天武天皇

10/12編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

コメント

  • 神武天皇から元正天皇までの漢風諡号は、淡海三船(おうみのみふね)による。

    奈良時代後期の文人で、大友皇子の曽孫に当たる。おくりなによってその天皇がどんな人物だったのかを研究している人たちもいる。森鴎外も研究していた。

    天智を暴君だった中国の殷の紂王に、天武を殷を滅ぼした周の武王になぞらえたのではないか
    紂王が武王に負けて自害するとき身につけていた天智玉、天智というのはすわなち暴君を意味するのだとか。

    天智天皇は天武天皇に暗殺されたという説がある。
    「扶桑略記」にそれをにおわせる記述がある。
  • 679年(白鳳8年=天武8年)5月5日に天武天皇・鸕野皇后・6人の皇子は吉野へ行幸した。翌日、天武は草壁皇子を次期天皇とし、異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせた。そのうち志貴皇子は、この盟約が記録上の初登場であった。彼らは7日に飛鳥に還ったが、10日にも6皇子は大殿の前で天武のもとに集まっている。
  • 10/12編集されました
    天武紀
    天武天皇は、舒明天皇と宝皇女(皇極天皇)の皇子とされ、中大兄皇子(後の天智天皇)と同母兄弟。

    『天武紀』は歴代天皇の中でただ一人、巻第二十八(壬申の乱)と巻第二十九(即位から崩御まで)の二巻を占めているが、大海人が、天智天皇の東宮になるまでの状況がまったく記されていない。
    天智天皇が皇子時代の「乙巳(いっし)の変」(いわゆる「大化の改新」)にも、また、百済復興のために老母の斉明天皇を旗印にして大軍を率いて朝倉宮に征西した期間でも、大海人の同行は明確でない。

    天武天皇の殯があった朱鳥元年(686年)九月二十七日、第一番に天武天皇の「壬生のことを誄したてまつった」人物。
    大海宿禰蒭蒲である。凡海氏=大海氏は阿曇氏の同族とされ(『新撰姓氏録』右京神別下、摂津国神別)、摂津国を本拠にした氏族である。「壬生」は、「養育」のことであり、凡海氏が大海人の養育にあたったと考えられる。

    百済救援と新羅西征の重鎮であった凡海氏に、大海人の養育を依頼したのであろう。

    『藤氏家伝』
    ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。
    藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。天智七年(668年)のこととされている。
    この時、大海人が使った長槍は長戟(ながきほこ)。ー(おそらく唐から伝わった)新羅人の武器であった。
    欽明紀に「新羅は長戟・強弩で任那を攻め、大きな牙・曲がった爪で人民を虐げた。云々」とある。

    『紀』は「天武天皇は天文・遁甲を能くした」と記す。
    推古天皇十年(602年)に百済僧観勒による暦本・天文・遁甲方術書の移入があった。
    推古天皇紀あたりから、天文の記事が多くなり、誓約(うけい)にかわり、天文・自然現象で吉凶を占う占術記事も多くなる。朝堂院で天文・遁甲方術が行われたことが窺える。

    白雉四年(653年)、中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち、孝徳天皇が造営した難波京から倭京(飛鳥)に移った。その時、大海人は中大兄皇子らと行動をともにしている。『紀』は皇弟と記す。これが、大海人の初出である。


    倭京の宮廷には、中大兄皇子の幼い娘の大田皇女と鵜野讃良皇女がいた。
    二人の母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘 (おちのいらつめ) である。
    石川麻呂は、乙巳の変で中大兄皇子や中臣鎌子が蘇我入鹿を討った時の同士であった。後に誣告により蘇我石川麻呂は中大兄皇子に攻められ自害した。遠智娘は父の敵の中大兄皇子に嫁ぎ、大田皇女と鵜野讃良皇女 (うのささらひめみこ)、弟の建皇子を生んだ後、父の死を嘆きつつ、やがて病死する。建皇子は唖であり夭折する。大田皇女と鵜野讃良皇女は、これらの悲劇を十分に知っていながら、祖父を自害に追いやった中大兄皇子の許で暮らしていたのだ。鵜野讃良皇女の生い立ちについて『紀』は詳述しない。

    その名前から、河内國更荒郡鵜野邑すなわち、讃良郡鵜野村 (ささらぐんうのむら、大阪府四条畷市岡山のあたり) が皇女名の由来であり、讃良郡鵜野村に住む宇努連 (うぬのむらじ) 出身の女性が彼女の乳母であったとする説がある
    宇努連は帰化新羅人の裔孫とされる(欽明二十三年条)。

    遁甲による占。大海人は壬申の乱の時、式〔筮竹〕で占を行っている鵜野讃良皇女(後の持統天皇)は、斉明三年(657年)に十三歳で大海人に娶られた。そして、六年後(天智元年662年)、草壁皇子を筑紫の那の大津の宮で生んだ。大海人が大田皇女を娶った時期は不明であるが、斉明七年(661年)、百済救援のため那の大津に向かう途中の中大兄皇子一行の乗った船が、大伯(おおく)の海の上(岡山県瀬戸内市の沿岸)を通過している時に大来皇女(後の伊勢斎王)を出産した。また、天智二年に大津の宮で大津皇子を生んだことから、鵜野讃良皇女と同じ様な時期に大海人に娶られた可能性がある。天智二年九月に白村江で百済救援軍は、唐の船軍に敗北して筑紫の那の大津(博多湾)に戻っている。斉明七年から天智二年まで、大海人は中大兄皇子と那の大津の宮にいたはずであるが、動静は全く伝わっていない。中大兄皇子にとって扱いの難しい二人の皇女を大海人に娶らせた。

    天智天皇紀で大海人は、天智三年に大皇弟として初出する。八年(669年)五月条でも大皇弟であるが、十月条では東宮太皇弟となっており、この頃に東宮になったと思われる。ただし、東宮(皇太子)とは名ばかりであった。事実、天智十年(671年)、天皇は第一皇子の大友皇子を太政大臣に任命し、大友皇子に皇位を継がせる意図をみせている。
  • 何故、尾張氏をはじめとして、尾張、美濃、伊勢の豪族たちは大海人皇子側についたのか
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