未定義の論題

06/10編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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  • 06/10編集されました
    綾部郷と綾部一族


    綾部八幡神社 由緒書に

     推古天皇の628年、来目皇子が新羅征伐の際、播磨国の帰化人忍海漢人をこの地にとどめ、兵器を造らしめたが、そのまま土着して風神(バアヤベイ)を祀って里を作った。この漢部を綾部と書き改めた。バアーヤーベーからアヤベとなったとも推定される。

    推古紀には忍海漢人のことは出てきません。

    『肥前国風土記』の方に「綾部郷」のことが書かれていました。「三根郡」にその名が出てきます。

    漢部(あやべ)の鄕 郡役所の北にある。
    昔、来目皇子は新羅を征伐しようとして忍海(おしぬみ)の漢人(あやひと)に勅し軍衆として連れて来て、この村に住まわせ兵器を作らせた。それで漢部の鄕という。

    この綾部八幡神社は古来の伝承を今に伝える古社でした。
  • 来目皇子は聖徳太子の弟

    『日本書紀』によると、「推古10年2月に来目皇子を新羅征伐の将軍に任命し、もろもろの神部(かむとものを)および国造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)ら合わせて2万5千人の軍衆を授けた。」とあります。

    2月。真冬の決定です。2万5千人も大移動した!この人数にはいったいどれほどの食糧が必要でしょうか。船はどれほどあったのでしょうか。

    屯倉の蔵が解放されたことでしょうが、博多沿岸は一気に人口が倍増して、大変な状況だったと思われます。

    書紀の続きには
    「夏4月1日に将軍来目皇子は筑紫に到着。志摩郡で駐屯、船舶を立詰めて兵糧を運んだ。」と書いてあります。

    しかし、6月3日、志摩郡で来目皇子は病に臥し、翌年2月4日に薨去しました。将軍となってわずか一年でした。

    この2万5千人の中に忍海漢人の集団がいたのでしょう。彼らは糸島とは山を隔てたこの谷筋の風を見極め、兵器を造ったのでしょうが、その準備がわずか一年で整ったのか、疑問が残ります。

    さて、将軍の死の知らせはすぐにここまで届いたでしょうか。届いたとしても戦争を中止する訳ではないので、鍛冶工人たちはここに留まって武器製造にいそしんだことでしょう。

    そして二か月後、4月に当麻皇子が次の将軍に任命されるも、妻が途中で病死。当麻皇子は引き返したのでした。
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