未定義の論題

October 2018 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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  • October 2018 編集されました
    「板野采女」は、阿波国板野郡から貢上された郡領
    (大化前代は国造)出身の采女のことで、板野郡の郡領 は『続日本紀』神護景雲元年(767)三月乙丑(16日)条 に、「阿波国板野・名方・阿波等の三郡の(中略)評督凡 直麿ら、朝庭に披陳して、改めて粟凡直の姓と為すこ と已に畢りぬ」とみえるから、「粟(凡)直」であるこ とが確かめられる。よって、楓麻呂の母である粟直若 子は阿波国板野郡の郡領の娘で、一三歳以上で形容端 正な女性と「養老後宮職員令」氏女采女条に規定され る采女として平城の都で出仕していて、時に「正三位 参議中務卿」として政権の中枢にあった房前の目にと まり楓麻呂を生んだのであろう。房前は五〇歳前後、 若子は二〇歳を過ぎた頃であったろう。しかし、房前 は天平九年四月に五七歳で没するから、楓麻呂は幼少 期に父を喪ったことになる。母も前掲の「写経所請経 文」に天平勝宝四年八月三日に出家したことがみえて いるから、楓麻呂は父母との縁は薄かったようにも感 じられる。 ところで天平勝宝四年というと、楓麻呂は先に考察 したように天平三年生まれだと二二歳である。母の出 家理由は何かわからないが、長島氏は光明皇太后の有 能な側近であったと推察している(13)。角田氏が(若子 は楓麻呂が)「蔭によって正六位上を授けられた直後 に入道し、宿願を果たしたものと推測される」(14)とい われるように、一人息子である楓麻呂が一人前になっ て出身したことをうけてのことであったかもしれな い。そうすると、やはり楓麻呂の生年は天平元年より も少し降った天平二年~三年頃であったことの蓋然性 が高くなる。

    称徳・道鏡政権の軍衛は藤 原仲麻呂の内乱で戦績のあった公卿官人を中心に補任 しているが、楓麻呂がその一翼を担っていることは、 前述したように具体的には史料にみえないが、内乱後 に一挙に四階昇叙されたこととともに内乱での武功の 大きかったことを示唆していると推考される。 その後、神護景雲元年二月になって楓麻呂は大宰大 弐に遷任している。この人事は前任者の佐伯今毛人を 造西大寺長官に登用したのをうけてのものであった。 今毛人は、天平十六年(744)に造甲賀宮司にあって大 仏造顕に従事してより、つづいて平城京に移っての東 大寺造営にも尽力し、造東大寺次官から昇任して、造 東大寺長官も二度経験して、さらに大宰府では営城監 に任じられて怡土築城の専知官を兼任するなど造営に 経験豊富であった。西大寺は、称徳女帝自らが藤原仲 麻呂の内乱鎮圧を祈願して造立しようとしたもので あって、そこで今毛人を大宰府から召喚して造営にあ たらせたもので、楓麻呂はその後任として任官したの である。 楓麻呂は、たぶん三月末から四月初旬に九州へと下 向したのであろう。大宰帥は石川豊成であったが、豊 成は参議の兼官であったから遙任で、大宰府行政は楓 麻呂が差配したことであろうが、その半年後の八月に は下僚の少弐に文人官人として著名な淡海三船と大伴 家持の二人が赴任してきている。楓麻呂の大宰府での 仕事は、佐伯今毛人を引き継いで筑前国での怡土築城 のことが中心であったろう。翌年の神護景雲二年二月 には怡土城が完成したことがしられる。 佐伯今毛人の任務を引き継いで怡土築城を果たした 楓麻呂にとって早い帰京が待たれた。神護景雲二年十 一月、楓麻呂は右大弁に任じられて一年九カ月ぶりに 帰京した。この人事は、楓麻呂の後任に外衛大将藤原 田麻呂が、田麻呂の後任に右大弁藤原継縄が任命され るという三人が互いに異動したものであったが、田麻 呂も継縄もすでに参議に在任していたことを思うと、 楓麻呂が政権中枢の近いところにあったことが確認で きる。 そして『続日本紀』神護景雲三年九月辛巳(17日)条 には、この時になって楓麻呂は信濃守に任ぜられた
  • October 2018 編集されました
    宝亀二年五月になると、楓麻呂は 『続日本紀』宝亀二年五月己亥(13日)条に、「右衛士督 従四位上藤原朝臣楓麻呂を兼讃岐守」とみえるように 讃岐守に補されている。これが伊勢守から移ったこと は、『続日本紀』同日条に阿倍毛人が後任として伊勢守に任ぜられたことがみえることからもわかる。また、こ の『続日本紀』条文をみればわかるように、讃岐守の兼 任を命じられた時には、楓麻呂はすでに右衛士督に在 任していたらしい。では、いつ右衛士督に任ぜられたか というと、はっきりとした答えを用意することはでき ない。けれども神護景雲二年(768)二月に右衛士督に任 ぜられた佐伯伊多智が楓麻呂の前任者だとすれば、宝 亀二年閏三月時点ですでに中衛中将に転じていたから、 楓麻呂の右衛士督就任はこの時点より以前となる。 宝亀二年十月になると、太政官院で大嘗祭が挙行さ れた。これによって光仁天皇の皇権がほぼ確立したと いってよいであろう。このような事情をうけてのこと であろう叙位が行われている。楓麻呂は一階昇って正 四位下の位階にいたった。その後、同三年四月になっ て擢用されて参議に昇っている。ついに楓麻呂は太政 官に入って議政官となったのである。 この時の太政官メンバーは、以下の一覧表をみれば わかるように、光仁天皇を擁立して右大臣大中臣清麻 呂にまさる権力をもつ実質的領導者である藤原良継(57) とその兄弟(田麻呂・百川)による「式家主導」のもと で、北家兄弟(魚名・楓麻呂、清河は在唐)、南家兄弟(継 縄・縄麻呂)、京家(浜成)出自官人をも加えた藤原挙族 体制(58)がとられていたと理解できる。 楓麻呂の参議登用には、太政官首班であった左大臣 永手を同二年二月に喪ったことで、北家が実質は魚名 一人となったことから楓麻呂を登用することで(北家 二人)、藤原各家の均衡をとり(式家三人、南家二人)、 挙族体制による政権を保持しようとした良継の意図が あった(59)。この時にも良継は婿である楓麻呂を引き 立てたのである。

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    宝亀七年(776)六月になって楓麻呂は没し た。『続日本紀』には冒頭に記したように「参議従三位 大蔵卿兼摂津大夫藤原朝臣楓麻呂薨しぬ」とあるが、 享年についてはみえない。天平三年(731)の生まれと すると、四六歳であって、この時の太政官メンバーの 年齢は、良継の六一歳を筆頭に、魚名と田麻呂が五五 歳、浜成が五三歳、継縄と是公が五〇歳、縄麻呂が四 八歳であるから、楓麻呂は四五歳であった百川につづ いて若かったということになる。 楓麻呂の参議の後任には同じ北家の二兄永手の一子 である家依が補されている。北家の楓麻呂が没して、 その後任を同じ北家から登用しているのは、やはり式 家が主導する政治体制ではあるものの、北家・南家と も協調しつつ藤原氏挙族の政治体制を維持しようとす る方針を基本においていたことを物語っている。 宝亀八年正月、藤原良継が内大臣となるが、その直 後に藤原魚名が従二位を授けられている。これは魚名 が良継の後継となることを示したものであろう。事 実はこれに違うことなく、同八年九月に良継が没する と、右大臣大中臣清麻呂がいるとはいえ、魚名は大納 言として、ついで内臣・忠臣、そして桓武天皇即位直 後には左大臣まで昇っている。 しかし、天皇権力の確立のために公卿勢力の抑圧を めざす桓武と対立するようになった魚名は、桓武の意 図とする良継の娘乙牟漏の立后問題をめぐってこれを 容認しなかったと思われることから(62)、桓武の密命 をうけた式家の種継や佐伯今毛人ら桓武股肱の臣の陰 謀によって左大臣を追放されることになる(63)。もし、 甥の家依ではなく実弟の楓麻呂が生存していたなら ば、魚名の失脚も違う局面を迎え、藤原挙族体制も維 持されたかもしれない。 いずれにしても楓麻呂の官人としての生涯は、左大 臣としての二兄永手と岳父良継をはじめとする藤原式 家中心の藤原氏挙族体制を維持することの目的の具現 のための政治的役割を北家の末弟として果たしたこと にあると思う。
  • October 2018 編集されました
    (篠原長房が築城した川島城)

    長房は三好長慶の弟・三好実休の重臣であり、実休討死の後は遺児・三好長治を補佐し阿波において三好家中をまとめあげました。才知優公平無私、薬師という智者を崇敬し諸事相談をなし、式目を以って訴訟を分ち、三好氏の分國法である新加制式二十二条の編纂にあたるなど能吏として知られます。このように長房の権威や権力は、三好三人衆をも凌駕し、彼らを動かすほどの立場にあったと伝えられております。

    長房の評価は「三好家中の中でもっとも堅実で軍事・政治の両面に通じていた。このような非凡な才能からときにそれが諸臣たちのあいだで妬みをうけるほどっあった。」とあります。
    妬みを受けるほどの才能はどこで培われたのか… 篠原氏の出自は多賀神宮神官家の生まれであり橘氏の系譜であったことからかもしれません。

    篠原氏は四字の姓(源平藤橘)四氏の橘が親で近江の国篠原の里、多賀神宮宮司の二男に生れ候、三好喜運に仕え、その当時は宗半と申して荷持ちなどして阿波へ下り候時、肩にコブが高くてかたひらなどめす時は見苦しく候、宗半は僅かの奉公銀に召されつれ共、公事沙汰をきき候ては直ちに栽決し、両者は納得して不平なし、才知噸みに優れたり依って知行を一かど被遣候いて、特務を被命候…(昔阿波物語より)

    篠原氏は橘姓で、橘諸兄から八代目橘好古の子孝政が始親とされています。


    三好家家臣の中でもっとも堅実で、信頼を置くべき篠原紫雲(長房)を討ったことにより、赤沢宗伝を始めとする三好氏家臣達は三好長治に愛想を尽かしました。これより阿波国内の情勢は混乱を極めたことは言うまでもありません。

    このお国騒動に乗じて長宗我部元親が阿波国の西部、南部より進入。阿波国内に破壊のかぎりをつくしたのは皆の知るところであります。鎌倉時代の初期に小笠原氏、鎌倉時代末期に田口氏(一宮氏)に勧請されたと伝わる神山 宇佐八幡神社。その後荒廃していた社殿を永正四年(1507)に再興したのは今回の主役である篠原長房なのであります。

    篠原長房が隠居した上桜城は長房が自らの戦の経験をもとに造成された出城であり、戦に有利になる立地条件を大前提に造成されたのもさることながら、峯つづきに浮島八幡神社の元社が存在した雀獄、麓全面に善入寺島などが存在します。忌部祭祀が主である環境であることは言うまでもありません。

    にもかかわらず、、、忌部神には目もくれず粟国造一族縁故の宇佐八幡神社を再興した経緯から、正史には出てきていない大きな氏族間の繋がりを感じずにはいられません。

    やはり、鎌倉、南北朝、室町時代にかけて阿波国内で氏族間で大きな動き(入れ替わり)があったことは確実なようです。
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