水戸光圀と「大日本史編纂」

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
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水戸藩第二代藩主・徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、「大日本史編纂」に取り掛かる…

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コメント

  • 明治四年七外骨廃藩置県のことがあり、明治二年六月、版籍奉還後も、なお高松藩知事であつた旧藩主松平頼聦は、その職を退き九月には東京に帰らねばならぬことになつた。讃岐松平家は水戸藩祖徳川頼房の長子頼重がこの地に封ぜられてから二百七十年、支配を続けて来たのであるが、それが政府の命令で本居を東京へ移さねばならぬことになつた。そこで頼聦は、その由を直接藩内庶民に告げる布令を出したので、一部の住民がその反対運動を起し、知事の東京移住中止の請願を試みたのであるが、それが許されなかつたのを、何か当時の庄屋の責任の如く誤解して、一部のものが徒党を組んで、阿野郡坂出村以南の大小庄屋の邸宅に放火してまわつた。そこで予の邸も焼かれるに違いないといふので、或夜乳母に起され、着換えをなし、一家一族、近くの親類の家に避難した。子供のことゝて、すぐ寝て仕舞つたらしいが、夜中起されて、今、うちが焼かれているのだと、母に指さゝれた方向を見ると、赤々と火焔が天をこがしているのが望まれた。いまだに、そのときの緊迫した気持ちが忘れられない。このときの暴動は、予の家を焼いたのを最後に、官憲の鎮圧によつて退散したため、羽床下村以東には及ばなかつた。(宮武外骨、自叙伝)
  • April 2018 編集されました
    鈴木氏は穂積氏の後裔になります。

    穂積とは、収穫されて積まれた稲のことです。
    その中でも来年用の種籾にする穂積に一本の棒を立てます。
    この棒を伝わって稲魂が穂積に入り、来年の豊作を約束してくれます。
    この棒は聖なる木で、スズ木と言い、佳字を当てて鈴木となりました。
    この儀式を行った神官が鈴木を名乗るようになり、熊野神に奉仕し、全国に布教のため進出しました。
    末社が全国におかれ、その地に根を下ろして土着し、鈴木姓は全国に広まりました。

    中でも栄えたのは、奥州に向かった行者の鈴木重善の流れで、重善が途中三河国(愛知県)で足を痛めたため、猿投の地に熊野権現をつくり土着しました。
    やがて徳川家康に仕え、家康の江戸入りに大挙して従い、繁栄しました。
    徳川幕府の幕臣を掲載した「寛政重修諸家譜」には50もの鈴木家が載っていました。
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