奈良の飛鳥と宗像(津屋崎)の少彦名と阿部氏、

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
image奈良の飛鳥と宗像(津屋崎)の少彦名と阿部氏、

津屋崎の阿部氏。 筑前、宗像郡の津屋崎は九州北部沿岸で最も古墳が集中する地域。 平野の西、山塊の麓と東の海岸沿…

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  • 須多田天降神社
    少彦名命を祀り、集落の外れにある須多田天降神社古墳の後円部に鎮座する。
    須多田天降神社古墳は周壕と土提が巡らされた、全長83mの津屋崎最大級の前方後円墳。
     大石の「風降天神社」は少彦名命、埴安命、保食神を祀る。「天守天神社」とも呼ばれる。
    由緒によると須多田とこの大石の産神は元は共に天守天神社で、少彦名命を祀るという。
    そして、両集落の氏神はそれぞれ須多田麻呂、大石麻呂という兄弟神であるという。
     生家の「大都加神社」も少彦名命、埴安命、保食神を祀る。
    境内社に天満宮があり、旧社地には菅公の大宰府左遷の際に、船を繋いだという船繋石が残る。

     梅津の森山の中腹にある「森神社」は大己貴神、海津見神、少彦名命を祀る。そして、渡の「楯崎神社」、在自の「金刀比羅神社」。少し離れて、宗像の孔大寺山の中腹の「孔大寺神社」にもそれぞれ少彦名命が祀られている
  • 阿部氏の祖は第8代孝元天皇の長子、「大彦命」であるという。阿部氏の祖、大彦命の弟にあたるのは、「少彦男心命」。殊に「少彦名命」を彷彿させる名である。

    そして、同じく孝元天皇の子「武埴安彦命」が「埴安命」に対応している。
    大石や生家で氏神として少彦名命とともに「埴安命」が祀られている。
  • 阿閉氏は
      孝元天皇 ━ 大彦命 ━ 彦背立大稲輿命 ━ 彦屋主田心命 ━ 大伊賀彦命━稚子━ 阿閇国見(阿閉氏の祖)と記されています。

    一方阿倍氏は、
      孝元天皇 ━ 大彦命 ━ 武渟川別命 ━  豊韓別命 ━ 雷別命 ━ 阿倍阿加古(阿倍氏の祖) ━ 大籠 ━ 忍国 とあります。
  • 三重県上野市の近くに高倉神社があります。阿閉氏の祖神である敢国神社と非常に近く、倉麻呂、倉山田石川麻呂の名から関連して蘇我氏との関係も推察しますが同社の由緒略記には高倉下命が御祭神とされています。

    「垂仁天皇十七年鎮座ト伝へ御祭神 高倉下命ハ熊野國造ニシテ霊夢ニ感ジタ天剣ヲ神庫ヨリ持チ出シ神武天皇ニ捧ゲテ ソノ創業を〔ママ〕補佐シ 勅 ヲ奉ジテ 近畿北陸ノ諸道ヲ巡歴シ魚漁ノ道ヲ講シ゛手繰網ヲ発明シ塩業ヲ起シ農事ヲススメ越ノ國ニ渡リ越後ニテ薨ジタ給ヘリ 其後 天皇 高倉下命ノ弟 宇摩志摩手命(物部連ノ祖)ヲシテ高倉下命ノ勤王ノ労ヲ賞シ天香山ニ祀リ天香久山命ト申セリ 高倉下命七世ノ孫 倭得玉彦命 コノ地に〔ママ〕住ミテ ココヲ霊地ト定メテ鎮祭シ 祖神ノ遺徳ヲ称エテ氏神祭ヲ始メ倉祭ヲ斎興セリ」とあり、物部氏との関係が語られています。天皇の「饗」に深く関わる由緒であると考えます。

    三重県上野市一之宮字宮之谷は阿閉氏の租神である敢国神社の所在地であり、同社は嘉祥三年(850)から寛平三年(891)の間に「敢国津神」「敢国津大社神」の名で従五位下から従五位上に進階したことが「文徳実録」「三代実録」「日本紀略」に記されています。
  • “青銅の神の足跡 集英社文庫 谷川健一 ”(42) に

    「・・・ところで、米餅搗大使主命の名称は、これまで米の粉を水でねった粢しとぎを指すと思われてきた。それに対して橋本鉄男氏は『新撰姓氏録』に米餅搗大使主命を「鏨着大使主」とも記していることから、それは鉄鋼で作ったノミを意味するのでないかと論じている(前掲論文)。その証拠に、志賀町の小野神社の近くにタタラ谷や金かな糞くそといった小字こあざがあることを挙げている。・・・橋本氏はかくして、鏨着大使主こそ実はかな山堀の技術を伝えた鍛冶神、あるいはそれを司祭するシャーマンそのものではないかという問題を提起している。」と述べられています。
    湖西に存した和咡氏は鉄鉱石を原料とする古い形の製鉄を行っていた、と推測します。
    また、同書には砂鉄をめぐる先住民との苛烈な争い と題されたなかで「・・・この土地争いは、前住者の占拠していた場合に後来者が侵入したという形をとる。その目的は何かといえば、鉱物資源の獲得であり、いっそう具体的にいえば砂鉄が目あてだったと思われる。・・・」とも述べられています。
  • 膳臣(彦屋主田心命)
    舟津神社鳥居『舟津神社』福井県鯖江市舟津町
     祭神は大彦命、崇神天皇の十年(前87年)、勅を奉じて、北陸道に下向し給い百姓を鎮撫して功あり。成務天皇四年(134年)、命の五世孫市入命に詔して、高志舟津郷に勅祭したまい、土地の郷名により社郷を船津神社と称す。
    相殿の「大山御板(オオヤマミイタ)神社」の祭神、猿田彦大神は大彦命進軍の節に神勅あり、大山の峰に楯を三方に建て、社形としてここに猿田彦大神を祭り、副将軍忍男彦を神主に定む。社司橋本家の祖先、すなわちこれなり。

    舟津神社は式内社として北陸最古の歴史を持つ古社だが、鯖江市の観光紹介では「崇神天皇の頃、北陸平定のために遣わされた大彦命を祀り、その折、賊に向って放った矢が「さばの尾」に似ていたことから鯖矢、そこから鯖江の地名が生まれたといわれています」と記している。
    『日本書紀』雄略紀に「高句麗に攻められた新羅の王が、倭国へ援軍の派遣を求めてきたので、膳臣斑鳩(カシワデノオミイカルガ)、吉備臣小梨(ヲナシ)、難波吉士(キシ)赤目子を勧めて、行きて新羅を救はしむ」とあるが、膳臣斑鳩の墓と想定されるのが福井県の5世紀末の前方後円墳「西塚古墳」である。

  • 『布勢神社』香川県さぬき市
    創祀年代や由緒に関しては不詳。祭神の大彦命は四道将軍の一人。越中(富山)にも同じ祭神を祀る同名社が存在するが、大彦命は孝元天皇の皇子で、阿部朝臣・布勢朝臣の祖であるところから、大彦命を祀ると思われる布勢が多いようだ。

    『日本書紀』景行天皇3年条に「阿部氏木事(コゴト)の娘の高田媛は、伊予国御村別(イヨノクニミムラワケ)の先祖の武国凝別皇子を生んだ」とあり、伊予国(愛媛県)に姻戚関係をもったことで、安倍氏の開拓者が讃岐国まで進出したのかもしれない。
      ちなみに天武天皇の葬祭では、9月28日、布勢朝臣らが「しのびごと」を行った。29日、また安倍久努朝臣他3名がしのびごとを行ったとあり、祭祀に関わる儀式にも布勢と安倍氏は関与していたのだろう。
  • 太田亮の姓氏家系大辞典「阿倍」の項によれば、

    「大和宇陀郡からは此氏族なる宇陀臣が出て居る。次に道は伊賀の名張に出るが、此処からは此の氏族の名張臣が起こって居る。
    伊賀郡からは伊賀臣、阿拝郡からは阿閉臣、此の阿拝の北は近江国甲賀郡だが、此処からは音太部氏、それからその北蒲生郡からは狭々城山君が起こって居る。皆此の氏族である」
  • 『職原抄』が、志摩国司について「高橋氏の内膳正たる者をこれに任ず。よって他の人を任ぜず」と明記するごとく志摩国司は慣習的に膳(高橋)氏の世襲とされ、御饌ツ国としての志摩地方の特殊性と不可分の関係にあった。・・中略・・膳氏に伍して志摩国司に任じられたのは敢ノ磯部である。『続日本紀』(神護景雲二年二月十八日条)に「外正五位下敢ノ磯部忍国を志摩守とす」とみえる忍国は、同じく『続日本紀』(神護景雲元年四月十四日条、宝亀六年五月一日条など)に「伊勢国多気郡人、外正五位下敢ノ磯部忍国ら五人に姓敢臣を賜ふ」とあるように、多気郡の住人で、のち敢(阿閉氏)臣姓を賜った人である。敢臣はもともと伊賀国阿拝郡を本拠とした阿閉氏の一族で、膳臣らとともに阿倍同祖系譜の一角を構成したウジであったことを明らかにしている
  • 伊勢神宮、外宮の禰宜職の度会氏について

    『続日本紀』(和銅四年三月六日条)には「伊勢国人、磯部祖父・高志二人に、姓・度相神主を賜ふ」とあり、のみならず伊勢神宮の祠官のうち、祭主や大神宮司を独占した大中臣氏および大中臣系の荒木田神主家(内宮禰宜職)をのぞけば、伊勢神宮の祀官(大小内人・物忌・物忌父以下)の大半が、度会氏(外宮禰宜職)を中心とする磯部によって独占されていた事実は見過ごすことができないとし、内宮の大内人であった宇治土公も「宇治土公磯部小紲」、「宇治土公石部小縄」(『皇大神宮儀式帳』)によって磯部に属していた
  • 伊賀の語源

    古く東国を領していたという猿田彦命の女吾我津姫命にちなみ、吾娥が伊賀に転化したとする説(伊水温故・倭訓栞)、アイヌ語で山を越える意をイカという説(地名語源辞典)があるとか、第13代成務天皇の代に意知別命の三世孫・武伊賀都別命が伊賀国造に任じられたとする『国造本紀』に拠る説、『日本書紀』宣化天皇二年に見える伊賀臣の居住地であったからとか、さまざま伊賀の語源を紹介している。

    伊勢神宮に関係する氏族で、内宮禰宜職の荒木田神主家以外は、ほとんどが阿倍氏族と関係していたという。
  • 吉田東伍の『大日本地名辞書』敢國神社の項の主要なところを記すと、「延喜式、阿拝郡の大社に列したり・・・○此神は阿閇臣の祖神なるべし、・・・『三代実録』貞観六年、安倍神授従五位下、九年、敢國津神授従五位上、十五年、敢國津神授正五位下」とし、補足して「○神祇志料に伊賀一の宮とす、蓋阿閇臣の祖大彦命の男彦背立大稲越命を祀る」とある。また、「按んずるに、安部神・敢國津神は異神の如くなれど、並同神なる事、叙位の次第に依りて明らか也」、また、中世の南宮権現や少彦名命などというのは信ずるに足りないと記している。

    敢國神社に祀る神とは「此神は阿閇臣の祖神」であり、「阿閇臣の祖大彦命の男彦背立大稲越命を祀り」、「安部神・敢國津神は同神である」と簡潔に記述している。
  • 吉田はまた、駿河安倍郡の項において「安倍の語元は饗なるべけれど、其本国は伊賀の阿拝(アヘ)にて、饗膳の職を奉仕したるに由る。」としていた。志田諄一は、その出身地を大和国十市郡の安倍の地名に由来するとしたが、その安倍の地名は新嘗・服属儀礼の食物供献とも関連する「饗」(あへ)から発生したという。『古代氏族の性格と伝承』第二章臣姓氏族の阿倍臣の項

    吉田や太田亮(姓氏家系大辞典)によると敢氏は阿倍氏と同族であり、阿閇氏に同じで異なることはないとする。

    森川桜男氏は『日本の神々‐6』敢國神社の項で、このことについて「敢國神社の北東1.5キロの丘上に御墓山古墳(県下最大の五世紀初頭の全長188メートルの前方後円墳)がある。これを大彦命の陵墓であるとして大正の始めから陵墓地の治定運動が展開され、呼び方も御陵(みささぎ)に倣って従来の「御墓山」(おはかやま)を「御墓山」(みはかやま)と改めたが、決め手となるものが皆無であるため、陵墓参考地にもならず、国の指定史跡にとどまっている。この御墓山古墳については、雄略紀十八年条の、物部菟代宿禰(うしろのすくね)と物部目連(めのむらじ)を遣わして伊勢の朝日郎(あさけいらつこ)を討ったとき、朝日郎が拠って防戦したという「伊賀の青墓」に比定する説(『大日本地名辞書』)もあるが、この大古墳の被葬者と特定の氏族の長とを関連づける伝承はない。」とし、ただちに阿閇臣と結びつけることにはなお考慮の余地があろう、と今後の大きな課題であるとした。
  • 仲哀紀に天皇が船で西下のさい、「挾杪者(かじとり)倭国(やまとのくに)の菟田(うだ)の人伊賀彦(いがひこ)」という記述が存在する

    大和の宇陀地域に東接する伊賀南部の名張市では、市内を宇陀川が流下しており、かつ、『紀』の大化二年条には「名墾(なばり)の横河(よこかわ)(名張川)より以(この)来(かた)は畿内」とされている。
  • 北陸道を進んだ大彦命の後裔と伝えられる諸豪族の内、大和盆地東南部に阿倍臣が、伊賀南部では伊賀臣が、同北部では阿閉臣(あへのおみ)が、若狭では膳臣が、それぞれ蟠踞するなど、大和から若狭にかけての北進ルート上への後裔豪族の散在の事実は軽視しがたい(なお後代にも、とりわけ阿倍臣や膳臣はコシや東国との関係が濃厚で、同地方に勢力を及ぼしていることも特筆される)。
  • 天平勝宝元年(749)の『伊賀国阿拝郡拓殖郷長解』には、拓殖郷の人として石部万麻呂、石部石村、石部果安麻呂という3名の磯部氏が載っている(「磯部」は「石部」にも作る。)。『姓氏家系事典』によれば、この3名も裳咋氏と同じ敢磯部であるという。

     磯部たちは近江、隠岐、讃岐、美作、佐渡などにもいたが、とくに東日本方面への分布が顕著であり、尾張、遠江、駿河、伊豆、相模、下総、常陸、美濃、信濃、上野などに磯部氏の人名や、磯部郷の存在がみとめられる。『姓氏家系事典』はこのことについて、「磯部はけだし海部と東西相対せしが如し。すなわち海部漁民は安曇氏これを率い、本邦西部に多く、これ(=磯部)は専ら東部に活動せり。しかしてその本拠は伊勢にして、伊勢に最も多きが故にまた伊勢部と呼ばれしものと考えらる。」と述べている。
  • 地方出身氏族とその本拠地
    ・ 犬上君(近江国犬上郡)、上毛野君(上野国)、角臣(周防国都濃郡)、胸方君(筑前国宗形郡)、車持君(上野国群馬郡)、綾君(讃岐国阿野郡)、下道君(備中国下道郡)、伊賀臣(伊賀国伊賀郡)、阿閉臣(伊賀国阿拝郡)、波弥臣(近江国伊香郡波弥神社)、下毛野君(下野国)、佐味君(上野国縁野郡佐味郷・上野国那波郡佐味郷)、大野君(上野国山田郡大野郷)、池田君(上野国那波郡池田郷)、笠臣(備中国小田郡笠岡)
  • 胸肩神躰 (釋日本紀 卷七)

    先師説きて云はく、胸肩の神躰、玉たるの由、風土記に見ゆ。

    (伴信友採択)

    うちあげの濱 (和歌童蒙抄 第三)

    筑前ノ國ノ風土記、うちあげノ濱の處に云く、狹手彦連(さでひこのむらじ)、舟にのりて、海にとどまりて、わたることをえがたし。爰(ココニ)、石勝(イハカツ)、推(オシハカリ)ていはく、「此ノ舟のゆかざることは、海神の心なり。そのかみ(神)はなはだ狹手彦連がゐ(率)てゆく處の妾(メ)、字(ナ)は那古若(なごわか)をした(慕)ふ。これをとどめばわたるべし」。于時(トキニ)、彦連、妾とあひなげく。皇命(オホミコト)をかかむ事をおそれて、うつくしびをたち、こも(薦)の上にのせて、なみ(波)にはな(放)ちうか(浮)ぶと云々。

    (今井似閑採択)

    大城山 (萬葉集抄 秘府本:存疑)

    風土記云、筑前國御笠郡、大野頂ニ有。サテオホキ(大城)ノ山トハ云也。

    (佐佐木信綱採択)

    宗像郡 (防人日記:存疑)

    西海道の風土記に曰はく、宗像の大神、天より降りまして、埼門山(さきとやま)に居ましし時、青蕤(あをに)の玉を以ちて奧津宮の表(しるし)に置き、八尺蕤(やさかに)の紫玉を以ちて中津宮の表に置き、八咫(やた)の鏡を以ちて邊津宮(へつみや)の表に置き、此の三つの表を以ちて神のみ體(み)の形と成して、三つの宮に納め置きたまひて、即て隱りましき。因りて身形(みのかた)の郡と曰ひき。後の人、改めて宗像と曰ふ。其の大海命(おほあまのみこと)の子孫(このすゑ)は、今の宗像朝臣等、是なり。云々。
  • 伊都国の地域と、宗像の地域

    伊都国を中心とする地域は王墓が存在しており、中国鏡が集中出土する傾向にあるが、 楽浪系や三韓系の土器、中国銭貨は出土しない。周辺地域は楽浪系や三韓系の土器、中国銭貨も祭器系銅鉾も出土している。これに対して宗像地方は 楽浪系や三韓系の土器、中国銭貨は出土するが、中国鏡は全く出土しない。そして、瀬戸内・山陰系遺物が出土するのである
  • 奈良の宗像神社

    桜井市の「等彌(とみ)神社」と「鳥見山霊畤(とみやまれいじ)」です。
    奇日方の子孫は「登美家(とびけ)」と呼ばれます。出雲王家の向家は富家(とびけ)とも呼ばれました。その登美(とび)の名前が今も櫻井市のあちこちに残っています。

    鳥見山(とみやま)ももともとは登美山と呼ばれていました。また付近の地名は今も櫻井市 外山(とび)です。またこの地の宗像神社は「登美に坐(います)宗像神社」が正式名称です。

    宗像家は出雲王国第六代臣津野(おみつぬ)王(別名国引き王)の皇子吾田片隅(あたかたす)が北九州へ移住して作った分家です
  • 日本書紀に「仲哀天皇九年、神功皇后、諸国に令して船舶を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し、皇后曰く 必ず神の心ならんとて、大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、軍衆 自ずと聚る。」とあり、神功皇后の三韓征伐に際して、兵が集まらぬためこの大三輪社(大己貴神社)を建てたところ、軍勢が揃ったという。

    この域は筑前と筑後の境界あたり、「隈(くま)」地名が無数に集中する、隈の神祇の地。

     熊鰐(くまわに)は、仲哀天皇と神功皇后の筑紫への行幸を、周芳の沙麼(さば)の浦に出迎えた族。洞海湾域の八幡、岡田神社の「熊手宮」に大国主神とともに祀られている。

     大国主命裔とされる和邇(わに)氏の存在がある。新撰姓氏録は、大国主命六世孫の「吾田片隅命」を、この和邇(わに)氏と宗像氏の祖であるとする。宗像に隣接する「熊鰐」とは、この和邇氏と拘わる族ではなかったか。熊鰐の域、遠賀(おんが)とは大国主神(大神、おおが)に由来する。
     そして、「熊」の字を冠することで「熊襲」の流れを汲むとも思わせる。さすれば、火(肥)の三加和に在って、阿蘇氏と並ぶ古族とされる和仁(和邇)氏の存在なども興味深い。
  • 「水沼氏」とは筑後において、狗人の中枢、阿蘇の母神「蒲池(かまち)比売」の裔ともする「祖蒲池」と呼ばれる古族と重なる。三女神を奉祭する「水沼氏」とは狗人の流れ。狗人の中枢、阿蘇の「蒲池比売」は、高良域において豊比JIS+7957命を通じ、宗像三女神の田心姫命と重なっている。
     田心姫命とは「多紀理毘売命(たぎり)」。大国主命の妻神のひとりであった。
     「蒲池比売」を祀る阿蘇の中枢、北宮、国造神社の旧地が「片隅」とされ、国造神が「北宮片角大明神」とも呼ばれることで、阿蘇と大国主命六世孫の「吾田片隅命」とが拘わりをみせる
  • 宗像大社の対岸、多礼の「指來神社(孔大寺神社)」の縁起は、神功皇后の三韓征伐において御旗を司った指來(さしたり)明神とは「阿蘇津彦命」であると伝える
  • 天橋立の籠神社(このじんじゃ)ですが、この神社には、2000年の間秘蔵されてきた伝世鏡が2枚あります。昭和62年に初めて公表されました。出土ではなくずっと伝えられてきた物ですから、凄いものです。

    息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)と言います。
    中津鏡という鏡は無い!
  • 織幡神社
    竹内大臣、志賀大神、住吉大神、
    天照大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、
    壱岐真根子臣


    竹内大臣は神功皇后を支えて新羅と戦い、御子が生まれた後も母子を全面的に支えました。
    竹内の一族が宮地嶽の巨大古墳を祀っていたという伝承がある。

    織幡神社は宗像族のエリアですが、ここに祀られた神の名前に「志賀大神、住吉大神」があります。

    志賀大神は志賀海神社の三柱の海の神です。
    (底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神)阿曇族の祭神。

    住吉大神は表筒男、中筒男、底筒男の三柱。住吉族の祭神です。

    宗像大神は宗像三女神です。宗像族の守護神です。
    天照大御神は宗像三女神の母神ですよ。

    そして、残った三柱。
    香椎大神は神功皇后。
    八幡大神はその御子の応神天皇。
    壱岐真根子(いきのまねこ)。

    御祭神は玄界灘の海の神さまたちと、新羅と戦った神功皇后と御子と重臣の竹内の宿禰、そして壱岐真根子
  • 旗頭神社
    北九州市八幡西区陣原
    地名が陣原(じんのはる)。竹内宿禰の陣営地だそうです。

    旗頭神社由緒 
    創建 大永2年(1523)
    祭神 武内宿禰
    志賀三神 住吉三神 大国主命 事代主命 
    麻生興春神霊
    二千余年の昔、応神天皇は武内宿禰に筑紫路の人民視察を命ぜられた。命を奏した武内宿禰が洞(くき)の海を過ぎるとき、西北の方に怪しい声がするのでこの地に陣を構え警戒を厳にした。陣原(じんのはる)の地名はこれによると言い伝えられている。

    明応・永正の頃(1492~1520)黒崎花尾の城主として遠賀一円を領有していた麻生興春が花尾城から山鹿城に移るとき陣原の里でしばし憩い、この亀山の地は殊の外眺めがよく花尾の本城も望むことができる。没後はこの地に葬るよう家臣に言い遺して旗を指し立てて標(しるし)とした。大永2年(1523)興春の遺志によって旗指社が創建された。
  • June 2017 編集されました
    『福岡県神社誌』に、旗頭神社
    社伝にいわく、神功皇后が西夷を討とうと武内大臣を施主にして新羅に至った。新羅の王は戦わないで降伏した。高句麗・百済の二王も畏れて和平を申し入れた。

    皇后は凱旋の時にここで陣を構えた武内宿禰の軍令が厳整としていたので、「いくさばる」と称した。その後、社廟を建てて旗頭神社と名が付いたのが当社の起源である。


    裏の方に出るとタギツ宮と書いた鳥居。
    宗像の姫神。
    奥津神社(タギツ島比売命、伊須岐依姫命、大己貴命)。
    タギツ姫と大己貴命は楯崎神社によると夫婦神。伊須岐依姫はイスケヨリ姫であろう。

    そうだとすると神武天皇の大后で、三輪と三島の通婚で生まれた姫です。鉄の民の姫です。

    周囲の地名を眺めると、穴生に鉄竜、鉄王。

    このタギツ姫の宗像族が加わると、志賀安曇族・住吉族・出雲族+宗像族
    武内宿禰はこの倭国の水軍をすべて掌握していたことになる。

  • 壱岐神社、小戸神社、愛宕神社

    大都会に残る松林「生の松原」は「いきのまつばら」と読み、
    それに接して壱岐神社があります。

    祭神は壱岐真根子。(いきのまねこ)

    竹内宿禰の身代わりになって死んだ。

    織幡神社は玄界灘の東・宗像市の岬にあります。
    そこには壱岐真根子も祀られていて、その末裔が代々宮を守っている。
    そして、壱岐真根子を主祭神として祀るのは玄界灘の懐(ふところ)にあります。
    「三階松」の紋。九州王朝の紋だそうです。

    宮地嶽不動神社(福津市)、剣神社(鞍手郡木月)・高良下宮社(久留米市)・松崎天満宮(小郡市)

    壱岐神社
    御祭神 壱岐真根子命
    創立 延宝8年 明治梧5年11月3日村社
    御神徳 仁愛開運
    例祭 10月15日・9月1日・7月28日
    由緒 壱岐真根子命は武内宿禰の身代りとなり、無実の罪にて死亡。信仰篤き黒田藩主はその忠魂を称え、松林4128坪を安永4年5月寄附された。近くに神功皇后さまの植えられた逆松は有名である。(戦勝祈願)
    鳥居 安永年午正月 従四位源朝臣継高公寄附
    壱岐神社宮司 菊池友久

    この宮は海から参拝するようになっている。

    浜に立つと能古島(のこのしま)が見えます。
    右の岬は妙見崎。岬の根元には小戸(おど)があります。
    神功皇后の船が出港した湊です。

    永井功氏の「神功皇后の戦略」
    「姪の浜町の鷲尾山(蒙古襲来以後北條氏が築いた鷲尾城址があり、今愛宕山という)の東側浦山に、武内宿禰の出城があったという伝えがあり」
    と書いてありました。
    愛宕山の東に竹内宿禰の出城が?この湊は竹内宿禰が指揮していた。

  • 宗像郡の津屋崎は九州北部沿岸で最も古墳が集中する地域。
    平野の西、山塊の麓と東の海岸沿いに小さな集落が点在し、それぞれの集落の産神として少彦名命を祀る神社が集中している。

    須多田の「須多田天降神社」
    須多田天降神社古墳は周壕と土提が巡らされた、全長83mの津屋崎最大級の前方後円墳。
    大石の「風降天神社」
    両集落の氏神はそれぞれ須多田麻呂、大石麻呂という兄弟神であるという。

    生家の「大都加神社」
    梅津の森山の中腹にある「森神社」は大己貴神、海津見神、少彦名命を祀る。

    そして、渡の「楯崎神社」、在自の「金刀比羅神社」。少し離れて、宗像の孔大寺山の中腹の「孔大寺神社」にもそれぞれ少彦名命が祀られている。

    この辺りには古代より「阿部氏」の存在がある。「宮地嶽神社」の神官の阿部氏、在自村の庄屋役の安部氏一族や、前記の神社群の燈籠などに刻まれた氏子名に、阿部姓は多い。
    津屋崎の少彦名命はこの阿部氏が祀るという。

    宗像郡一円は「宗像神郡」として宗像神社の支配下にあった。津屋崎町の神社の多くが宗像神社の境外末社に位置づけられ、「七十五末社」または「百八社」と呼ばれる。

    ここには宗像氏以前に、隠された歴史があったようだ。

    阿部氏の祖は第8代孝元天皇の長子、「大彦命」
     大彦命は四道将軍として北陸を平定した後に伊賀に在し、その子孫は「阿拝氏」を称し「阿部氏」となる。よって大彦命は阿部氏の祖神とされる。そして古く、伊賀には「秦氏」が在り、少彦名命を祀っていたという。
     半島を経由して渡来した「秦」の民は、機織りの技術を我が国に伝えたため、秦氏という氏姓を与えられる。渡来氏族、秦氏は外来の神、少彦名命を氏神として祀った。阿部氏は秦氏と拘わりが深い。

     また孝元天皇の子に「少彦男心命」がいる。殊に「少彦名命」を彷彿させる名である。阿部氏の祖、大彦命の弟にあたる。少彦名命は「少彦男心命」を神格化したものではなかろうか。
     そして、同じく孝元天皇の子「武埴安彦命」が「埴安命」に対応している。大石や生家で氏神として少彦名命とともに「埴安命」が祀られている。殊に兄弟神。

    そして津屋崎の南は綿津見神を奉祭する海人族、阿曇氏の地。
    阿部」は阿曇氏の部曲、「阿曇部」とも。

    阿曇氏は応神天皇の頃、海人の宗に任じられた。律令制の下では内膳司の長官を務める。この官は二人で、阿曇氏と高橋氏が任ぜられた。高橋氏は阿部氏の一族で、阿部は「饗(あへ)」から来ているともいわれる。

     津屋崎の宮地嶽の麓に鎮座する「宮地嶽神社」。
    祭神は神功皇后、勝村大神(藤高麿)、勝頼大神(藤助麿)の三柱
    神功皇后が三韓征伐を前に、宮地嶽の頂きに祭壇を設け、戦勝を祈願して船出したという由来を持つ。
    社殿の奥に、全長23mという日本最大級の横穴式石室をもつ宮地嶽古墳がある。付近は津屋崎古墳群と呼ばれる古墳の密集地。胸形君の一族の古墳群といわれる。

     古文書や古い縁起によるとこの宮地嶽神社の祭神は、

    筑前國續風土記拾遺によると「中殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿。此三神は神功皇后の韓国言伏給ひし時、功有し神也といふ。勝村、勝頼両神は三韓征伐で常に先頭を承はり、勝鬨を挙げられたりと祀る。」とある。

    藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。
     「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である
     塵輪には翼があり、天空を自在に駆けめぐることができたという。羽白熊鷲のこととも。

     津屋崎の北部に「勝浦」がある。ここには「勝部氏」が在したと伝わる。勝部氏は秦氏の一族で宇佐の辛嶋勝氏に繋がる。
     阿部の勝村、勝頼の両神とはこの勝部氏に拘わるという。

     勝浦の南、奴山に織物媛神を祀る「縫殿神社」

     神功皇后が新羅より凱旋して大嘗会を行なった時、阿部氏の祖先が「吉志舞」を奏したという。吉志舞の吉志は「吉師」で、阿部氏は吉師部を統率したという。
     大彦命の子に「波多武日子命」があり、その子孫が「難波吉師三宅」を名乗る。「吉師」は外交を職務とした渡来人。
     応神期に東漢氏の祖、「阿智吉師(あちきし)」と西文氏の祖、「王仁(和邇)吉師(わにきし)」が半島から渡来している。
     日本書紀の応神天皇37年に天皇は「阿智吉師」を呉に遣わして、縫女(ぬいめ)を求めさせた。呉の王は兄媛、弟媛、呉織、穴織の4人の媛を与えたとある。
     そして雄略天皇の頃、秦氏の秦酒公が「勝部」を率領して絹を貢進したとある。

     津屋崎の縫殿神社で勝村、勝頼の両神を通じて、阿部氏と秦氏、勝部氏、吉師が重なる。縫殿神社の傍には「酒多神社」。少彦名命と秦氏の秦酒公には「酒神」が欠かせない。
     宮地嶽神社の勝村、勝頼両神は秦氏の一族で、織物を司る勝部。

    「阿部丞相」とは武内宿禰であろうか。そういえば、前項の久山の阿部氏は「黒男神社」で武内宿禰を氏神として祀っていた。
     少彦男心命は古事記では「少名日子建猪心命」。武内宿禰の父は「屋主忍男武雄心命」。孝元天皇の二人の皇子の名がここで重なる。古事記では「屋主忍男武雄心命」は登場しない。
     そして、少彦男心命と重なる神霊、「少彦名命」を津屋崎の阿部氏が氏神として祀る。
     阿部氏族と肥前の武内宿禰氏族の多くが重なる。前述の大彦命の子、波多武日子命は武内宿禰氏族、松浦の波多氏。阿部の「吉師」も松浦の岸、鬼子の海人。
     阿部氏が武内宿禰氏族である可能性も考えられる。

    神功皇后の三韓征伐に際し、宗像神が「御手長」という旗竿に、武内宿禰が織った紅白2本の旗をつけ、この旗を振って敵を翻弄して最後には沖ノ島に旗を立てたという。武内宿禰が旗を織ったのがこの織幡神社。
     そして武内宿禰は「我死なば神霊は必ずやこの地に安ずべし。」と伝え、境内に沓を残して昇天したと伝えられる。その「沓塚」が境内に残る。
  • 応神41年2月、阿知使主(あちおみ)らが、
    呉(くれ)の国から筑紫に帰って来た時に、胸形大神より工女を乞われ、
    連れて来た兄媛(えひめ)、乙媛(おとひめ)、呉織(くれはと)、
    穴織(あやはとり)のうち、兄媛を奉る。


    阿知使主が中国まで行って、四人の織姫を連れて帰る途中、
    宗像族の王がどうしても一人欲しいと望まれて、兄媛がここに残ったという話です。
    その兄媛を祀る神社がこの縫殿神社です。
    亡くなったあと、日本に機織りの技術を伝えた神様として祀られました。
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