未定義の論題

12/05編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

コメント

  • 改新の詔「初修ニ京師ー。置ヱ畿内国司郡司。関塞。斥候。防人。群馬。伝馬ー。 及造=鈴契ー。定三山河-oJ叫に,関塞の設置の 記事がみられる。しかしこれだけでは,四至に
    周塞が設置されたのかどうかはわからない。

    『令義解」(関市令) によると,各要地に閣が設けられていたと考えられる。
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    改新の詔 第2条
    第2条は、政治の中枢となる首都の設置、畿内・国・郡といった地方行政組織の整備とその境界画定、中央と地方を結ぶ駅伝制の確立などについて定めるものである。

    最初に挙げられている首都の設置は、白雉元年(650年)の難波長柄豊碕宮への遷都により実現した。

    次に挙げられる地方行政組織の整備は、畿内・国(令制国)・郡の設置が主要事項だった。畿内とは、東西南北の四至により画される範囲をいい、当時、畿内に令制国は置かれなかった。畿内の外側には、令制国が置かれた。令制国は、旧来の国造・豪族の支配範囲や山稜・河川に沿って境界画定作業が行われたが、境界はなかなか定まらず、後の天智天皇の頃にようやく令制国が画定することとなった。

    後の時代、国の下に置かれていたのは郡であるが大化当時は評と呼ばれ、令制国の画定よりも早い時期に設置されており、『常陸国風土記』や木簡史料などから、孝徳期のうちに全国的に評の設置が完了したものと見られている。それまで、地方豪族は朝廷から国造などの地位を認められることにより、独自の土地・人民支配を行ってきた。しかし、評の設置はそのような独自支配体制を否定し、豪族の地方支配を天皇による一元的な支配体制に組み込むものであった。評の設置により、地方豪族らは半独立的な首長から、評を所管する官吏へと変質することとなった。これが後の律令制における郡司の前身である
  • 改新の詔は、藤原氏の宣言か

    こんな説も
    「“大化の改新、蘇我入鹿誅殺”は、要するにもう蘇我氏という大臣(おおおみ)の必要がなくなった、ということなのです。
    どういうことかと言えば、畿内王朝に必要な新しい内大臣が現われた、ということです。それが、藤原鎌足の登場だ」
  • 評(こおり、ひょう)とは、古代朝鮮および古代日本での行政区域の単位。

    『日本書紀』は「大化の改新」の時に「郡」が成立したと記すが、「郡」という用語が用いられるのは、大宝律令制定以降であり、それ以前は「評」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている。
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    藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡によると、出雲評・楯縫評・大原評などの存在が知られる。『日本書紀』斉明五年(659年)に「於友郡」(おうぐん)とあるが、意宇郡の前身としての於友評のことで、評制度が7世紀半ばの早い段階に置かれていたことが分かる

    『播磨国風土記』「穴禾郡比治里」(しそうぐんひじのさと)の条に難波長柄豊前天皇(孝徳天皇)の御代に揖保郡と穴禾郡とを分けたとの記事がある。「郡」ではなく「評」である。また、天智天皇の庚午年(670年)や持統天皇の庚寅年(690年)に戸籍や里が整備されていったと記されている。国評里の制度が次第に整備されていったことが分かる。飛鳥池遺跡や藤原宮跡などから丹波国の多紀郡を「多貴評」、播磨国の飾磨郡を「志加麻評」、穴栗郡を「穴栗評」、神埼郡を「神前評」、揖保郡を「粒評」と記している木簡が見つかっている
  • r645年に天智天皇の大化の改新を助けた中臣鎌足は、その後天智天皇から藤原の姓をもらいます。
    その後701年には鎌足の子の藤原不比等が大宝律令を制定するなど、朝廷におけるえ影響力を発揮していきます。

    しかし藤原氏がすんなりと権力を握れたわけではなく、さまざまな政敵と戦い、追い落とすことで権力を手に入れていきます。

    藤原氏の政敵追放の歴史

    810年 薬子の変

    藤原式家の藤原薬子と仲成が反乱を起こして失敗→藤原北家の藤原冬嗣の勝利

    842年 承和の変

    橘逸勢(たちばなのはやなり)が謀反の疑いで追放される→藤原北家の藤原義房の勝利

    866年 応天門の変

    伴善男(とものよしお)・紀夏井(きのなつい)らが応天門放火の疑いで追放される→藤原北家の藤原良房の勝利

    901年 昌泰の変

    右大臣菅原道真が謀反の疑いで追放される→藤原北家の藤原時平の勝利
  • 飛鳥時代の646年(大化2)に、「改新の詔」が発布された日ですが、新暦では1月22日となります。
     これは、飛鳥時代の645年(大化元)に起きた「大化の改新」において、新たな施政の基本方針を示すために、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮で出されたとされる詔です。
     『日本書紀』の大化2年正月に所載されていて、「(1)屯倉、田荘などの私有地、ならびに子代、部曲などの私有民の廃止によって、公地公民制を敷く。(2)天皇の所在する京都・畿内を設定し、地方の行政区画と中央集権体制を整備する。(3)戸籍・計帳を作成して、班田収授法を実施する。(4)これまでの賦役を廃止し、新しい税制を打ち立てる。」の四ヶ条からなっていました。
     しかし、学者の間で「郡評論争」が起こり、藤原京から出土した木簡等により、編者により潤色されたものではないかと考えられるようになったのです。
     実際には、これらの改革が一度に実施されたのではなく、近江朝から天武・持統朝へと引き継がれる中で、律令体制として整えられていったのではないかとされるようになりました。

    〇「改新の詔」(全文)大化2年正月

    二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。

    其一曰。罷昔在天皇等所立。子代之民。處々屯倉及別臣連。伴造。國造。村首所有部曲之民。處處田庄。仍賜食封大夫以上。各有差。降以布帛賜官人。百姓有差。又曰。大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。

    其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。驛馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌按検戸口督察奸非。其坊令取坊内明廉強直堪時務者充。里坊長並取里坊百姓清正強幹者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿内國。凡郡以四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。其郡司並取國造性識清廉堪時務者爲大領少領。強幹聰敏工書算者爲主政主帳。凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。

    其三曰。初造戸籍。計帳。班田收授之法。凡五十戸爲里。毎里置長一人。掌按検戸口。課殖農桑禁察非違。催駈賦役。若山谷阻險。地遠人稀之處。隨便量置。凡田長卅歩。廣十二歩爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。

    其四曰。罷舊賦役而行田之調。凡絹絁絲綿並隨郷土所出。田一町絹一丈。四町成疋。長四丈。廣二尺半。絁二丈。二町成疋。長廣同絹。布四丈。長廣同絹絁。一町成端。〈綿絲絇屯諸處不見。〉別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄。亦随郷土所出。凡官馬者。中馬毎一百戸輸一疋。若細馬毎二百戸輸一疋。其買馬直者。一戸布一丈二尺。凡兵者。人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者。改舊毎卅戸一人〈以一人充廝也。〉而毎五十戸一人〈以一人充廝。〉以充諸司。以五十戸充仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺。庸米五斗。凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戸充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁。

                      『日本書紀』第二十五巻より

       *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

    <読み下し文>

    二年春正月甲子の朔、賀正の禮畢りて、即ち改新之詔を宣ひて曰く

     其の一に曰はく、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民、処処の屯倉、及び別には臣・連・伴造・国造・村首の所有る部曲の民、処処の田庄を罷めよ。仍りて食封を大夫以上に賜ふこと各差有らむ。降りて布帛を以て、官人・百姓に賜ふこと差有らむ。又曰はく、大夫は民を治めしむる所なり。能く其の治を尽すときは則ち民頼る。故、其の禄を重くせむことは、民の為にする所以なり。

     其の二に曰はく、初めて京師を修め、畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、及び鈴契を造り、山河を定めよ。凡そ京には坊毎に長一人を置き、四の坊に令一人を置きて、戸口を按へ検め、奸しく非を督し察むることを掌れ。其の坊令には坊の内に明廉く強く直しくして時の務に堪ふる者を取りて充てよ。里坊の長には並びに里坊の百姓の清く正しく強幹しき者を取りて充てよ。若し当里坊に人なくば、比の里坊に簡び用ゐることを聴せ。凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、(兄、此をば制と云ふ)、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里以下、四里以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。其の郡司には並びに国造の性識清廉くして時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強く幹しく聡敏くして書算に工なる者を主政・主帳とせよ。凡そ駅馬・伝馬を給ふことは皆鈴・伝符の剋の数に依れ。凡そ諸国及び関には鈴契を給ふ。並びに長官執れ、無くば次官執れ。

     其の三に曰はく、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。凡そ五十戸を里とす。里毎に長一人を置く。戸口を按へ検め、農桑を課せ殖ゑ、非違を禁め察め、賦役を催し駈ふことを掌れ。若し山谷阻険しくして、地遠く人なる処には、便に随ひて量りて置け。凡そ田は長さ三十歩、広さ十二歩を段とせよ。十段を町とせよ。段ごとに租稲二束二把、町ごとに租稲二十二束とせよ
  • 645(大化1)年、大和の飛鳥から難波(大阪府)の長柄豊崎宮へ遷都を行う。続いて政治の側近を担う左右大臣、内臣、国博士を設置した。東国の国司を派遣、鐘置設置(人々が訴えを聞く)、男女の法(通婚による子の帰属について)、諸国の武器の収公、戸籍の作製を行い、律令国家としての体制を整えた。

    左大臣:阿倍内麻呂
    右大臣:蘇我倉山田石川麻呂
    内臣:中臣鎌足
    国博士:高向玄理・僧旻
  • 藤原氏の伊丹と伊丹廃寺

    最初の瓦は片岡王寺式と申し上げた、飛鳥時代の後期の瓦ですから、わりと古い時期まで逆上ります。そうしますと、七世紀には建っているわけですね。魚名の時代よりもずっと逆上っているわけです。そしたら藤原氏の不比等だったらまあいいかもしれませんが、あるいは不比等のもう一つ上にいってもいいわけです。不比等の親は鎌足です。鎌足が藤原姓をもらいますけれど、一族は中臣氏として残るわけです。中臣氏というのはこの北摂に非常に力をもっておりまして、例えば箕面にある勝尾寺という、最初は藤原氏の二人の兄弟から出てまいります。

     それから総持寺が藤原氏ですね。高槻へいきますと、何と藤原鎌足の墓という阿武山の古墳があります。そうするとね、摂津の山の麓というのは全部藤原氏と関わる土地なんです。で、藤原氏といってしまうのは、鎌足が出てきてからですから、それ以前の中臣氏の勢力というもの考えていったら、藤沢先生が言われるように、伊丹廃寺も藤原氏、中臣氏の一族の誰かが建てたお寺だと。それが不比等に縁ができ不比等であり、それから房前ですか、その次の魚名ですか、そういうふうに伝承されていったって、いいわけですね。そうすると藤原氏、あるいは中臣氏との関わりというものをここで考えることができる。まして伊丹には後に橘御園というのがございます。これはのちのちまで続いて行く橘御園という荘園が出てきます。これが園田という土地の名前につながる、立花というJRの駅に繋がる土地がずっとこれから南のところにあるわけです。そしてもっと時代を下げていきますと、なぜ藤原氏の一族の子孫である近衛家が、この伊丹の町を領有するということにも繋がってくるのです。

    出典 http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/itaminorekishi/Part_2/page13.html
  • 談山神社の墓の謎
    藤原不比等の墓ということだが談山神社の境内からは離れた寂しいところにある。
    しかも石塔は「永仁六年」「大工井行元」の刻銘があるそうだ。
    永仁六年というと1296年ですから、随分後の時代である。 659年、藤原不比等は藤原鎌足の次男として生まれ、不比等とその息子の藤原四兄弟 によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められた。
    古代史最大の実力者の墓としては立地、規模とも信じられない。
    しかし、喜田貞吉著作集3「国史と仏教史」(平凡社、1981.11.25 )によると、『 「三 代実録」に、「贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓」とあるを、「延喜式」には、贈 太政大臣正一位淡海公藤原朝臣多武峯墓とし、「政治要略」に至りては、さらに、間違い に念を入れて、「多武峯墓、贈太政大臣正一位、淡海公藤原朝臣、云々。』・・・とある ので、談山神社の「淡海霊廟(たんかいれいびょう)」を藤原不比等の墓とするのは間違 いである。
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    不比等の墓

    佐保丘陵の椎岡(ナラヲカ)墓
    喜田貞吉著作集3「国史と仏教史」(平凡社、1981.11.25 )によれば、不比等の墓は少く も永承年間まで、依然その火葬の地たる奈良佐保山椎岡にあった。喜田貞吉は、その著書 の中で次のように述べている。すなわち、
    『 不比等死して遺教により佐保山椎岡に火葬せられしことは、『公卿補任』の頭書これを伝え、疑いを容るるの要なし。しかして当時の火葬なるものは、今日の火葬のごとく、その火葬所は単に屍体を焼く竃のみの用に供し、遺骨は他の任意の墓地に葬るというがごとき類にあらず。持統・文武両帝のごとく、飛鳥岡に火葬して他に陵を営むの例はあれども、普通には火葬所すなわち葬地たりしもののごとし。火葬とは単に屍を焼くの謂にあらずして、いわゆるその地に火葬するの義ならざるべからず。ことに不比等の場合にありては、後までもその墓が火葬の地たる椎岡に存するにおいて、最も適切にこれを証するなり。』

    『 しかして不比等の墓は、永承二年(1047年)後他に遷るの徴証なき以上、しばらくは依然佐保山椎岡にあるものとすべく、その所在は、実にその女たる聖武天皇の母・藤原宮子の佐保山西陵の兆域(墓所という意味。当時は東西12町、南北12町の宏大な区域であったらしい。)内にして、・・・云々。』
    『 その椎岡に墓のありたることは、永承二年左大臣藤原頼通の「告文」に見ゆ。(註:告文は省略する)。告文の中の「興福寺を建立せる霊廟」とは、言うまでもなく不比等にして、しかしてその廟は天安二年を拒る百九十年後の永承二年において、なおその火葬の地たる佐保山椎岡に現存するなり。』・・・と。
    以上、喜田貞吉の論考によれば、藤原不比等の墓は、少なくとも200年近く佐保山丘陵 にあったのである。 永承二年(1047年)、左大臣藤原頼通が前年に焼失した興福寺 の北円堂(不比等の霊廟)を国家事業として再建した際に、佐保山丘陵の 藤原不比等の 墓はなくなったのである。
    藤原宮子の佐保山西陵は、もともと黒髪山の西に位置していたが奈良ドリームランドの開 発により破壊され、現在、遺跡らしいものは何もない。したがって、藤原不比等の墓も死 後しばらくはここにあったというだけで、現在、何ら痕跡はない。
  • 古代の琵琶湖東岸には、北から坂田酒人君、息長君、犬上君、愛知秦公(えちはたのき み)、佐々貴山君、羽田公、蒲生稲寸(いなぎ)、安直(やすのあたい)という豪族がい た。

    その多くは古くからの在地の豪族だが、唯一、愛知秦氏だけは新羅からの帰化人で、 愛知郡の大領を代々世襲していた。 というのは、もともと愛知川は周囲より低い位置に あるために農業用水の確保が難しく、人が住めない所だったからだ。そこに、山城の秦氏 の一部が移住してきて、得意の土木灌漑技術で開墾し、北の宇曽川流域にも田畑を広げ、 鈴鹿山脈からの扇状地である八木、蚊野の辺りから大隴神社にかけての広い地域に住むよ うになった。縁故関係も多く、奈良時代や平安時代の文書によると、愛知秦公、愛知秦な ど、秦氏の支流は十二流を数えるほどになった。7~8世紀間の大領と少領を合わせる と、28人中24人が愛知秦氏であったことが確認されている。その愛知秦氏ゆかりの神社 が、大隴神社である。
    その大隴神社の西側、愛知川との間に、もともと淡海公御墓があって、ある時、何かの理由で八幡神社の裏に移転されたらしい。大隴神社と八幡神社との間はわずかな距離である。この移転は、当然、淡海公御墓を管理していた秦氏が親戚関係にあった藤原一族のために行なったのであろうが、、問題は、いつ頃、秦氏は藤原一族の誰のために淡海公御墓
    を移転したのかということである。
  • 12/05編集されました
    大生神社の在所である茨城県潮来市大生の地は、かつての行方郡で、白雉2年(653)茨城郡と那珂郡を分割合併して誕生した郡だとされる。
     そして那珂郡の初代国造が建借間命(たけかしまのみこと)だとされる。建借間命は多氏の遠祖である神八井耳命の後裔であり、印波国造の伊都許利命なども神八井耳命の後裔だとされる。
     那珂郡の国造や大領は建借間命の後、壬生直夫子、宇治部直荒山(723年)、宇治部直全成(781年)と続き、行方郡大領にも壬生直足人(753年)が出現する。
     壬生直・宇治部直などは建借間命を祖としていて、更に仲臣(那珂臣)も那珂国造一族ということで建借間命に繋がるようだ。

     建借間命(多氏)はこの地方では有名だ。それは『常陸國風土記』の行方郡の板来(いたく)の村に関わる記述の中に、建借間命(神八井耳命の子孫)が国栖(くず)と呼ばれる異族の首魁を征討した時の話が伝えられているからで、その場所が旧大生原村の大生と呼ばれたところであったという。

     「風土記」は和銅6年(713)、元明天皇の命によって作り始められたが、完成したのは国によって差があったようだ。『常陸國風土記』は、養老3年(719)より養老6・7年の頃まで常陸国守並びに按察使として在任していた藤原宇合(藤原不比等の第三子)か、その下で記事採録者をしていた高橋虫麻呂の作と推定され、養老7年前後には完成していたと考えられる。
     各国の「風土記」は逸文は残るが、ほぼ完成した状態で残るのは、出雲、播磨、肥前、豊後、常陸のものだけだという。
     藤原宇合(うまかい)が関わったと考えられる『常陸國風土記』が残されているのは興味深い。この『常陸國風土記』には鹿島の大神のことが書かれているが、はっきりとそれが武甕槌大神とは書いてない。
     『常陸國風土記』には次のようにある。
    「 古老のいえらく、難波の長柄の豊前の大朝に馭宇しめしし天皇のみ世、己酉の年、大乙上中臣□子、大乙下中臣部兎子等、惣領高向の大夫に請ひて、下総の国、海上の国造の部内、軽野より南一里と、那賀の国造の部内、寒田より北の五里を割きて、別きて神の郡を置きき。其処に有ませる天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天の大神と称ふ。因りて郡に名づく 」
     “難波の長柄の豊前の大朝に馭宇しめしし天皇”とは孝徳天皇であり、“己酉の年”とは大化5年(649)である。この頃の朝廷の実権は中大兄皇子と中臣鎌足が握っていたと考えられる。
     現在の祭神は、坂戸の社が天児屋根命、沼尾の社が経津主命であるが、天の大神の社については不明だという。この天の大神の社が現在の大生神社である可能性がある。
     この当時、朝廷は高向臣(たかむこのおみ)と中臣幡織田連(なかとみのはとりだのむらじ)を遣わして東国の惣領にしたという。
     高向臣は高向玄理(たかむこのくろまろ)の一族であれば、大海人皇子と関係があるのではないかと考える。
     何れにしてもこの頃、鹿島では新たな神の社の建設が本格化したのであろう。そしてその神を“香島の天の大神”と総称したのであろう。
     もし、大生神社が多氏の祭神を祀り、大和から勧請されたのであれば、祭神は神八井耳命が相応しいが、それより親しい建借間命を祀っていたと考えてもおかしくない。建借間命はあるいは武借間命と書かれた可能性は高い。

    借間→香島→鹿島 という流れ

    大生古墳群(おおうこふんぐん)と呼ばれる古墳群が広がる。この古墳群は県下最大規模を誇るものであり、前方後円墳・方墳・円墳など大小110余基からなる。
     築造時期は古墳時代中期(5世紀)とも、6世紀後半から7世紀後半の築造ともいわれる。
     これらの古墳の被葬者は、当社の奉斎氏族のオフ氏(多氏・飯富氏)一族と見られている。また、各前方後円墳がいずれも大生神社または鹿島神宮を向いているという指摘もある。

     鹿島神宮社家である東家の文書には、大生神社は大同元年(806)11月14日、多神社から遷座し創建されたとある。更に、東家に伝わる『ものいみ書留』では、大同2年(807)12月27日、「大生宮」より「今のかしまの本社」へ遷座したという。
     大生神社の例大祭は11月15日に行われるが、古くは鹿島神宮から物忌(ものいみ:神宮の斎宮)がこの祭に出輿したという。
     物忌は数ある鹿島神宮の祭の内でも年6回しか出御しなかったが、うち1回が大生神社への出輿であり、また境内を出るのはその1回のみであったことからも、大生神社(本宮)に対する特別待遇がうかがわれる。

     大生古墳群で主なものは鹿見塚古墳(58m)と子子舞塚(まごまいづか)古墳(72m)である。
     大生神社の例大祭には、鹿島神宮から20数人の神主が鹿を先頭にやって来たので、鹿を見て遣いが来たのを知る塚なので鹿見塚古墳というのだそうだ
  • 霞ヶ浦周辺で、7世紀から8世紀にかけて多氏、中臣氏、藤原氏が濃密な関係を見せる。
     天智天皇は、多蔣敷(おおのこもしき)の妹を百済の王子豊璋に娶せている。こうして見ると多氏は帰化人と近い関係にあったとも考えられる。
     663年の白村江の戦いのとき、中大兄皇子(天智天皇)は豊璋に倭国最高位の「織冠」を授け、5000人の兵をつけて朝鮮半島の百済遺臣の鬼室福信らのもとへ送り返している。
     一説には多蔣敷は太安万侶の祖父だという。そして、私は中臣鎌足(藤原鎌足)を百済系帰化人だと考えている。中臣鎌足は死に際して天智天皇から藤原の姓と「大織冠」を賜っている。「織冠」を授けられたのは歴史上豊璋と鎌足だけだという。

     『続日本紀』の霊亀2年(716)の記事に、太安万侶が氏の長になったというものがある。氏長になったという記事は少ないという。
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    和泉

    和泉国は天平宝字元年(757)大鳥、和泉、日根の3郡が河内国から分かれて成立した。
    和泉の国の主要な神社の大鳥(おおとり)・穴師(あなし)・聖(ひじり)・積川(つがわ)・日根(ひね)を和泉五社という。平安時代に中央から派遣された国司が、任地に着いた時に、参拝する順番が決まっていて、最初を一の宮と言う。
    その後、泉井上神社に五社を勧請し、和泉五社総社として、国司の巡拝を楽にした。
    当時、堺市から泉佐野市までの巡拝の旅は大変だったのだろう。
    和泉の国 一の宮 大鳥(おおとり)大社 大阪府堺市鳳北町
    和泉の国 二の宮 泉穴師(いずみあなし)神社 大阪府泉大津市豊中町
    和泉の国 三の宮 聖(ひじり)神社 大阪府和泉市王子町
    和泉の国 四の宮 積川(つがわ)神社 大阪府岸和田市積川町
    和泉の国 五の宮 日根(ひね)神社 大阪府泉佐野市日根野
    和泉の国 総社 泉井上(いずみいのうえ)神社 大阪府和泉市府中町


     延喜式神名帳に、『和泉国和泉郡 和泉神社』とある式内社だが、今、式内・泉井上神社に合祀され末社となっている。

    ※由緒
     当社の創建由緒・時代等不明。
     式内社調査報告(1986)によれば、
     「和泉国国衙(泉井上神社を中心に約500m四方ほどあったという)に南接する和泉寺の近くにあったが、廃寺となったあと、国衙南端の御館森(ミタチノモリ)に移った。
     御館森の地は古くは泉井上神社の境内に接続しており、泉井上神社・和泉国総社・和泉神社が近接して鎮座、時代によって主客の変化があった。
     江戸時代には総社が主神のようだったが、明治初年では主客逆転して、社地の2/3強は和泉神社に属し、1/3弱が総社の神域で、泉井上神社は一摂社の観があった。
     しかし、御館森が泉井上神社の御旅所であったことから再転、明治41年12月泉井上神社の境内に移され、末社となった」
    とある。
     当社の旧社地・御館森の位置・現状など不明。泉井上神社神域内に並ぶ小祠の一つがそれだともいうが未確認。

    ※祭神
      明治42年(1909)の神社明細帳には祭神不詳とあるが、当社の古い社地が、古代豪族・珍県主(チヌノアガタヌシ、茅渟・血沼とも書く)の勢力範囲であった上泉郷にあったことから、当社祭神は“珍県主の祖神”ではないかという。(以上、式内社調査報告)

     珍県主とは、新撰姓氏禄(815)に
     「和泉国皇別  珍県主  (崇神天皇皇子)豊城入彦命三世孫御諸別命之後也」
    とある氏族だが、和泉寺の推定地(府中町4丁目付近)を発掘調査した際(2010)、“珍県主廣足”(ヒロタリ)と墨書した瓦片が出土している(和泉市広報)ことから、当地辺りに珍県主一族が居住し、その氏寺が和泉寺で、当社は、その祖神(トヨキイリヒコあるいはミモロワケ)を祀った氏神社ではなかったかと推測される
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    6世紀 代の泉南は倭王権と紀伊の勢力との争奪の地で あったことが裏付けられており,交通上の拠点 としても和泉南部の位置は重要であった(森昌 俊1999・石部1999)。和泉と紀伊とのつながり は,薗田香融氏が報告した奈良時代の『大般若 経』の奥跋から,天平13年(741)の紀伊国那 賀郡での写経に,和泉郡の坂本氏が加わってい ることでも証明できる(薗田1978)。

    坂本氏
    和泉国和泉郡坂本郷に興りました。武内宿祢の子木角宿祢の裔、根使主の後裔。和泉郡坂本(和泉市阪本町)は古くから坂本氏の本拠地で、和泉郡内でも最も早くから開発の進んだ地域であった。
    坂本 財(さかもと の たから)は、飛鳥時代の人物。姓は臣。坂本糠手の子とする系図がある。冠位は大錦上、贈小紫。

    672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側にたって戦い、河内から倭(大和)に来る敵を防いで敗れた

    坂本財はこの後も大友吹負の許で戦ったと考えられるが、その様子は『日本書紀』に現れない。翌年の5月29日に大錦上の冠位で死んだ。壬申の年の功労によって、小紫の位を贈られた


    根使主(坂本臣の祖)が、大草香部民と茅渟県主に二分されたという。
      坂本臣の坂本は『和名抄』の「和泉国和泉郡坂本郷」(大阪府和泉市阪本町付近)とされる。根使主の所在地は坂本であり、これを二分した一つを治めたのが茅渟県主とすれば、坂本は茅渟の領域にある。坂本は奈良時代に和泉監・和泉国府がおかれた和泉府中があった地であり、聖武天皇の珍努宮があったと推定されている地域である。
      「茅渟」については、衣通郎姫を住まわせた地として現在の泉佐野市上之郷付近などに比定されることがあるが、和泉府中とみるのが適当である。
      坂本臣というのは茅渟に入った草香部氏の別称と解される。根使主の「根」とはおそらく「在地」であり、草香部氏が坂本(茅渟)に侵攻し、在地勢力を制圧したということであろう。
      『書紀』に坂本臣と大河内氏にともに「糠手」という人物が現れる。
      坂本臣糠手  推古八年  百済派遣
             推古十八年 新羅・任那の使者を迎える
      大河内直糠手 推古十六年裴世清を接待(『隋書』では小徳阿輩台)
    この両者は同一人物であり、複姓であろう。
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    草香部氏は摂津長田と関係がある。
    大草香皇子の妻で後に安康妃となる中蒂媛皇女は雄略即位前紀にはまたの名として長田大娘皇女となっている。草香部氏が摂津長田から妃を迎えているわけだが、これは草香部氏が長田の氏族と結びついているか、あるいは長田を統属したことを示している。

      この長田と関係している氏族に大河内氏がある。摂津国菟原郡(西宮市)に河内国国魂神社があり、雄伴郡(神戸市長田区)に凡河内寺山がありこれが氏寺だという。この氏の出自については、菟原郡・雄伴郡を本拠としたが、河内へ進出したものとする論者もあるが、直木孝次郎氏は、本来は河内を拠点とした氏族であろうとしている。継体天皇が淀川右岸までヤマト政権の勢力下においたのを契機に、淀川左岸の河内に勢力を有していた河内直が淀川右岸にまで進出した。河内の拡大したものとして凡河内国と称され、河内直は凡河内直の氏姓を得たのであろうという。氏寺が雄伴郡(神戸市長田区)にあるのは、藤原氏が平城京に氏寺興福寺を建てたように本来の居地以外に氏寺を建てることがあるとしている。
      大河内氏の勢力圏が本来、河内~淀川左岸だとすると、これは草香部氏の所在地域と重なっている。草香部氏は古くからの勢力で長田との関係も履中朝からが現れるが、大河内氏は、雄略紀に凡河内直香賜の名が始めて現れる氏族である。草香部氏のいる長田に河内直が入ったのではなく、草香部氏が大河内氏を名乗ったものと見てよいだろう。
      安康紀と雄略紀に次のような話がある。大泊瀬皇子(雄略)の妃に草香幡梭皇女を乞うたが、使いをした根使主が草香部皇子が承諾の徴として差し出した押木珠蔓を横取りした上、草香部氏は皇妃を出すつもりはないと言っていると讒言した。この根使主(坂本臣の祖)の悪事は、後に露顕し、根使主は殺される。そして、根使主の子孫を二分し、一方は大草香部民として皇后に封じ、もう一方は茅渟県主に与え、また難波吉士日香蚊の子孫を探して大草香部吉士にしたというのである。
      この話は造作色が強くそのまま信じるというわけにはいかない。茅渟県主に袋かつぎ人として与えられたという根使主の子孫の坂本臣は推古朝の高官であり、祖先が袋かつぎ人であったようには見えない。しかしこれらの話が全く根拠がないかとなるとそうではなく、氏族の分岐や統合といったものを反映している可能性が高い。
      ここで注目したいのは、根使主(坂本臣の祖)が、大草香部民と茅渟県主に二分されたという記述である。
      坂本臣の坂本は『和名抄』の「和泉国和泉郡坂本郷」(大阪府和泉市阪本町付近)とされる。根使主の所在地は坂本であり、これを二分した一つを治めたのが茅渟県主とすれば、坂本は茅渟の領域にある。坂本は奈良時代に和泉監・和泉国府がおかれた和泉府中があった地であり、聖武天皇の珍努宮があったと推定されている地域である。
      「茅渟」については、衣通郎姫を住まわせた地として現在の泉佐野市上之郷付近などに比定されることがあるが、和泉府中とみるのが適当である。
      坂本臣というのは茅渟に入った草香部氏の別称と解される。根使主の「根」とはおそらく「在地」であり、草香部氏が坂本(茅渟)に侵攻し、在地勢力を制圧したということであろう。
      『書紀』に坂本臣と大河内氏にともに「糠手」という人物が現れる。
      坂本臣糠手  推古八年  百済派遣
             推古十八年 新羅・任那の使者を迎える
      大河内直糠手 推古十六年裴世清を接待(『隋書』では小        徳阿輩台)
    この両者は同一人物であり、複姓であろう。ともに外交に関係し、外国から来た客の接待にあたっている。外交交渉をやりうるのは王権の中でもトップに近い官位の人物に限られる。それがたまたま同じ「糠手」という名であったとは考えにくい。また、坂本氏、大河内氏がなにゆえに王権中枢にいるのかということも問われなければならない。それは両者とも草香部氏に発する氏族だからである。
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