王辰爾 船首王後の墓誌

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
image王辰爾 船首王後の墓誌

6世紀中ごろの百済からの渡来人。「船首王後墓誌」には「船氏の中祖・王智仁首」とある。『続日本紀』延暦9(790…

Read the full story here


コメント

  • 応神天皇の頃、羽曳野市の地は、百済貴須王(きす・おう)の子孫といわれる
    葛井氏・船氏・津氏の3氏が勢力を張っていました。

    百済貴須王(近仇首:きんきゅうしゅ)は高句麗軍の侵攻を撃退,神功皇后が新羅征討に派遣した将軍・荒田別らと会見

    野中寺がある野々上あたりは3氏の中の船氏の本拠地で、野中寺は船氏の船史王後(おうご)が創建したといわれています。

    船史王後の祖父には王智仁(王辰爾:おう・じんに)がおり、柏原市・国分・松岳山古墳で発見された船史王後墓誌に記されています
  • 続日本紀の延暦9年(790年)に菅野朝臣の氏姓を賜る事を請願した百済王仁貞、百済王元信、百済王忠信、津連真道らの上表によれば、辰爾には兄の味沙と弟の麻呂がおり、それぞれ葛井、津連である。また、これに合致する形で新撰姓氏録において辰孫王の後裔に相当する氏族に、右京の菅野朝臣、葛井宿禰、宮原宿禰、津宿禰、中科宿禰、船連のほか、摂津国の船連などがみえる。

    日本書紀によれば、569年(欽明天皇30年)には王辰爾の甥の胆津が白猪屯倉に派遣され、田部の丁籍が定められた。これにより胆津には白猪史の姓が授けられ、田令に任ぜられた。
    さらに574年(敏達天皇3年)10月には田部の名籍が白猪史胆津に授けられた。同月、船史王辰
    爾の弟の牛が、津史(つのふびと)の姓氏を賜ったとされる
  • 辰孫王(しんそんおう、356年-?)は、百済の王族で、近仇首王の孫で辰斯王の息子である。応神天皇とき、祖父貴須王(近仇首王)によって儒学者王仁と一緒に日本に派遣された。そして、彼は百済に帰国せずに日本に定着した。菅野氏と葛井寺の始祖となる。

    応神天皇が百済の学者を送るようにチョンハジャ[訳語疑問点]、祖父近仇首王の命を受けて学者王仁と一緒に船で全羅南道霊岩郡から日本に渡った。『論語』10巻と『千字文』1巻を一緒に持って行った。応神天皇朝に入組した後、百済に戻らず、日本に定着した。4代孫王辰爾、味沙や味散君、麻呂君の3兄弟は、管野鳥神の爵位[訳語疑問点]を受けた。息子太阿郎王は仁徳天皇の近侍に活動した。
  • 751年頃編纂された「懐風藻」の序文には、「王仁は軽島に於いて(応神天皇の御代に)啓蒙を始め、辰爾は訳田に於いて(敏達天皇の御代に)教えを広め終え、遂に俗を漸次『洙泗の風』(儒教の学風)へ、人を『斉魯の学』(儒教の学問)へ向かわしめた」と掲載されている。
    『懐風藻』は、現存する最古の日本漢詩集で、近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収められている。撰者不明の序文によれば、天平勝宝3年11月(751年)となっている。
     ただ、日本書紀など編纂者の渡来人たちが、天皇等に仕えた渡来人たちを総称して王仁を創り出した可能性もあるという。当時は百済との親交が強かった時代。
  • <船氏・白猪氏・葛井氏・宮原氏・津氏・菅野氏>
    延暦9年(790年)の百済王仁貞の連姓を朝臣姓にするべく上表した記事。
    百済王「貴須王」の孫「辰孫王」が15応神天皇の代に来朝。その長子「太阿郎王」は16仁徳天皇の近侍となり、その子「玄陽君」、玄陽君の子に「午定君」その長子「味沙」仲子に「辰爾」季子に「麻呂(王牛)」がある。それぞれ葛井・船・津連の祖である。と記されてある。
    これに記された各氏が後に分派してそれぞれ 船氏・白猪氏・葛井氏・宮原氏・津氏・菅野氏などを称することになった。

    <その他百済氏・船・白猪・葛井・菅野氏など>
    百済王13代近肖古王の子供から派生したとされる錦宿禰の流れはその後三善朝臣姓となり、その裔に鎌倉幕府の初代執事になった「三善康信」がいる。この流れから多くの武家が派生するが、これらは百済氏の一番古い流れである。詳細省略。
    百済王16辰斯王の流れから白猪氏・船氏・津氏などが派生した。「船王辰爾」が有名である。津氏の流れから前述した桓武天皇の時参議となった「菅野真道」が輩出された。
    白猪氏の流れから葛井氏が出、更に宮原氏となり、宮原道依の娘藤子は51平城天皇の妃となり、「阿保親王」を産んでいる。阿保親王の子供に「在原業平」が出る
  • June 2016 編集されました
    葛井・船・津氏とは、応神朝に来朝したと伝えられる百済辰孫王の後裔氏族で、続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に
     「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫王(シンソン)を入朝させた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とされた。仁徳天皇は長男・太阿郎王(タアラ)を近侍とされ、・・・その孫・午定君の3人の子・味沙・辰爾・麻呂のとき別れて3姓となり、各々その所職に因りて氏をなした。葛井・船・津等即ち是なり。・・・」(大意)
    とある。
     この上表文によれば、その系譜は
       始祖・都慕王(ツモ・百済王)・・・貴須王-辰斯王-辰孫王(知宗王)-太阿郎王-玄陽君-
     -塩君(午定君)-|-味散(味沙君)-膽津(白猪史)→葛井氏
              |-王辰爾(智仁君)→船史→船氏
              |-麻呂(牛)→津史→津氏→菅野氏
    となるが、3姓に別れたのは6世紀後半とされる。
  • 続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に
     「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫王(シンソン)を入朝させた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とされた。仁徳天皇は長男・太阿郎王(タアラ)を近侍とされ、・・・その孫・午定君の3人の子・味沙・辰爾・麻呂のとき別れて3姓となり、各々その所職に因りて氏をなした。葛井・船・津等即ち是なり。・・・」(大意)
    とある。
     この上表文によれば、その系譜は
     始祖・都慕王(ツモ・百済王)・・・貴須王-辰斯王-辰孫王(知宗王)-太阿郎王-玄陽君-
    -塩君(午定君)-|-味散(味沙君)-膽津(白猪史)→葛井氏
              |-王辰爾(智仁君)→船史→船氏
             |-麻呂(牛)→津史→津氏→菅野氏
    となるが、3姓に別れたのは6世紀後半とされ、その後、それぞれが史部(フヒトベ-書記官)として朝廷に仕えたという。
  • 続日本紀、延暦九年(790)七月辛巳(十七日)には、以下のような内容の王辰爾にまつわる百済人の渡来伝説が記されています。これは津連真道等が上表したものです。

    「応神天皇時代、上毛野氏の遠祖、荒田別を百済へ派遣し有識者を捜させたので、国主の貴須王は宗族から選んで、その孫の辰孫王(一名、智宗王)を派遣し、使者と共に入朝した。天皇は喜んで皇太子の師とした。始めて書籍を伝え、儒風を広め、文教が始まったのである。……辰孫王の子が太阿郎王、その子が亥陽君、その子が午定君で、午定君は三人の男子を生み、長男は未沙、次男は辰爾、三男は麻呂といい、別れて三姓となった。葛井、船、津の連等がこれである。……家は文雅の業を伝え、一族は教育を掌る。……」

     応神天皇時代に上毛野君の祖、荒田別、巫別を百済へ派遣して、王仁を迎え皇太子の師としたという日本書紀の記述に対応しています。しかし、これを事実と考える必要はありません。王辰爾の真ん中の辰を取れば、王爾となります。ここには王仁が重なっているのです。したがって、葛井、船、津氏は文氏の一族です。文雅の業(学問)を伝え、教育職となっているのも文氏という称号そのものでしょう。文字を知っていて、船や港に関係しているということは、船の貢ぎなどを港で確認し文書で管理できるということです。

    欽明紀十四年(553年)
    「蘇我大臣稲目宿禰は勅を受けて、王辰爾を遣わし、船の賦を数え記録した。即ち王辰爾を以って船長と為し、因って姓を賜いて船史とした。今の船連の祖先である。」

     敏達天皇元年(572年)、高麗がカラスの羽に墨で書いた親書をよこしたが、誰も読み解くことが出来なかった。それを王辰爾が、炊飯の蒸気を当てて絹地に写し取り、みごと読み解いたという記述があり、有能で重んじられたことが記されています。
  • June 2016 編集されました
    船氏、王後首の墓誌
    「船氏の故王後首は船氏の中祖、王智仁首の子、那沛故首の子である。他田宮に治天下天皇(敏達天皇)の世に生れ(572~585)、豊浦宮に治天下天皇(推古天皇)の朝に仕え奉り、飛鳥宮に治天下天皇(舒明天皇)の朝に至る。……大仁の官位を賜い、第三品と為す。舒明天皇の末年(641)に逝去した。戊辰年(668)十二月、その夫人の安理故能刀自と同墓にして松岳山の上に改葬し、大兄の刀羅古首の墓に並べて作った。即ち、安保万代の霊基、牢固永劫の宝地と為すものである。」

     これは、大阪府柏原市国分の松丘山古墳付近から発見された船氏の墓誌銘で、王後首本人は既に亡くなっていますが、おそらく、その子息が記させたものでしょうから、同時代の身内のことを語っており、記、紀などより遥かに信頼できる史料です。王智仁はワチニと読むようで、王辰爾(ワシニ)に転訛しそうです。
    経歴を並べると、船氏王後首の祖父、王智仁と、「紀」の船連の祖、王辰爾は、ぴったりと年代を重ねることが出来ます。船氏は王智仁(王辰爾)首、那沛故首、王後首と続いたのです。王智仁、王辰爾というふうに王仁(ワニ)が重なっているのは、逆に、応神朝に渡来した王仁という学者は、この王智仁という実在の優秀な官僚のイメージとトーテムの鰐を合成して創作されたというべきでしょう。
     墓誌で、王智仁首を船氏の中祖とするのは、船氏の遠祖は遥か以前に渡来していたことを示していますし、衰えていた船氏の一族を再興した特筆すべき人物ということになります。

    出典 http://www.eonet.ne.jp/~temb/5/kika_2.htm
  • 百済王敬福が黄金九百両を献上した功によって、聖武天皇から賜った交野郡中宮の地と云うのは、王辰爾(おうしんじ)の旧館であったと三松氏(百済王氏の後裔)系図が記しているので、六世紀後半に敏達天皇の朝廷で活躍して船氏らの祖となった王辰爾(王智仁)も北河内に足跡を残した人物の一人である。

    王辰爾は、延暦九年七月の津連真道(つのむらじまみち)(菅野朝臣真道)の上表文によると、応神天皇の御代に来朝した百済の近仇首王(貴須王:第14代百済国王)の孫、辰孫王の四世の孫に当たると云う。

     敏達天皇元年五月の条には、高麗の国からの国書を誰一人解読することが出来なかった中で、王辰爾ただ一人が読み解いて、天皇の激賞を受けたと云う記事があり、また、高麗の奉った文書は烏の羽根に書いてあったので誰も読めなかったが、彼は羽根を炊飯の湯気で蒸した後、柔らかい上等な絹布に羽根を押しつけて文字を写し取り、読むことが出来たと記している。
    この烏の羽根の故事は「烏羽の表(からすばのひょう)」と呼ばれて、後世、懐風藻という漢詩集の序文の中にまで引用されている。

    かれの一族・子孫らは、船(ふね)、津(つ)、葛井(ふじい)、白猪(しらい)、菅野などの姓をを得て拡がっている。王辰爾の孫に当たる王後の墓が柏原市松岡山にあり、その墓から出土した墓誌銘は「船王後(ふねのおうご)墓誌」として有名である。


    王仁と云う人物は、実在の人物ではなく、その名は、この王辰爾(王智仁)から作られた名前であると山尾幸久氏は「日本国家の形成」(岩波新書)の中で断ずる。
    記紀の記すところによると、太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は阿直岐(あちき)を師として経典を学んでいたが、天皇がある時、阿直岐に「汝より優れた博士がいるか」と訊ねると、彼は王仁の名を挙げた。そこで天皇は上毛野君の荒田別、巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わして、王仁を召した。それに応じて王仁は来朝し、論語十巻、千字本一巻を貢進し、菟道稚郎子の師となったと云う。彼の子孫は西文(かわちのふみ)氏と称し、文、武生、桜野、古志(こし)などの諸氏となって広まった。
     延暦十年四月の文忌寸(ふみのいみき)最弟の上表によると、漢の高祖の子、鸞の後裔である王狗が百済に移り住み、王狗の孫に当たる王仁が仇首王の時に招かれて本朝に渡来したと述べている。
     しかし、これらも総て創作である。第一、千字文と云う書物は六世紀初頃に作られたもので、応神天皇の頃には未だこの世に存在していない。また、記紀が記す王仁の渡来事情なるものは、津連真道の上表文のなかにある辰孫王の渡来事情とほぼ同じものである。

    こうして、船氏ら王辰爾の後裔と称する氏族と、文氏ら王仁の後裔を称する氏族とがあるものの、それらの始祖である王辰爾と王仁とについては、早い時期から混同されてしまっていたようである。それと云うのも、もともと王仁と云う名が、王辰爾(王智仁)と云う名前から作られたからに他ならない。
      そして、王辰爾後裔を称すると、王仁後裔を称するとにかかわらず、彼らはもともと六世紀頃に半島南部の弁韓地方(伽耶地方)から散発的に渡来した、出身地も始祖もばらばらの人たちが、東漢氏や秦氏の興隆に刺激されて次第にまとまってゆき、その過程で、実在の人物で、しかも朝廷に重用された王辰爾の事を核にして、その始祖伝説も作り上げたものと山尾幸久氏は述べている。彼らは六世紀から七世紀にかけて、しばしば有能な事務官僚として用いられている。
  • 日本書紀 神功皇后

    即位64年。百済国の貴須王(くゐすおう)が亡くなりました。王子の枕流王(トムルオウ)が王となりました。
    即位65年。百済の枕流王が亡くなりました。王子の阿花(あくゑ)は年少でした。そこで叔父の辰斯(シンシ)が王位を奪って王となりました。
    即位66年。
    この年、晋の武帝の泰初二年です。晋の起居(キキョ=中国での天子の言行・勲功を記した日記帳の記述)によると、武帝泰初2年10月に倭の女王は訳(オサ)を何度もして貢献(コウケン=貢物を献上する)したと言います。
    即位69年。夏4月の17日。皇太后は稚櫻宮(ワカサクラノミヤ)で崩御しました。その時の100歳でした。

    冬10月15日。狹城盾列陵(サタノタタナミノミサザキ)に葬りました。この日に皇太后に追って尊び、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)と名を送りました。この年は太歲己丑(ツチノトウシ)です。
  • 世界百科辞典

    【王辰爾】より
    …同じころに弟の牛も津史,甥の胆津(いつ)も白猪屯倉(しらいのみやけ)の功により白猪史となっているから,彼らは渡来して間もない帰化人だったのであろう。この一族はみな河内国丹比郡に住み,船氏の居地は同郡野中郷(大阪府羽曳野市野々上付近)で,王仁(わに)の子孫である西文(かわちのふみ)氏の居地ときわめて近接していた。はるか下った790年(延暦9)の百済王仁貞らの上表文では,辰爾らの祖は百済の貴須王で,その孫の辰孫王が応神朝に渡来したという西文氏と酷似した系譜を述べており,《新撰姓氏録》もそれに従っているが,それほど古い帰化人かどうかは疑わしい。…

    【王仁】より
    …帰化系氏族の西文(河内書)(かわちのふみ)氏の祖と伝える人物。《日本書紀》によると,応神天皇のときに百済王が阿直岐(あちき)という者を遣わして良馬2匹を献上したが,阿直岐がよく経典を読んだので,汝に勝る博士がいるかと問うと,王仁という者がいると答えた。…
  • 葛井氏/船氏/菅野氏
     百済貴須王の孫知宗王(辰孫王)の後裔で、河内国藤井より興り、欽明朝に膽津は白猪史姓を賜ったが養老4年道麿は葛井連姓を改めて賜わる。 葛井氏の後裔としては、宮原宿禰、蕃良朝臣などがある。
     後世は藤井と称するものも存在する。(藤井姓の県別人口分布表示)
     現在も大阪府を始め三重県や奈良県に葛井氏が多く、百済帰化族葛井氏の後裔と思われる。
     欽明天皇の勅に依り、船賦を計録して船長に任じられた王辰爾に船史姓を賜り、天武天皇12年に連姓を賜る。 船氏の後裔としては、津連、宮原宿禰、菅野朝臣などがある。
     菅野真道は参議大蔵卿へ栄進して、桓武天皇の勅命により続日本紀を撰集する。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。