聖徳太子

December 2018 編集されました カテゴリ: 舒明ー聖武
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馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した…

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コメント

  • June 2018 編集されました
    『日本書紀』と同時代の史料『藤氏家伝』によると、入鹿は、「諸 皇子」とともに謀って山背大兄王を殺害したとあるが、この諸皇子 とは誰のことなのか。一人は、入鹿が、山背大兄王に代えて、天皇 にしたいと考えていた古人大兄皇子であろうが、「諸皇子」は複数 形であるから、少なくとも、もう一人必要である。巨勢徳太が、軽 皇子の側近であることを考えるならば、軽皇子も一味であったはず だ。
    『上宮聖徳太子伝補闕記』は、蘇我蝦夷、入鹿、軽皇子、巨勢徳 太、大伴馬甘連、中臣塩屋牧夫を主謀者として列挙している。『上 宮聖徳太子伝補闕記』は、平安時代前期に書かれた本だが、『日本 書紀』や『四天王寺聖徳王伝』に疑問を持った匿名の著者が、古書 を調査して書いた本であり、無視できない。このリストを見ると、 蘇我氏以外は、大化の改新で権力の座についた人物であることがわ かる。即ち、大化の改新によって、軽皇子は孝徳天皇として即位 し、大伴馬甘連は、巨勢徳太が左大臣になった時に右大臣となっ た。
    中臣塩屋牧夫は、中臣(藤原)氏であること以外は何もわからない が、この男の正体は何か。大化の改新で、軽皇子が天皇になること ができたということは、軽皇子と中大兄皇子の双方と親しくしてい た媒介者がいたということである。そのような人物は、中臣(藤 原)鎌足以外考えられない。だとするならば、中臣塩屋牧夫は、鎌 足ということになる。
    鎌足は、『六韜』を愛読したマキャベリストで、蘇我氏内部の争い を利用しながら、蘇我氏を弱体化させ、蘇我氏に代わって権力を手 にした。即ち、入鹿を味方にして蘇我系の山背大兄王一族を殺害 し、蘇我倉山田石川麻呂を味方にして入鹿と蝦夷を殺害し、蘇我日 向に讒言させて、石川麻呂に謀叛の疑いをかけ、自殺に追い込み、 後にこの讒言が嘘であるとして日向を筑紫大宰師へと左遷する。こ の鎌足の謀略により、蘇我氏は完全に没落する [梅原 猛:隠された

    出典:https://www.nagaitoshiya.com/ja/2003/shotoku-taishi/
  • June 2018 編集されました
    巨勢氏
    記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の次男である許勢小柄宿禰を始祖とする。6世紀以降、朝鮮半島との外交・軍事に従事することによって台頭した新興豪族であり、継体天皇朝に大臣となった男人を始め、欽明天皇朝の稲持、崇峻天皇朝の猿・比良夫、推古天皇朝の大摩呂などが大夫(議政官)クラスの人物として見えているが、その系譜関係については明確でない。飛鳥時代にも、孝徳天皇朝の徳陀は左大臣、天智天皇朝の人は御史大夫として活躍した他、奈良時代に入ってからは麻呂と邑治が中納言、奈弖麻呂は大納言に昇っている。平安時代初め、初代の蔵人頭に任じられて中納言に昇った野足を輩出した後、公卿に昇った者はいない。大和絵巨勢派の祖である金岡は野足の曾孫。


    武内宿禰の他の男子と異なり、『古事記』『日本書紀』では許勢小柄に関する伝承は一切記されていない。このことから、実在を疑う見解が強いほか、武内宿禰の子とする伝承の成立も他の男子より遅れるという指摘がある



    巨勢 徳多(こせ の とこた/ とくだ/ とこだこ、生年不詳 - 斉明天皇4年1月13日(658年2月20日))は、飛鳥時代の政治家。名は徳太・徳陀・徳陀子・徳太古・徳陀古とも記される。巨勢胡人の子とする系図がある。官位は大繍・左大臣。

    舒明天皇の大葬では、大派皇子(敏達天皇の子)の名代として誄(しのびごと)を読み上げる。巨勢氏は蘇我氏と親密な関係にあり、徳多も蘇我入鹿の側近として皇極天皇2年(643年)の山背大兄王征討時には軍の指揮を執っている。ところが、大化元年(645年)に中大兄皇子によって入鹿が暗殺される(乙巳の変)と、直ちに皇子に降伏して蘇我氏討伐に参加し、復讐を図る蘇我氏遺臣の漢直らを説得して兵を引かせた。その功労によって大化3年(647年)の冠位十三階導入時には旧来の冠位十二階による小徳より小紫に昇進した。股この間の大化元年(645年)7月に高麗・百済・新羅が使節を派遣してきた際に、各使節に詔を伝達している。

    大化5年(649年)阿倍内麻呂の死去後に空位となっていた左大臣に任じられて大紫に昇進する。中大兄皇子と前任の左右両大臣は晩年において路線対立があり、前任の右大臣・蘇我倉山田石川麻呂は謀反の疑いで自殺に追い込まれているが、徳多は右大臣・大伴長徳とともに中大兄皇子や中臣鎌足との協調を図りながら政権を運営した。

    白雉2年(651年)に新羅の使者が倭国(日本)訪れた際に、新羅が唐に臣従して制度も唐制に改めたと知って追い返すという事件が起きているが、その際に新羅と唐が結ぶことを危惧した徳多は先に新羅を攻めるように進言したが、採用されなかった。だが、徳多の死後に倭国は白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れる事にな
  • 善光寺のホームページからこのお寺の始まりを引用します。
    「この仏像(阿弥陀如来像)は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。」

    ただ、飯田の元善光寺のホームページでは、ほぼ同じ内容ですが、「本田善光」が「本多善光」となっています。

    さて、4)の宮元健次氏の「善光寺の謎」によると、善光寺は、聖徳太子と蘇我氏により滅ぼされた物部守屋の鎮魂の寺という事です。引用すると、
    「善光寺本堂で手を合わせることは、内々陣左手に鎮座する阿弥陀如来に祈りをささげることとともに、内々陣中央に峙立する守屋柱に宿る物部守屋の霊を鎮魂することに通じる。
     また戒壇めぐりを行うことは、守屋柱を一周し、錠前、すなわち鎮魂の法具の独鈷によって守屋柱に宿る守屋の霊を封ずることに通じる。いいかえれば毎年、七百万人もの人々が守屋の霊魂を現在もねんごろに鎮め続けていることになる。」
    ということで、物部守屋が善光寺と深く関わっている事が考えられるのです。

    大阪府八尾市の大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)には、門前に秦河勝(物部守屋を殺したとされる人物)がその首を洗ったと伝わる「守屋池(守屋首洗池)」があり、近くには物部守屋の墓があります。秦河勝は、聖徳太子と関連が深い渡来人ですが、当時この大阪のあたりにには、百済系の渡来人が多く住んでいたということで、宮元氏によれば、この大阪の「河内長野」の地名が善光寺のある「長野」の地名の元だとも考えられるといいます。

    ところで、「扶桑略記」という本に引用された「善光寺縁起」では「ある記に云う。信濃国善光寺阿弥陀仏がすなわちこの像である。推古天皇の御時壬戌四月八日、秦巨勢大夫に命じて信濃の国にお送りした。」と書いてあります。
    本田善光が運んだのではなく、 秦巨勢大夫が運んだとされているのです。宮元氏は、秦河勝と巨勢大夫という二人だとされていますが、何れにしても物部守屋の首をとった秦河勝が運ぶのに関係しているのは間違いなさそうです。そして、秦氏は九州の宇佐八幡宮を創建したことでも知られています。この神社は、全国の八幡社の総社ですが、その祭神は応神天皇(誉田別-ホムダワケ)です。
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