八咫鏡

11/05編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

コメント

  • 「八尺(やあた)鏡」とは八尺の長さの鏡だとの解釈が一般的だが、私はこの解釈は間違いだと思っている。確かに尺は中国の周の時代(紀元前1046~771)に作られた長さの単位ではある。周時代に作られた長さの単位は、手のひらから手首の脈を打っているところまでを基本とし、この長さを「寸」としている。寸の字の最後の点は脈を打っている場所を示している。自分の手首の脈の位置を探ってみても納得できるようにそれは大体3cmである。その寸を10倍したのが「尺」で肘の脈を打つところまでの長さとした。つまり30cmの長さということになる。この尺の字は、中国から我が国に仏教と共に最初に持ち込まれた呉音では「シャク」と読まれ,その後遣唐使が持ち帰った漢音では「セキ」と読まれていた文字である。八尺と書いて「ヤアタ」とか「ヤタ」とは読んでいない。ところが同じ周の長さの単位で「咫」というのがある。これは婦人の肘の長さを示しており「寸」の長さの8倍としているので約24cmということになる。この字は漢でも呉でも「シ」と読んでいたが、この「咫」という字がわが国の上古の時代には「アタ」または略して「タ」と読まれていたことが分かっている。これはわが国では親指と小指を張ったときの長さを示しており約20cmだったとしている。つまり、「ヤアタの鏡」または「ヤタの鏡」と読むためには「八尺鏡」ではなく『八咫鏡』と書くのが正しいことになる。

     では、「咫」が長さの単位だったとして「八咫鏡」の大きさを想像してみよう。すると、周の長さでは24cmの8倍として直径192cm、わが国上古の長さでも20cm*8で160cmということになる。当時の鋳造技術から考えてありえない大きさの鏡であるし、こんな鏡は古代の中国にも日本にも出土したためしがない。だいたい特筆すべき大事な鏡に単なる長さだけの名前をつけるだろうか。現代でも貴重な品物に命名するときには作者の名前か、あるいは作られた場所の名前が一般的である。「八咫鏡」のように天照大神の身代わりともされる大切な鏡に単なる寸法だけで呼ぶというのは不自然である。
  • 加茂の社」とは京都の下鴨神社

    山城の国の風土記にいう、―――加茂の社。加茂と称するわけは、日向の曾の峰に天降りなさった神賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は、神倭石余日古(かむやまといわれひこ・神武天皇)の先導として御前にお立ちになって、大倭の葛木山の峰に宿っておいでになり、そこからしだいに移動し、(略)

    賀茂の建角身命は、丹波の国の神野(かみの)の神伊可古夜(いかこや)日女(ひめ)を娶ってお生みになった子を、玉依日子と名づけ、次を玉依日売といった。玉依比売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗り矢が川上から流れ下ってきた。そこでそれを持ちかえって家の寝床の近くに挿して置くと、とうとうみごもって男の子を生んだ。

    (その子が)成人式の時になると、外祖父建角身命は、八尋の家を造り、八戸を堅く固めて、八腹(やはら・沢山の酒甕)に酒を醸造して、神をつどい集めて、七日七夜宴遊なさって、そうしてその子と語らっていうには「お前の父と思われる人にこの酒を飲ませなさい」と。

    するとただちに酒杯をささげて天に向かって礼拝し、屋根の瓦を突き破って天に昇ってしまった。そこで外祖父の名によって加茂の別雷命と名づけた。

    いわゆる丹塗り矢は乙訓(おとくに)の郡の社におでになる火雷命(ほのいかづちのみこと)である。(略) 『釈日本紀』

    吉野弘訳より

    神賀茂建角身命の娘の玉依比売が丹塗り矢を持ち帰ると妊娠して子が生まれたが、父が分からず、神々を集めて子供に「父に杯を」と命じたら、天を指し示したという話です。これで父が雷神・火雷命だったを分かり、子供の名前は賀茂別雷命となったということです。

    そうすると、登場した「父と娘とその子」の家族が当社に祀られていると考えてよさそうです。玉依姫とは風土記の玉依比売のことでしょう。書き分けのため、神武天皇の母を玉依姫、賀茂建角身命の子供を玉依比売とします。

    社伝では「神賀茂建角身命は、神倭石余日古(神武天皇)の先導として御前にお立ちになって」とあるので、「父の賀茂角身命が八咫烏」ということになります。

    ところで、その降臨の地、日向の「曾」とか、大倭の「葛木山」とか、見ていると、「ソ」=脊振山に天降りして、犬鳴山系の葛城に移動したと読めて仕方がありません。

    脊振山こそ賀茂神社の発祥の地((儺の国の星p68)と真鍋も伝えているし、葛城山系と言った犬鳴山系には蹈鞴の歴史があるし。

    ここ、浮羽を押さえると、平群(脊振山系)、葛城(犬鳴山系)、巨勢(耳納山系)と、重要な三山が掌握できるんですね。これらの地名が神武東征と共に、関西に移動したと考えるのが自然でしょう。
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