未定義の論題

06/26編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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  • 松阪市から15.6km、櫛田川の中流域に開かれた戸数300戸程の丹生の集落がある。
    堂々とした山門と七堂伽藍が建ち並ぶ神宮寺(通称丹生大師)とそれに接して丹生神社がある。
    ひなびた田舎に似つかわしくない神社仏閣である。そこには、丹生の里に秘められた歴史がある。
     
    「丹生」という地名と水銀との関連はよく知られている。多気郡勢和村丹生も、水銀の産地なのである。

    丹生のいわれ
      「丹生」とは、丹砂(朱砂・辰砂ともいわれ、水銀(Hg)の原鉱石である硫化水銀(HgS)のこと)を生ずる意味である。 また、特殊な採鉱民としての一族丹生氏の活動と関連づけ、その植民的進出の跡とみることもできる。丹生神社の祭神である丹生都比売(ニウズヒメ)は、丹砂を掌る女神であるとともに、丹生氏一族の氏神でもあったといわれる。

    丹生神社には採堀用具が、神宮寺には水銀蒸留のためのかまが残されている。

    丹生の水銀
      続日本記の文武天皇2年(698年)9月の記に「献伊勢国朱砂雄黄」とみえるのが、丹生の水銀の始まりである。それ以降、水銀の産出は隆盛に向い鎌倉時代の初期には、我国でも最も古い座の一つである丹生の水銀座の存在が認められ、その盛大さがうかがえる。
      奈良の大仏の再鋳には、丹生の水銀が使われたとか、丹生千軒とか、梅の長者長井氏の水銀長者ぶりとか、今にいい伝えられている。特に、この長井氏一族は、織田信長による伊勢平定の戦火を受け、焼野原となった丹生の里の復興につとめ、丹生大師の再建にも力を尽したと言われている。
      当時の水銀坑は、山の頂から、中復から中心部に向って、斜めに堀り進んでいる。坑道は、鉱脈の部分のみを採堀した「狸堀り」で、鉱脈のある所は広く、ない所ははって人が通り抜けられるだけである。したがって、坑道の形は、鉱脈の形を現わしているものと思われる。
      また、坑道の中は、地下水との争いであり、その深さは50m位にとどまっている。現存する旧坑は、おおよそ100か所近くもあると言われる。中でも、最も大きい水銀坑は、丹生大師より国道42号線の途中にある洞口である。
      室町時代からだんだん衰退に向っていった。
      けれども、丹生水銀から射和軽粉・松阪商人・江戸の伊勢店とその活力は伝えられていったとも言われている。
      昭和40年代、斜距離で地下165mまで堀り下げ豊富な鉱脈が発見され堀り出されたが、今は中止され、丹生の水銀は地下に眠り続けている。
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