志式神社と綿津見神社

01/10編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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「ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも 我は忘れじ 志賀の皇神(すめがみ)」 万葉集(巻7・1230) 歌意は《航…

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コメント

  • 志式神社

    神功皇后一行は、飯塚を抜け香椎宮のある現在の福岡県東区に入ります。

    的野
    神功皇后三韓征伐の際に、武人に弓矢の稽古をさせたためという。

    和白
    神功皇后が和白にて三韓征伐の軍議を開く。日本議会最初の発源地は、筑前和白であるとされる。東洋学的に和白という言葉は「議会」という意味である。これが元で地名として定着したと思われる。(wikipediaより)

    そして神功皇后が戦勝の神楽を舞ったと云われるのが

    志式神社
    福岡市東区大字奈多1238-2
  • 志式神社(ししきじんじゃ)。
    海ノ中道の根元、奈多(なた)という地区にあります。
  • 桜谷神社
    祀られているのは
    ・苔牟須売神(こけむすひめ)
    ・木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)
    の二柱。

    志賀海神社
    「君が代」の起源は博多湾周辺、という説があるそうで、こちらのお社のコケムスヒメがその説のひとつの例証になっているみたいなのです。


    君が代は
    千代に八千代に >博多に千代っていう場所がある
    細石の >前原に細石(さざれいし)神社がある
    いわおとなりて >付近に井原(いわら)古墳がある
    苔のむすまで >いまここ

    君が代のこの一節が、ほかならぬ志賀海神社の神楽歌として伝承されているってことも、想像をたくましくさせますね。
  • 01/10編集されました
    (志式神社記より)神功皇后三韓進軍の折 此の奈多浜に鎮座される荒ぶる神の御前にて戦捷の神楽を奏して征途につかれた、此の所を神楽岸又は踊り坂と伝え、当時神功の料理に奉仕した祖先の意志が受けつがれ今日の早魚神事として伝承される。


    皇后が半島に進軍する前にここで戦勝祈願の神楽をした。その折りに皇后に地元の人たちが料理を奉じた故事にならって、早魚神事っていうことをやっている。

    読み方すらわからない「早魚神事」を調べると、

    志賀島の東、奈多に鎮座する志式神社の秋の大祭では、「献魚包刀式」を中心に繰り広げられる独特の神事「早魚神事(はやましんじ)」が行われます。夜神楽のなかで「早魚舞」として行われ、福岡県の無形民俗文化財に指定されています。
    献魚包刀式は二組の青年たちが、まな板の上に置いた塩鯛をさばく早さを競う競争神事で、若者から大人への通過儀礼でもあります。一組は包丁で鯛をさばく「料理人」、座元に鯛のヒレを差し出す「ひれさし」、さばいた鯛の身を入れるすり鉢をもつ「すり鉢持ち」、そして「提灯持ち」の4人で構成されます。出場者と役割は当日のくじ引きで決まり、2時間程の稽古で本番にいどみます。
    さばいた鯛は古来「安産」の守りとされ、小さく切り分けて氏子たちに配られます。
  • 01/10編集されました
    志賀の島の北部、勝馬に元宮の三宮があります。
    その地名は神遊瀬(大戸・小戸)舞能ヶ浜(御手洗)と幾つもの名称を持っています。

    イザナギ命と志賀大神の記憶
    御手洗 イザナギ大神が黄泉の国の穢れを洗い清められた所という。

    大戸小戸 大戸小戸というのは勝馬山の側に入り海のようになっていて、その東に穴がある。深くて奥が知れない。志賀皇神たち は神遊の瀬からその穴に出入りされた。それで大戸小戸という。

    神遊の瀬 昔、息長足姫尊の大御世の前の代には、志賀の皇神たちはこの三瀬に鎮座して遊居されていた。それで神遊の瀬と言う。

    舞能(まいわざ) 昔、息長足姫が諸臣を集めて、志賀大神を招かれた時、神は来られなかった。そこで諸臣たちはいぶかしく思って、篝火を焚いて榊の枝に白幣を取りかけて、天の岩の神楽を奏すると、志賀大神は金色の亀に乗って現れた。
    だから、9月8日神幸の神輿の前に舞能を奏する。その時の様子を表すものという。

    御手洗であり、大戸小戸であり、神遊瀬、舞能浜です。
    ここでイザナギは黄泉の国から戻って来て禊をして神々が生まれたと伝えます。
    生まれた神々の中の海の神の三神がこの海を囲んで祀られています。
       沖津宮 表綿津見神・天御中主神
       仲津宮 仲津綿津見神
       表津宮 現在は志賀海神社に遷宮。跡地が残っています。
    左の島が沖津宮で、白い鳥居が輝いています。

    ここは「小戸」。イザナギ神話が生まれた原初の場所です。
    神功皇后はここまでやって来て志賀大神の為に神楽を奏したので「舞能(まいわざ)ヶ浜」とも言います。

    この地から山の方に上って行った所に細型銅剣の鋳型が出土しました。
    万葉集に歌われる志賀の白水郎荒雄が対馬の防人へ
    食糧を輸送するために出港した場所でもあります。彼は帰らぬ人となりました。
  • 神功皇后は志賀島に三度は来ているようです。
    一度は勝馬(小戸の浜)にて志賀大神の参拝をするため。
    二度目は新羅攻撃への出港時に寄港。
    三度目は凱旋時に寄港。

    神功皇后の時代は元宮のある勝馬が舞台です。
    彼女の二代前の景行天皇もそこで祈祷したとあります。(福岡県神社誌)
    関係する氏族の聖地に出掛けて奉斎するのは彼女のやり方です。

    目的はこの聖地を本拠地とする阿曇の長=磯良に
    新羅攻撃の船と操縦の依頼をするためだと思いました。
    その願いが叶ったのでしょう、
    御軍船の舵は安曇磯良麻呂が司り、陪従者は375名。
    出港地は香椎宮。志賀島の8人の海士らがお供して船を漕いだ。
    と書かれています。
    その海士らの名前は奇跡的に大川市の風浪宮に伝わっています。
  • 阿曇磯良丸の像
    磯良丸は少童(わだつみ)命を祖神とする海洋族の酋長で、神功皇后が三韓に御親征の時、志賀島に召されて軍船を整え、海上指揮を仕え奉りて、無事大任を果たした航海熟達の海士(あま)であります。

    太平記に見る磯良丸は龍宮に住んでいたが、神功皇后のお召しに従って大海亀にまたがって香椎が浜に出現し、皇后の三韓御親征に干珠満珠を捧げて従軍し、御助成をしたと述べられています。

    この像は磯良丸が多年海底の宮に住んでいたので、身体中海藻や魚貝類がとりついていたという魁偉なる風貌を彫ったものであります。
    因みに、阿曇史久 現宮司は直系の67代目を数えます。
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