弥生以前からの稲作と米、遺伝子解析

11/18編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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米と稲作の伝播について、考古学の研究が進み、次第に支那南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべて…

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コメント

  • 戦争に勝った共同体と敗れた共同体の間には歴然とした階級関係が生まれる。敗北した共同体は首長の下に一見従来どおりの生活を送っているように見えるが、じつは支配共同体に生産物や労働力の一部を貢納というかたちで税金のように支払ったり、特殊技術を提供したりする義務がある。

    オッペンハイマーが言うように国家の本質が略奪にあるとすれば、戦争でほかの共同体を隷属させ、税で財産を奪うクニは、小規模ながら立派な国家といえよう。国家は戦争から生まれ、課税によって育つのだ。

    国家が他国民の富を奪う戦争と、自国民の富を奪う課税は、同じコインの裏表である。

    世界から戦争をなくすには富裕層に増税し富の再分配を強化せよという主張もあるが、、、、
  • 11/18編集されました
    狩猟民から農耕民へのわずかな時間の間に人間の骨格、とくに同一民族の骨格がこれほど変化することはない。土井ケ浜の発掘を担当した人類学者金関丈夫博士は、土井ケ浜弥生人こそは、新しい農耕文化を携さえて、日本列島へ渡ってきた渡来人、もしくは渡来系の人の二世ではなかったかと推論した。
     土井ケ浜弥生人と同じ特徴をもつ弥生人骨が発見されている地域は北九州を中心として、西は佐賀県の背振山地を越えず吉野ケ里遺跡を西限とし、東は山口県の響灘沿岸をつたい、山陰海岸に沿って、島根県波子浜遺跡・古浦遺跡に至る範囲である。人類学者はこうした分布圏から、彼らを北九州・土井ケ浜型弥生人と呼称している。
     この分布域のなかに、山口県の瀬戸内域が含まれていない。この理由は、主として瀬戸内側において弥生人骨の資料がほとんど発見されていないことによる


    平生町にある五世紀代の前方後円墳神花山(じんがやま)古墳の被葬者の骨の調査が行われた。五世紀であるから、弥生時代につづく古墳時代前半期に属するやや新しい骨の資料である。二五歳前後の女性で、女王の墓として最近話題を集めた。この女性の骨にみる特徴は、土井ケ浜型形質を少しも受けついでなかった。むしろどちらかというと縄文人的特徴の方がつよい。わずかな例からの判断はむつかしいが、古墳時代に至る間に、土井ケ浜的形質は、在来の日本古来人の形質に同化してしまった可能性が高いと考えられている。
  • 12/07編集されました
    日本への稲作伝来は、弥生時代に入り隣の朝鮮半島から伝来したというのが今までの学 説であったが、その前に、単発的ではあるが、稲作が日本の地に持ち込まれていたのであ る。それでは何処からいつ頃伝来したのか。これを解く鍵となる発見が中国長江中流域に ある湖南省で1995年になされた。この地方には石灰岩の小山が方々に立ち並んだ平野
    であるが、その一つの山の洞窟から1万2000年前の遺跡が出土した。石灰に守られて ぎょくせんがん
    腐敗せずに残っていたのである。地名をとって玉蟾岩遺跡と呼ばれているが、そこからは のぎ
    石器・土器と供に稲籾が出土した。この稲籾は調査の結果、芒が退化しているので野生種 ではないこともはっきりしている。
    ぎょくせんがん 長江中流域で生産されていた稲は、時代が下るとともに下流域に伝わった模様で、玉 蟾岩遺跡から5000年後の今から7000年前ごろになると、東シナ海沿岸の浙江省・河姆渡で数百人の人々が住んでいた住居跡とともに、稲の炭化したものが発見された。1973 年の発見であるが、7000年前の米や籾が大量に150トンも出土した。洪水で埋まっ た農家と見られ、そこから稲穂の厚い層が出てきた。これは、収穫して積んであったもの らしく、この炭化稲の分析を行った静岡大学の佐藤洋一郎教授によると、DNA の7C と6
    A の塩基配列の熱帯ジャポニカ種であることがはっきりした。そのほか、平成3年(199 ほ うとうざん
    1)には、中流域の湖南省・ホウ頭山遺跡から約8500年前の米が、また湖南省・禮県 からは8000年前の稲などの農作物が大量に発見されている。禮県で出土した米は1万 2000粒もあり、保存状態も良く粒は大小さまざまで、大と小には4倍以上の差があっ たという。粳米などとは形が違い、野生の稲から栽培用の稲への過渡期に現れた品種とみ られている。
    かぼと 長江流域で発見された数々の稲の遺跡のなかで河姆渡で発見された遺跡は、日本への伝
    来との関連で極めて重要な意味を持っている。それは種類が熱帯ジャポニカであることと、
    場所が東シナ海に面した所という点であるが、熱帯ジャポニカ種は原始的なタイプの稲で、 かぼと
    これが佐賀県の菜畑遺跡からも発見されている。河姆渡から九州まで東シナ海を挟んで距
    離は800キロもある。しかも大海原である。7000年前、この大海原をどうやって越 かぼと
    えたのか、この秘密を解く鍵は河姆渡地区の漁撈民にあるようである。 かぼと
    河姆渡遺跡は稲の出土品のほか夥しい種類の遺物が発見されているが、たとえば動物の骨 で作ったモリ、釣り針など漁撈に関わるものも多い。木製の舟のオールも見つかっている。 農耕の跡を示す多数の遺物のほかに、これらの漁撈の遺物も多いのである。また、面白い ものとして移動式のカマドも発見された。これは土製で、このカマドの上に土器を載せ炊 飯に使っていたと見られており、この簡易カマドを舟に載せ、遠くまで漁に出かけていた
    と思われるのである。 かぼと
    現在の河姆渡付近の漁村を調べてみると、いまだに竹で編んだ舟で漁に出ている魚民が いる。その人たちへの取材によると、台風とか荒波のときには今でも、九州へ流される人 が時々出るという。一方、日本の対馬の遺跡の6000年前の人骨の調査結果によると、 この人たちは稲作とともに漁撈を行っていたらしいことが分かっている。それは頭蓋骨の 調査の結果であるが、それらの頭蓋骨には外耳道骨腫が発達していた。これは耳の骨の突 起物で水に潜ることを繰り返す人の耳に、水圧の影響でできるものである。対馬の漁民は 今でも潜水しサザエやアワビを取っている。方法は素もぐりである。この方法は東シナ海 一帯でやられていた漁撈法で、中国沿岸部がその発祥の地とされている。
    対馬で現在、素もぐりで生計を立てている主藤さんは、一方では小さな水田も持ち、稲 作を行っているが、通常の水稲のほか、赤米も毎年植えている。これは昔から伝えられて いる古代米で、いつから始まったかははっきりしないが、信仰の対象物であり、この赤米 を作らないと不幸に見舞われるような気がして必ず作るという。この米は DNA 分析の結果、
    熱帯ジャポニカであり、中国から入ってきたものであることが判明している。つまり、中 国沿岸から赤い稲が縄文時代に漁撈民によって伝えられ、これが対馬の現在に引き継がれ ているのである。
    日本での赤米(熱帯ジャポニカ)生産は、極く一部の例外を除き生産の対象から除外さ れ、幻の稲と呼ばれているが、ラオス奥地のナムガー村では今もこの熱帯ジャポニカが生 産されている。この村の人口は1000人程度で、種籾を見ると赤味を帯びている。人々 が毎日食べている米は、粘り気が強いモチ米の感触がある。
    4月の雨季に米作りが始まる。その前に耕作地に火をつけて畑を焼く。肥料はやらない。 焼畑の灰が肥料となるのである。数日後に種をまく、発芽から5ヶ月すると実りの時期と なる。この方式が日本の縄文時代に行われていた焼畑稲作の原型と言われている。
    ラオスは暑いところである。熱帯ジャポニカの稲作はこのラオスには残っているが、日 本を含む温帯地域ではなくなってしまった。プラントオパールによって日本に残された縄 文時代の稲作の跡を調べると、面ではなく点として残っている。それは宮崎、岡山、島根 などの地で、必ずしも全土に広がっていたわけではないことがはっきりしている。それに しても縄文時代に熱帯ジャポニカが日本で栽培されていたのは、気象変化と関係があると される。約6000年前の日本列島は、気温が現在より約3-4度高く、熱帯ジャポニカ が根付く環境にあったのである。そして人々は稲と同時にヒエ、アワといった作物も一緒 に作っていた。それによって人々は従来の森から採集する果実や、狩猟によって得る動物 の代わりに米を食料の一部として利用していたのである。
    中国本土での稲作はその後、劇的な変化を遂げる。
    長江下流域の江蘇省で太古の土壌が残っている場所で土壌の分析調査が行われた。深さ によって7000年前、6500年前、6000年前、5500年前の土壌があることが 分かり、その中にそれぞれ含まれていた炭化米の比較調査が行われた。それによって稲の 進化の具合がはっきりしたのである。
    5500年前のものが現在の米の大きさになっている。それ以前のものは小さい。この ことは人々が従来の焼畑農耕ではなく水田で管理的に稲作を始めたことによるとされる。 人々は水田耕作により、生産性が飛躍的に増えることを発見し、6000年ほど前から水 田を作り始めていたのである。そして熱帯ジャポニカが遺伝的に新しい「温帯ジャポニカ」 に進化したのである。この変化は大きい。そしてこの水田耕作の方法は瞬く間に中国全土 に広がることになる。そして3000年前ごろになると、水田耕作のこの新しい方法は、 朝鮮半島南端にまで達する。
    朝鮮半島からどのようにして日本列島にこの水田稲作が持ち込まれたか。これが次の課 題であるが、それには二つの説がある。
    1) 朝鮮中・南部に江南から逃避してきていた倭人(江南人)が九州へ大挙移動し 稲作を伝えた。
    (2) 朝鮮中・南部には九州の縄文人が頻繁に往来しており、その縄文人たちが朝鮮 の稲作技術を持ち帰った。
    まず、(2)縄文人説から説明する。 それは日本の縄文人によるものであることがはっきりした。朝鮮半島南端にサンチョン
    チョンという村があるが、ここは対馬から50キロしか離れていない場所で、そこに日本 の縄文人の遺物が多数発見された。3000年前の縄文土器、それに炭化米も発見された。 この頃の朝鮮の人たちは独自の特殊な土器を使っており、日本の縄文土器をわざわざ使う ような状態ではなかった。つまり九州から対馬を経由して半島南端に達した縄文人は、こ こに生活していたたわけで、彼らの生活を示す遺物が多数発見されている。
    日本への稲作の伝来は渡来人によってもたらされたとするのが通説であったが、なんと 日本の縄文人が自分で朝鮮から持ち帰っていたのである。そしてこれが九州北部に伝播し、 広がっていった。唐津にその証拠が残っている。菜畑遺跡でそこには2600年前の最古 の水田の跡があった。稲の種類は温帯ジャポニカで熱帯ジャポニカではない。熱帯ジャポ ニカは多く焼畑農地で作られたが、温帯ジャポニカは水田農耕で得られる稲である。これ が弥生時代の始まりである。その後、朝鮮からは続々と新たに人々が渡来し、水田稲作を 広めていった。そして300年というごく短い間に日本全土に広まっていった。
  • 縄文末期、北九州に上陸した倭人のことを記したが、その前後の時期に、背振山の 南、現在の佐賀県有明海沿岸の地に中国より渡来した一団が住み着いた。それが徐福一団 である。
    「史記」は、紀元前209年に秦の始皇帝は不老不死の霊薬を求めていたが、道教の方 士の徐福が皇帝の言葉に従い、数千人の童男童女を授かり、それらを連れて東海の蓬莱を 目指して船出したが再び祖国に帰らなかったと記している。一方、日本では全国20ヶ所 もの地方に「徐福が到来した」という伝承が遺されている。紀元前209年というまだ縄 文の時代が明けやらぬ頃の話であり、当時としては超高度の文明・文化を持った大集団が いきなり日本国に渡来したのである。これは朝鮮より小集団をなして騎馬民族系渡来人が 次から次と日本に押し寄せてくる時より100年ほど前の話である。
    徐福は始皇帝の天下統一の犠牲となった斉国のいわば亡国の民である。しかし、もし彼 がいなかったら、日本の弥生文化の開花は別の展開を経たかもしれない。
    黄海や東シナ海の暴風雨、それを大鮫魚に阻まれると表現しているが、この暴風雨を避
    け、早春から初夏にかけての南西風を利用して彼らは嵐山頭、琅邪、徐山、成山頭など山 チーフー
    東半島の南端を北上し、芝罘付近から黄海を渡れば、朝鮮半島西岸まで僅か200キロの 行程である。そこから朝鮮半島の西海岸から南下する。済州島に「西市過比」、つまり徐市 (徐福)がここを通ったという意味の地名があるというから、彼らは済州島に寄港したよ うである。
    この船団はやがて対馬海流を横断し、北九州の沿岸に到着。さらに進んで有明海に入り、 佐賀、宮崎に進んだ一族と、対馬海流に乗って日本海を北上、島根県出雲地方や丹後半島 の久美浜に入った船団があろう。また、直接東シナ海から黒潮に乗って、九州の南岸もし くは西岸に漂着したり、太平洋を東進して土佐沖や熊野灘に上陸したものもあると推測で きる。こうしてみると、徐福渡来の主要な伝承地は佐賀、宮崎、出雲、丹後、紀伊である ことが浮き彫りになってくる。
  • 近年まで、徐福について日本や中国の学会では「架空の伝説的人物」であるとされ
    ていた。ところが、1982年、中国では「地名辞典」を編纂するため各地の地名を調査 かん ゆ
    したところ、江蘇省の北西部の山東省との国境付近にある連雲港市贛楡県に徐阜という村 があり、そこはかって徐福村と呼ばれていたことが判明した。そこでは2000年以上に 亘って郷土の英雄として徐福を祀っていたことが確認され、徐福の実在が証明された。
    それによると、古代中国、夏、殷、周、済から秦と歴代の皇帝が興亡する中で、徐家は
    神仙の術、方術を行う方士としての地位、それももっとも信頼の厚い一位の地位を保って せんぎょく
    いた。古代三皇、すなわち伏義、神農、黄皇から五帝に仕えた初代顓 頊、二代窮蝉、三代 女修、四代大業、五代大費、六代若木と続き、二十九代が徐福だったのである。
  • 福岡・佐賀県境をなす背振山地を「つ」の字形に 取り巻く北・東・南の平野部が甕棺墓の主要分布圏である。久留米市誌によると、東櫛原 町の北部高地と大石町字南崎の土中には多数の甕棺が埋まっているとされ、近在の小郡や、 浮羽の船越、大石村、八女の水田村から甕棺が多数出土したという。
    そして、鏡を二枚以上副葬する厚葬墓が、一例を除いてすべて甕棺墓にあり、また中国 鏡や舶載青銅器が副葬されるのはほとんど甕棺墓である。
    では、本国中国の甕棺葬の例はというと、中国黒陶文化時期に始まる小児甕棺がその源 のようであるが、成人の甕棺葬は、漢代に洛陽や遼寧地方で行われた例があるものの、数 はさほど多くはないという。本国中国で例が少ないのに、なぜ筑後・肥前地方に多いのか、 この理由は次のように考えられている。
    中国では、異郷で死んでも、なきがらを故郷へ運び、父祖の地へ埋葬する習慣があった ことである。大陸から日本列島へ渡来した人たちの遺体を、やがて故郷へ持ち帰る日まで、 甕に入れて保存を計ったと思われること。
    また、神仙思想との関係である。漢代の中国では、人の死は仮の死であって、遺体を完 全に保存できれば、必ず再生すると信じられていたから、甕棺は再生の日までの保存容器 であったのであろう。
    いつの日か、骨を中国本土に返してもらえる願いが込められていたのが、日本へ渡って きた中国渡来人の墓だったのである。
    吉野ヶ里からは2500基の甕棺が出土している。
    なお、邪馬台国時代の墓制は箱式石棺である。「倭国の大乱」終結は紀元2世紀末ごろと みられているが、これを境として北九州、特に筑紫地方の墓制は、それ以前が、徐福集団 により南方の古中国から持ち込まれた甕棺方式、そして以後は騎馬民族系の文化を持つ集 団の箱式石棺へ移行することになる。
    哲学者梅原猛氏も甕棺と徐福の関係を次のように捉えられている。 「始皇帝がいかに不死を求めていたかという証拠が彼の巨大な墓である。確かに始皇帝は このみこのままが不死であることを求めてはいたけれど、やはり死ぬかも知れないと思っ ていた。そこで死んでもあの世でずっと生き続けようと考えて巨大な墓を作ったわけです。 そしてまた蘇りの時があり、いつか必ず蘇りがある、そのときまで地下に無事眠っていよ うと、巨大な墓を作ったわけです。この巨大な墓の一部である兵馬俑が実際に発掘されま した。これは真の軍隊を俑として作ったもので、すばらしいこの世の栄華の様をそのまま 地下に作ろうとしたわけです。
  • 中国の養蚕と絹織り技術は古来門外不出の秘伝で、厳しく外界への持ち出し は禁止されていた。それがどうして日本にやすやすと入ってきていたのか。古代中国は蚕 の移動を厳禁していたために、西域・ヨーロッパへの蚕の移動は長い間起こらず、絹製品 として移動するよりほかなかった。つまりシルクロードのラクダのキャラバン隊によって 絹そのものが西洋へ運ばれたのである。それも極めて高価で値段で。この状態が七世紀ご ろまで続く。そしてようやく蚕が移動するのは、中国の皇女を妃として迎えるある西域国 の王が、皇女に蚕を持ち出すことを命じ、皇女は髪の中に蚕の種や桑の実を隠して嫁いだ ことにより、中国独占が崩れ、持ち出し禁止の禁が解けたと言われている。
    そのように厳しい蚕鎖国の状態をかいくぐり、日本では養蚕が邪馬台国の時代に行われ ていたということは、それ以前に、中国の江南地区より中国人自身が一つの目的を持って 行動することにより、蚕の移植・移動が実現できたという特筆すべき事業だったのである。
    徐福一団は中国出発前にいろいろな穀物の種子や、進んだ中国の工芸技術、またいろい ろな技術者を選んで船に乗り込ませたといわれており、蚕や桑の実などの絹作りまでの一 連の準備もした上で有明海に到着していたのである。
    吉野ヶ里遺跡の甕棺の中から三十片余りの布片が出土している。布はきわめて腐りやす いものであるが、弥生時代中期末から後期初頭のものとされる。布片は最大のもので4セ ンチ四方の断片に過ぎないが、布片の中に絹特有のロウ状の光沢のあるものが見つかって いる。しかも、朱を塗って模様を描いた絹の布片があり、有力者の贅沢な晴れ着であった と思われている。
    吉野ヶ里遺跡で発見された多くの絹布は、二世紀のものであるが、これの意味すること は、少なくとも一世紀には養蚕技術が広まっていたこと、このことは、紀元前に有明海か ら上陸していた徐福集団が、その技術を江南から持ち込んでいたと思われるのである。
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