七夕伝説、米原、息長氏、京極氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 近江
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米原の蛭子神社と朝妻神社、天野川 古来より、7月1日から7日間、男性は蛭子神社の七夕塚を拝み、女性は朝妻神社の…

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    南殿の高宮氏と北殿の高宮氏
    高宮は古代犬上郡十郷の1つ、高宮郷の地です。中世には荘園(高宮荘・高宮保)が成立し、東山道筋には市も立っていました。当時、高宮を領した高宮氏には2系統がありました。1系統は鎌 倉時代末に当地へ地頭として入部した紀州 櫟 氏を祖とする高宮氏で、初代は宗忠と伝えます。もう1つの系統は、将軍足利義持から勲功として6万貫を与えられて当地に入ったとされる江南の六角氏頼の3男信高を祖とする高宮氏です。前者を北殿の高宮氏、後者を南殿の高宮氏とも呼びます。
    南殿の信高が当地に入った時、北殿の高宮氏は4代高義の時でしたが、しだいに信高に勢力を奪われて弱体化します。この高宮氏が代々居城としたのが高宮城です。高宮城は典型的な平地 城 館 で、現在の高宮小学校や高宮幼稚園辺り一帯が城館跡に比定されています。

    高宮氏と六角氏・京極氏・浅井氏
    戦国時代に入ると、近江は江北の京極氏、後にはその被官であった浅井氏勢力と、江南の六角氏勢力との覇権争いが激化します。両勢力の境目に位置する坂田・犬上・愛知郡一帯の国人・土豪たちは、一族の存亡に腐心しつつ争いに巻き込まれていくことになりました。高宮氏も例外ではありませんでした。 高宮氏は、その当初は出自の関係もあり六角氏と行動を共にしたようですが、大永の年号を迎える前後には京極氏に加担するようになりました。『江北記』には、高宮氏が京極氏の家臣となり、 毎年6月1日に細着2端を進上するのが慣行になったと記しており、『高宮町史』にも高宮寺文書を 典拠に、大永元年(1521)9月3日、六角定頼が荒神山に陣を構えて高宮城を攻め、攻められた高宮三河守(実宗ヵ)は佐和山城に逃げ込んだとあります。
    高宮氏の六角氏に対峙する関係は、京極氏がやがて零落し、その被官(家臣)であった浅井氏が 台頭しても変わることがなかったようです。『高宮町史』(高宮寺文書)によると、永禄2年(1559) 6月、高宮城が六角定頼の子義賢の攻撃を受けて落城。高宮三河守頼勝は佐和山城に逃れます。翌 3年、高宮城は再び六角定頼の攻撃を受けますが、この度は新荘駿河守の援軍などもあり死守したと記しています。

    高宮氏と織田信長
    永禄 10 年(1567)、織田信長の近江侵攻は、これまでの近江の情勢を一変させることになり
    ました。信長は、近江侵攻に先立って浅井長政と同盟関係を結びます。したがって長政配下の高宮氏も同様の関係にあり、永禄 11 年 9 月 8 日、信長は上 洛(京都に上ること)に際して高宮城に陣取り、ここで長政と会見に及んでいます(『信長公記』ほか)。その後、翌 12 年 1 月 7 日にも 信長は高宮に到来しています(『足利李世記』)が、元亀元年(1570)6 月 28 日、長政と信長の同盟関係は突如として長政により破棄され、両者は姉川で激突しました
  • 中世の長浜は坂田荘、加田荘、下坂荘、平方荘、国友荘、八幡荘、楞厳院荘などいくつかの荘園に分かれており、南北朝の内乱や応仁の乱以降の打ち続く戦乱に乗じて、坂田荘の上坂氏、垣見氏、八幡荘の高田氏、今浜氏、下坂荘の下坂氏、堀部荘の堀部氏らが武士化して、江北(近江の北)の守護佐々木京極氏の家臣となって、荘園内における勢力を拡大し、土豪としてそれぞれの地区に根をはっていった。

    中世の末期に近づくと、京極氏は湖東、湖南地方に勢力を持っていた六角氏との対立や一族争いなどたび重なる多くの戦乱のために勢力を失墜し、代わって、その家臣浅井氏が勢力を伸ばしてきた。このため先述の土豪らの多くはその配下に入っていった。このようにして、浅井氏は戦国大名として成長し、湖北一円に勢力を振ったわけだが、天正元年(一五七三)には天下統一をめざす織田信長に敗れ、滅亡してしまった
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