額を奉り、
    以後「伊那下神社」と称するようになったという。

    唐大明神と称したことから、大唐=大歳と考え、
    伊那上神社を式内社・仲神社と考えると同時に
    当社を式内社・仲大歳神社とする説がある。

    この「唐大明神」と称した理由は、
    古代、神功皇后が新羅征討の時、
    唐の国人が皇后の御船を守護し、長門豊浦に留まり
    後に当地に移って住吉三神を奉斎したためであるという。

    また、海に近いためか龍宮を訪れた天彦火火出見尊を祀るといい
    あるいは、別名を石火宮と称して、住吉三神と並べて
    両輿(もろこし)大明神と称したとも。

    この「石火宮」と称したという記録によって、
    当社を式内社・伊志夫神社とする説もあるらしい。

    拝殿には神紋の七宝紋を染めた幕が掛かっていた。

    境内の右手奥に、松崎護国神社が祀られ、
    その横に「尊庭」という庭がある。

    拝殿の横には境内社が並び、
    彫刻を祀っている大足社、厳島神社、秋葉神社と
    小祠の愛宕神社、津島神社、金刀比羅神社、天満宮。

    他にも小祠があったと記憶しているが確認し忘れ。
    社務所に神職の方が居られたのだが、御朱印も忘れてしまった。

    『式内社調査報告』によると、上記の他に境内社として
    海神社、石神社、三峯社、御霊社、道祖社、稲荷社、沖宮、
    墨江社、船玉宮などの名前が載っている
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