讃岐三宮 由良大明神 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 讃岐・阿波・伊予
讃岐三宮 由良大明神 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

由良・清水神社
清水神社 祭神 神櫛明命
 由緒
景行天皇五十四年(784)…

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  • December 2017 編集されました
    讃岐国山田郡宮庭郷

    752 天平 勝宝4 (壬辰)
    10・25 山田郡宮処・香川郡中間・鵜足郡川津3郷の戸計150戸を封戸として          東大寺へ施入する(東大寺文書)

    二条大路木簡に見られる貢進物荷札木簡の貢進地や削屑に記された郷の中で,その後東大 寺領封戸になったことが判明する所在地

    中臣宮庭氏が讃岐国山田郡宮虚郷を本拠地とする地方豪族であることは,この史料の存在や中臣宮虚(朝臣)という氏名から見て,まず大過ないことと思われる。ここでは大まかにその点のみが確認できればよい。それをふまえた上で重視すべきは,長屋王の変の発端を記
    した『続日本紀』天平元年(729)2月辛未条の記事である。そこには,長屋王を「告密」した者の 一 人として,無位中臣宮虚連東人が見える。長屋王の変が,聖武の皇太子となった某王死去の後, 藤原氏の策謀によって引き起こされた事件であることは周知のことである。したがって,中臣宮虚 連東人は,藤原氏に密接に関わるものであったとみるのが自然である。なおこの時東人は「左京 人」であったが,郡司級地方豪族の子弟が,自らに関連する有力者との縁故などによって雑任クラ スの下級官人として都に出仕することは,ごく普通に見られることである。この場合も同様のこと が想定可能であろう。つまり,東人も讃岐国山田郡宮庭郷を本拠地とするもので,讃岐国山田郡宮 庭郷と藤原氏との密接な関連にもとついて都に出仕したものだったのではなかろうか。 憶測に及ぶ部分が多く確定的には言えないものの,この削屑そのものの存在や,今見た『続日本 紀』の記事などより,讃岐国山田郡宮虚郷が,二条大路木簡の廃棄主体たる光明子の皇后宮関連施 設ないし藤原麻呂家など,藤原氏と密接に関わる地域であった可能性は,否定できないものと思わ れる。 さて,注目すべきは,『辞典』も指摘するように,『東大寺要録』所載の天平勝宝4年の造寺司牒
    に,讃岐国百五十戸分の封戸所在地が見られ,その一つに「山田郡宮慶郷五十戸」の記載が確認で
    きることである。したがって,この削屑の記載に見られた,讃岐国山田郡宮庭郷は,その後,天平
    勝宝4年までには,東大寺領封戸となっていたことが判明するのである。
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