扶桑略記

04/09編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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「扶桑略記」 平安時代の天台宗の僧皇円(生年不詳、没年1169年)によって書かれた歴史書。原文は漢文。 ・欽明…

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コメント

  • 善光寺縁起
    推古天皇の時代になって、信濃国麻績郷に住む本田善光が難波堀江を通りかかると、水の中から如来が現れ、善光の背に飛び移り、東国に行って衆生を救えと託宣した。
     善光は、如来を背負い故郷の伊那の麻績(現在の飯田市座光寺の元善光寺の場所)に帰り、草堂を建てて如来をまつった。それから四十一年後の皇極天皇元年(六四二)に再び如来の託宣があった。如来を水内郡芋井郷に遷してまつるようにというものだった。善光は、早速水内郡に行き、草堂を建てて善光寺如来をまつった。これが現在の善光寺のもとである。

     「善光寺縁起」によると、善光寺は西暦六四二年に本田善光によって建てられた寺です。この本田善光について、縁起は「ここに同国(信濃国)伊那郡麻績の里に一人の土民有、本多善光といへり。」と貧しく身分の低いものであるということが述べられています。
     しかし、前に見たように『扶桑略記』に引用された「善光寺縁起」では「ある記に云う。信濃国善光寺阿弥陀仏がすなわちこの像である。推古天皇の御時壬戌四月八日、秦巨勢大夫に命じて信濃の国にお送りした。」とあり、秦巨勢大夫が善光寺如来を信濃に運んだ人ということになっています。しかもこの秦巨勢大夫、名前からして渡来系の秦氏の一族と見られ、決して土民といわれるような身分ではなさそうです。時代が進むにつれて、善光寺の創建者が名前だけでなく身分まで変化していくのはなぜなのでしょうか。
  • 04/10編集されました
    「若麻績」という名前は珍しいので読み方が分からない方がほとんどだと思われますが、「わかおみ」や「わかませき」「わかまづき」と読むようです。

    善光寺には現在、宿坊を含めた40近い塔頭寺院が存在し、その内の約15寺ほどの住職の名前がなんと!「若麻績」だといいます。

    さらになんと!これらの住職は現代に至っても世襲で成り立っているそうで、つまり代々「若麻績」氏が住職として受け継いできたことになります。

    廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の諍い(いさかい)が勃発しており、蘇我氏から仏像を奪い取った物部氏が、大阪付近の「とある池」にその仏像を投げ捨てました。

    この「とある池」とは、大阪の西区北堀江にある阿弥陀池(あみだいけ)という名前の池。

    その後、この仏像を若麻績東人が池から救いあげて、自らが住む長野県飯田の伊那郡麻績へ持ち帰り、この地に草庵を築き、ここに仏像を祀ることになります。

    そしてこの仏像こそが絶対秘仏の善光寺如来ということになります。

    その後、624年(皇極天皇元年)に現在の善光寺の場所へ仏像を遷してお祀りすることになり、現在に至ります。

    以降、千年以上の時が流れた今でも、若麻績東人(本田善光?)氏の意志を汲んでその子孫たちが世襲制で代々、お役目を継承しているということになります。

    阿弥陀池は和光寺という寺院の境内の池になっています。

    後世で善光寺との縁を重く見た智善(ちぜん)という僧侶が1698年(元禄11年/江戸時代)に寺院を創建して池を保護しようと考えたそうです。その智善ですが、なんと!長野善光寺第113世の上人「智善上人」だったそうです。
  • 長野善光寺と秦氏との関係について、

    大和岩雄の「親版信濃古代史考(大和書房)(以下「大和論文③」という)によれば、おおむね以下のとおりである。

     長野善光寺の本尊は河内国から信濃国に運ばれてきたと伝えられている。
     
     善光寺関係で最も古い文献である平安時代後期の11世紀頃の「扶桑略記」では、「或記伝。信濃国善光寺阿弥陀仏像則此仏也。小治田天皇御時、壬成年四月八日、令秦巨瀬太夫奉請送信之国。伝々」と、善光寺仏を信濃国に持ってきたのは秦氏と書いている。

     次に古い文献である12世紀頃の「色葉字類抄」では、善光寺仏は「信濃国若麻績東人」が信濃国に運んだと書かれており、鎌倉時代中期頃の成立とされている「平家物語」の諸本では、「信濃国住人」の「本田善光」が運んだと書かれている。

     長野善光寺に善光寺仏が運ばれる前に置かれていたという元善光寺は、河内国に2つ、信濃国に2つの計4つあると伝えられているが、河内国にある元善光寺は、大阪府八尾市垣内にある垣内元善光寺と藤井寺市小山にある小山元善光寺で、信濃国にある元善光寺は伊奈郡にある伊奈元善光寺と諏訪郡にあった諏訪元善光寺である。

     垣内元善光寺のある高安郡は大県遺跡に係わっていた河内秦氏の本拠地であり、垣内善光寺がある垣内の隣に教興寺村があるが、教興寺村にある教興寺は秦寺といわれ秦氏が創建した寺であり、近隣には秦氏が奉斎していた天照大神高座神社がある。

     ここから、垣内元善光寺は、河内秦氏が創建した寺であると考えられる。

     伊奈元善光寺は、伊那郡の郡衛所在地にあるが、伊那郡の名は猪名部氏が移住して来たことによる。

     猪名部氏は船を製造する職人の船大工として造船に従事した秦氏の部民であり、猪名川流域の摂津国猪名郡を本拠地としたが伊勢国員弁郡にも拠点があって、そこから東進して三河国宝飯郡の伊奈に上陸し、さらにそこから豊川を遡上して信濃国に入り伊奈郡に定住した。

     信濃国伊奈郡は、伊勢国員弁郡と同じように、猪名部郡である。

     また、猪名部氏のうちで宝飯郡伊奈から東進した人たちは、伊豆半島の西海岸の松崎付近に伊奈の地名があり、そこに上陸して定住した。

     こうした猪名部氏の移動は、船材に使用する良質な木材を求めるためであるが、山林から木材を切り出すためには鉄製の工具が必要なので、猪名部氏はそれらを自作したため、猪名部氏は鍛冶氏族でもあった。

     ここから、伊奈元善光寺は秦氏が係わって創建された寺であると考えられる。

     伊奈善光寺があるのは信濃国伊奈郡麻績郷であるが、麻績郷は伊勢国多気郡 恵濯の後を継いだ恵隠は、浄土三部経の-つで後に浄土教の根本経典となっている「無量寿経」を留学先の唐から日本にもたらした人であり、阿弥陀信仰は無量寿経によるが、長野善光寺や小山元善光寺の本尊は阿弥陀三尊といわれる。

     小山元善光寺がある河内国志紀郡長野郷の付近には、百済系の渡来氏族の葛井氏の氏寺の葛井寺や葛井氏が奉斎していた韓郷神社があり、河内国志紀郡長野郷には高句麗系の渡来系氏族の長野氏がいた。

     なお、葛井寺から藤井寺の地名ができた。

     長野善光寺は信濃国水内郡芋井郷の長野にあるが、水内郡にも長野氏がいた。

     長野氏は、「司空王昶」を祖としているが、「司空」とは土木工事に係わる官職であり、長野氏は志紀県主の下で古市大溝の掘削などの河川の水利開発や用水管理を行った技術者集団であったと考えられる。

     信濃国造は多氏の同族の金刺氏であったので、6世紀ごろに志紀県主と金刺氏との関係で長野氏が水内郡に移住して、周辺の水田開発や牧場経営のために水内郡南半部の据花川水系の用水工事を行った、と考えられる。

     葛井氏や長野氏は小山元善光寺で百済系の阿弥陀仏を信仰していたが、その後、その阿弥陀仏を信濃国水内郡に運び、諏訪大社別社の境内の草堂に安置されていた新羅仏と一緒にして、草堂を本格的な寺院として長野善光寺を創建した。

     だから、善光寺仏の信濃国への移動は2回あり、1回目は7世紀初頭で、2回目は7世紀末だと考えられる。

     小山元善光寺がある小山の近隣に誉田御廟山古墳が築造された誉田がある。

     「平家物語」の諸本で善光寺仏を運んできたとされる「信濃国住人」の「本田善光」の「本田」は、河内国古市郡誉田の「誉田」から取ったもので、「善光」は、阿弥陀信仰の無量寿経の中の「善因光果」から取ったものである。

     「平家物語」の諸本では、「麻績東人」と「本大書光」を同一人物としたり、「本田」「本太」に「麻績」「大海」を冠しているので、「本田善光」の名は「麻績東人」の別名として創作されたものであった、と考えられる。

    出典:
  • 宝賀寿男の「三河の大河内氏とその同族」(以下「宝賀論文」という)によれば、三河の大河内氏は古代氏族の凡河内忌寸の後裔であったというが、河内国の有力氏族であった凡河内氏が三河国の有力氏族であったのは、河内国から信濃国への大規模な人の移動が三河国を経由したために、河内国と三河国との関係が形成されたので、凡河内氏が三河国に移住して来たと考えられる.

     本多氏は本田氏と書くが、この本田は「新田」に対する「本田」という意味ではなく、河内国の誉田という地名から生まれた名で、凡河内氏とともに河内国から来た名であった、と考えられる。

     だから、三河国の大河内氏の同族に本田氏がいるのである。
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