博多、伊予、平戸の志式神社、十城別命

March 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image博多、伊予、平戸の志式神社、十城別命

神功皇后自らが新羅征討を決意したのだが、その軍大将として十城別王が従軍したとの伝承が、長崎の平戸地方に残されて…

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コメント

  • 景行天皇熊襲征伐ののちは、歴代の天皇が大に松浦地方の開拓に力められた。肥前風土記に賀周里、昔者この里に土蜘蛛あり、名を海松橿媛と曰う。景行天皇巡国の時、陪従大屋田子(日下部君等祖也)を遣わし誅滅せしむ。時に四方霞みて物色見えず、因て霞の里と曰う。今賀周里と謂うはこれが訛れるなり。

     と、また
     値賀島、昔者同天皇巡幸の時、志式島の行宮に在り、西海を御覧すに、海中に嶋あり、煙気多く覆えり、勅して陪従阿曇連百足を遣わし、これを察せしむ、島は八十余あり、就中二島は島ごとに人あり、第一島を小近と名づけ、土蜘蛛大耳これに居り、第二島を大近と名づけ、土蜘蛛垂耳これに居る。自余の島は並に人在らず、茲に於て百足大耳等を獲て奏聞す、天皇勅して互に誅滅せしめんとす、時に大耳等叩頭陳聞して曰く、大耳等の罪実に極刑に当る、萬(も)し戮殺せらるるも罪を塞ぐに足らず、若し恩情を降され再生するを得ば御贄を造り恒に御膳に貢し奉らんと。即ち木皮を取り長蚫・鞭蚫・短蚫・陰蚫・羽剖蚫等の様を作りて御所に献ず、茲に於て天皇恩を垂れて赦放し、更に勅して云く、この嶋遠しと雖も猶お近きが如く見ゆ。近嶋と謂うべしと、因て値賀島と曰う。
  • 伊曽乃神社の由緒には、後の成務天皇の時代に、景行天皇の皇子である武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)が国土開発の大任を帯び、伊勢から天照大神の分霊を奉祭して、この地に来られたことが伝えられている。そのため、祭神として天照大神と武国凝別命が祀られているのである。それはこの地が小国ながらも一国の中心地であったことを表している。そしてこの武国凝別命の子孫を御村別(みむらわけ)といい、あるいは伊曽乃神社の社家となり、後には評造・郡領などにもなって、この地方を統治した。


    御村と三村
    この「御村」は尊称のため、「三村(みむら)」とも書き、当地では伊曽乃神社のある中野村と、かつて隣接して存在した上野村・下野村の三村(さんそん)を指すとの見解もあるが、山本信哉博士は、これは新居・宇摩・周敷(しゅふ)の三郡のことだとされ、宇摩郡の村山神社(むらやまじんじゃ)の祭神の主座が、やはり天照大神であり、西征時の斉明天皇・天智天皇が合祀されているが、武国凝別命も祀られているとの説もある。

    新居浜市

    古代においてこれらの別君(わけぎみ)が各所に分散して居住し、そのため別子銅山のある別子の地名も、この内の龍古乃別君(たつこのわけぎみ)の名から生じたと云われている(右図参照)。

    福岡八幡神社

    周敷郡の福岡八幡神社(おしぶの森)は御杖君(みつえのきみ)らが奉祭したと地誌などに書かれ、社家から白雉2年銘の翁面も発見されて古いことが分かる。『先代旧事本紀』には景行天皇の皇子の一人・武国皇別命の個所に「伊予御城別、添御杖君の祖」と書かれてあり、「武国皇別命」は武国凝別命の云い換えと思われるが、御城とは御村のことであることは『日本書紀』の記述からも分かる。添(そふ)は周敷(しゅふ)のことであるから、この書では添御杖君も武国凝別命の一族になっている。『愛媛縣神社誌』には、福岡八幡神社は「上代に添神として鎮祭し、周敷一円の神であった。」としてある。従って、伊曽乃神社のある三村の社家から発した御村別の一族が、新居・宇摩・周敷の3郡に拡大し、この地方を広く領したことが知られるのである。
  • 前の記事の出典は
    西条歴史発掘 ~伊予神野考・地名の起源と沿革~
    http://homepage1.nifty.com/kisetunokaze/s_history/s_history40.html
  • June 2017 編集されました
    『伊予国風土記』逸文によると、仲哀夫婦が道後温泉に立ち寄ったことが記されている。このことから、二人の乗った龍船は後の和気郡(現在、松山市)に立ち寄ったのではないかと思われる。和気郡には天皇の異母弟にあたる十城別王(とおきわけのみこ)がいたのである

    十城別王は、『日本書紀』によると、吉備武彦の女(むすめ)吉備穴戸武媛(きびあなとたけひめ)と日本武尊との間に生まれた子とある。
    吉備穴戸武媛は妃として、武卵王と十城別王を生んだ。武卵王は讃岐綾君の先祖である。十城別王は伊予別君の先祖である。
    と記されていて、武卵王(たけかいごのきみ)とは兄弟だとされている。
    一方『古事記』では、吉備穴戸武媛は吉備武彦の妹(いも)となっていて、子は建貝児王(たけかいこのみこ)1柱のみを記し、
    讃岐綾君、伊勢之別、登袁別(とおのわけ)、麻佐首(まさのおびと)、宮首之別(みやのおびとのわけ)等の祖
    と説明している。
    これは、讃岐から伊予にかけての皇族の後裔を一括して説明しているように推察される。が、ここにある登袁別(とおのわけ)の先祖がおそらく十城別王であろう。武卵王の母が吉備武彦の女(むすめ)ではなく『古事記』では妹となっているため、十城別王が武卵王の子ではないかと考えられたところから、武卵王を「登袁別(とおのわけ)祖」としているのではないだろうか。その辺ははっきりしない。

    御村別と登袁別(とおのわけ)
    『古事記』の「伊勢之別」については、多くが「伊予之別」の誤記としているが、必ずしもそうとは言えないと思う。もしかしたら『古事記』編纂の当時、伊予御村を伊勢の別れと認識していたがために、あえてこの表現を採っているのではないだろうか。だとしたら、伊曽乃神社の祭神が当時から天照大神であったことの一証にもなりそうである。それに、これが伊予之別なら、「登袁別(とおのわけ)」と重複することにもなるだろう。
    これらの命はみな景行天皇の同族であったために、子孫も互いに関連があったものと推測される。後世の姻戚関係によってもいろいろ変わってくる。因みに、麻佐首(まさのおびと)は味酒(みさけ、まさけ)で、宮首之別は宮窪(みやくぼ)のことでもあろうか。東から順番に並記されているようだ。
    また、飯積神社の祭神にこの十城別王が祀られていることから、十城別王は西条に居住したのではないかとの説も考えられなくはない。しかし、西条では十城別王の伝承は何も聞かない。完全に否定するわけではないが、まず、ないだろうと思う。十城別の十は登袁(とお)に当てたものであり、城は村の意味であるから、十城は「登袁村」になり、「御村」を三村や御城としている用法と同じである。登袁別(とおのわけ)はたぶん、遠くの方の別と言う意味で、十城と同じ土地を言うのであろう。伊予の国にもいろいろ別があるが、東予地方では御村別、中予地方では伊予別が代表的な例である。どこから見て遠い方かと言えば、大和地方から見てであるから、近いほうが御村別であるなら、遠いほうの別は伊予別、つまり、現在の松山市の和気あたりを中心とした地域を指していることになる。おそらく、十城別王はこの地にいたのであろう。
    そのことは、次の点からも補説できる。一は『日本書紀』に「伊予別君の先祖」と書かれているが、これは伊予国全体ではなく、普通、伊予地方の和気郡(現在は松山市)のこととされている。二はこの和気郡には阿沼美神社(あぬみじんじゃ)があり、ここに武国凝別命と十城別王の宮があったとの伝承が残されている。三に飯積神社には十城別王のほかに国魂愛比売命(くにたまえひめのみこと)が合祀されているが、愛比売命は伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ。通称椿さん)など松山周辺の祭神に多く見られる神名であるので、十城別王とともに、そちらから勧請したことが考えられる。
  • June 2017 編集されました
    『日本書紀』や『日本三代実録』では「武国凝別皇子」、他文献では「武国凝別命」とも表記される。『古事記』に記載はなく、『日本書紀』でも事績の記載はない。

    第12代景行天皇の皇子である。

    『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と阿倍氏木事の娘の高田媛との間に生まれた皇子とされる。『先代旧事本紀』「天皇本紀」においても同様の記載が見える。

    妻・子に関して史書に記載はない。最古級の竪系図になる園城寺蔵『和気系図』(円珍俗姓系図/円珍系図、承和年間(834年-848年)の書写)では、武国凝別皇子を景行天皇の12男としたうえで、その子について水別命・阿加佐乃別命らの名を載せる。

    後裔氏族

    武国凝別皇子について、『日本書紀』では伊予国の御村別(みむらのわけ/みむらわけ)の祖と記されている。一方『先代旧事本紀』「天皇本紀」では、武国凝別命を筑紫水間君の祖とし、武国皇別命を伊予御城別・添御枝君の祖と記している。

    『日本三代実録』貞観8年(866年)10月27日条によれば、武国凝別皇子の後裔を称する讃岐国那珂郡・多度郡の因支首秋主(いなきのおびと あきぬし)ほか同族8人が、「和気公(わけのきみ:和気氏)」姓を賜り改姓したという[2][3]。この改姓は貞観9年(867年)2月16日付の「讃岐国司解」によっても知られる。

    『和気系図』では武国凝別皇子から御村別・因支首・和気公に続く系図が載せられており、そのうち前述の水別命が伊予の別公の系統、阿加佐乃別命が讃岐の因支首(のち和気公)の系統と見られている。そして後者の讃岐和気公からは、円珍(智証大師、俗名を和気公広雄)が輩出されている。
  • 06/10編集されました
    福岡の志式神社の伝承に、近くを通る船は旗を半分降ろして通ったという話があるので、日本では古来、旗を少し降ろすのは神々に敬意を示す意味で使われたことが分かります。ですから、国際的な基準とは違う使われ方があったということになります。

    半旗
    昔は神社には長さ四十尺、巾一尺の幟(のぼり)を上から吊り下げる形で立てた。これを幡と言う。倭人は「のぼりばた」と訓じる。

    今から七百年の昔、ユリウス暦がイスラエル暦との間に七日、即ち上弦下弦の日数だけ朔望から外れる頃になると、旌旗(はんき)に変わった。これを「なかばた」といった。今の「はた」の形式がこの頃に百姓だけの器として、うちわに普及してきたのであった。

    察するに彼岸が西域でParthusパルトス、即ち左右二つに開く意を言うし、春分は夏の門であり、秋分は冬の門であったところから、その扉の片方だけを旗に置き換えたものである。

    これを「かたはた」と言い、略して「はた」になったときく。

    すべて上から賜(くだ)されるのは「ながはた」であり、百姓が随時に用いることが出来るのは旗(かたはた)と定められていた。

    維新後は泰西(たいせい・西洋)の伝統に習って弔意を表すに半旗を揚げる言葉が出来た。原語は半柱、或は半檣であるが、この聞きなれない舶来語をきいた明治の人々は、半旗なる和訳に何か納得しがたい響きを感じていたのである。
    (『儺の国の星拾遺』p13 烏座 ギエナ星 44風子星)
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